179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆『足利季世記』の典拠と畠山氏

通史的な形で畿内戦国史の出来事を叙述した軍記物として、真っ先に上がるのは『細川両家記』と思われる。
軍記というカテゴリーではあるが、当時の一次史料と比較しても内容に矛盾は少ない。
そのため、この『細川両家記』は信憑性の高い記録として史学においても高い評価を受け、各所の研究で利用されている。

ただし欠点が無いわけではない。
一つとして、記述の対象が細川・三好氏や特定地域に偏っており、その対象外の勢力の存在感が希薄であること。
このことは、『細川両家記シンポジウム』の『畠山氏研究からみた戦国期畿内政治史像の再検討』でも小谷利明氏が指摘している。
畠山氏研究を専門の一つとしている小谷氏らしく、『細川両家記』の中での畠山氏への扱いの悪さにかなり不満げな様子が感じられる。わかるってばよ。

さて、そのような偏りのある『細川両家記』に比べて、もっと広い範囲で畿内の通史を記したものとされてきた軍記が『足利季世記』なのだが……。
近年の風潮ではわざわざ言うまでもないかも知れないが、この軍記は『細川両家記』と並べて語るには信憑性が大いに問題がある
一例を挙げると、『足利季世記』の「教興寺合戦之事」
教興寺合戦において対峙する畠山軍に対して、松永久秀が謀書を作成し、畠山軍を混乱させたことが勝利に繋がったというストーリーが描かれ、その謀書も載せているのだが……。
既に弓倉弘年氏の『教興寺合戦をめぐって』(中世後期畿内近国守護の研究)などで記述の信憑性を疑われているが、文中に引用されている書状は「遣人数勝負可決」など、文書形式に問題がある。
更に宛先に「安美殿 遊河殿」とあるが、当該期の尾州家に「遊佐河内守」と名乗った人物は存在しない*1ので、この書状は本物とはとても思い難い。

一事が万事ではないかもしれないが、このような問題のある文書を入れてしまう『足利季世記』の信憑性が疑われるのはやむを得ないことだろう。
正直、古い研究でこういった『足利季世記』の記述を無批判に採用してしまったことが、畠山氏の(マイナス方面への)誤った認識を定着させてしまった気がするが……。


そもそも、『足利季世記』とはどういった形で成立した軍記なのか。
古くは佐藤陸氏による『『応仁記』以後─もう一つの年代軍記─』武蔵野女子大学紀要19号)、『『足利季世記』の一典拠』武蔵野女子大学紀要26号)の研究がある。

dl.ndl.go.jp

(個人送信で閲覧可能)
それによると、『足利季世記』は前半(巻三まで)を『公方両将記』を下敷きにし、後半を『細川両家記』『舟岡山軍記』などを下敷きにしたとされる。

それに対して近年、小秋元三八人氏が『戦国軍記の生成と展開に関する一考察 : 『足利季世記』と『別本細川両家記』』(藝文研究120)『加賀市立中央図書館聖藩文庫蔵『細川兩家之記』について : 『細川両家記』別本の紹介と翻刻』(三田國文66)で新たな指摘を行っている。

 

同論文では『足利季世記』前半部分の出典となるのは『三部軍記』であり、その『三部軍記』の出典となる最古の軍記として『細川兩家之記』(一般的に伝わる『細川両家記』とは内容が別物、以下。『別本両家記』とする)の存在を指摘している。
更に『公方両将記』は『三部軍記』から発展した『足利季世記』とは別系統の軍記であり、佐藤説とは違い『足利季世記』の原典ではないと推測している
また、成立年代については『足利季世記』が1650年代頃を下限、『三部軍記』は慶長年間以降と推測しており、『別本両家記』は必然的にそれ以前の成立となる。

なお、この『別本両家記』に更に下敷きとなった軍記があるかについては、小秋元氏が別稿で検討を行うと述べられている。
佐藤氏が『細川両家記』と『舟岡山軍記』を下敷きにしたと指摘した『足利季世記』の「香西四郎左衛門讒死事」は、『別本両家記』にも同様の題名で同じ内容の記述があるのが気になっているが……後考を述べてくれるのを待ちたい。

さて、この『別本両家記』は細川高国の最期とその哀悼をもって終わっているのだが……ならばこれが高国没後間も置かない内に制作された一級史料かとなると、はっきりいって到底思い難い。
『別本両家記』には一次史料と比較して事実とはみなせない記述が多数あるが、ここは畠山ブログ(畠山ブログ?)なので畠山氏に絞って指摘したい。
まず明らかに問題があるのは「高屋合戦事」である。
これは桂川合戦後に柳本勢が畠山稙長の籠もる高屋城を攻め、これに稙長の父卜山(畠山尚順が策を弄して救援に向かう。
卜山は僅かな軍勢を大軍に見せかけることで柳本勢を焦らせ撤退に追い込み、更に卜山の仕掛けた伏兵によって柳本勢は壊滅……といった記述である。
エピソードとしては面白いのだが、少し詳しい方ならツッコミ所に気づくだろう、畠山尚順(卜山)は大永2(1522)年に既に没している。

大永7(1527)年に柳本勢が高屋城を攻め、稙長がそれを撃退したこと自体は事実だが、この世にいない尚順が救援などできるはずがない。
当時の人間ならば、大永年時点で尚順が活動を終えていることに気づくはずである。*2
既に亡くなっている人物を生きているものとして扱い、有り得ない行動を取らせたこの記述は、『別本両家記』の執筆姿勢が疑われるものでもある。

 

そして、死去しているはずの畠山尚順を生存させてしまっている例は他の軍記にもある。
それが、『足利季世記』後半部分の「畠山卜山之事」
こちらでは天文3(1535)年に卜山(尚順)が紀伊で敗北し、没落先で病死するという筋書きになっている。
尚順が没するまでの経緯は事実に概ね沿っている一方で、それに畠山稙長の追放を絡めるという今度もあり得ない過ちを犯してしまっている。
死んでいるはずの尚順を生きていることにし、実際にあったことと絡めてしまう……このパターンは上記の「高屋合戦事」と似たものを感じないだろうか。
そこで一つの仮説を提案したい、この「高屋合戦事」「畠山卜山之事」は『別本両家記』より更に前に存在した同一の伝承ないし軍記が典拠だったのでは?というものである。


『別本両家記』は細川高国を称揚する意図があったと指摘されている。
一方で、本来は高国と関係が深い畠山尾州家について*3、『別本両家記』はその繋がりに全くと言っていいほど触れず、(正確性は別として)畠山氏周りの記述は多めにも関わらず両者は交わらない。
結果、本筋の細川氏とは無関係に畠山氏のエピソードが挟まれる構成となり、『別本両家記』が一からそれらの記述を作り出したとは思い難い。
なので、『別本両家記』に先行する(正確性は別として)畠山氏を中心にした典拠があったのではないか?と考える次第である。


その想定に基づいた上で、他の指摘を行いたい。
『別本両家記』における「畠山尚慶帰河州事」(『足利季世記』では「雪タタキノ事」)の項目である。
エピソードとしては明応の政変御の畠山尚順の再起は木沢氏の援助のお陰だった……というものだが、木沢氏は総州家の伝統的な被官としては見られるが、尾州家被官としての傍証は皆無なのでどうせこれも全部でまかせなのでスルーしておく。


気になっているのは、この際に尚順の下に集まった者として、「杉原・斎藤・丹下・貴志・宮崎・安見・木沢・遊佐河内守」を挙げていることである。
これの何が問題かというと……この内、畠山尚順期に主要な内衆としての行動が見えるのは丹下・遊佐くらい。
杉原・斎藤は畠山氏の古参の宿老衆ではあるのだが、当時の尾州家内衆としてはほぼ見当たらない。
貴志・宮崎は畠山氏方の紀伊の国衆で、やはりこの時期の動きはわからない。
木沢は前述の通りであり、安見に至ってはかの(かの?)安見宗房の登場以前には全く行動が見れず出自も定かではない。

そんな彼らのうち、杉原・宮崎・貴志・安見氏畠山高政・秋高期になると内衆地位が変化したり、あるいは江戸期に存続が確認される家である。
ここで思ったのは、この「畠山尚慶帰河州事」は彼らに「尾州家家臣の代表」いう印象が着いてから書かれたものではないか?という話である。
すなわち、『別本両家記』の成立時期はそのような時代になってからという傍証にはならないだろうか?*4

 

更に想像するならば、このエピソードで木沢氏が重要人物として描かれたり、安見氏の名前を出してしまうのは後の木沢長政・安見宗房が台頭する話を記す伏線のように思える。
……が、『別本両家記』は細川高国の死を持って終わる物語である。
この時点では木沢長政の出番は僅かしかなく、安見宗房も登場しない、そうなると『別本両家記』が一からこのエピソードを創作して前フリをする必然性は薄い。
そこで想定するのが、「畠山尚慶帰河州事」で語られる(創作)エピソードを伏線にし、木沢・安見の台頭の頃まで記した伝承ないし軍記が存在しており、『別本両家記』はその前半部分のみを典拠にした、という流れである。
なので「(正確性は別として)畠山氏を中心に叙述した伝承ないし軍記が先行して存在する」、という想定はこれにも当て嵌まるのではないだろうか。


……と、まあ、ここまで『別本両家記』『足利季世記』の信憑性について随分な言い方が続いているが、これらの軍記が全く参考にできない訳では無い。
例として『別本両家記』の「義材卿北国落事」を挙げる。
この記述の中には、畠山中務少輔宛の御内書が引用されている。
この書状は川口成人氏の『畠山政近の動向と畠山中務少輔家の展開』(年報中世史研究45)でも使用されており、本物の足利義稙御内書と見ていいようだ。

ただし、この御内書は内容からし足利義稙が自分に付き従った畠山政近の忠誠を賞して明応の政変直後に出したもの。
にも関わらずこれを引用した『別本両家記』は「畠山中務少輔政光は足利義稙が囚われた後は石丸利光の下に逃れたが、明応2(1593)年に石丸が滅亡したため周防の義稙を頼り御書を賜った」というエピソードを記してしまっている。
ツッコミ所しかないのは言うまでもないだろう。*5

とはいえ、『別本両家記』(ないし先行して存在したかもしれない軍記)による引用がなければこの御内書は現世に伝わっていなかったかもしれない。
一例ではあるが、これは『別本両家記』、それを下敷きにし人口に膾炙させた『足利季世記』の功績だろう。
(ちなみに、畠山政長自害の際の薬研藤四郎の逸話も『別本両家記』出典だったりする)
この、「ある程度正確な歴史的事実を掴んでいるのだが、そこから虚構を創作してしまう」という厄介な傾向は、やはり『足利季世記』後半にも通じるものがある。
『別本両家記』と『足利季世記』後半、両方の畠山氏周りの典拠が同じではないかというのは仮説ではあるが、『足利季世記』系列のエピソードは「ある程度正確な歴史的事実を掴んでいるのだが、そこから虚構を創作してしまうという」という解釈の下で、今後活用可能な部分を選んで利用していきたい。


参考文献
佐藤陸『『応仁記』以後─もう一つの年代軍記─』(武蔵野女子大学紀要19号)
佐藤陸『『足利季世記』の一典拠』(武蔵野女子大学紀要26号)
小秋元三八人『戦国軍記の生成と展開に関する一考察 : 『足利季世記』と『別本細川両家記』』(藝文研究120)
小秋元三八人『加賀市立中央図書館聖藩文庫蔵『細川兩家之記』について : 『細川両家記』別本の紹介と翻刻』(三田國文66)

*1:当時の河内守護代家遊佐信教は永禄7年段階でも「新次郎教」名乗りである(観心寺文書など)。

*2:更に言えば晩年の尚順は稙長の対立陣営についている。

*3:尚順は高国の姉婿、稙長は高国残党の支援者、など

*4:ついでに言えば、『足利季世記』の後半部分を見ると、杉原・斎藤・宮崎・貴志の名字が畠山家臣として(やっぱりエピソードの正確性は別として)登場をする記述が見られる。

*5:念の為に言うなら、まずこの中務少輔は政光ではなく政近、彼は明応の政変直後から義稙に近侍して活動しているため石丸利光の下にいたはずもなく、何より明応2年時点で義稙が周防にいるはずがなく、石丸の滅亡も明応5年である。