179(擁護派)のモノ置き場

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◆『足利季世記』の畠山氏(「天文3年」の卜山の没落)

前回の記事でも触れたが、『足利季世記』「畠山卜山之事」という段では、天文3(1535)年に畠山尚順を生存させて行動させるという誤りを犯してしまっている。
ただし、ここで書かれる畠山尚順紀伊没落、畠山稙長から畠山長経への家督交代は実際に確認されることである。
これらは、現存する『足利季世記』以前の伝承や軍記では見られない情報であり。
『足利季世記』(ないしそれに先行する伝承・軍記)がそれを把握していたことは見逃せない

前回も触れたように、『足利季世記』系統の軍記の記述は虚実入り混じっており、参考にできる部分もあるが鵜呑みにはできない。
そこで今回は、「畠山卜山之事」の内容の一つ一つを精査してみたい。

 

畠山政長子の尾張守尚慶18歳で出家し卜山と名乗り、高屋城を息子植(稙)長に譲り紀伊広城に隠居した。
②小松原の湯川直光は卜山の下知に背いたため卜山に攻められ湯川一族は追われる
③数年経った天文3年3月紀伊の住人野辺六郎左衛門が卜山の下知に背いたため北国に改易されそうになる。野辺は一揆を起こし居城に籠もり、卜山は河内から守護代遊佐河内守長教に援軍を率いさせ野辺の城を攻め立てる
湯川直春の一門は山家に流浪していたが、その中の湯川民部少輔の子に業阿弥という粉河の法師がいた。
⑤業阿弥は直光の元に来て卜山を討ち取る計略を廻らし、陣僧に扮して卜山の陣に潜入する。しかし業阿弥は卜山の顔を知らなかったため、将几に据わって下知を出していた遊佐を大将と勘違いしてに切りつける。遊佐は薄手で死なず、業阿弥は隣に立っていた卜山に斬られ死亡する
⑥その夜湯川氏が夜襲をかけ、遊佐が手負いだったため卜山は敵わず広城に落ちるが、広でも一揆が発生し48人を討たれ淡路に没落する。
⑦卜山は淡路光明寺55歳で病死する。
⑧稙長は父の没後百日経てば紀伊に出陣し敵討ちをしようと大和・河内に動員をかけようとする。
⑨これに反対した遊佐と大和の木沢左京亮・杉原石見守・斎藤山城守が一味し、稙長の弟石垣左京大夫長継を擁立し、稙長は根来寺に逃れる。

 

小分けした内容を検討していく。


畠山尚順「尚慶」と名乗ったこと、隠居して広城に移ったことなど、基本的に正しいが、「18歳での出家」は誤り。
畠山尚順が出家し「卜山」と名乗ったのは永正5(1509)年頃で、当然18歳を超えている*1

この誤りが何故起こったかについては思い当たる部分がある、『両畠山系図である。
尚順の項目に「十八歳隠居。出家。法名卜山」とあり、18歳で出家したという部分が『足利季世記』と一致する。
これ以外にも『足利季世記』の畠山氏関連の記述と『両畠山系図』には共通する情報があるのだが、それを検討するのは(また長くなるので)後に回したい。


まず、当時の湯河氏の当主は直光直春ではなく光春である。
また、弓倉弘年氏の『戦国期紀州湯河氏の動向』(中世後期畿内近国守護の研究)などで既に指摘されている通り、明応年間に畠山尚順による「湯河退治」が行われた形跡があるが、その対象として見れるのは「高田城」「湯河少弼」という人物。
安房守」「宮内少輔」を名乗る湯河家当主の湯河政春・光春とは明らかに別人である。
そのため、湯河氏が尚順によって本拠を追われたとは認めがたい


野辺六郎左衛門(慶景)が(反乱理由はともかく)畠山尚順に背いたこと、湯河氏と結託したことは事実だが、それは永正17(1520)年のことである。
この天文3(1534)年3月という年月日がどこから出てきたのかは不明。
可能性として思いつくのは、尚順が実際に没した大永2(1522)年の干支は壬午
一方で12年後の天文3(1534)年の干支は甲午
つまり、「大永二年壬午」の年に尚順が没したというのを、「大永二年甲午」とするような誤りがあり、「甲午」に合わせて「天文三年」と誤りを正そうとしてこのような没年の誤読が起きた……という想像である。
ただ、永正17(1520)年にしても、紀伊での錯乱の様子が伺えるのは6月になってからであり、3月の時点では紀伊に動きは見られない。
この月の誤りについては見当がつかない。

更に遊佐長教が援軍に来たというのもありえない。
遊佐長教は天文年間にならなければ活動が見れず、実際に尚順の没落が起こった永正17(1520)年の河内守護代はその父の遊佐順盛である。
反乱の時期を天文3年としたことで、その時期に活動が見える長教を前倒しに登場させてしまったのか……。
いずれにせよ、湯河氏の反乱に対して河内守護代遊佐氏が援軍に来た形跡はないのだが。

④⑤
前述の通り、守護代遊佐氏はそもそも紀伊に援軍になど来ていないので、彼が暗殺未遂にあったとというのはありえない。
よってこの業阿弥が刺客として潜入する話も疑わしい。原型となる暗殺エピソードがあった可能性くらいはあるが。*2


尚順がこの一連の反乱により広城から没落したのは事実。
ただし当初の避難先は堺で、淡路に移ったのはしばらく後。
それにしても非実在援軍である遊佐長教がいなければ尚順は無力であるかのような書き方に、長教の存在を大きく見すぎている認識が伺えるような……。


尚順が淡路で(光明寺かどうかは不明だが)没したのは事実だが、享年が55歳というのは誤り(実際は47歳)。
更に永正17(1520)年の追放直後に没したのではなく、没年はその2年後の大永2(1522)年である。
また、よく読むとこの記述の出来事において年月日を記しているのは紀伊の反乱が起こった天文3(1534)年3月のみであり、尚順が没したのが何時のことかは明記していない。

そこで、この享年の誤りが何故起こったのかの仮説を立てつつ、深堀りしてみたい。
まず、『足利季世記』の畠山政長自害之事」では政長の子は明応の政変当時13歳で、3歳で足利義尚から一字を賜り尚慶と名乗ったとある。
上記の『両畠山系図』の尚順の項目にも「天文十八年七月十八日任之。常徳院殿賜御一字。父生害時十三(ィ四)歳。」とある。
一次史料では、『後法興院公記』文明18(1486)年7月26日条には「今年十三歳」の畠山左衛門督の息が7月19日元服したとあり、8月5日には「御拝賀散状相尋伝奏記」と公家・武家が名を連ねている中に「畠山尾張尚順とある。

つまり「天文十八年」「文明十八年」の誤りで、尾張守任官・一字拝領の年月日*3「十三歳」という年齢までは把握していたものの、それを元服時ではなく「父生害時(もちろん明応の政変のこと)」と取り違えてしまったのだろう。
明応の政変、つまり明応2(1493)年13歳とすると、生年は1481年、そして55歳になるのは天文4(1535)年

つまり畠山尚順は天文4年に没した」という誤った伝承があり、それに従って享年を55歳と計算してしまったのではないだろうか*4


尚順への不満から謀反を起こし彼を追放した紀伊衆だが、河内の稙長方はすぐに湯河・玉置氏や野辺慶景を赦免する姿勢を見せている。
以降も稙長と紀伊勢力の関係は良好である*5

つまり永正17(1520)年だろうと、天文4(1535)年だろうと、稙長が紀伊攻めを行おうとしたということは認め難い。
ついでにこの記述で稙長は「此人常に民をも哀み給わず父卜山にはおとりたる人なり」と、架空のエピソードで貶されてしまっている。ぶち殺すぞ。


この木沢左京亮(長政)と併記される斎藤山城守・杉原石見守については後の「一蔵之城攻事」「木澤打死之事」でも登場する。
そのうち斎藤山城守ついては、『多聞院日記』『親俊日記』で木沢長政の乱の際に、長政寄りの尾州家被官として殺害されたことが記され、実在が確認されるが、杉原石見守については不詳。
『足利季世記』では太平寺の戦いで没落し三好の家来となったことが記されるが、一次史料では今の所彼の存在は確認できない。
前の記事でも述べたように「杉原氏は畠山家の重臣である」という先入観から架空の杉原氏を登場させたのでは?、とも疑ってしまう。
そもそも木沢長政と斎藤山城守は仕える家が違う上に、一律で大和の人間としているのにも問題を感じるが。

また、稙長の没落先が根来寺かどうかも不明。

 

以上のように、やはり『足利季世記』はある程度事実の輪郭を掴んだ記述と、あからさまな創作が混在している。

その中で、今回問題にしたいのは⑧の部分である。
当然ながら畠山尚順の没落と、稙長から長経の家督交代に因果関係はないのだが、『足利季世記』は一連の出来事としてしまっている。
このような記述になった原因として、一つは尚順の没落・死没が天文4(1535)年という誤った伝承が存在したこと。
そしてもう一つは、同時期に稙長から長経への家督交代が起こったという正しい情報が伝わっていたこと。
そのため、二つの事件を一連のものと見なして合体させてしまったのでは……ということが考えられる。

仮定に仮定を重ねた上にあくまで軍記ベースの考察だが、この記述は「長経への家督交代は天文4(1535)年に起きた」ということを示しているとも言えるのではないか。

……とは言いつつも、家督交代が天文3(1534)年である可能性はあると思っている。
ただし、以前の記事の通り、家督交代を示す8月14日の長経宛て義晴御内書の年次は天文4(1535)年だという考えは変わらないので、10月の丹下盛賢の河内での軍事行動の後、つまり天文3(1534)年末頃であると考えたい。

 

さて、8月14日義晴御内書の年次は天文4(1535)年、という主張は変わらないが、その場合は家督交代が承認されたのは高屋方の本願寺との同盟破棄から3~4ヶ月程経ってから」となることの理由付けについて、以前は「稙長は長年の足利義晴方だったこともあり、更迭を認めるべきか幕府側が見極めていた」と想定していた。
今回、別のそれっぽく見えそうな理由付けを思いついたので、一部過去の記事と重複になるが述べてみたい。

そもそも、天文4(1535)年の本願寺戦争の推移だが、6月12日に『後奈良天皇記』で一揆五六百打死云々、大概一向衆此時滅亡歟」と書かれる程の大敗を喫しており、その後の戦闘はほぼ見られず、和睦に向かっていく。
つまり8月の長経宛て御内書は、大勢が決し和睦に向かう流れの中で出されたものということになり、幕府側に「畠山氏を繋ぎ止めるために家督交代を承認せざるを得なかった」という逼迫した事情などは考えがたい。

なので、8月に幕府が家督交代を承認した意図はもっと先を見越してのことと考える。
細川晴元と提携することを決めた幕府としては、畿内静謐の最大の障害は晴元と相容れない細川晴国であり、晴国ら旧高国党と提携する意思の強い稙長が尾州家当主のままでは何かと都合が悪い。
幕府は長経を当主とする尾州家を認めたが、それは引き換えに尾州家が本願寺細川晴元・木沢長政(畠山総州家)らとの広域的な和平に応じることを意味する、と考えていたのではないだろうか。

が、そういった幕府側の意図とはズレて、尾州家内部に晴元・総州家のいずれかに抵抗を示す勢力がおり、その結果として長経から晴熈へと再度の家督交代が起こってしまう。
そのため、当てが外れた幕府も以降畠山氏の家督承認に慎重にならざるを得なかったのではと考える。

*1:ただし、『花岡家文書』明応年間と推定される4月16日神保慶宗書状では、「御屋形様御還俗候由承候」とあり、永正年間以前に尚順が一度出家していた可能性がある。

*2:尚順の腹心であり、彼が広城を没落する直前に不審死を遂げた人物として林堂山樹がいるが……。

*3:正確には7月19日であり7月18日は誤り。参考までに『歴名土代』には「従五位下尚順 同十八七十八、同日尾張守」とあり、共通する年月日の誤りがある

*4:この誤りに基づくのならば、上記の「18歳で出家」は明応7年(か明応6年)のこととなる。明応7年ならば、「大乗院寺社雑事記」では尚順が弟に家督を譲るという風聞が経っており、上の注の神保慶宗書状も合わせて、この年家督譲渡のために本当に出家していた可能性もあるのではないか。

*5:従来の説だと天文2・3年に湯河氏が畠山稙長と対立する遊佐長教方についたといった構図が想定されていたが、このブログでは根拠となる書状の年次比定に懐疑的なのは以前も述べた通り。