179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆畠山播磨守晴熈について

長経同様、僅かな期間ではあるが尾州家当主に据えられた稙長弟の晴熈。
彼が最初に継いだのは分家である畠山播磨守家。
この播磨守家は国清(右馬頭家祖)・義深管領家祖)・清義(中務少輔家祖)の弟の国熈を祖とする家とされ、「国熈」「満熈」「政熈」といった名の当主がおり、晴の諱にもその通字が表れている。

畠山播磨守家について

歴代播磨守家についての詳しい検討や晴熈の初期の動向は、以前に川口成人氏が研究発表を行っていたが、ここでは触れられる範囲以外は省略する(論文発表の形になれば追記したい)。

播磨守家については、明応の政変以降分裂したことが指摘されている。
『大乗院寺社雑事記』明応4年(1495)2月19日条に、畠山播磨守について「誉田屋形方也、八尾持之、子息ハ紀州屋形方也」と記されており*1、親子で総州家と尾州家に分かれていた。
総州家方についたのは播磨守政元尾州家方についたのは右馬助政熈とされる*2

また、晴熈の初見は『益田家文書』永正12(1515)年12月2日が記した足利義稙の伊佐貞陸邸御成の際に、御門役として見える「畠山勝松」が幼少の晴熈と推定される*3

晴熈の動向

将軍偏諱+「熈」の通字が示すとおり、彼は足利義晴に公認されたれっきとした播磨守家の当主である。
上記の通り政熈が尾州家方に属しているため、合意を得てその後継となったと見られる。
ただし、大永7(1527)年の桂川合戦以降、没落した義晴に随行する幕臣の中に晴熈らしき名は見られない。
おそらくは畠山一門としての立場を優先して、稙長に同行することを選んだのだろう(播磨守家は河内に所領を持っていたようで、それを維持する優先順位が高かったと思われる)。

その後、晴熈が再び脚光を浴びるのは尾州家当主として。
これ以降の動向については、弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)に詳しく検討されている。
また、長経から晴熈への家督交代についての個人的な考察は過去の記事でも行った。

179yougoha.hateblo.jp

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これらの解釈は今も特に変わりはないが、『天文日記』の「遊佐新次郎婦民部卿婦トひとつになり」の解釈について検討を一つ加えたい。
まずこの「婦」について、妻と解釈すべきようなので、これに従う*4
やはり「ひとつになり」の解釈が悩ましいが、『天文日記』には民部卿興正寺実秀)の親族は記載されるものの、実秀本人は出てこないように見える。
そのため、民部卿(実秀)はこの時点で亡くなっており、未亡人が遊佐長教に嫁いだ、あるいは遊佐長教妻と実秀妻が近い親族であるといったことが考えられないだろうか。

さて、屋形に迎えられた晴熈だが、さしたる活動もなく天文7(1538)年に畠山弥九郎(晴満)に屋形が交代している。
『天文日記』同年8月10日条に「播磨守(畠山高屋屋形上表*5とあり、上表(辞退)という形で当主から退いたことがわかる。
その後の晴熈は『大館常興日記』で活動が僅かに見える。
晴熈が登場するのは御門役についての件であり、当初は細川元常が勤める予定だったが、その次の役を誰に勤めさせるかで難航したようで、常興らは晴熈に3ヶ月間御門役の依頼を送った。
晴熈は要請を請けたものの、先々まで勤めることは難しいと返答したようだ*6
依頼が晴熈にされたのは、かつて御門役を務めた経験を踏まえたのもあるだろうか。

また、晴熈の家督就任について、幕府から承認されたものではないことが上記の弓倉論文などで指摘されている。
確かに前後の長経*7・晴満*8は幕府から家督就任に関わる文書が残っている一方で、晴熈にはない(残存資料の問題の可能性はあるが)。

『天文日記』でも晴熈が屋形である内の天文6・7年の年始は遊佐長教らには贈答が送られるものの*9、晴熈にはない。
この視点でも、贈答の対象にならない晴熈は正式な屋形ではなかったと言えそうだ。

ただし、これは総州家の在氏も同じである。
在氏も木沢長政らに屋形として擁立されているはずだが、天文6・7年は年始の贈答の対象とはなっていない((天文7年正月には「就還住之儀」として音信を送られているが*10、これを年始の贈答と判断すべきかは保留)。
在氏は天文6(1537)年末に代替わりの安堵状を発給しており*11、「右衛門督」に名乗りを変え、天文8(1539)年以降は証如からも年始の音信が送られるようになる*12
御内書は残っていないようだが、この間に在氏は正式な屋形として認可されたのではないか*13

つまり、擁立された当初は非公認の当主であったという立場は、晴熈だけではなく在氏も同様だったと思われる。
にも関わらず在氏は後から幕府から追認を受けており、一方で晴熈は屋形の立場を返上している。
すなわち、晴熈が屋形を返上させられたのは「幕府に無断で擁立された」ことそのものに問題があった訳ではないと考えている。
加えて晴熈は辞任後も証如から交流を持たれているし、幕臣播磨守家として御門役を打診されるなど、屋形は退いても政治的生命を全て失った訳ではない。
つまり弥九郎晴満への交代は、晴熈に何か問題があった訳ではなく、晴満を屋形に据える方に積極的な動機があったと推測しているが、この件に関しては後日検討したい。

その後の晴熈と伊予守任官

その後、木沢長政の乱を経て畠山稙長が晴満を追い落とし守護に復帰。
この際の晴熈の動向は不明だが、後に伊予守に任官されたことがわかる。
『歴名土代』天文14(1545)年12月4日に「源晴熈」従五位下に任じられ、同日に伊予守に任じられたと記される。
他の畠山一門が『歴名土代』に任官が記される例はそう多くなく、この任官が正式なものであり、京における晴熈の認知度が伺える。

ただし、上記の弓倉論文で既にで指摘されている通り、この任官日はズレている可能性がある。
『天文十四年日記』同年8月15日に「畠山播磨守」「若公(足利義輝)」に太刀・馬を進上しているが、これには「始而御礼」と付記されており、晴熈と考えると不自然である。
すなわちこの播磨守は政国であり、晴熈の伊予守任官はこれ以前となる、従うべき見解だと考える。

また、『大館常興札抄』(『群書類従』9)によれば「讃岐守・伊予守・阿波守」「左衛門佐・右衛門佐など程事也」とし、尾張守・安房守・上総介・淡路守・播磨守・伊勢守・摂津守」「八省輔(中務大輔・式部大輔・治部大輔・民部大輔・兵部大輔・少輔など)ほどの御用なり」と受領名のランクが記されており、播磨守から伊予守への遷移は格上げ人事と言える。
しかし、入れ替わるように政国が播磨守として登場していることから、名目上は格上げだが、実質的には播磨守家の地位を政国に譲らされたと見ることも可能かもしれない。
稙長没後の尾州家は暫くの間後継者を巡って混乱していたことを考えると、この人事は稙長の存命時に行われた可能性があり、稙長を追い落とした義晴・晴元方に属していた晴熈と、岩室城を拠点としていたため紀伊に没落した稙長を支持していたと思われる政国、両者の稙長への貢献度の差異によって、この人事が行われたとも考えられるのではないだろうか。

晴熈が遷移した伊予守は、過去に幾つか畠山氏に任官の例が見られる。
これは川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究』(京都学・歴彩館紀要3)に詳しい。
一次史料において「畠山伊予守」として見えるのは、畠山基国の弟系図では満国・深秋)*14畠山貞清の子系図では満国)*15、そして畠山義就
このうち義就は管領家なので除外、基国弟(満国・深秋)は石垣左京大夫家の祖とされ、石垣家はこの時代にも存続しているため、晴熈の伊予守任官がこの家を継いだとは思い難いのでこれも除外。

残る貞清子の伊予守だが、子として伊予次郎持重伊予九郎持安が見える*16
このうち持重は中務少輔家の系統となり、この時期まで家は続いている。
残る持安の系統が、晴熈の任官した伊予守の家である可能性があるのではないだろうか。
持安と同じ仮名を持つ「畠山九郎」が永正7(1510)年に確認され*17、この系統も御供衆の家格を備えていたと思われる。

また、能登畠山義総の兄弟に山九がおり、永正年間の九郎の家を継いだ、あるいは本人という可能性も考えられるかもしれない*18
山九郎は天文8(1539)年8月に討死したと見られるため*19、いずれにせよ伊予九郎家は空席になっており、晴熈が移るには問題ないと思われる。

晴熈の子としては、『両畠山系図』に九郎某万里小路惟房母が記される。
このうち万里小路惟房母については、以前の記事でも触れたように播磨守政元娘の誤り。
九郎については、『両畠山系図』畠山政義(政能)の子にも「永禄八年光源院御供討死」と付記される九郎がいる。
この九郎の元服と永禄の変での討死は一次史料で確認できる*20が、享年14歳と記されている。
しかし政能嫡子と見られる定政は没年から逆算すると1559年生まれであり、九郎はそれより年上となってしまう。
舎兄である可能性もあるが、九郎は在京して奉公している立場であり、政能と京との繋がりは極めて希薄。
以上の要素から、『両畠山系図』は誤記であり、永禄の変で討死した九郎は実際は晴熈の子に当てはまると考えている。

また、九郎という仮名は前述の「伊予九郎持安」の家を継いだことを意識して名付けられたと、伊予守家の由緒も絡めて考えたい。
この九郎の父を晴熈と想定した場合、晴熈は1552年頃まで存命だったことになる。
ただし、晴熈らしき人物の動向は伊予守任官以降は見当たらないことも付け加えておく。

 

参考文献
弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)
川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究 : 室町幕府近習・奉公衆家の一展開』(京都学・歴彩館紀要3)

*1:弓倉弘年「畠山義就の子孫たち」(中世後期畿内近国守護の研究)

*2:川口成人「忘れられた紀伊室町文化人」(日本文学研究ジャーナル19)

*3:twitterで呟いたところナタネ油氏からお墨付きを頂いた(https://twitter.com/nknatane/status/1605498460249022465

*4:小谷利明「遊佐長教」(戦国武将列伝畿内編【下】)

*5:石山本願寺日記』ではこの二文字が欠落

*6:『大館常興日記』天文9年2月9日条・2月15日条・3月28日条

*7:『御内書案』年未詳8月16日足利義晴御内書

*8:『大館記』収録文書(天文7年)8月26日大館晴光書状など

*9:『天文日記』天文6年3月9日条・天文7年2月5日条

*10:『天文日記』天文7年1月21日条

*11:観心寺文書』天文11月13日畠山在氏安堵状など

*12:『天文日記』天文8年2月23日条など

*13:天文7年に尾州家屋形となった弥九郎晴満にしても、天文8年4月10日条では年始の音信は遊佐方のみだが、天文9年5月3日条では弥九郎にも年始の音信が送られ。以降は恒例となっている。
これらを踏まえると、証如は守護などの地位が公認されたものであるかどうかで年始の祝賀などの音信を送る対象にするかを判断しているのではないか(上記のように公的な守護となっても翌年の時点では音信が送られていないことももあるが)。

*14:宝鏡寺文書』明徳3年6月13日書状

*15:「鏡外」など

*16:『花営三代記』応永29年1月30日・応永30年11月2日など

*17:『益田家文書』「永正七年在京交名衆」

*18:この時期、義総(『後法興院記』永正9年4月16日条など)・宮内大輔(義元次男・『実隆公記』永正8年5月22日条など)・義元孫(『守光公記』永正9年4月1日条)と、能登畠山家の子弟が御供衆に並んでいる例が複数確認できる。また九郎弟の畠山駿河駿河は、明応の政変で討死し没落した駿河守政清の刑部少輔を名乗った可能性が指摘されている

*19:『永光寺年代記

*20:『言継卿記』永禄7年12月7日条・永禄8年5月19日条