179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆天文法華の乱における畠山尾州家の動向(前編)「遊佐長教との対立」について

前回の長経の記事では(脱線しそうなので)深く掘り下げなかったが。
天文の本願寺戦争(天文法華の乱)を、尾州家の動きに絞って追っていきたい。

用いた文献は文末に置いておきます。

後編はコチラ。

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畠山稙長の高屋城回復

天文法華の乱発生の前段階で、畠山稙長は一度高屋城から没落している。
『厳助往年記』享禄元(1528)年11月11日条で、10月頃から高屋城(『二水記』では誉田城とする)が柳本賢治に攻囲されていたが、力攻めでは落ちなかったため和睦という形で畠山稙長は城を明け渡し、金胎寺城に引退したという。
尾州家は河内の南端まで勢力を後退させ、そのためかしばらくの間は史料から行動が見えづらくなる

 

そして、代わって河内を支配したのが総州家の畠山義堯だったが、享禄5(1532)年の一揆蜂起によって居城(『細川両家記』では高屋城、『言継卿記』では誉田城)は落城し、義堯は切腹
ただ、これによって直ちに稙長が高屋城を奪還したかは定かではないのでは?と考えている。
『足利季世記』では義堯切腹の直後に稙長が奪還したとあるが、元ネタと思われる『細川両家記』では、義堯切腹で記述が終わっているのもあり、典拠としては心許ない。
というよりも、そこから『私心記』の天文4(1535)年4月の「高屋衆が打ち出した」まで、高屋城についての動向が史料に見当たらない気がする。

その間、木沢長政が天文元(1532)年11月に南河内観心寺に禁制・判物を発給する一方で、畠山稙長は12月に同じく南河内金剛寺に安堵状を発給している(観心寺文書・金剛寺文書)。
また、『本福寺明宗跡書』の回想録では8月24日の山科本願寺の陥落後、石山本願寺を攻撃した晴元方として根来寺杉之坊が記されており。
『私心記』10月1日では南方において、「紀国衆」が木沢長政方を破ったと記される。
これらの紀伊の勢力の行動も、紀伊守護である稙長方としてのものである可能性があるが結論は出せない。

とはいえ天文3(1533)年になると尾州家は、正月の畠山基信らの本願寺入りや、10月の丹下盛賢の出陣などの大規模な活動を見せるようになる。
金胎寺城周辺までしか勢力がない状態では、本願寺に援軍を送る余力もないと思われるので、この時までに高屋城を取り戻したことは想定できる。

さて、一方で畠山稙長は当初から本願寺との同盟を明確にしていた訳ではない。
『蓮成院記録』の天文元年天文2(1532)年1月条には、年始挨拶の対象として、細川晴元方、近江の足利義晴方、六角定頼方と共に畠山稙長・遊佐長教・丹下盛賢が記されている。
ここで「高屋」とでも記してくれれば居所が確定できたのだが……。
また4月条では、「大坂本願寺による天下総劇の御退治のため、京都法華宗并両畠山・細川六郎殿を(足利義晴方が)差し向けた」とある。
この時点で尾州家は一定の勢力を回復しており、細川晴元総州家と共に対本願寺に動員できる勢力と周囲から見られていたことがわかる(実際に本願寺と交戦したかは別として)。

また、この4月には細川高国の弟晴国が八上城に入って本格的な活動を開始し、本願寺との連携を始めたと見られる。


3月4日湯河光春宛て御内書の再検討

今度至摂州晴元并阿波輩以下取詰候条、閣万事不日令発
足相談長教、此節別而抽戦功者尤可為神妙、併頼覚候、
猶法琳晴光可申候也 
    三月四日                    義晴
           湯河宮内少輔とのへ
       『大坂青山短期大学所蔵品図録第一輯』

 

この書状は、小谷利明氏の『畠山稙長の動向』(戦国期の権力と文書)で「天文二年二月の細川晴元没落に伴って発給された文書」と紹介され、遊佐長教がこれ以前に細川晴元派になっていたことを示す史料とされた。
以降の研究においても畠山稙長遊佐長教の対立時期の前提として利用されている史料である。

しかし、天文2(1533)年3月段階では細川晴元はまだ「六郎」と名乗っており*1「晴元」表記は不審である。
    
そのためか、近年の研究では稙長と長教の対立時期を、(晴元の名乗りが見られる範囲内の)翌3年3月としているものもあるようだ。

……が、天文3(1534)年とすると、今度は「至摂州晴元并阿波輩以下取詰候」するような摂津での大規模な軍事活動が見当たらないのが気になってくる*2

そもそも、よくよくこの書状を見ると、晴元の抗争相手が一揆衆であるとは書いていないのではないか?

なのでこの書状は天文の畿内一揆に関わるものである、という先入観を取っ払って考えてみたい。
要は細川晴元と阿波衆の摂津進出」「足利義晴と遊佐長教の連携」「湯河宮内少輔(光春)の活動時期」3月4日時点で満たす年を探せば良いのである。
結論から言えばピッタリ合うと思われる年はある、天文16(1547)年である。

 

細川晴元と阿波衆の摂津進出」
この年は天文14(1545)年から始まった細川氏綱の乱細川氏綱と畠山・遊佐氏の連携による反晴元勢力の挙兵)がまだ続いている年。
前年の時点で阿波衆は晴元方の援軍として畿内に上陸しており、2月には摂津の原田城を攻撃し(細川両家記)、3月8日までに晴元自身も茨木城に在陣している(音信御日記)
「至摂州晴元并阿波輩以下取詰候」という表現に合致すると見て良いだろう。

 

足利義晴と遊佐長教の連携」
義晴は前年に既に細川氏綱方に内通しており、また足利義輝元服時には二日目の役を畠山氏の代わりに遊佐長教が努めている(光源院殿御元服記)。
つまり義晴と長教はこの時期は氏綱方として同陣営であり、協力を求めても全く問題はない。
また畠山氏ではなく遊佐氏を頼みにしているのも*3、畠山と遊佐の対立を示す証ではなく、この時期に存在感を増す長教を義晴が重く見ていることから来ているのだろう。
    

「湯河宮内少輔(光春)の活動時期」
湯河光春の後継者の直光の官途は「宮内大輔」なので、この宮内少輔は光春で間違いない。
光春の活動時期だが、天文13年までは書状発給が確認でき、『湯川氏代々系図』によると天文16(1547)年閏7月8日に没している。
系図類なので一次史料よりは信憑性が劣り、またまさに没する直前の時期ということになるが、受給者として名前が登場する分には矛盾はないと見ておきたい。


……という訳で、この書状は天文16(1547)年の細川氏綱の乱に関わるものであり、天文法華の乱における畠山稙長と遊佐長教の対立を示す史料としては用いることはできない、と考える。
そもそも天文3(1534)年に稙長が更迭されたというのは、『足利季世記』のイメージに引きずられているのではないか。
確かに季世記の「畠山卜山ノ事」では稙長の更迭が天文3年であるかのように描かれているが、「天文3年3月に(大永2年にとっくに没してる)畠山卜山が謀反に遭い没落した」という荒唐無稽なストーリーから始まっており、これだけを典拠にするには極めて問題があると考える。

つまり、この義晴御内書と『足利季世記』を典拠に使えないとなると、従来の稙長と長教の対立・稙長の更迭時期を示す説は白紙に戻り、その時期は何時かについては一から検討し直しても良いのではないだろうか(その結果やはり天文3年で正しかったとなるにしても)。

 

参考文献
大阪狭山市史』 第2巻 史料編 古代・中世
馬部隆弘『細川晴国陣営の再編と崩壊』(戦国期細川権力の研究)
金龍静『天文の畿内一揆考』(一向一揆論)

*1:馬部隆弘『青年期の細川晴元(戦国期細川権力の研究)

*2:元より天文2年とするにしても実際の状況とのズレを感じる。2月の堺での合戦で晴元方は大敗するが、それまでは阿波衆が畿内での戦線に参加した様子はない。その後阿波衆の協力を経て晴元は摂津に再入国し池田城に入るが、それは4月6日のこと。3月4日に晴元と阿波勢が摂津に「取詰」する状況は天文2年でも成り立たないのではないか。

*3:この時期の畠山氏は政国が引きいており遊佐長教と歩調を併せているが、乱の途中になってようやく「惣領名代」に任じられるなど幕府から見た立場が微妙なものだったと思われる。