179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆石垣畠山長経について

畠山六兄弟、トップバッターは畠山長経
畠山氏研究も行っているナタネ油(@nknatane)氏が指摘しているが、長経に関する史料は非常に少ない。

そもそも、一次史料では「長経」という諱も確認できず、稙長の弟かも不明だったりする。
(比較的信憑性の高い系図類で「長経」の諱と係累が記されているため、ここでは稙長弟の実名長経という前提で話を進める)


石垣家について

畠山長経について、系図などで「石垣」を名乗ったという記述が複数ある。
この石垣家については、最近になり川口成人氏が『室町~戦国初期の畠山一門と紀伊』(和歌山地方史研究81)という論文で詳細な検討を行っている。
以下、川口氏の論考にほぼほぼ頼ることになるがまとめていきたい。

 

まず、『両畠山系図』などでは畠山基国の弟として「石垣左京大夫満国」という人物が記され、「満国」の子に左京大夫持秋」、その子に「七郎教重」とある。
これだけなら後世の記述ということもあり、このような人物ないし分家が実在したのかまでは確定できない……と言えるが、一次史料にも「石垣畠山左京大夫の存在は伺える。

 

①『蜷川親元記』の文明10(1478)年7月『御供衆交名』に「石垣」と付記された「畠山又次郎」という人物が記されている。
②『歓喜寺八幡摂社十二所権現棟札』(金屋町誌. 上)に、「延徳三(1491)年大檀那畠山左京大夫と記されている。
③『座右抄 巻四』(足利義視・義稙発給文書 337号)に「畠山左京大夫とのへ」を宛所とする足利義稙御内書写。*1
④『石垣荘白岩丹生神社造営棟札写』(重要文化財白岩丹生神社本殿修理工事報告書)明応5(1596)年の、筆者を「畠山阿波入道伴雲件」*2 、願主を「寅千代丸」とする棟札がある。石垣荘に影響力がある寅千代丸は畠山氏と考えられるだろう。
⑤『拾介記』明応9(1500)年9月15日条では尾張守舎弟石垣以下被伐」とある。討死した畠山尚順の弟たちのうち一人が石垣名字を名乗っていたことがわかる。


①により「石垣」と呼ばれる畠山氏分家の実在が確認できる。
また、当時はまだ応仁の乱による東西幕府の分裂が続いており、この交名衆も東幕府を記したもの、*3
②の当地は石垣荘内にあり、この左京大夫も石垣畠山氏とみられる。
これらにより、左京大夫という官途も一次史料で確認ができる。
石垣畠山氏は国清義深清義国熈の四兄弟から分かれる畠山分家の中で、管領家能登守護家以外では唯一義深系を出自としており、分家の中では格の高い家である。
代々左京大夫という高い官途を名乗ることができたのも、その本家に近い血筋が理由の一つと考えられ、僭称ではなく公的に認められているのだろう。

 

③④⑤で、石垣畠山氏が明応の政変後の足利義稙畠山尚順に属して活動していることが伺える。
①②③の「石垣畠山又次郎」「畠山左京大夫、④⑤の「寅千代丸」「舎弟石垣」を同一人物と見ることも可能。
以上が論文内出典の情報である。

 

ここから応仁の乱で石垣畠山氏は東幕府の畠山政長と同陣営に属したことで尾州家関係が深まり、明応の政変以降も畠山尚順に協力。
更にその関係の深さは「又治郎≒左京大夫の後継者を尾州家から迎えるまでに到達した……というストーリーも想定できるのではないだろうか。

【追記】
先日発売された『諍いだらけの室町時代畠山義就畠山政長の抗争』章で、川口氏が石垣家に関しての新情報を記されていた。
『大乗院寺社雑事記』長禄2(1458)年6月8日条に「畠山弥三郎方ノ石カキ如本御免云々、畠山失面目者也」(弥三郎方の「石カキ」という人物が赦免され、畠山義就が面目を失った)とあり、石垣氏の存在が確認できる。
これに従えば、尾州家と石垣家の縁は弥三郎政久の代まで遡れることになりそうだ。

この尾州家による石垣家の継承が、稙長の兄弟と見られる長経の登場の前提になるのだろう。


長経の動向

石垣家を継いでいた尚順弟が討死した明応9(1500)年は、稙長が生まれてもいない時期のため、石垣家が以降当主不在状態でもなかった限り、長経の登場まで最低でも一代別の人物を挟んでいると考えられる。

 

さて、畠山長経が登場するのが『御内書案』『御内書引付』などに収録される8月16日畠山左京大夫足利義晴御内書で、左京大夫(長経)が家督の礼として太刀などをを送ったことを記している。
……そして一次史料で長経らしき人物が確認されるのはこれだけである。現状では本当にこれだけ。*4

ともあれこれにより長経が畠山氏の家督に据えられており、なおかつその立場は幕府にも承認されたものであることもあわかる。

また、この御内書は家督承認の礼物を確認した内容なので、少なくとも高屋方から義晴方までの距離間で「御内書による家督承認」「畠山方による礼物」「御内書による礼物の確認」の書状が往復しており、長経擁立の時期は8月16日を遡ると考えられる。

 

さて、家督継承の経緯は「天文初期の本願寺・細川晴国*5細川晴元の戦いの対応を巡って、畠山稙長と遊佐長教が決裂し、長教は長経を擁立した」とされる。
この書状の年次の比定(=長経の家督就任時期)だが、一般には天文3(1533)年とされる*6、各研究でも特に異論は出ていないようだ。
だが無年号書状である以上検討の余地はあると思うので、この場で別の可能性を述べてみたい。
なお、従来の説では尾州家の内部分裂の証として使用されてきた史料があったが、それについて個人的には疑問があることをこちらの記事で考察している

 

畠山尾州家と本願寺の連携が明確になるのは『私心記』天文3(1533)年1月の稙長弟の畠山基信の本願寺入りとされる。
そして『私心記』翌天文4(1534)年4月7日では、高屋衆が本願寺に対して打ち出したとあり、この時期までに尾州家は本願寺と敵対する姿勢に転向している。
つまり稙長から長経への更迭はこの間にあったと見るまでは問題ないだろう。

 

この点だけ見ると御内書の比定を天文3(1533)年としても問題は全く無い。
ただ、問題は8月16日以前に親本願寺の稙長を更迭したにも関わらず、本願寺との開戦は翌年4月と最低7ヶ月以上の開きがあることである。
先行研究でもこのタイムラグには引っ掛かりを覚えていたのか、弓倉弘年氏は『畠山左京大夫に関して』(中世後期畿内近国守護の研究)で、「畠山稙長の行動には危機感をもって結束した高屋城の政長流畠山氏内衆も、木沢長政らとの和睦= 半国体制にまでは一致していなかったからではないだろうか。ひとまず木沢長政らとの和睦も進めようとする遊佐長教と、反対する勢力との確執の中で、反対派に与した畠山左京太夫が失脚したのであろう」と七ヶ月以上の開きは稙長更迭から更に内部分裂があったと理由付け、長経は天文4(1534)年4月以前に更迭されたと推測している。

あくまで推論であり、この段階で遊佐長教と木沢長政がどこまで連携していたのかは史料がなく不明であり、それにより長経が本願寺との開戦前に更迭されたというのも若干不自然さを感じなくもない。

もう一つ気になるのは、『私心記』天文3(1533)年10月11日に稙長の筆頭内衆で、この後も没落期の稙長と行動を共にする丹下盛賢が本願寺方として森河内に陣取ったという記事である。
これも従来の説では更迭された後も稙長方は河内周辺で活動を続けていたという解釈になる。

上記の説明で辻褄が合わない訳ではないが、いっそ御内書の比定を天文4年8月とするのはどうだろうか。

 

要するに、10月の丹下盛賢の活動は普通に当主稙長の指示で行われたものであり、この時点では稙長の推進する本願寺との同盟路線で家中は一応のまとまりを見せていたが、その後に本願寺派によって翌年4月までに稙長が失脚
それに前後して反本願寺派紀伊石垣に在住していたと思われる長経を代わりの当主として迎え、幕府に事後承認を求め、それが認められて高屋側が返礼をしたのが8月……というのが想像している流れである。
この場合でも短くて3~4ヶ月ほどのタイムラグが起きてしまうのが従来の説同様の弱点になるが、「稙長は長年の足利義晴方だったこともあり、更迭を認めるべきか幕府側が見極めていた」とでも推定しておきたい。

 

そして天文5年から証如の『天文日記』の執筆が開始されるが、そこには長経の存在は全く記されない(『証如上人書札案』にも長経の名はない)。
1月21日に遊佐長教から、本願寺「去年就和与之儀」で遊佐方に太刀などを送った返礼の使者が現れたとあり、5月18日には新たに当主となった稙長の弟畠山播磨守(晴熈)に本願寺が太刀などを送っている。
おそらくは天文4年段階で長経は死亡・失脚をしていたと思われる。

長経擁立を天文4年とする今回の仮説だと、長経が当主だった時期は一年にも満たないものとなってしまうが、逆にそれが彼に関する記録が殆ど見られないことに説明がつく。
また、「去年就和与之儀」本願寺が礼物を送ったのは天文5年正月からそう遡らない時期で、尾州家と本願寺の和睦時期は天文4年末と考えられる*7

天文4年という仮定に従って、長経は本願寺との対決姿勢と共に擁立された当主であり、その年の内に本願寺尾州家が和睦に転じたため、対立姿勢の象徴である長経が当主のままだと今後本願寺と関係を再構築するのに都合が悪くなり、結果短期の当主となったのでは……というのが今の考えである。

『証如上人書札案』に長経の名がないのも、当主期間がごく僅かだったことや、そもそも本願寺との対立期にしか当主となっていないため音信の対象になり得なかったというのが考えられる。

 

その後の長経だが、この騒動で死亡していない限りは石垣荘に戻ったのではないだろうか。
上記の川口論文が示す通り石垣畠山氏の存在を示す史料は書状か現地のものに限られ、紀伊での出来事となると日記の類にはまず見られない。
『天文日記』などに名前が見られないからと言って死亡したとは限らないのだろう。

ただし、前述の(石垣)寅千代丸の存在を示す『歓喜八幡宮棟札』(金屋町誌 上)には、天文10(1541)年4月1日に「大檀那岩鶴丸の名がある。
そして長経の子として、『両畠山系図』には「岩鶴」「安鶴」という子が2人記されている*8

幼少の子が石垣家を継いでいるという状況から、仮に石垣荘に戻ったにせよ、長経は天文10年以前に没していたと思われる。


参考文献
弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究」
川口成人「室町~戦国初期の畠山一門と紀伊」(和歌山地方史研究81)

*1:これは「奥州二本松」という付記がされているが、写であるため川口氏が疑念を呈しており、宛先は二本松畠山氏ではないこと、また時期は明応の政変以降のものであると推定されている

*2:これも川口氏の『忘れられた紀伊室町文化人』(日本文化研究ジャーナル19)で検討を加えており、畠山国清子孫の畠山右馬守家の畠山政純の後身であり、明応の政変以降に畠山尚順方として活動していることを証明している。

*3:播磨守家・中務少輔家などの代々御供衆を務めていた畠山分家は、大半が西幕府に属しており、同論文内では穴埋め的に石垣畠山氏が起用されたとと推定されている。

*4:なので家督交代の経緯は稙長が武力で持って高屋城を追い出されたのか、自発的に出奔したのか、留守中に当主を挿げ替えられたのか、厳密に言えば全くの不明と言える。

*5:畠山稙長と細川晴国の連携については馬部隆弘氏の『細川晴国陣営の再編と崩壊』に詳しいが、話すと間違いなく長くなるのでここでは省く

*6:『足利季世記』に天文3年の話として稙長から長経への家督更迭のエピソードが出てくるので、おそらくそれが前提なのだろう。

*7:この時期には細川晴元方と本願寺の和睦交渉も行われている。

*8:『古今采輯』に収録されている系図では、岩鶴・安鶴共に「早世」と記される。