179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆幻の和泉守護畠山晴熈

『久米田寺文書』には畠山晴熈の発給文書が含まれている。

今度寺領之儀 存分之通
雖申出候 種々懇望之上者
無別儀候 早々可有寺納候
猶遊佐若狭守和田対馬守可申候
恐々謹言
 十二月十六日 晴熈
 久米多寺


後に畠山氏が三好実休を討ったことでお馴染みの、和泉久米田寺に宛てたもの。
古くから紹介されている文書であり、既に先行研究*1晴熈が和泉守護を務めていた可能性が指摘されている。
その解釈に従い、いつの時期ならば晴熈が和泉に関われる可能性があるのか独自に検討してみたい。

まず、取次として登場する遊佐若狭守・和田対馬はこの文書以外には見えず、人物からの比定は困難。
ただし、和泉支配に関与する遊佐氏に関しては心当たりが一件ある。
以前の記事でも紹介した、『和田文書』永正15(1518)年9月10日和田太郎次郎宛山崇・順正連署状である(こちらのリンクでも閲覧可能)。

既に小谷利明氏が詳しく検討されているが、この文書は畠山氏奉行人の曾我山崇・某順正和泉国衆和田氏に原次郎四郎跡を宛行う奉行人奉書であり、奉書を受けて林堂山樹が和田氏に給地を宛てがっている*2
林堂山樹は尚順の腹心であり、同様に山崇・順正は当時紀伊に在国中の畠山卜山(尚順)の側近と考えられる。

さて、この某順正だが、尾州家では「順」「慶」「長」といった当主の偏諱を与えられる人物は限られていると思われる。
具体的には畠山一門(畠山順光・畠山長経・畠山長継)、守護代家(遊佐順盛・遊佐順房・神保慶宗・遊佐慶親・椎名慶胤・遊佐長教・遊佐長清・神保長職・椎名長常)に限られ、その他は丹下氏・平氏などの筆頭格の内衆であっても与えられた例を見ない(野辺慶景・保田長宗などの例外と思われるものもある)。
すなわち、彼の姓は遊佐氏の可能性が高いと考えている*3
この順正の系譜(ないし同一人物)が遊佐若狭守であり、同様に和泉支配に関わったと考えられないだろうか*4

話が逸れたが、尾州家が継承していた和泉守護家は先述の通り上守護家。
これは細川晴元方の上守護細川元常と競合するものである。
久米田寺は守護領の岸和田に近く、尾州家と晴元方が提携している時期に元常の頭を飛び越えて尾州家が介入する余地はあまりないのではないか。

そのため、尾州家当主が晴元方と対立している時期にこそ、尾州家方の人物が和泉に関与できると考えられる。
その時期として、以下の3つを想定している。

①天文4年末〜天文5年初の天文の本願寺戦争終結までの時期。
②天文10年からの木沢長政の乱勃発による和泉錯乱、畠山稙長復帰の時期。
③天文15年からの細川氏綱・畠山政国の乱の時期*5

まず②の時期。木沢長政の乱に乗じて上洛した稙長は、和泉守護代松浦守を追い落として和泉の確保を目論んでいる*6。そのため和泉支配に関わる文書が発給される余地は多分にあるのだが、この時期の晴熈は晴元方に属していた。稙長の挙兵を見て稙長方に奔った可能性も想定できない訳ではないのだが、和泉守護として活動できた可能性は低いと見ておく。

続いて③の時期。この時期の問題点は、以前の記事でも触れたが尾州家方が下守護の細川勝基・弥九郎を擁立していることである。
仮に尾州家が両守護制の維持を考えていたとしても、上守護の継承者として晴宣子の刑部大輔(氏朝)も存在する*7
この時期の晴熈の動向が伊予守任官以外は全く不明ということもあり、やはり可能性は低いと見ておく。

残るは①の時期だが、天文5(1536)年の12月頃は、『天文日記』などの史料からも稙長を排除した後の尾州家と晴元方の提携が軌道に乗っており、尾州家が和泉支配に介入する余地はないと思われる。
そのため、考えられるのは天文4年以前となるが、ここにも競合する問題がある。それは細川晴宣の存在である。

何度か触れたが、大物崩れで没した「和泉守護」は晴宣ではなく細川高基だったというのが現在の自説である*8
そのため、改めて『証如上人方々へ被遣宛名留』に晴宣の名が記されている意味を考えてみたい。

問題となるのが『宛名留』の成立時期である。これには「天文年中」としか記されていないが、人名の並び方からある程度の絞り込みはできると思われる(現存する『宛名留』が証如の記した順で残っていることが前提だが)。
『宛名留』は公家の一覧の後に武家が続く形だが、武家で最初に記されているのは尾州家方の人物(畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信)。
その後に赤松政村(晴政)・上杉播磨守(上条定憲)・山本寺定種が続き、大友家・赤松家の人間や湯河光春・仁科道外・十市遠忠などが続いた後、ようやく幕臣や晴元方の人間が並びだし、畠山弥九郎(晴満)を最後にこの形式での記述は一旦終わる。

武家方の追記がされた下限は畠山晴満が屋形になった天文7(1538)年頃として、開始時期はどうだろうか。
細川高国など天文以前に没した人物の名前はないこと、天文以前には交流のあったはずの義晴・晴元らの名が記されるのが後になってからなどのことから、『宛名留』は天文の本願寺戦争の開始後に記されたと見るべきではないか*9(最初の方に記される上条定憲・山本寺定種も長尾為景と闘乱に及び天文5年頃に戦死ないし没落したとされる人物のため、時期の絞り込みに使えるのではないだろうか)。

更に、尾州家の並びの中に遊佐長教が共に記されていることが注目される。
周知の通り遊佐長教は稙長を逐った側であるため、彼が稙長方の基信と共に記されているということは、この並びは稙長がまだ屋形として河内に健在の頃に書き込まれたと考えて良いのではないか。
つまり、細川勝基・細川晴宣も同様に、稙長が河内に健在の時期に、旧高国方の正式な和泉守護として証如から音信の対象になっていたのではないだろうか(実質的な和泉の支配状況は、晴元方の細川元常・松浦守が優勢だったと思われるが)。

これを前提に考えて、晴熈が和泉守護らしき動きをするのは、稙長方の勝基・晴宣が没落した後に可能になると考える。
稙長を逐った時点では、長経を屋形とする尾州家は本願寺と断交しただけであり、晴元方と完全な和睦までは至っていないはず。
長経方も和泉の支配権まで手放すのは本意ではなく、代わりの和泉守護として擁立したのが晴熈だったのでは……という考えである。

稙長の失脚時期は早くて天文3(1536)年末頃だと考えているため、晴熈書状の発給美は天文3年か4年のどちらかと推定する。
それぞれの場合で晴熈の立場は微妙に異なることとなる。
天文3年の場合は長経を屋形とした下での和泉守護だと考える。
天文4年の場合は晴熈が屋形と和泉守護を兼ねており、またこの時点で晴元方との和睦は進んではいるものの、まだ権限の振り分けが明確に定められていなかったため、元常・守と競合する形になるが久米田寺に書状を出すことが可能だったと考えている。

*1:確か出典は、弓倉弘年『天文年間の畠山氏』(和歌山県史研究16)だったと思うが、手元に無いので後日確認ができたら追記したい

*2:小谷利明『宇智郡衆と畠山政長尚順』(奈良歴史研究59)

*3:守護代格の重臣は他に神保氏がいるが、尚順の代の神保氏として確認されるのは慶宗・慶恵・慶明と「尚慶」に改名してから偏諱を与えられた人物、そこから「尚順」時代に偏諱を与えられた神保氏が不自然と思われるので除外した

*4:なお、順正に該当する遊佐氏として遊佐又五郎を想定している。又五郎は『蔭凉軒日録』5月5日に明応の政変時に正覚寺畠山尚順と共に落ち延びた人物として、『伊勢貞親以来伝書』永正12年11月19日に畠山鶴寿丸(稙長)が元服した際に供をした内衆として登場している。登場時期が20年離れているため、同一人物という保証はないが、明応の政変時に元服しているということは「順」の偏諱を貰っている可能性が高く、また永正12年は順正の登場する史料と同時期であるため、又五郎と順正が同一人物である余地はあると考えた。また又五郎紀伊守護代の又次郎順房と仮名が似ているため同族の可能性が高く、上記の通り順正は紀伊在国中の尚順の側近であるため、そこからも接点を見いだせる。

*5:天文17年12月頃に政国は遊佐長教と反目して遁世し、義晴・晴元方に属しているので畠山氏が和泉支配に関われる余地はないと思われる。

*6:小谷利明『畠山稙長の動向』(戦国期の権力と文書)

*7:この記事で述べたが、氏朝の「氏」は細川氏綱偏諱であり、この時期に元服したものと想定している。

*8:多分、そのうち某先生がそれに関わる発表をしてくれると思う(該当する研究発表は全くの未見)

*9:その場合、細川晴国などの本願寺方と連絡を取っていた人物が記されていないのが問題となるが、没落後も交流を続けている畠山稙長らと違い、晴国は本願寺方が途中で関係を断ったため記されていない、ないし削除されたと考えるべきか。