179(擁護派)のモノ置き場

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◆天文法華の乱における畠山尾州家の動向(後編) 反本願寺としての挙兵と再びの和睦まで

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書ききれなかった分のつづき。

 

興正寺住持蓮秀による紀伊門徒の調停と稙長

この時期の畠山稙長の動向を示すものとして、天文3(1534)年末から翌4年前半の間に行われた証如と興正寺住持の蓮秀による紀伊門徒の動員工作がある。

こちらの本山興正寺のサイトに経過が述べられていたので、詳しい部分はコラムを見ていただきたい。

www.koshoji.or.jp


『私心記』によると天文3(1534)年12月28日に蓮秀紀伊に下り、翌4年6月25日に紀州衆5、600人が蓮秀と共に本願寺に入っている。
ただし、この直前の6月11日に本願寺は摂津で「大坂滅亡」後奈良天皇宸記)と書かれるレベルの大敗北を喫し、紀州門徒が戦闘に動員された様子はなく、その後は和睦に傾いていく。

その間、『端坊文書』天文4(1535)年に比定される3月20日紀州門徒宛書状で証如は、「牢人の還住については尾州(畠山稙長)と相談している所なので、妨害をしないように」といった旨を述べている。
蓮秀は当初から紀伊門徒を編成して上洛する命令を受けており、また紀伊守護の稙長とも目的が一致していたと思われる。

 

で、前の記事で触れた、家督交代を示す8月16日畠山左京大夫(長経)宛の御内書は、従来天文3(1534)年とされていたが翌4年の可能性も考えられるのでは」という問題とこの蓮秀の下向を絡めて考えたい。

4年説の場合、『私心記』4月に高屋城衆が出陣しているように、3月20日書状の直後に稙長が更迭されたことになる。
また3月時点での稙長の居所については、紀伊の情勢について証如と相談しているという様子から、現地ではなくまだ河内にいたようにも読めるが、どうだろうか。
ただ、調停中に稙長が紀伊に没落してきたにも関わらず、6月に特に問題なく上洛している蓮秀の動きからは、畠山氏の当主交代の影響は感じられないのも気になる。

一方で3年8月以前に当主交代が起こっていたとするのならば、蓮秀の下向は没落した稙長の復帰支援も兼ねていたと考えられる。
この場合、蓮秀の動向に特に不自然さは感じられない(前の記事の通り長経への家督交代から軍事行動まで7ヶ月も空くのは何故か問題は残るが)。

 

いずれにせよ結論は出ないので、書くだけ書いといて後考を待ちたい。
いかがでしたか? わかりません!


畠山晴熈を擁立した「民部卿」婦


話は本願寺戦争の終結後に飛ぶが、『天文日記』天文5(1536)年5月18日条で、証如は新たな当主となった畠山晴熈に始めて音信を送っている。
「又播磨守(晴熈)とて尾州弟高屋に遊佐新次郎(長教)婦民部卿婦トひとつニなり屋形などゝ申とて」という記事である。

この、遊佐長教婦と共に晴熈擁立の主体となったとされる民部卿」婦*1
官名から僧体の人物と思われ、本願寺関係者という想像はつくものの、具体的に誰なのかがわからず以前から困っていた。

しかし、再びの興正寺のサイトの参考になるが、こちらのコラムでそれらしき人物が指摘されていたのに気づく。

www.koshoji.or.jp

 

興正寺住持蓮秀の子の実秀民部卿だという。

それを踏まえた上で『天文日記』内に登場する民部卿を調べてみると。
天文6(1537)年1月27日に興正寺(蓮秀)むすめ沙弥、又まん、『民部卿の子なり』又あけ『興正寺子二男』、何々来」と蓮秀の一門として民部卿が記される記述がある*2

  

いずれにせよ、これで民部卿本願寺方の人間であることが確信できた。
蓮秀は上記の通り畠山氏と関係が深く、また晴元方との交渉も担っている。
その縁により、興正寺が中心となり遊佐方と相談して晴熈を擁立したということだろう。

つまり、本願寺サイドの人間が関わって擁立された晴熈は、尾州家が本願寺と対立を始めた天文4(1535)年4月から、年末頃の和睦交渉が始まるまでの時期の当主ではあり得ない。
同時に、4月以前に尾州家内で再度確執があって、長経が更迭されたという説も成り立たないと考える(長経が追放されてしばらく当主不在だった可能性もなくはないが……)。
やはり長経の記事での仮説通り、長経が当主のままでは和睦に対して不都合があったために、彼は天文4(1535)年末頃までに更迭されたと考えたい。

 

なぜ長経は当主を追われたか

ただ、上の晴熈の擁立に対する証如の反応は受動的に見え、本願寺側が積極的に長経の更迭を要請した訳ではなさそうだ。
考えられるのは畠山側が忖度して本願寺との敵対期の当主を更迭したか、あるいは長経自身が和睦に抵抗したことが想定される。

ただ後者の場合だと、長経がさほど鋭く敵対した訳でもない本願寺との和睦に抵抗する動機が考えづらい。
ここで思い返したいのが以前の長経の記事で紹介した、「木沢長政らとの和睦も進めようとする遊佐長教と、反対する勢力との確執の中で、反対派に与した畠山左京太夫が失脚したのであろう」という弓倉弘年氏の推論である。
この木沢長政(ないし彼が擁立する総州畠山在氏)との和睦をめぐる確執説を、本願寺との和睦が進む中で起こったとスライドさせて考えたい*3
   

長経からすれば、足利義晴との関係改善は、実際に義晴御内書を受けて当主となったように全く問題はない(尾州家は阿波公方足利義維を担いだ形跡がないので、そもそも義晴と対立していたという意識もなかったかもしれない)。
また、この和睦の過程で細川晴国本願寺から縁を切られて孤立してしまうが、旧高国方との提携に拘るのは(前後の動向を見るに)稙長個人の資質と思われるのでこれも異存は無かっただろう。
ネックとなったのは細川晴元……直接的には総州家(畠山在氏)を擁立する木沢長政との関係改善ではないか。*4
 
一時和睦した時期もあれど、家督を巡って数十年争っている総州家への妥協は、尾州家の人間ならば抵抗を感じてもおかしくはない。*5
一方で妥協してでも和睦やむなしというスタンスの派閥が長経と対立し、再びの更迭が発生、木沢との和睦に特に不満のないスタンスの晴熈が擁立された……というのが今回想像したストーリーである。


参考文献
大阪狭山市史』 第2巻 史料編 古代・中世
馬部隆弘『細川晴国陣営の再編と崩壊』(戦国期細川権力の研究)
金龍静『天文の畿内一揆考』(一向一揆論)

*1:当初は主体を遊佐長教本人と考えていたが、小谷利明「遊佐長教」(戦国武将列伝畿内編【下】)では遊佐長教の妻と解釈しており、それに従う。同様に「民部卿婦」も実秀の妻を指していると思われる

*2:民部卿」と記される人物は『天文日記』に複数人登場するようだが、例えば願生寺の次男である(天文5年4月27日条)民部卿(証栄)は「長」「長島」「平尾」と付記されるなど区別して書かれており、何も付記のない民部卿は実秀を指すと思われる

*3:『天文日記』天文5(1536)年4月5日条に、「木沢・遊佐双方から人数を添えて、畠山在氏の息子を越中に向かわせる」という記述があり、『天文日記』執筆以前から尾州家と総州家の和睦は成立していたと考えられる。

*4: 『私心記』の記録によると天文4年4月に高屋衆が出撃しているが、大きな戦にならずに撤退したように見える。その後の5月末からの大規模な反本願寺方の侵攻に尾州家が協力したのかは定かではない。あるいは反本願寺方に転じたパフォーマンスを行っただけで、木沢方とはこの時点では提携していなかった可能性があるのでは。

*5:また、その後の経緯を見るに両畠山の共同統治は総州家優位の傾向で進んだと見られ、長経が当主の段階での交渉ではその不利を受け入れられなかったのかもしれない。