179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆石垣家・和泉守護畠山家についての雑多な考察

今回は今まで紹介した石垣左京大夫家・和泉下守護家に関してのこぼれ話をしてみたい。
紀伊の畠山一門・和泉の細川一門と本来ならば特段接点のないこの両家だが、畠山宗家の一門が双方を継承することによって密接に関わるようになった。
特に結論として言いたいことがある訳でもないのでご了承ください。

 

『古今采輯』収録系図と石垣家・和泉守護畠山家

当ブログではお馴染みのマイバイブル・『古今采輯』。
その中にこのような系図があるので、まずは見て頂きたい。

clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

ご覧の通り、石垣左京大夫家の系譜を記した系図である。

石垣家系図の隣には三箇条の追而書、その隣には湯河氏の系図、宮崎氏の系図がある。
湯河・宮崎系図にも気になることが書かれてはいるのだが、長くなるので今回はパス。
その追而書の中にだが、「玄心様(畠山定政)御親父様(政能)と刑部大輔従弟」という記述がある。
畠山政能(政国子)・細川刑部大輔(晴宣子)は従兄弟関係にあるので、事実を正確に記していると言えよう。

また、この記述者は畠山一門に「様」をつけている。
以前の記事で畠山家が江戸期に自家の由緒を収集していたことを指摘したが、この系図も同一の性質を持つ史料ではないかと考えている。

 

更に個人的な想定だが、この系図『両畠山系図に先行し、その下敷きの一つになったものなのではないだろうか。

『両畠山系図』は一見して石垣家にまつわる記述が多いように思える。
確実な活動時期が大永年間に限られる細川晴宣が、諱を「某」と不明としつつも痕跡が『両畠山系図』の中に残ったのは、晴宣が石垣家の関係者だったから……という考えである。

 

ともあれ、系図の一つ一つの記述を確認していきたい。

・長経

「石垣元祖 卜山二男 左京大夫とある。
系図類では大体稙長の次に置かれている印象があるが、はっきりと次男であると示しているのはこの系図くらいかもしれない。
石垣家の元祖と記されているが、既に述べた通り石垣家の系譜はもっと以前まで遡ることができ、なおかつ尚順弟という既に尾州家の人間が養子入りしていた先例もある。

なので「元祖」とするのは誤りなのだが、『両畠山系図』では以前の石垣家当主の政氏は長経に滅ぼされたとされている。
事実として長経以前の石垣家とそれ以降では断絶があり、それが「元祖」という表記に繋がったとも考えられるかもしれない。

また、長経子として安鶴・岩鶴が記され、これは『両畠山系図』と共通するが、ともに「早世」と記されている。

 

・細川和泉守

「卜山三男長経弟 童名三郎」とある。
細川晴宣のことと見ていいだろう。
これも系譜を明確に三男と示すのは、ここ以外に見えない。
左の追而書にある通り、系図作成者は畠山政国系の存在を知った上で長経を次男・晴宣を三男としているので、そこから政国は四男より下の生まれであると示せるかもしれない。
ただし、仮名を「五郎」ではなく「三郎」と記す誤りもあるので、過信は禁物である。

また、この位置関係では晴宣が岩鶴・安鶴の後の石垣家当主であるかのように見える。
単に石垣家を継いだ刑部大輔の実父を差し込んだだけとみなすべきか、あるいは晴宣自身が石垣家を継いでいた伝承が存在していたとみなすべきか……。
前回も触れたが、「大物崩れで死んだ和泉守護は晴宣ではない」という可能性が否定できず、『証如上人書札案』に晴宣の名が記されていることから、天文5(1536)年頃まで晴宣が生存していたと考える余地はあると思う。

その想定と合わせて一つ考えられるのは、「晴宣は長経の後の石垣家当主」という線である。
天文3-4年頃には尾州家当主として長経が擁立されてりるが、その際に長経が高屋城に入ったのならば、当然鳥屋城の石垣家は当主不在になる。
その穴埋めの形で晴宣が石垣家に入った……という想定である。

結局石垣家当主は長経の系譜の岩鶴丸に戻ったことになるが、その没後に刑部大輔が石垣家を継いだのは、父が一時的に石垣家を継いだ前提があったからではないか……と*1

・細川刑部大輔

「和泉守子」とある。
『古今采輯』系図の情報はこれだけだが、『両畠山系図』では尚順の子に「政清」があり、「是石垣城主岩鶴早世。和泉守護細川和泉守子。以卜山為養子。為石垣領主。号細川刑部大輔」とある。
『足利季世記』に「畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」という記述があるのは以前も述べた通り。
『両畠山系図』では尚順の養子とし、『足利季世記』では尚順の子とするが、これに関しては疑わしいものがある。

刑部大輔の活動時期は尚順がとうに没した後であり、そこから尚順孫をわざわざ尚順養子に位置づける必要性が今ひとつ考えられない。
何か別の伝承が混ざっている気がするのだが、後考を待ちたい。

そして、この刑部大輔の実在性について深く掘り下げたのが、馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)『永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から― 』(史敏4)である。
詳細は省くが、彼は実際に永禄の変後、和泉の松浦光に進退を任せた上で畠山氏によって和泉守護に擁立されている。

この際の刑部大輔の立ち位置について、馬部氏は「松浦氏が和泉支配を貫徹される上で刑部大輔の存在が必要だった」とする一方で、嶋中佳輝『織田信長と和泉松浦氏の動向』(十六世紀史論叢16)では「刑部大輔は和泉支配に関わりが見えず実権は一切なかった」という指摘がある。

実際に現状では刑部大輔が和泉支配に関与する文言が見られない以上、彼は傀儡(このワードを安易に使うのは好きではないが、この場合は本当に実権を伴わないガチ傀儡だと思う)であり、嶋中氏の推定の方が妥当だと考えている。
一方で、永禄の変直後とみられる承禎六角義賢)や、織田信長の近日の上洛を告げる長政*2が刑部大輔に送った書状が残っており、対外的に彼が名目上の守護であることは認知されていたと思われる。

また、刑部大輔が石垣家を継承していたことを示す一次史料として、「模本」の湯河家中連署状がある。
宛先が「宮原殿」「石垣殿」となっており、細川刑部大輔関連文書を収集している「模本」という史料の性質上、「石垣殿」は刑部大輔の可能性が高い*3

書状の年代比定だが、差出人の一人湯河弥七郎春信は、法隆寺文書』永禄2(1559)年8月の禁制では湯河治部大輔春信と名乗っているため、それ以前となる。
他の差出人の湯河一族の名前を鑑みても、おそらく永禄初年からそう遡らない時期の書状ではあると思うのだが、この時期に刑部大輔が石垣家を継いでいた……以外の絞り込みにはなり得ないのが残念。


・景春

「民部大輔 童名松若 二郎八郎」
隣の湯河氏の系図に直春弟として「石垣 二郎八郎」とあり、合わせると湯河直春の弟の景春が石垣家を継いだということになる。
また、湯河直春の仮名は不明*4だが、その子として太郎五郎『湯川彦衛門覚書』等)、二郎太郎顕如上人貝塚御座所日記』天正11(1583)年10月22日)が見える。

 

この記述は果たして事実とみなせるのか。
ここに3つの史料がある。

『湯川彦衛門覚書』*5「亦直春弟は紀伊国有田郡の宇智。石ガキ云所のとやがじょうと云山に城有て。紀伊国之屋形ニテ候。臣下ニハ神保イヌマト申テ兩殿有」
『玉置家系図*6「是は其比湯川末子と左助(保田知宗)娘を取合、石垣畠山之家を継せし縁に依而也」
『崎山氏由緒書』*7「有田郡湯浅に白樫、石垣に湯川の舎弟屋形、此臣下神保、又下津野に片田、是は玉置の縁者也、宮原に畠山、保田に貴志、是は畠山の従弟也、又宮崎、是は岸の縁者也」

①は湯川彦衛門の覚書。寛永10(1633)年没の玉置小平太(直和孫)を文中で「今の(玉置)小平太」としているため、それ以前の成立。
②は玉置与右衛門の覚書。覚書の文中に元和7(1621)年の出来事が記され、与右衛門の子と思われる追記の文中には寛文9(1669)年とあるので、覚書はそれ以前の範囲での成立。
③は崎山弥左衛門時忠の覚書。「元和元(1615)年乙卯」の年号が付記されている

石垣家が存在したリアルタイムを生きた人物ではないものの、その下の世代の人物による覚書である。
相互補完で成り立った史料ではないと考えられ、このような複数の史料から石垣家に関する証言が残っていることから、湯河直春の弟が石垣左京大夫家を継いだことは事実とみなして良いのではないだろうか。

 

以下補足。

①の「臣下には神保イヌマト申テ」のうち神保は江戸時代に旗本として残った家で、系譜にも畠山家臣として紀伊鳥屋城に住したという情報がある。
一次史料に置いても『岩倉神社棟札』天文11(1543)年棟札に「神保三河守」『白岩丹生神社棟札』永禄3(1560)年の棟札に「神保之光茂」の名が見える。
ともに鳥屋城近辺の寺社であり、神保氏が石垣家重臣であることは疑いようがないだろう。

「イヌマ」については飯沼(いぬま)氏を指すと思われる。
石垣家関連人物と判断し難いのがネックだが、『間藤家文書』天文末年に畠山氏被官と思われる飯沼九郎左衛門康頼が確認できる。
また『足利季世記』では教興寺の合戦で紀州衆として飯沼九郎左衛門が討死している。

 

②は天正9(1581)年に保田佐介(知宗)が高野山から攻められた戦いを記したもの。
保田知宗は織田政権下においての厚遇が目立つ畠山被官である*8

独自の記述として、湯河直春弟が知宗娘と婚姻した上で、石垣家を継承したとしているのは注目される。
保田氏は畠山氏の有力内衆であり、その保田氏と婚姻させることが石垣家継承に必要な条件だったことになる。
そのため、湯河氏からの養子入りは湯河氏からの圧迫などで畠山分家が乗っ取られたといった類の話ではなく、畠山側が主導して行ったものと考えたい。

また、元亀4(1573)年の畠山秋高の殺害と足利義昭没落の際、保田知宗は織田方に属す一方で、湯河直春は義昭方に属している。
そのため、景春と知宗娘の婚姻、景春の石垣家継承は畠山氏が河内守護として健在の頃に行われたと絞り込めるだろう。

 

更にもう一点、景春の存在とその死去を示せそうな史料がある。
天正13(1585)年の羽柴秀吉紀伊攻めに関わる『小早川文書』3月25日秀吉書状では、「畠山式部大輔・村上六右衛門親子三人・柏原父子・根来法師蓮蔵院以下数多を討ち、畠山居城戸屋城を乗捕った」と記す*9
「畠山居城戸屋城」は石垣家の鳥屋城に他ならない、ではそこに籠もっていた「畠山式部大輔とは?
「式」は字形の似ている「民」の誤記である可能性がある。
とすれば「畠山民部大輔」……つまり系図「民部大輔」と記される景春を示せるのではないだろうか。

湯河氏の伝承でも、その後紀伊山中で抵抗した湯河一門の中に「民部大輔」を名乗る人物はいない。
石垣景春は秀吉の紀伊攻めに抵抗して討死にし、石垣家は滅んだと想定したい。


刑部大輔の実名

次に細川刑部大輔についてだが、一次史料でその実名を推定できるかもしれない文書がある。
『田代文書』永禄9(1566)年1月5日田代内匠助宛氏朝書状がそれである*10

この史料内には他に細川元常松浦守が宛てた書状が存在しており、田代氏は基本的に和泉守護方に属する国衆と見られる。
件の文書は「望申候、官途之事、得其意候也、謹言」という簡素な文書だが、官途の望みを取り次いでいること、書札礼から「氏朝」は守護クラスはある高位の人物と思われる。

更に『田代文書』収録の「田代家系図によると「内匠助」はこの文書から間もない永禄9(1566)年2月17日に和泉で討死したと記される。
2月17日はまさに和泉家原で三好義継・三好三人衆・阿波三好家と畠山高政・松浦氏の連合軍が激突し、後者は大敗した合戦が行われた日。

すなわち、内匠助に文書を発給している「氏朝」はこの時期の和泉守護に擬えられた人物!
……と言い切りたい所だが、内匠助がどちらの立場で家原合戦に参加したまでは記されていない。
また『田代文書』元亀年間と思われる田代道徳*11宛恕朴(篠原長房)・三好康長書状から、時期によっては田代氏は松浦氏ではなく三人衆・阿波三好家方に属している動きが確認されるため、悩ましいところ。

ただ、敗北した畠山・松浦方の方に大身の戦死者が出やすい、三好方に和泉守護的な人物を擁立する意義はあまり考えられないことから、「氏朝」は畠山・松浦方の人物である可能性の方が高い……くらいは言えるだろうか。
そして、この「氏朝」こそが畠山・松浦方に擁立された和泉守護細川刑部大輔その人、と言いたいのである。

『田代文書』の氏朝が刑部大輔である前提で進めると、彼は永禄9(1566)年1月、松浦氏が畠山方に転じた時点で和泉守護として双方から擁立されたこととなる。
そうなると、上記の『関本氏古文書模本』による永禄11(1568)年の和泉入国作戦への解釈も多少変わる。
畠山・松浦・義継の三者によって刑部大輔がこの時に擁立された訳ではなく、刑部大輔の和泉への関与は永禄9年前後の畠山・松浦氏の提携が前提にあり、後に義継が加わった形になると言えるだろう*12

また、「氏朝」という諱はどういった経緯で名乗ったのか、についても可能性を示せる。
もとより畠山一門の諱にはあまり共通点や法則性は見受けれず、意味を見出そうとするべきではないのかもしれないが。

ともあれ、誰かの偏諱を得て名乗ったと仮定するのならば、一人思い当たる人物がいる。
そう、細川氏綱である。
周知の通り氏綱は尾州家の庇護を受けており、また刑部大輔父の晴宣に代わりに和泉に赴任するなど、刑部大輔との間に接点も見いだせなくもない。

彼が初名の「清」から「氏綱」に諱を改めたのは天文11(1542)年から。
刑部大輔の生年については、早く見積もって1530年頃になる*13ので、元服したタイミングで氏綱から偏諱を授与される条件は揃っているのではないか。
また、氏綱への改名と同時期に彼が起こした挙兵には尾州家が合力せず、早期に鎮圧されている。
氏綱から畠山一門に偏諱が与えられた背景として、それを経て氏綱と尾州家の関係性の再確認をするためという理由も想定しておきたい。

 

……が、そうなると気にかかるのが、『両畠山系図』で刑部大輔と想定される人物に記される「政清」の名である。
無論『両畠山系図』は二次史料であるためただ無から生えた諱という可能性も十分あるのだが、この史料を利用価値のあるものとして使い倒している当ブログのメンツもあるので別の可能性を考えておきたい。

 

①「政清」は畠山刑部大輔政清と混同した。

畠山政清は畠山分家駿河守家の人物で、明応の政変で戦死している。
活動時期は違うが、官途・諱が一致するため混同された可能性はあるだろう。

②刑部大輔には「氏朝」と「政清」という二つの名があった。

これも妥当な可能性だとは思う。
ただし、疑問点がないわけでもない。
「政清」の政は政国・高政・政頼(秋高の署名)の偏諱を連想させるが、例えば永禄9(1566)年以前に「政清」→「氏朝」と改名したとなると、畠山当主の偏諱を捨てたことになる(上記の氏綱からの偏諱説を取り入れるとより考え難いことになる)。
となると永禄9年以降に「氏朝」→「政清」と改名したことになるが……これ以降のタイミングで偏諱を授与されるイベントがあったのかというと、やはりあまりしっくりこない。

③「刑部大輔氏朝」とは別に「政清」という人物もいる。

本題。
まず、『古今采輯』収録系図の刑部大輔は「和泉守子」とのみを示すのに対して、『両畠山系図』の「政清」は畠山尚順の子の位置に置き、「和泉守子が卜山の養子となった」と若干異なる情報を載せている。
『古今采輯』収録系図の情報は簡素な分特に不審な点はないが、『両畠山系図』のそれは尚順の孫を尚順の養子にする必要性は感じられず、「政清」の情報には何か誤りがあるのではないかと考えた。

そこで、持ち出すのが前回に述べた、「『両畠山系図』(から派生した『足利季世記』も)の和泉守護の情報は上守護と下守護が混線しているのでは」という可能性である。
つまり、刑部大輔とは別に尚順の養子となった上守護家の人物がおり、その名が「政清」だったのではないか……という話である。

そして、ちょうど諱が不明で候補としてお誂え向きの人物がいる。畠山政国期に擁立された「細川弥九郎」である。
彼こそが「政清」の正体であると提案したい。

弥九郎は進退を遊佐長教に任せているなど、畠山氏に依拠している立ち位置であり、その弱い立場が政国からの偏諱授与に繋がったのではないか(先代からの名前の法則からいうと「政基」と名乗るほうが自然では、などとも言えてしまうが)。
また、その場合尚順の養子になったという記述は、尚順娘が嫁いだということを意味するのかもしれない(弥九郎が勝基子とするなら、細川尹賢の弟春具の曾孫にあたり、年代的にギリギリ尚順の娘と合わなくもない)*14


④そもそも「氏朝」は刑部大輔じゃないよ。

身も蓋もない話だが、この可能性も想定しておきたい。


刑部大輔と湯河直春書状

「模本」における刑部大輔名義の宛先の史料は、永禄の変以降の義昭上洛戦に関わるものが殆どだが、唯一それに関わる文言が無い書状がある。
それが4月8日(湯河)直春書状である。
以下、全文を書き起こす。

其以後不申通*15本意存候、仍根来寺為加勢至山東出陣仕候。殊被対両三人御書中にて被見候、満足申於様体者老中可申参不能再筆候、恐々謹言

卯月八日           直春
刑部大輔殿
     御宿所

 

刑部大輔と湯河氏の関係については、直春弟が石垣家を継いだことや、「模本」に先述の刑部大輔宛の湯河家中連署状が存在することから、それなりに親しい間柄が想定できる。
内容としては、直春はしばらく刑部大輔に連絡を取っておらず、根来寺に加勢のため山東紀伊名草郡山東荘。根来寺領とのこと)に出兵していたという。
山東への出兵は根来寺領に何かしらのトラブルがあったということだろうか。

文書の絞り込みだが、まず刑部大輔含めた畠山氏が紀伊(有田郡)に没落している時期ならば、湯河氏の山東への出兵は普通に考えれば畠山領内を通るものなので、書状で説明する必要性が薄いと思われる。
よってこの時の刑部大輔の在所は畿内のどこかと想定し、畠山氏が上洛戦を開始する永禄9(1566)年以降と見て良いのではないか。

更にこの直春の書状の内容も気になっている。
根来寺も湯河氏も畠山氏の根強い与同勢力であり、当然義昭上洛戦においても義昭・畠山方からその軍事力は期待されたものと思われる。
湯河氏の行動は見えにくいが、根来寺は実際に畠山氏に協力して何度か畿内出兵をしている。
しかしここでの両者は、どうも根来寺の私的な要請で援軍に赴いているように見え、これが逼迫した時期のものとは思い難い。
(この山東出兵が義昭上洛戦において重要なものである可能性も完全否定はできないが。)

なのでこの書状は畠山氏を巡る環境が比較的落ち着いており、根来寺・湯河氏が特に下知を受けずフリーで動ける時期のものと推定したい。
その場合の4月という月は、永禄9(1566)年はまさに畠山・松永・松浦方が大敗し堺に逼塞している時期、永禄11(1568)年は義継・畠山が刑部大輔と松浦氏の和泉入国作戦を実行しようとしている時期。
どれも畠山方が湯河氏としばらく連絡を取っておらず(=根来寺含めた軍事協力要請などをしておらず)、湯河方が呑気に根来寺に協力していると返答している状況は考えづらいのではないか。

その点、永禄10(1567)年は可能性の一つになり得る。
この年は2月に三好義継が松永方に転向し、畿内の騒乱が再燃した時期ではある。
ただし、義継・松永方への畠山・松浦の合力が見え始めるのは同年8月頃、そのため4月段階では畠山方も軍事行動予定がなかったため根来寺・湯河氏もフリーに動いていた、と考えられる。。
他の可能性としては畿内戦線が義昭方の有利でひとまず落ち着いている永禄12(1569)年以降。
その場合義昭・信長上洛後に、刑部大輔の消息が確認できる史料ということになる。

かなり推察混じりで穴が多い推論なのはご容赦いただきたい。
また、もしこの湯河氏の山東出兵時期を絞り込める史料が見つかれば結論が出るので、期待したい。

石垣家当主と和泉守護家当主の変遷

石垣岩鶴丸→細川刑部大輔→石垣民部大輔(景春)と継承されていったと思われる石垣家。
例によって確たる一次史料があるわけではないが、この継承時期についても想定してみたい。

先に刑部大輔から景春への継承を考察する。
今回用いるのは、『吉備町史 上』「畠山氏関係記録」として紹介される星田家所蔵文書。
この史料、有田郡関係の古記録が見えるのだが、町史の中では書き記したのは享保8(1723)年としており、正直なところ確からしさに欠ける。

そんな史料ではあるが、その中に「畠山中元祖」という文書がある。
オンラインでも閲覧可能だが全文を書き写しておく。

畠山朴山様御子 惣領種永様 其後は大夫様
其後は泉州守様則泉守護也
畠山大夫様御子 国置後□岩千鶴様
畠山種永様御子 正国様御□原之御子
高正様 宮崎腹 宮原殿 同
正吉様 同   秋高様 同

外山城(鳥屋城)主始代
畠山泉守也嫡子畠山刑部大夫殿大夫様の甥也当寺にて死去す
是より湯川宮内少輔直光御子松若殿へ御ゆずる被成也
畠山民部大夫殿と申也 此御子南都水門に二郎八と申て有之

 

一見して、朴山(卜山)・種永(稙長)・大夫(左京大夫長経)、泉州守(晴宣)・岩千鶴(岩鶴丸)・正国(政国)・高正(高政)・正吉(正能)・秋高と、綴りこそ誤りがあるものの読み自体は合っており、畠山一門の系譜もそれなりに正確に記している(「宮原殿」だけ不詳だが)。
そのため、系譜に関しては比較的正確な典拠があったことを思わせるが、次の「鳥屋城主次第」に気になる情報がある。
湯河直光子の二郎八郎に石垣家当主が譲られ、畠山民部大輔と名乗ったという点は『古今采輯』などの早い段階の伝承と一致するが、「畠山中元祖」ではその時期は刑部大輔が当寺(如意輪寺と思われる)で没した後だとする。

すなわちこの情報に従えば、刑部大輔は生涯石垣家当主と和泉守護家当主を兼ねており、またある時期に和泉から石垣荘に戻っていたということになる。
無論、この伝承がいつ成立したのかは不明なので全幅の信頼は置けないが、上記の畠山一門の系譜のようにそれなりの確からしいソースがあったことも想定できるのではないだろうか。
なので、今回は刑部大輔から景春への継承について、和泉の刑部大輔と石垣の景春で家督を分業したのではなく、刑部大輔が石垣荘で没した後に景春に石垣家が継承されたものと想定して話を進める*16

そうなると、その時期は刑部大輔の活動が和泉で見れる義昭上洛戦の期間には当てはまらない。
また家督継承の際に景春が保田知宗の娘と婚姻したという覚書も合わせると、信長上洛の永禄12(1469)年以降から元亀4(1573)年頃まで絞り込めそうである。

刑部大輔が信長上洛後にフェードアウトした理由は、死去・追放だけではなく、
和泉周りの情勢が落ち着くと、いよいよ実権のない刑部大輔が和泉に留まるメリットが薄れ、兼業している石垣家当主として紀伊に下向したため、という可能性も提唱できるのではないか。

次に岩鶴丸から刑部大輔への継承時期について。
こちらについてもやはり根拠として使えるものは少ない。
刑部大輔は「五郎」と名乗っていることから、元服時は和泉守護の継承者として位置づけられ、その後岩鶴丸が没したため石垣家を継いだ、までは言い切れるだろう。

鶴丸の動向についてだが、歓喜寺八幡社棟札』天文10(1542)年4月1日年の棟札に鶴丸が大檀那として見えるのは以前述べた通り。
一方で上記の『岩倉神社棟札』は、天文11(1543)年3月3日に神保三河が主となり岩倉神社を再建したと伝えている。

神保氏は上記の通り石垣家の家老で、この記録には岩鶴丸の名前は見えない。
この間に没したので名前が見えないとも言えるし、別の神社なので事情が違った・神保氏が畠山氏を介さずに再建を行ったとも考えられ、なんとも言えない。

ともあれ、永禄元(1558)年以降松浦氏などの和泉の勢力は三好氏から遊離しがちになる。
その中で畠山氏にとって刑部大輔は和泉に影響力を浸透させるための神輿となり、久米田合戦の後に岸和田城に入った伝承のように、石垣荘を離れる機会が増えたことが想像できるのではないか。
先述の『白岩丹生神社棟札』永禄3(1560)年棟札で石垣家当主ではなく家老の神保光茂が願主となっているのは、単なる下剋上文脈ではなくこのような状況も手伝ったのかもしれない。

 

参考文献
馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)
馬部隆弘『永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から― 』(史敏4)
嶋中佳輝『織田信長と和泉松浦氏の動向』(十六世紀史論叢16)

*1:系図の順番を尊重して、長経→岩鶴丸→晴宣→刑部大輔と当主が変わったという想定もなくはないが、そこまで行くと晴宣が天文10年以降も存命だった痕跡が欲しい所

*2:浅井長政と比定されているが、浅井氏の家格で守護細川家に対等な書状を送れるかどうかには疑問がある。「長政」を守護格の人物と想定する場合、伊賀守護の仁木長政が候補に挙がる。これも志末与志氏の提言による。なお花押や年月日については写されていないため不明。

*3:なお、三浦蘭阪が途中で全文を模写することを諦めたため、これ以降に収録される書状は内容を略され差出宛名のみとなっている。おそらく内容が記されていればもっと多くの知見が得られただけにもうちょっと頑張って欲しかった。

*4:清和源氏湯川系図』では「小太郎」としている。

*5:続群書類従』第五輯上

*6:『川辺町史』第3巻に収録。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

*7:『川辺町史』第3巻に収録。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

*8:弓倉弘年『織田信長と畠山氏家臣』(中世後期畿内近国守護の研究)・小谷利明『織豊期の南近畿の寺社と在地勢力』(南近畿の戦国時代)

*9:弓倉弘年『畠山式部太輔と貞政』(中世後期畿内近国守護の研究)

*10:この文書は志末与志氏のツイートで知見を受けたものである。

*11:「田代家系図」と合わせると俗名は豊前守尚綱で、内匠助の父と思われる

*12:もっとも、永禄11年の段階では刑部大輔は松浦氏に進退を任せる立場となっており、和泉への具体的関与も見えないため畿内和平を経て立場が変化した可能性もある

*13:父晴宣が稙長(永正6(1509)年生)とさほど変わらない年齢だと仮定した場合

*14:尚順養子(=尚順娘が嫁ぐ)になったのは勝基で、その後継の政清と二代の情報と混同した可能性も考えたが、そこまで行くと流石にこじつけ方が苦しいか

*15:「非」などが欠か

*16:なお、『足利季世記』の記述では、久米田合戦後に岸和田城に細川刑部大輔が入ったと書く一方で、石垣家は当主の代わりに神保氏が名代として参戦したと書かれている。これに従うと、和泉守護家と石垣家の当主は別々ということになってしまう。これに関しては、『足利季世記』が刑部大輔の和泉守護家と石垣家の兼任を知らなかっためと言えるかもしれないが……