179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆和泉上守護細川晴宣について

ようやく二人目、細川晴宣
こんな煮詰まったブログを訪れる方ならご存知かもしれないが、この人物が細川姓なのは彼が畠山氏から和泉上守護細川氏を継いだ立場だからである。
晴宣が畠山氏出身で、稙長の実弟であることは、『証如上人書札案(宛名留)』の「晴宣」「和泉守護稙長弟」とあることでわかる。

また、『両畠山系図』では尚順の子に「某 和束屋形」と記される人物がいる。
既に馬部隆弘氏が指摘しているように*1「和束」「和泉」の誤記であり、これは晴宣を指すものだと思われる。

晴宣に関しての基礎知識は、岡田謙一氏の細川高国派の和泉守護について』(ヒストリア182)で述べられているので、今回はほぼほぼそれの受け売りである。
もっと突っ込んだ話が知りたい方は、該当論文を読んでいただきたい。

和泉と畠山氏

畠山氏出身の晴宣がなぜ和泉守護になったのか、その前提はひとまず父・畠山尚順の代に遡る。

畠山氏にとって和泉は正式な守護領国ではないものの、その関わりは深い。
尚順の代にも、「泉之堺、泉州両守護被官其大者七人。為畠山尾州之被官」*2と書かれるほど和泉への影響力は強かった。
更に明応9(1500)年に尚順は和泉に侵攻し、上守護細川元有・下守護細川基経の両者を切腹に追い込むなど和泉を荒らし回っている。
そして永正元(1504)年に畠山勢は根来寺と共に和泉を占拠。
この際に見られる表現が「当守護」九条家から和泉の家領経営に関わる存在として挙げられた「寺家」(根来寺)と「当守護」である*3
本来の上守護である細川元常はこの時阿波に没落している(下守護細川政久の動向は不明)ため、守護として認識される存在は尚順しかいない*4

当時の将軍は尚順と対立する足利義澄。そのため当然幕府から公的に認められた和泉守護であるがずがないのだが、実力で和泉を抑える尚順方は在地勢力からは守護として認識されるようになったのだろう。

その後、尚順は和泉から没落するが、義稙の上洛により畿内から義澄・澄元方は一掃され、和泉も再び義稙方の影響が強くなる。
下守護家には細川高国の親戚の細川高基(従弟細川尹賢の弟)という人物が就任していることが伺えるが、元常が没落し空白となった上守護家に細川氏が就任した形跡は伺えない。

しかし、『多和文庫所蔵文書』永正11(1514)年4月「久米田寺懸茶算用状」では「二拾斤両守護へ納茶」という表現が見え、当該記にも半国守護体制が維持されていたことを伺わせる。
この両守護の片割れは何者なのか、そこに出てくるのがまたもや畠山尚順である。

 

以下、岡田論文+αを元に、義稙上洛から尚順の失脚までの尾州家の和泉への関与を記す。

①『高野春秋』『密宗年表』永正6(1509)年3月17日  畠山家司池田光遠が和泉国新在家村四分の一を岡孫太郎にを宛行う。
②『守光公記』永正9(1512)年10月3日 飛鳥井雅俊が泉州に下向し畠山尚順古今和歌集を与える。
③『賀茂別雷神社文書』永正11(1514)年5月28日 三宅兵部入道道三・曽我平五郎山崇連署状。和泉国深日・箱作氏の知行内の賀茂社領を社納するように両者に申しつける。
④『施福寺文書』永正15(1518)年6月17日 曽我平五郎山崇書・長少将連栄連署
⑤『和田文書』永正15(1518)年9月10日和田太郎次郎宛曽我山崇・某順正連署状。同日林堂山樹書状。和泉国衆和田氏に原次郎四郎跡を宛行う。

このように断続的にではあるが10年ほどの間、和泉で尾州家の関与が見える。
少なくとも久米田寺はこの当時細川高基畠山尚順を指して「両守護」体制と見なしていたというのは注目される。

加えて尚順の立場も永正元年とは違い、幕府からに公認されたものである可能性が高い(正式に守護任命されたかは別として)。
義稙政権下の尚順の立ち位置を考えても、流石に10年もの間和泉を無断占拠していたとは考えがたい。
実質的に和泉支配を公認された理屈として、積み重ねた和泉への影響力もあるだろうが、尚順細川高国の姉婿であることも考えられる。
義稙政権における細川家一門は、典厩家・和泉下守護家・備中守護家が高国に近い一門に交代している。
ただ、これは何も高国が一門乗っ取りを目論んだという訳ではなく、典厩家・和泉上守護家といった有力一門が澄元方についたため、その穴埋めをせざるを得なかったという要素もあると思われる。
高国の用意できる細川一門にも限りがあるため、上守護家は姉婿である尚順に任すことになったのではないだろうか。

こと、②の永正9年段階で尚順が和泉に在国していたのは注目される。
この一件だけで尚順が和泉に常時在住していたかまでは判断できないものの、自ら現地に赴いていることは、和泉への関心の深さを想像できるのではないか。

また、⑤で書状を発給する林堂山樹尚順の腹心的存在*5
永正15年ともなると尚順は既に嫡子稙長に河内を譲り、紀伊に隠居している時期だが、和泉に関しては未だに尚順が守護の役割を果たしていることが伺える。


晴宣の動向

ようやく主役たる細川晴宣の登場だが、確実な初見は『御法成寺関白記』大永3(1523)年1月1日条の「和泉守護民部大輔(細川高基)・同五郎」とされる。
書状での初見は『和田家文書』(大永4(1524)年)11月2日和田宮千代宛晴宣書状。
大永4年の書状は花押付きで発給しており、当時16歳の兄稙長とさほど変わらない年齢だったと思われる。

さて、個人的に気になっていることがある。「晴宣は尚順期から和泉守護を継ぐことを既定路線としていたのか」という点である。
河内の統治権は稙長に譲った尚順だが、紀伊越中・和泉はいまだ尚順が主体となって差配していた。
将来的に和泉守護職尾州家の管轄として稙長が継承するはずだったのか、あるいは尚順没落をきっかけに弟晴宣に分割することになったのかは不明。
当時は稙長・晴宣ともに若年なので、尚順は稙長が若年であるため河内の経営のみを任せ、長じれば紀伊・和泉などを一括して譲るつもりだった」「実は晴宣は既に和泉守護の後継として養育されていたが、若年のため史料には見えなかった」のどちらも言えそうである。
今後、それを判別する材料を発見できれば幸いである。

ともあれ、最低でも5人いることが確認できる稙長の弟の中で、晴宣が和泉守護に抜擢されたのは、彼が細川氏の血を引いている、つまり晴宣母は高国姉であることも想定できるのではないか。

また、尚順が没落という形で和泉守護の座を失ったため、晴宣が尚順期からの人材を継承しているかも不明。
現状、晴宣に関わる記録からは彼の被官の存在は確認できない。
一応、『関本氏古文書模本』にある、勢長書状の宛所である斎藤三郎左衛門尉・庄備中守を可能性として挙げておく。
勢長根来寺坊官で九条家日根荘の代官を務めた人物と想定され、『九条家文書』に大永年間に活動した記録が残っている。
なのでこの模本も大永年間のものである可能性は高いと思われる。
ただし、宛先のうち庄備中守(盛祐)は永正年間に和泉下守護細川高基の被官して見え、斎藤三郎左衛門も高基被官斎藤彦衛門尉国盛の系譜の人物と思われる*6
馬部氏も同様のニュアンスの指摘を行っているが、『模本』の他の書状の多くは和泉上守護家に関連するものであり、斎藤・庄宛書状がここに残されたということは彼らが細川晴宣となんらかの関係を持っていた可能性はあると一応指摘しておきたい。


晴宣の確実な終見は『真乗院文書』(大永6(1526)年)12月27日の和田宮千代宛晴宣書状*7
岡田謙一氏・馬部隆弘氏の推定に従い、この後の大永7(1527)年の桂川合戦を機に晴宣が没落し、一時的な後任として細川清(氏綱)が派遣されたと考える。

また、この際に氏綱の取次を松浦守が務めている。
本来は澄元系上守護の細川元常に属す松浦守だが、その動きは流動的とされる。
永正7・8年頃は高国方に属している姿が見え、大永4(1524)年12月は晴元方として晴宣と戦闘しており、大永7(1527)年2月にも晴元方として桂川合戦に望んだと見えるが、同年5月~10月の間は高国方として見え、更に同年12月に晴元方に戻っている。

節操が無いようにも見える守の行動だが、在地に留まるというのが守の第一方針で、主君元常が澄元方と共に阿波没落している際には高国方に属し、元常の和泉復帰が近づくと馳せ参じるという結果になったのではないか。

少なくとも尚順の和泉支配期と守の高国方所属期は重なっている、関係性に関しては不明だが。
同様に、晴宣期にも守が高国方に所属していた可能性はあるかもしれない。
桂川合戦前後から晴宣の消息が和泉から消えるのは、晴元方の上洛が近づく中で再び鞍換えした松浦守に追い落とされたというのも想定される。

晴宣はいつ没したか

その後の晴宣の足取りは確実な史料では追えないが、その死を示唆するものはある。
『東寺光明過去帳』『二条寺主家記』に享禄4(1531)年6月4日の大物崩れで「和泉守護」が討死したという記録がある。
高国方和泉下守護の細川勝基は天文年間後も存命が確認されており、これはもう一方の守護である晴宣のこととと解釈されている*8

ただ、個人的に気になる点もなくはない。まずこの可能性に従えば晴宣は高国の陣にいたということになるが、これが細川一門として高国の流浪に付き従った形か、高国の上洛戦を機に畿内から合流した形なのかはわからない。
今の所、史料から追える晴宣の動きは他の細川氏と行動を共にするなど、ほぼほぼ細川一門としてのものであり、畠山一門としての色は見られない。
『証如上人書札案』が無ければ、畠山氏出身であることも知られないままだったかもしれない。

また、畠山稙長は享禄元(1528)年11月、晴元方と和議を結んで高屋城から金胎寺城に退いてから、天文元(1532)年末まで大きな動きが見られなくなる。
この間の稙長が高国に支援を行う余裕があったか、あるいは高国派として動いていたかは明確ではない。
これに関しても、何かしらの行間を埋める史料が見つかれば個人的にはありがたいのだが。

もう一つ、晴宣の名が『証如上人書札案(宛名留)』に記されているのは前述の通り。
順番は畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信と、尾州家・高国系細川氏のグループで固まって記されている。
ここについても疑問がなくはない、『天文日記』は天文5(1536)年から記述が始まっており、「宛名留」もそれに沿っての成立が想定されている。
前述の想定ならこの時点で晴宣はとっくに故人であり、本来なら記す必要のない人物である。
これに関しても、書札案が残っている以上、証如が本願寺宗主となった大永5(1525)年から後述の没年までのわずかな期間ではあるが、本願寺とやり取りする機会がありそれが残った……と辻褄を合わせうことは可能だが。
……が、本願寺と交流があったと思われる人物でも、細川高国など天文年間以前に没していたり、細川晴国のように天文5年頃に本願寺側が交流を断っている人物は「宛名留」に記されていない。
そのため晴宣だけ例外とするのも不自然になってしまうが、この件は一旦保留しておく。

上守護と下守護をそーれがっちゃんこ……?

さて、ここからは完全に余談になるが、『足利季世記』にも晴宣と思われる人物の記述がある。
「河内衆氏綱と一味の事」「故高国と一所に打れし細川和泉守護の子新和泉守も氏綱に力を合わせ高屋に来たりけるか病死しけるか男子なくして畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」とある。

細川刑部大輔は晴宣の子に該当すると思われる人物。よって政国の弟ではなく甥に当たり、「模本」により永禄年間の活動が確認される、なのでここで病死したとするのはあり得ない。
つまり事実を正確に記しているとは言えないが、これまで見た『足利季世記』の性質上完全なデマでない可能性もあり、例によって分解&再構築を試みてみる。

まず、高国と共に戦死した和泉守護の系譜が畠山氏と何かしらの関係性があること、畠山氏から和泉守護に養子が入ったことまでは『足利季世記』(とその元ネタ)は掴んでいたということになる。
和泉守護の子にあたる刑部大輔はこの際に病死した人物ではない、しかしこの時に死去した新和泉守」が実在するかもしれない、ならばそれはもう一方の和泉守護家の人間なのではないか……と辻褄を合わせてみたい。

ここで、かつて晴宣と共に守護を務めた勝基と、その後継者とみられる弥九郎という人物が畠山方に与したという記録が残っている。
勝基・弥九郎の動向についてはこちらのブログを参考にして頂きたい。

monsterspace.hateblo.jp

ブログ内で紹介されている9月25日勝基書状については氏綱方と鷹山氏が連絡を取り始める点から天文11(1542)年以降、文中の「河州」を遊佐長教とするなら長教が河内守に任官する天文13(1544)年以降となる。
8月22日弥九郎宛書状は、天文15(1546)年8月から始まる畠山政国・遊佐長教の挙兵に関わるものだろう。
つまり、和泉下守護家の勝基はこの頃既に尾州家・細川氏綱陣営に合流しており、なおかつその後継者とみられる弥九郎が改めて尾州家に進退の保証をされているということになる。
ここから想定される事態は下守護家細川氏当主の交代……つまり「氏綱に協力した高国方和泉守護は高屋に訪れて間もなく病死した」「和泉守護の子が氏綱に協力した」という記述に当てはめられるのではないか。
つまり、「氏綱方として高屋城に入るものの、やがて病死した細川和泉守とは勝基のことである」という説を唱えてみたい。
晴宣-刑部大輔勝基-弥九郎の二つの家が畠山方に属していたという事実を、『足利季世記』編纂の際に一つの家のことと判断して合体させてしまい、このような記述になったのではないだろうか*9


晴宣の子としては、『両畠山系図』から上記の刑部大輔「一色式部少輔藤長母」がいる。
刑部大輔の方は馬部氏の論文で検討を加えられているが、ここでは詳細を省く。

問題は晴宣娘の方だが、一色藤長父の一色晴具の生年は活動時期から永正年間初期と推定され*10、晴宣と同世代である。
藤長の生年は天文年間初期頃と推定され、晴宣の子世代が藤長を産んだとするのは年齢面で苦しい。
実際、『両畠山系図』で播磨守晴熈の娘とされる万里小路惟房母」が実際は畠山播磨守でも畠山播磨守でも播磨守政熈の娘(政熈は畠山尚順陣営に属していたため、混同される原因になったのだろう)だった、というケースがある。
なので同様に藤長母も実際は別の和泉守護細川氏の娘だったという可能性を考えたい。(他にも藤長母は晴宣の猶子、晴宣の姉妹、あるいは藤長の母ではなく藤長の妻というパターンも考えられるが)

該当する和泉守護については、混同された原因も想定して「晴宣に親しいという意味で高国系下守護家」「晴宣の継いだ家という意味で上守護家」の可能性を挙げる。
具体的には、晴具より一世代上の下守護家細川高基・上守護家細川元常の二択に絞られるだろう。
そして、婚姻の時期は式部一色氏とその和泉守護が同陣営に属していたと考えるのが妥当なため、前者なら桂川合戦を期に義晴・高国が分離する大永7(1527)年頃まで、後者なら義晴が上洛して晴元と政権運営を始める天文4(1535)年以降と考える。

元常娘と想定してもギリギリ成り立ちそうな範囲ではあるが、個人的には高基娘の可能性が優勢に見える。
前述の『足利季世記』の記述は晴宣と高基の系統が混同されたことで起こったという仮説も、その後押しになるかもしれない。
更に発展させれば、『両畠山系図』の和泉屋形が「某」としか記されないのは、『足利季世記』同様に晴宣系と高基系が混線して、何者かわからなくなってしまった結果ではないだろうか。


参考文献
岡田謙一『細川高国派の和泉守護について』(ヒストリア182)
馬部隆弘『細川晴国・氏綱の出自と関係―「長府細川系図」の史料批判を兼ねて』(戦国期細川権力の研究)
馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)

*1:馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)

*2:『蔭凉軒日録』明応2年2月21日条

*3:『政基公旅引付』永正元年12月2日条信濃小路長盛書

*4:なお、この元常の没落については阿波細川家の関わりも指摘されている。「再昌草」天文3年12月14日に「元常は細川成之の外孫」と記されており、当時の阿波守護家細川成之畠山尚順と共に足利義稙派に属していた。ために尚順の伸長は元常にとっても損ばかりではなく、さほど抵抗せずに退いたのでは……という想定である。

*5:小谷利明『宇智郡衆と畠山政長尚順』(奈良歴史研究59)

*6:『板原家文書』5月19日高基書状

*7:馬部隆弘『細川晴国・氏綱の出自と関係』(戦国・織豊期の西国社会)

*8:あるいは先行研究では大永4年頃没したと推定されているものの確実な死去記録のない高基が実は存命で、ここで戦死した可能性もあるか。その場合勝基が和泉守護を継承しているはずなのに「和泉守護」と記されるか?という疑問も生まれてしまうが……。

*9:そうなると細川高国と共に討たれたという「新和泉守(勝基)」の父の和泉守護は高基に該当するのでは……? となってしまうのだが、現段階では保留しておく。

*10:木下昌規『足利義輝・義昭期における将軍御供衆一色藤長』(戦国期政治史論集 西国編)