179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

「二階合戦」の虚実と畠山兄弟の争い

またしてもブログを始めた時点ではこんなに触れることになるとは思わなかった石垣長経周りの話。

戦国期の畠山氏と紀伊の関わりはまだまだ不明な部分が多い。
近年、新谷和之氏が天文以降の紀伊での戦闘、かつ湯河氏と畠山氏の連携の可能性を指摘しているが*1、それを踏まえた上で今回注目したのが、『金屋町誌』が記す「二階合戦」という戦いである*2

「二階合戦」の典拠

『金屋町誌』の該当部分の記述は以下の通りである。
「その頃二階城には神保彦九郎茂政の弟長治がいて、むかえ討つ準備を進めていた。天文九年四月三日、湯川直光は広の竹中治部少輔久澄らを寄手の先陣に立て、大挙してこの城に攻めかけた。城内では川口主膳友光等勇戦したが守は潰え、主将長治は討死して軍兵は金屋方面へ退散した。直光の勢は深追をやめて広に帰陣した(神保系図 竹中系図)。」

おそらく、この経過をそのまま記す古記録があった訳ではなく、文中で紹介されている「神保系図」「竹中系図」、また同節で触れられている金屋川口家の先祖書を総合して「二階合戦」の経過を想像したのだと思われる。

二階城は遺構は残っていないが有田郡有田川町垣倉にあったとされ、石垣荘で起こった合戦ということになるだろう。

ただ、古い自治体史であるため仕方のない部分もあるが、『金屋町誌』の該当の章は飛躍した記述も目立つ*3
それもあって、この「二階合戦」の記述もどこまでが系図類の情報を忠実に記しているものなのか判別しかねる。
年代についても、天文9(1540)年段階での湯河氏の当主は直光ではなく光春であることや、この時期の湯河氏は既に畠山稙長の上洛計画に協力している段階であり*4、石垣荘に侵略戦争のようなものを起こすかという疑問があり、無批判には用いれない。

うち「神保系図」とは『紀伊八庄司流諸氏系図集』収録の系図と思われ、「重春 彦九郎 茂政」の弟に「長治 天文九・四・三 紀州外屋城討死」と記している*5
ただ、「神保系図」は彦九郎弟の外谷城(鳥屋城)討死とその年月日しか記さず、二階城の名前も出てこないため、これだけでは「二階合戦」に関わる情報ではない。

「川口家の先祖書」については『金屋町史』の同節で、「川口主膳については金屋川口家の先祖書では累代二階城に居住していたが、城落居の後、天文十一年畠山尾張守に従って河内に出で、和泉粂田の戦に三好実休を討って功があったが、後流浪し、子左近右衛門光行が金屋村の辻に居住して農に帰したとある」と記し、これが先祖書に書かれた情報と思われる。
天文11年の畠山尾張守(稙長)の河内復帰、久米田の戦いでの三好実休討死は事実であり、この辺に不自然な点は見られない。

「竹中系図」は『広川町誌』『重要文化財八幡神社他四棟修理工事報告書』で「広八幡宮記録」「広八幡佐々木家蔵竹中系図と紹介されている史料を指すと思われる。
竹中氏は広八幡神社の社務を担ったとされる氏族(『広川町史』)で、同氏が当時広に在住し湯河氏に動員されたことには特に疑問はない。
ただ、この系図が載っている自治体史など、もしくは原本を閲覧する方法がどこにあるのかわからず、内容までは確認できなかった。

そのため推測になるが、「竹中系図」には「神保系図」と金屋川口家の先祖書に載っていない『金屋町史』の情報、つまり湯河氏の二階城攻撃と、竹中氏がそれに動員されたことが書かれているのではないだろうか(湯河方の攻撃先が二階城であると書かれていなければ、金屋川口家の先祖書の情報と結びつけることはできないだろう)。

ただ、「竹中系図」と川口先祖書にも合戦の日次が記されていたのか、それが「神保系図」と同日のものなのか確認できないのが心許ない。
日次を示したのは「神保系図」のみで、鳥屋城での討死を二階城での合戦と結びつけたのは『金屋町史』独自の見解であり、「二階合戦」がこの日次に行われたものではない可能性もあるかもしれない。
ともあれ、『金屋町史』該当箇所の執筆経緯を想像するのならば、互換性が無いと思われる複数の由緒に「二階合戦」に関わる伝承が伝わっていることになるので、元となる出来事自体はあったのではと考える。
ひとまずこの記事では湯河氏が二階城の川口氏を攻めた戦いと、4月3日に神保彦九郎弟が鳥屋城で討死した件を合わせて「二階合戦」と呼称する。

心許ない部分はあるものの、「二階合戦」の伝える所は「湯河氏と石垣荘の勢力の間で起こった戦闘」ということになるだろう。

過去に天文初期の湯河氏と遊佐長教の連携を否定したように(参照)、湯河氏は畠山稙長との対立は基本的に見られず、基本的にその側に立っている。
天文4年頃に稙長は河内守護代を更迭され没落し、代わって石垣左京大夫家の長経が擁立されたが、紀伊にも当然石垣左京大夫家の拠点は残っている。
両者の対立が紀伊でも波及し戦闘が行われ、「二階合戦」はその際に発生したものと考えることが可能ではないか。
そして、各史料を突き合わせていくと、畠山兄弟の争いの痕跡が浮かび上がるので、順を追って説明したい。

畠山兄弟の争いと賀茂氏

史料①『中尾家文書』天文5年5月6日 中尾新兵衛田地売渡状

(略)畠山殿様御孝弟御取相折節、湯川殿宮崎殿より、中尾之新兵衛御使、被仰付候、爰元従無通路申調如御本意候、則賀茂殿御入部候、従其忠節、彼龍洞院之儀、下芳養殿宮崎殿より、賀茂殿年寄中へ以折紙被仰付候(略)
天文五年 申丙 五月六日   中尾新兵衛

 

この文書はおなじみ賀茂氏被官の中尾氏が知行を売却したものだが、その際に知行を得た経緯が書かれている。
中尾新兵衛は畠山殿様(稙長)が弟と争った際に、湯河・宮崎氏に(賀茂氏からの)使者を仰せ付けらて(畠山氏の)本意のように通路を整えた功があり、賀茂氏が入部した際にその忠節によって広福寺のことを湯河・宮崎氏から賀茂年寄中に折紙で仰せ付けられたという。

まず、「畠山殿様御孝弟御取相折」畠山兄弟(畠山殿様=稙長とその弟)で争いがあったことがわかる。
天文5(1538)年5月以前に稙長と紀伊を舞台に争った弟とは、稙長の更迭に関わったため対立関係にある長経が第一候補だろう。
(何気にこれが、系図上でしか稙長との関係がわからなかった長経が稙長の弟であることの証左になる。)
通路が無かったので「御本位」のように申し調えたとあるように、正確な時期は特定できないが、中尾新兵衛は紀伊に没落した稙長を案内する働きをしたのではないか。
また、賀茂殿が入部したとあり、賀茂氏の当主(=小法師丸)は何らかの理由で賀茂荘を離れていたことが伺える。

そして、その際に湯河・宮崎氏が稙長を助ける動きをし、また寺領を与える折紙を出している*6
文書は現存していないが、湯河・宮崎氏から揃って書状が出されたということは、両者がその当時同じ箇所にいたことを示している。
また、宮崎氏と共に記される人物が二箇所目では「下芳養殿」と記されているのに注目する。
これは下芳養を拠点とする湯河氏の支流の式部大輔を指しており、一箇所目の「湯川殿」も同一人物だろう。

賀茂氏の動向と畠山稙長の大野攻め

続いて、紀伊没落直後の稙長の動向を検討してみる。

史料② 『小山家文書』9月23日 畠山稙長書状

至大野進発之処、音信祝着候、殊五方令一味、可抽忠節由神妙候、弥馳走肝要候、猶委細玉置与三郎同兵部丞可申候、謹言
 九月廿三日   稙長
  小山三郎五郎殿

 

新谷和之氏はこの書状から畠山稙長が大野攻めを行ったことを指摘しており、文書中の「五方(小山氏などの紀南の領主を指すと思われる)」に注目し、熊野三山と稙長方の対立が解消される天文5~7年頃と関連するものと見ている。
ただ「五方」に熊野三山を含むことに慎重になる見解も存在し*7、その場合史料⑥の年次は熊野三山の動向に囚われないものとなる、

さて、大野の『尾崎家文書』には某年8月23日・12月15日に能登守護畠山義総が稙長と音信を交わした書状が二通存在している*8
稙長宛の書状が尾崎家に残されているということは、この時の稙長の居所が大野にあったことを示しているのではないか。
すなわち、史料⑥で大野を攻略した稙長は、そのまま大野に居所を移したことになる。
そして、『尾崎家文書』の年次はほぼ一択に絞り込める。

『尾崎家文書』の差出人の畠山義総は、天文4年の「義総」の名乗りを終見とし、天文5年月には出家して「徳胤」と名乗っている*9
また、天文3年は稙長が6月に河内で活動*10、丹下盛賢が10月に河内で行動している*11
天文3年と考えると、稙長は僅か3ヶ月で紀伊への没落と大野攻めを行っていることになり、また盛賢だけ河内に残していることも不自然になる。
すなわち、稙長が大野で義総からの音信を受け取ったとするならば、その年次は天文4年しかあり得ない。

つまり史料②の年次も天文4年となる。
天文4年8月23日以前に大野攻めを行った稙長は拠点を大野に移し、その際の小山氏からの音信の返礼を9月に行ったと考えている。

次に採り上げるのは、賀茂氏の動向である。

史料③ 『中尾家文書』5月10日 畠山稙長書状

去年以来被官人馳走神妙候、為恩賞藤並之内下津野分各申付上者、弥可抽忠節事肝要候、謹言
 五月十日    稙長
  賀茂小法師殿

史料④ 『中尾家文書』6月26日 畠山稙長書状

当庄不入儀、成其意候上者、忠節可為肝要候、猶委細山本式部丞玉置兵部大輔可申候、謹言
 六月廿六日   稙長
  賀茂小法師殿

史料⑤ 『中尾家文書』6月26日 玉置正直・山本忠善連署

当庄不入儀、被成御意得候、珍重候、弥御忠節可為肝要候、此旨相意得可申由、被仰出候、恐々謹言
 六月廿六日   正直
         忠善
  賀茂小法師殿

史料⑥ 『中尾家文書』8月3日 畠山稙長書状

有田進発之儀、依根来寺扱子細延引候、然者岩室手前之間、此時忠節可為肝要候、家之儀如前々可申付候、謹言
 八月三日  稙長
  賀茂被官中

 

これらの書状は稙長方より賀茂氏に宛てられたもので、史料③④⑤は史料①に登場する賀茂小法師丸という幼名の人物が宛先であるため、近い時期に発給されたと思われる。

年次を比定しやすいのは史料③。
この文書は賀茂氏が稙長方への協力をした翌年に出されたものである。
賀茂氏紀伊没落後の稙長に応じたことは史料①から天文5年までには絞られるので、天文3-5年の間となる。
天文3年と考えるには不自然ということもあり*12
史料②の大野攻めのように、天文4年段階では稙長は紀伊口郡(海部郡・名草郡・那賀郡など)で活動している。
同じく口郡に拠点を持つ賀茂氏がそれに対して何の行動も起こさなかったとは思い難いので、史料①での賀茂氏の通路案内の想定も合わせ、「去年」は天文4年であり、天文5年に史料③が発給されたと考える。

また、この文書では賀茂氏は恩賞として藤並荘下津野が与えられている。
藤並荘は石垣荘の手前にあり、下津野は藤並城があったと伝えられ同荘の中核にある。
本来は賀茂氏と縁のない地域であり、それが与えられるということは闕所になったことが想像できる。
すなわち、藤並荘は反稙長勢力に属していたが戦闘によって制圧されたのではないか。
天文5年5月以前に稙長方と反稙長方、すなわち石垣家との交戦があったと考える。

史料④⑤は賀茂荘不入を保証した判物で、これも賀茂氏の一連の働きに関わるものと考えられる。
また、史料⑤は史料④の稙長書状と同日に発給されているため、発給者の山本式部丞忠善・玉置兵部大輔正直は稙長と同陣していたことが伺える。
山本氏の当主の官途は中務大輔や兵部大輔、玉置氏は民部大輔であることが確認されるため、彼らは当主ではなく、立ち位置は不明だが分家の人間が稙長に属していたと思われる。

弓倉弘年氏は先行研究でこの文書について、「この一例のみで判断することは難しいが、畠山稙長は河内高屋城を有力内衆によって負われるなど、その権力基盤は不安定であり、紀伊国内の有力国人である山本氏や玉置氏の協力なしには、海部郡でも十分に権力を行使できなかったのではないだろうか。」と畠山氏の退潮を見て取っているが*13、彼らが当主ではなく立ち位置不明の一門であること、稙長の没落直後の特殊な状況下で発給されたということも考慮すべきだと考える。

史料④⑤の年次だが、天文4年と考えると、まだ稙長の没落後間もない時期と考えられ、賀茂荘不入を保証できるほど落ち着いた環境にいないのではという疑問点がある。
また、取次の玉置氏の名に注目すると、史料②の取次は「玉置与三郎・同兵部丞」と微妙に官途が違う。
玉置兵部丞の名は『小山家文書』(永正末~天文初)8月11日丹下盛賢・遊佐長清連署*14、玉置兵部大輔は『湯河家文書』の稙長書状にも「玉置兵部大夫」が登場しており、史料⑤を天文4年とすると短期間に「兵部丞→兵部大輔→兵部丞→兵部大輔」という官途が違う人物が登場することになり、うち三通は稙長の発給文書であるため書き間違いも考え難い。

そのため、史料⑤は天文5年以降のものとし、玉置正直は天文4年9月以降に兵部丞(与三郎のほうが正直である可能性もあるが)から兵部大輔に名乗りを変えたと考える。

史料⑥は、「有田進発」が根来寺の子細によって延引されたことを伝え、岩室(=岩室城主 畠山政国)と手前(=稙長)に対して引き続き忠節を求めている書状である。
ここまで整理したことを踏まえると、「有田進発」とは石垣家攻めのことと考えてよいのではないか。

また、稙長方の行動を根来寺の口入れが左右していることが注目される。
『足利季世記』は、河内を没落した稙長は根来寺の保護を受けたとしているが、これは没落当初の稙長が根来寺に依拠していたことを表し、その協力を得て石垣家攻めを行おうとしたものの、延引となったのではないだろか。
(もっとも、『足利季世記』が稙長の河内復帰の段階で「根来寺にいた稙長を遊佐長教が擁立した」と、あたかも稙長が無為無策のまま根来寺に留まっていたかのように書くのは例によって畠山氏を軽視した描写だが。)

また、「家之儀如前々可申付候」とは史料④⑤の賀茂荘不入のことを指したものであるのならば、④⑤より後に発給されたものと考えることもできる。

いずれにせよ、「二階合戦」が発生したのは史料⑥の後で、この有田攻めが実行されたことに伴ってのものだと考えるのが自然と思われる。
史料⑥の年次は天文4・5年のどちらかと考えられるが、確実には絞りづらい。
天文4年と考えると、同じ8月に稙長の大野攻めが行われている一方で、大野から更に南の有田攻めが計画されていたというのはあり得るのか、という疑問がある。
一方で天文5年と考えると、史料③により天文5年5月段階で既に藤並荘は稙長方に渡っているにも関わらず、再度有田攻めが計画されてそれが延引されているというのも若干不自然ではある(藤並荘は制圧したが鳥屋城などの更に奥にある拠点は攻略していなかった、などの説明はつくが)。

確証はないが、天文5年の方が不自然さは減ると考えて現時点ではそちら寄りに考える(ちなみに、その場合は『中尾家文書』の戦国期文書は全て天文5年のものとなる)。

総合すると、年次比定がほぼ確実なのは史料②と③であり、天文4年8月以前に稙長の大野攻めがあり、天文5年5月に賀茂氏に新たに下津野(=藤並城)が与えられたことまでは定まると考える。
これを踏まえて、史料①に登場する湯河式部大輔家・宮崎氏の動きを検討してみたい。


湯河「直春」・宮崎「直定」の動向

実は、湯河式部大輔家・宮崎氏ともに、この頃に関連すると思われる動向がある。
まず、湯河式部大輔だが、『湯河家文書(東京都千代田区四番町 湯河元恭氏所蔵)』(和歌山県史 中世史料 2に収録)は式部大輔家宛と思われる受給文書を豊富に残している。

その中に、このような畠山稙長の自筆状がある。

史料⑦ 『湯河家文書』4月9日 畠山稙長書状

 此とおり俊直にも伝られ候へく候
けさはそうそうかへられ候、今度は自余ニかわり出陣こころかけしんらうにて候間、不抑留候、ここもとの事、小松はらにてよくよく申され候て、此おりふし一ミち候やうに、兵もししめしあわせ、ちそうかんようにて候、ちきに可相通候ところに、はやこされ候まま、おいおい申こし候、あなかしく
 卯月九日  長
  湯七次もしへ

 

宛先の「七次もし(七郎次郎だろうか)」だが、『湯河家文書』には「七郎」という宛先の書状が残っており、式部大輔家関連の文書が集まる史料の性質上、式部大夫家の代々の仮名が「七郎」だった可能性が高い。
また、稙長の自筆状は他にも「ゆのかわしきふ大夫」宛に二通残されており*15、「七次もし」は式部大夫の前身だろう。
「ゆのかわしきふ大夫」宛書状の発給時期は稙長が河内上洛を計画してから後なので、史料⑦の発給時期はそれ以前となる。

この「七郎次郎=式部大夫」の諱だが、「直春」と考えている。

『湯河家文書』2月13日の「ゆのかわしきふ大夫」宛書状において、前書きで稙長は「光春この時出陣候へば、せんこともの馳走にて候間、しかるべきように意見頼み入り候」と宛先の人物に湯河光春への意見を頼む一方で、本文では「なを春」の内々の意見という形で頼むように伝えている。
これは宛先の人物の名が「なを春」であることを示しているのだろう。

更に、『湯河家文書』には12月7日弥太郎宛直春*16起請文と、同日の式部大輔宛直光起請文が収録されている。
つまり式部大輔=湯河直春」「弥太郎=湯河直光」となり、ここからも当時の湯河式部大輔家に直春を諱にする人物がいることがわかる。
なお、この式部大輔直春は湯河直光の子の中務大輔直春とは別人である(この件に関しては後述)。

さて、史料⑦では、稙長は「今朝は早々帰られ候、今度は自余にかわり出陣、心がけしんらうにて候間、不抑留候」と、直春が早々に帰宅したことと、今回稙長に代わり出陣したことを労い引き止めなかったことを述べている。
ここから、何かしらの戦闘に関して稙長自身が出陣できず、代わりに湯河氏に頼ったことが伺える。
また、「小松原にこちらのことを知らせるように」と小松原の湯河光春自身は出陣していなかったことも伺える。
史料⑥で、稙長は有田攻めを計画するも根来寺の子細によって延引していた。
8月から4月と間は空いているものの、結局稙長自身の出陣は叶わず、湯河氏らによって有田攻めが実行された、つまり史料⑦で式部大輔直春が戦った相手は石垣家と考えられないだろうか。

「二階合戦」(正確には鳥屋城での戦闘だが)の日時は4月3日で、史料②の日付は4月9日である。
戦闘後にすぐに湯河氏が帰陣したと考えれば、直春が早々に帰宅したという記述とも合致するのではないか。

またこの動きから、湯河氏は領土欲のために「二階合戦」を起こした訳ではなく、畠山氏からの要請に答えて出陣したことになる。
「二階合戦」の情報が湯河氏のみの関与を伝えているのは、実際に稙長自身は戦闘に参加できなかったからだろう。
『金屋町史』の「湯河氏が二階合戦の後は広に帰陣した」という記述は典拠となる史料に沿ったものなのか測りかねるが、動きとしては妥当性があると考える。
「二階合戦」を経て石垣家の拠点である鳥屋城は和議ないし降伏を選び、稙長の支援という目的を果たした湯河氏は在地に留まらず撤退したのではないか。
実際、他の地域と異なり湯河氏が石垣荘の支配に関わった史料は見受けられない。

奉公衆である湯河氏は畠山氏と被官関係にある訳ではなく、またこの当時紀伊での支配領域は畠山氏を上回る勢力だったことは確かである。
しかしそれは必ずしも畠山氏に協力的ではないことを意味するものではなく、下剋上文脈に囚われ畠山氏を克服しようとした独立独歩の勢力だと安易にみなすには一考を要する。


次に、史料①で湯河式部大輔家と共に行動していた宮崎氏についても検討する。
宮崎氏は本姓藤原、有田郡宮崎荘を本拠とした在地勢力である。
宮崎氏に関する論考は近年のものは見当たらなかったが、昔の自治体史である有田市誌』『町誌たちばなの里』『故江見寺文書』などで取り上げられている。

それらによると、『安養寺文書』には宮崎氏当主と思われる人物の発給文書が複数残されており、定経・定軌・定辰・定茲・直定・定秋が確認できる。
そして先行研究では触れられていないが、定茲・直定の花押はほぼ一致しており(参考)、両者は改名した同一人物と思われる。

『安養寺文書』では大永3年12月に藤原定茲田地売券、天文6年4月に直定禁制が残る。

史料⑧ 『安養寺文書』 天文6年4月宮崎直定禁制

一 たけのこおさへておる事
一 むめ取事、
一 柿殊ニつき木、志ふに取事
右惣このみにかきらす材木等、寺家其外にてもきりあらす事せいはい、但土居よりも使者切紙にてもあるにおいては分別可行者也
 天文六
  四月日      直定
   三ヶ寺中


史料⑧は安養寺を含む宮崎荘の三ヶ寺に出された木の実や木材の勝手な収穫への禁制であり、宮崎直定の初見である。
更に『町誌たちばなの里』では天文4年12月11日の箕島神社棟札に藤原定茲・同雲秀による上棟が記され、天文5年9月には藤原定茲が宝剣を箕島神社に寄贈したと記している。

箕島神社に関する記録は原本を確認できなかったが、これを採用すると定茲→直定の改名のタイミングは天文5年9月から天文6年4月の間に絞り込める。

また、宮崎氏の当主は上記の通り「定◯」と「定」の字を通字にしていることが伺えるが、改名後の直定のみ「定」を下にしている。
これはつまり、「直」の字を入れて改名する際に、通字を下にする必要があったと示しているのではないだろうか*17

更に、史料①で宮崎氏と共に行動している湯河式部大輔にも「直春」という人物がいるのは上記の通り。
「直春」という諱の湯河氏がいたことを踏まえて検討したいのが、湯河「直光」という諱の由来である。

湯河直光は『湯河家文書』2月13日稙長書状の「みつ春・や太郎(弥太郎)」が確実な初見で*18、同年推定の『目良文書』3月23日丹下盛賢書状*19「光春・直光覚悟之様」が諱の初見と思われる。

そもそも湯河宗家歴代は「◯春」という諱が多く、「◯光」という諱はイレギュラーである。
なぜ「◯光」という諱になったのか、それは「直◯」という諱を名乗ろうとした際に「直春」という人物が既にいたからではないだろうか。
式部大輔直春は宮崎氏と共に行動しており、出陣を感謝されるなど稙長への貢献は大きく、宮崎直定と同様の形で「直◯」の諱が与えられたと考える。


参考までに、『脇田文書』には「春」という諱を持つ人物の書状がニ通収録されている。
同文書には他に湯河直光感状、湯河光春への意見を依頼する丹下盛賢書状があり、「春」は湯河氏の人物と見て間違いない。


史料⑨ 『脇田文書』12月5日春書状

今度各雖罷退候、為此方殿被罷残候、対我々忠節祝着候、年寄衆令談合、弥馳走肝要候、謹言
 十二月五日  春
  脇田三郎左衛門尉殿

史料⑩ 『脇田文書』1月3日春書状

 如比候処、重而申事候間、いわうし免畑二反扶持候
今度無二之忠節祝着候、仍其庄にて加扶持持度候へ共、定而下地有間敷候間、山内にて三反扶持候、猶無油断馳走肝要候、委細忠直可被申候、恐々謹言
 正月三日  春
  脇田三郎左衛門尉殿

 

この「春」の花押は、政春・光春・直光・直春といった湯河氏歴代の花押とは一致しない(なお、式部大輔直春の花押は発見できなかった)。
が、そのうち直光の花押とは類似する部分があり、直光の前身である可能性はあると考える。
それに則れば、直光は本来「◯春」という諱を名乗るつもりだったが、「◯光」という諱に変更した可能性も出てくる。

何故そのような手順を取ったのか、それは宮崎直定同様、「直」の字を諱に入れることに何か意味があったからではないだろうか。
すなわち「直」は他者からの偏諱、そしてこのタイミングで偏諱を与えられる湯河氏・宮崎氏の上位者は、畠山稙長以外に考えられない。
では「直」の字は何を意味するのか、奉公衆でたる湯河氏は本来将軍偏諱を貰うほどの立場であり、稙長の下の字である「長」を与えると扱いが格下げになってしまう。
さりとて「稙」は将軍偏諱であるためそのまま他人に与えるのは憚られる。
そこで「稙」を右側の「直」に変形させ、「長」よりも格上の偏諱とみなして授与しようとしたのではないか。
つまり、宮崎直定・湯河直光・式部大輔直春は稙長から偏諱を与えられていたと想像する。
なお、上記の経緯から直光は他の二人から遅れて偏諱を得たのかもしれない。

史料⑨⑩は、春の居所に各勢力が集結していたが大半が帰宅し、脇田氏は残って湯河氏への忠節を示したことを賞し、山内(日高郡南部町山内)に扶持を与えたことを記す。
⑩→⑨の順で発給されたことは読み取れるものの、年次比定は困難。
春が湯河直光の前身という仮定に基づくのならば、石垣家との合戦に出張した際の史料の可能性はあるかもしれない。

また、湯河直光の子の中務大輔直春も「直」の字を名乗っている。
中務大輔が登場した頃、式部大輔家には「湯河安芸入道宗慶」という人物が見える。
これは式部大輔直春が出家した姿だと考え*20、「直春」を名乗る人物が存在しなくなったため、直光の子もこの諱を名乗ったのだろう。
中務大輔直春は初期の発給文書では直とのみ署名しており*21、当初から「直」の字を受け継いでいたと思われる。
これはつまり、湯河氏が畠山氏から偏諱を与えられることに忌避感を示していなかったことを示すのではないか。

宮崎氏歴代で他に畠山氏から偏諱を与えられた人物は見られず、直定は例外的に授与されるほどの働きをしたと思われる。
史料①から、宮崎氏は紀伊に没落した稙長を援助したことが伺える。
ただ、その後もしばらくは定茲の諱のままなので、史料①での動きのみで偏諱が与えられた訳ではなさそうだ。
どちらかというと、その後の紀伊情勢の中で宮崎氏の重要性が高まる中で、稙長から今後の繋がりを期待され偏諱を与えられたことが想定できるだろうか。
史料①で共に行動していた式部大輔直春と共に、史料⑦が示すような合戦に参加して功を挙げたことも考えられる。

その他の紀伊の合戦

その他、この紀伊での抗争に関わると思われる合戦が二つある。
一つは石井谷合戦
『古今采輯』4月22日白樫弥四郎宛畠山稙長書状、同日丹下宗徹(盛賢)副状は、4月19日に行われた石井谷での合戦で白樫弥四郎が武功を挙げたことを賞している。
石井谷とは『紀伊風土記』によると宮崎荘新堂村の東にあるとされる。
4月という日付から、この石井谷合戦と史料⑧は関わる可能性があると見ている。

また、史料⑧は「但土居よりも使者切紙にてもあるにおいては分別可行者なり」と土居から連絡があった場合について触れている。
土居とは下津野藤並城を指すと思われ、史料③でまさに賀茂氏が与えられた地域である。
この戦闘は宮崎氏だけでなく、藤並荘の賀茂氏(がこの時点で入部していたかは不明だが)、湯浅荘の白樫氏が関わっていることとなり、有田郡の中でそれなりの規模のものとなる。

ただ、ここで稙長方が戦った相手が具体的に誰なのかは特定できない(あるいは、大永年間までは宮崎氏と共に行動していたにも関わらず、天文年間になってから稙長方としての活動が見えなくなる貴志氏が敵に回っていたか)。
「二階合戦」は4月3日に一段落した想定なので、宮崎荘で4月になって出された禁制や19日に起こった戦闘と絡めるには微妙にズレがある気もするが。

もう一つは広城攻めである。
上記の新谷論文は、畠山稙長と湯河直光の広城攻めと、当時湯河は広荘を一元的に支配していた訳ではなかったことを指摘している。
同論文は、『堀籠家文書』8月2日湯河光春書状、『目良文書』8月25日畠山稙長書状から、某年7月29日に稙長方が広城を攻めたことを指摘している。
このうち、注目しているのが稙長書状の取次の表記が「丹下備後」であることである。

丹下盛賢は紀伊での没落以前は俗体だが*22、没落後のある時期に出家し「宗徹」と名乗っていることが確認され*23、上記の『目良文書』から天文11年3月には僧体のまま署名を「盛賢」に戻している。
出家のタイミングは『古今采輯』の白樫弥四郎宛宗徹書状の年次を天文6年とするならば、その年の4月以前に遡る。

これを踏まえると、広城攻めは天文4・5年のどちらかに絞られる。
「二階合戦」で石垣家が敗北したあと、散発的に反稙長勢力が蜂起してこの合戦が発生した可能性も考えられるが、竹中氏のように広庄の勢力が動員された伝承を踏まえると、広城攻めによって広庄から反稙長勢力を駆逐してから「二階合戦」が起こったと考えるのが自然だろうか。

以上の整理から、「二階合戦」の発生した年次は天文5年か6年の二択に絞られるのではないか。
「神保系図」が伝える「天文九年四月三日」は「九」を「五」ないし「六」と誤って翻刻した可能性を考えている。
天文5年説は、稙長の大野攻め・有田進発延引・広城攻めが全て8月に現れる史料なので想定する稙長方の動きが複雑になってしまう、天文6年4月の宮崎荘絡みの合戦の位置付けが浮くなどの問題がある。
天文6年説は、長期に渡って紀伊での騒乱が続いている割に『天文日記』などの史料に記されない、などそれぞれネックがあり、どちらも断定はしづらい。

没落する長経

ここまで、畠山稙長視点で紀伊での抗争を考察してきたが、対立勢力と思われる弟長経周りの動向を見てみたい。

4月3日の「二階合戦」により稙長方の優勢が確定したという想定だと、天文5年5月になって初めて畠山晴熈の擁立が記される*24ことが注目される。
過去の記事では長経の更迭理由について、「本願寺との和睦は受け入れられても、木沢長政との和睦については齟齬があった」と想定していたが、自分でもあまり納得が行っている訳でもなかった。
そこで今回考える理由は、「二階合戦」によって長経が石垣荘を失陥し、それによって更迭ないし自発的に没落して代わりに晴熈が擁立された可能性である。
ただし、天文5年頃にまだ長経が当主だったならば、『証如上人宛名留』に名前が書かれていないのは不自然になる。
それと整合性を合わせるのならば、証如が尾州家当主と通交する前に失脚した、もしくは自身の本拠が脅かされるのを見て紀伊に下国しており高屋城に不在だったということが考えられるか。
後者の場合、「二階合戦」の天文6年想定でも成り立つものであり、劣勢により高屋に戻れなくなった長経に見切りをつけて晴熈が擁立された可能性もある。


また、小山氏に宛てられた文書のうち、差出人に素性不明の長光という人物がいる。
長光」が発給した書状は二通存在し、『善妙寺文書』『久木小山家文書』『神宮寺小山家文書』『紀伊風土記のそれぞれで異同があるが、内容自体は概ね同じである。
ここでは『久木小山系図(『日置川町史』第一巻)に載せる同書状を記す。
なお、『久木小山系図』掲載の文書は『紀伊風土記』文書と文面が一致している。

史料⑪ 『久木小山系図』収録 天文23年8月30日長光書状

今度爰元へ下国之処走舞祝着ニ候、於上洛広之代官可申付候、弥忠節肝要ニ候、謹言
  天文廿三   畠山
   八月卅日   長光
 小山長八郎殿

史料⑫ 『久木小山系図』収録 長光書状

右同意趣田殿代官可申付、為兄弟さはくへき者也
         長光
 小山善十郎殿

 

宛先の小山長八郎・善十郎は小山宗家の三郎五郎俊次の弟とされる分家の人物。

天文23年という年号が書き込まれているが、既に『解題 紀州小山家文書』でこの年号についての疑問は指摘されている(加えて、天文23年という時期は畠山高政が河内に復帰した後の時期であり、内容に該当する人物がいるとは思い難い)。
『善妙寺文書』に残る長光書状も、善十郎宛文書は花押が写されず、長八郎宛文書も文意が通らない部分があるので、ともに写しであり原本ではないと思われる。
また『久木小山系図』は、小山氏の歴代の横に『久木小山家文書』などを出典とした書状を略しつつ記入している。
その中で、長八郎経次・善十郎清次の項は「右之弐通、大形かな書、大破故略して是を書付ル」とあり、本来はかな書きだった書状を書き写した可能性がある。
原文がどのような形だったか不明な以上、坂本氏が指摘している通り年号の正否も疑うべきと考えて話を進める。

系図では長光の素性を畠山氏としているが、実際「謹言」で結ぶ文言や上洛の主体となる人物であること、広・田殿荘の代官を申し付けていることからその可能性は高いと思われる。
ただし、長光の花押影はかなり独特の形状をしており、既存の畠山一門と一致しない。

他に素性を推定する材料だが、長光は稙長方と敵対しており、かつ相当追い詰められた立場にあることが伺える。
まず、長光は小山長八郎・善十郎を頼って小山氏まで下国している*25
そして上洛の際には広・田殿荘の代官に任じるとしているが、本来有田郡に縁もゆかりもない小山氏の、かつ分家の彼らに広荘という重要拠点を与えようとするのは過分な褒賞に感じる。
当時の広荘は湯河氏の影響が浸透していたことが指摘されており、それと競合することとなるのも稙長方の采配とは思えない一因である。
更に取次も介しておらず、長光は僅かな人数で小山氏の下に下国する状況にあったのではないか。

広・田殿荘代官という報酬は稙長方を排除した上でなければ与えることができないものであり、これは空手形に近いものだと考える。
ただし、空手形とはいえ、長光が広・田殿代官を与えられる根拠を持っていなければ空手形としても成立しないとも考える。
そのため、長光は本来は広・田殿を差配できるような立場にあった人物だったのではないか。

これらの条件を満たし、かつ「長◯」という稙長から偏諱を受けたと思しき畠山一門の該当者はほぼ一人に絞られる。
すなわち、畠山長経である。

三郎左衛門尉光房天文10年4月1日歓喜八幡宮棟札』)や神保光茂(永禄3年9月2日『白岩丹生神社棟札』)など、天文中頃から登場する石垣家の重臣には光のつく諱の人物が見受けられる。
これは「◯光」という人物から偏諱を受けたものであると考えられないだろうか。

後に子の岩鶴丸が石垣家を継いでいることから、稙長と長経は最終的には和解したと思われるが、この史料はその間に長経が没落していたことを示したものではないかと考えている。
史料⑪⑫の発給時期は、稙長方が藤並荘を抑えるなど紀伊で優位に立ち始めた天文5年以降のものと考える。
既にこの時期の河内守護は晴熈に交代させられており、長経が戻る場所は河内にない。
劣勢を見て小山氏の合力を期待して下国したか、「二階合戦」によって石垣荘を失陥した後に小山氏を頼ったか、2種類の状況が考えられる。

また、年号の「天文廿三年」は完全な誤りではなく、本来は「天文二三」で「天文五年」を表していた可能性も考えている。
その場合、「二階合戦」が天文5年ならば没落して小山氏を頼った史料、天文6年ならば劣勢の挽回のため下国した史料になるだろう。

ただし、過去に長経と想定する人物として九郎の存在も挙げていたが(参考)、九郎と長光の花押とは一致しない。
九郎と長光の想定する登場時期は10年ほどの隔たりがあり、花押改変の機会はあったとは思うが、確実性のないところである。

また、現在に伝わる石垣家を継いだ稙長弟の諱はほぼ「長経」で一致しており、長光と伝わらないというのは不自然という点もある。
最初から長光と名乗っていたが、誤記によって長経と伝わったのか、あるいは長光と改名したのは限られた時期であるため伝承に残らなかったのか、理由付けはできるがこれも不安要素である。

まとめ

「二階合戦」の実在性自体は確定できなかったものの、稙長の紀伊没落間もない時期に各地で戦闘があったこと、石垣荘への出陣が計画されていたことから、「二階合戦」の発生する余地はあることは証明できたと思う。
発生時期も確定できなかったものの、現時点では天文6年の方が各史料を自然に当て嵌めやすいと考えているため、その仮定でこれまでの年次比定を整理してみる。

(☆は年次が明記、ないし年次比定がほぼ確実のもの)

・天文4年
4月 これ以前に畠山稙長が没落、湯河直春・宮崎直定を通した要請により賀茂氏が通路を案内
7月29日 稙長・湯河氏による広城攻め
8月23日 これ以前に稙長が大野攻めを行う ☆
9月23日 史料② 小山氏が稙長の大野攻めに対して音信を送る ☆

・天文5年
5月6日  史料① 中尾氏が畠山兄弟の争いの際に与えられた寺領を売却 ☆
5月10日 史料③ これ以前に稙長方が藤並荘を確保しており、賀茂氏に藤並城周辺が与えられる ☆
6月26日 史料④⑤ 賀茂荘の不入を畠山稙長が保証
8月3日 史料⑥ 稙長の有田進発が延引中。賀茂氏の(賀茂荘不入の)家の事を改めて保証
8月   史料⑪⑫ 畠山長光が小山氏の下に下国しており、上洛のための合力を要請する

・天文6年
4月3日 鳥屋城が攻撃され、神保彦九郎の弟が討死。これ以前に「二階合戦」あり
4月9日 史料⑦ 式部大輔直春が帰還
4月  史料⑧ 宮崎直定が藤並城と連携して軍事行動中。これ以前に定茲から直定に改名 ☆
4月19日 石井谷合戦


紀伊での騒乱は遅くても天文6年前半には落着したと見られ、11月には「畠山へ当年未通書音候条」(『天文日記』天文6年11月13日条)「表微志計候、目出御上洛奉待候」(『証如上人書札案』)とこの年初めて証如が稙長に音信を送り、上洛について振れている。
紀伊での反稙長勢力を制圧したことで稙長の地盤は固まり、紀伊勢力を糾合しての上洛計画へ進んでいったと思われる。


参考文献
小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」
新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」

*1:新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」

*2:『金屋町誌』上巻 P339

*3:信憑性に疑問がある江戸期の神保氏の系譜を全面的に採用し、同氏があたかも紀伊土着の勢力かのような記し、畠山氏に実権が全く無かったと強調するなど

*4:小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」

*5:なお、同系図は神保氏の祖を鎌倉時代に石垣に移住したと記したり、越中守長誠・出雲守長通といった紀伊に関わった神保一門に触れない、一次史料で確認できない諱を当て嵌めていたりと、疑わしい部分が多い。対して『古今采輯』収録の神保系図は記述は簡素だが、その分こちらの方が正確なものと判断している。彦九郎の父とする彦次郎(「神保系図」では彦次郎を彦九郎の子とするがこれも誤りと思われる)、彦九郎の子とする三河守・光茂は一次史料で該当する人物の実在が確かめられ、彦九郎の実在性も高いと思われる。彦九郎弟長治は『古今采輯』収録系図には記されないが、諱の信憑性はともかく世代的には矛盾のない存在と考える。

*6:この通路案内が「二階合戦」のものと考えるには、4月の合戦の功で与えられた寺領を5月に売却したことになり流石に早すぎるので、中尾新兵衛の働きと寺領給付はある程度は遡った時期のものと考えたい。

*7:坂本亮太『紀州山本氏の地域展開』(山本氏関連城館群総合調査報告書)

*8:海南市史』第3巻

*9:末柄豊『畠山義総と三条西実隆・公条父子-紙背文書からさぐる-』(加能史料研究22)

*10:『古今采集』6月19日(細川)晴国書状

*11:『私心記』天文3年10月11日

*12:上記の通り大野攻めが天文3年に起こったとは考え難く、天文3年末に丹下盛賢と共に紀伊に没落し賀茂氏を味方につけ、翌年に大野攻めをしたとするにしても、その年の一ヶ月程度の賀茂氏の協力を「去年以来」とカウントするにも不自然と考える。

*13:弓倉弘年『奉公衆家山本氏に関する一考察』「中世後期畿内近国守護の研究」

*14:遊佐長清は稙長の紀伊没落後、稙長奉行人としての活動が見られなくなり、丹下盛賢と違い没落に同行していなかったと思われる(『天文日記』天文6年6月16日条に登場する遊佐左衛門大夫は長清のことと思われる)

*15:『湯河家文書』2月13日畠山稙長書状。8月8日畠山稙長書状

*16:和歌山県史』は「直光」と翻刻しているが、原文を確認したところ「直春」が正しかった。そもそも交わした起請文の差出人が両方「直光」なのは不自然だろう

*17:なお、玉置氏は「直」を通字としており、上記の正直のように「◯直」と名乗る人物が多く、また同時期に湯河氏と見られる「兵部少輔俊直」(『湯河家文書』)「忠直」(『脇田家文書』)という人物も見受けられるが、これらの諱は無関係だと判断した。

*18:同書状の比定は最も早くて天文9年と推定。そのため湯河弥太郎の初見も同年が最も早くなる。

*19:弓倉弘年『「藩中古文書」に見える目良・脇田文書』「田辺市史研究」。同論文では年次比定がされていないが、日付と「高蔵(屋)敵味方討死候」などの文言から3月18日に木沢長政が高屋衆に討ち取られた天文11年のものと考える。

*20:宗慶は中務大輔直春の伯父と伝わり(「湯川記」など)、湯河直光の姉は式部大輔に嫁いだとする(『古今采輯』石垣系図)。合わせると式部大輔直春は直光の姉婿であり、安芸入道宗慶と同一人物と解釈できる。

*21:『湯河家文書』永禄5年7月1日湯河直春起請文

*22:『蓮成院記録』天文2年1月条など

*23:『証如上人書札案』天文6年11月8日証如書状。『和歌山県立博物館所蔵文書』(天文7年か)8月10日宗徹書状

*24:『天文日記』天文5年5月18日条

*25:長八郎・善十郎は後に畠山氏に命じられ日高郡に移ったと伝えられる。日高の善妙寺に書状が残るのはそのためだが、この段階だとまだ久木にいたと思われる。

◆「尹弼」と石垣左京大夫家

謎の畠山一門考察第二弾。
今回採り上げるのは『笠畑家文書』に登場する「尹弼」という人物。

 

先日者就爰元之儀、早々音信祝着に候、近日可令帰宅候、各申合此時迄度頼入候、委細当兼川伊賀入道可申候、謹言

  (『笠畑家文書』11月21日前山・笠畑・奥・橋爪殿宛尹弼書状)


尹弼の発給文書はこれ一通のみだが、手がかりになる要素は散らばっていると思われ得る。
以下に比定のための材料を挙げ、順を追って検討していく。


①「尹弼」という諱
②文末の「謹言」
③取次の「兼川伊賀入道」
④宛先の前山氏ら賀茂年寄衆
⑤内容からの推定

尹弼はどの畠山一門か

①「尹弼」という諱

弼」の諱は当然、足利義尹からの偏諱である。
足利義材義尹への改名は明応8(1599)1年6月頃であり*1義稙への改名は永正10(1513)年11月9日(『尚通公記』)。
尹弼はこの時期に偏諱を貰える人物となる。
紀伊賀茂氏に関わりがあり、かつ義稙方の人物であるということは、彼が尾州家方の畠山一門という点は動かないだろう。


②文末の「謹言」

「謹言」と結ぶ人物は守護などの高位にある人物と考えられる。
紀伊に関わる畠山一門ならば、尾州家当主・石垣左京大夫家・宮原兵部少輔家が想定できる。
ただし、宮原兵部少輔家は御供衆に選ばれるような分家と比べて家格で劣る上(宮原兵部少輔家については別の機会に語る)、「謹言」と結ぶ宮原家の人物の書状は管見の限りは発見できなかったため、可能性は若干弱くなる。
一方で石垣左京大夫は家格が高く、石垣家と思われる畠山九郎(前回の記事参照)が「謹言」文書を発給している例があるため、十二分に考えられるだろう。


③取次の「兼川伊賀入道」

「兼川」という名字は『姓氏家系大辞典』などにも載っておらず、該当する氏族が見つからなかった。
ただし、この文書は写である(原本は確認できていない)。
このままでは判断材料にならないということもあるが、「兼川」と翻刻されているのは何らかの誤りである可能性を考えたい。
「兼川」は誤記で別の名字が記してあると考えた場合、候補として思い当たるのは「寒川」である。

寒川氏は日高郡寒川荘の在地勢力であり、領地は石垣荘から離れた山中にあるが、石垣家荘の南と接しているため、関わりがないわけではないと考える。
また天文末頃に寒川景範という人物が和合院(海南市別所願成寺)宛の知行給付の連署状を残している*2
加えて、寒川景範と連署している人物が飯沼姓というのも注目される。
このブログでは周知の通り(?)、飯沼氏は石垣家被官として見え、『足利季世記』では教興寺合戦で戦死した紀州人として康頼と同じ通称の飯沼九郎左衛門を記している。
その飯沼氏と連署する寒川氏も石垣家被官であると考え、「兼川伊賀入道」の訂正先として寒川氏が思い当たった、という次第である。

ただ、寒川景範と飯沼康頼を尾州家被官とする見解も存在する*3
願成寺和合院の所在は海南郡であるため、石垣家被官が知行給付をできる権限があるかという疑問の余地もある。
一方で同寺は石垣荘の北に位置しており、近い場所だったため石垣家が文書発給できたという考え方もできる。

飯沼康頼が尾州家被官である根拠とされているのは、『本宮社家玉置主計蔵文書』の2月5日長清・康頼連署状である。
内容は熊野本宮の人物と思われる本宮式部卿が某年2月1日に土生口の合戦で武功を挙げたことを賞し、忠節を求めたもの。

「長清」尾州家被官の遊佐長清が想定される。
遊佐長清は紀伊に文書発給をしたケースが多数あり、その場合確かに連署する「康頼」尾州家被官ということになる。
ただし、飯沼氏が他に尾州家被官として活動する例は他にない。
そのような氏族が、尾州家被官の筆頭格である遊佐長清と釣り合う立場にあるかという疑問は生じる。

花押を見ればそれぞれ遊佐長清・飯沼康頼と同一人物なのかを判断できるだろうが、残念ながら同文書を収録する『紀伊風土記』等は花押を写しておらず、今後運良く原本が発見でもされない限り花押での判断は不可能なようだ。

内容からの推定も、これと言って確証が持てるものはない。
熊野本宮に書状を発給する役割は石垣家より尾州家の管轄に思える。
また式部卿が功を立てたという土生口についてもも、同様の地名は藤並荘と日高郡に見られるため、どちらと考えるかで書状の意味合いも変わってしまう。

遊佐長清・飯沼康頼が連署する事態を想定できないのならば、片方が別人という可能性もある。
仮に「長清」が遊佐氏で「康頼」が別の被官だった場合、この連署状は尾州家被官のものが濃厚に、逆に「康頼」が飯沼氏で、「長清」が別の被官だった場合、この連署状は石垣家被官のものが濃厚になる。
そう考えた場合、飯沼康頼が尾州家被官である可能性は低くなり、飯沼氏は石垣家被官としてのみ見える人物であり、連署する寒川氏も石垣家被官である、という理屈は成り立つ。

現状では長清・康頼連署状の解釈については何ともいい難いので保留したい。
ひとまず、尹弼書状の伊賀入道の正しい姓は寒川氏であると提案するが、これを根拠のみに寒川氏が石垣家被官であると断言することは危険な気がするので避ける。


とはいえ①②③から総合して、尹弼が石垣家の人物である蓋然性自体は高いと考える。
その場合、「尹」偏諱を持つことから、大永2年頃の当主の九郎(=長経)より前の人間とも考えられる。

尹弼書状の発給時期

④宛先の前山氏ら賀茂年寄衆

宛先の前山氏ら四人は「賀茂年寄衆」として見える存在(前回の記事参照)。
この書状で記されているのは名字のみなので、名乗りから発給時期を推測することは不可能。
そこで、この「前山氏ら四人が個別に記されて宛先になっている」ケースそのものを検討してみたい。

四人が個別に記され宛先になっている文書は以下の通り。
『笠畑家文書』収録であり、このブログでは全て紹介済み。
(これ以外の『笠畑家文書』『中尾家文書』に賀茂年寄衆に宛てた文書の宛先は、「賀茂被官衆」「賀茂年寄衆」とし個々の名前は記されていない)

・(年未詳)11月21日某尹弼書状
・(永正末)6月9日曽我山宗・長連栄書状
・大永4年11月3日木沢英治・平英正書状
・(大永7年)2月11日遊佐堯家書状。同日小河基数書状
・(大永頃)10月1日九郎書状

一見してわかることだが、これらの書状は大永年間前後に集中している。
また、内容に関しても賀茂氏当主について触れたものがない*4
これは憶測だが、時期が固まっているのは偶然ではなく、大永頃は賀茂氏の当主に何らかの事情があり文書発給の対象にならず、年寄衆四人が個々に宛先で記されてるのもその事情が関わっているのではないだろうか。

この理屈で行けば、尹弼書状も大永前後のものと仮定できる。
とはいえこれは今回の考察の中でも特に憶測が強いので、次に内容も合わせて検討してみたい。


⑤内容からの推定

文書の内容はシンプルなものだが、「近日可令帰宅候、各申合此時迄度頼入候」という文言から、尹弼は在地を離れていることが伺える。
また、近日の帰還を告げつつ、賀茂氏に協力を要請していることから、尹弼は本人の意思ではなく外的要因で在地に戻れなくなっていたのではないだろうか。

この仮定と、石垣左京大夫家の人物の動向を突き合わせてみる。

まず、九郎(=長経)以前かつ、明応8年6月頃に改名した足利義尹から偏諱を貰える可能性がある石垣左京大夫家の人物として、明応9(1500)年9月に討死した畠山尚順(『拾芥記』)が挙げられる。
ただ、その場合書状発給のタイミングは明応8年しかない。
この年11月は畠山尚順細川政元と退治している最中であり、そのような状況で尾州家方の人物が紀伊の在地に戻ろうと協力を要請するとは考え難い。
よって尚順弟は候補から外れ、尹弼は尚順弟と九郎(=長経)の間に石垣家を継いでいた人物と絞られる。

さて、本命と考える時期は、永正17(1520)年である。
過去の記事でも述べた通り、永正17年8月に紀伊を没落した尚順は、その後足利義稙の支援のもと稙長方と合意の上で紀伊に復帰しようとしたが、翌年になり頓挫し稙長方と敵対するに至ったと考えている。
また、大永2年段階で九郎(=長経)が石垣左京大夫家を継いでいるのは、先代の人物がこの騒動で没落したからではないかとも仮定した。

その没落した先代こそが、この「尹弼」だったと言うのである。
永正17年11月段階ではまだ尚順の帰国作戦は頓挫していないと思われ、尚順と共に紀伊を離れていた尹弼はこれによって帰還できる見通しを述べたのではないか。
また近日中に帰宅できるとの若干楽観的にも映る見込みは、『上杉家文書』長尾為景宛書状で紀伊への復帰はすぐに可能だと強調していた尚順の姿勢と通じる

有力と考えているのはこの線だが、書状の年次は翌永正18年であり、稙長方との戦闘を見越して賀茂氏に協力を求めた可能性、また尚順没落の際には石垣荘に留まっていたが、翌年尚順と稙長が対立関係に入った際に、稙長方に廃されて没落していたという可能性もあるだろう。


憶測に憶測を重ねた形だが、結論としては「尹弼は九郎(=長経)の先代の石垣左京大夫家の人物であり、尚順の没落に連鎖して石垣家を稙長方に乗っ取られた」という可能性を唱えたい。


尹弼の出自

更にこの前提のまま、尹弼の出自について考えたい。
当時の石垣家は、尚順弟が継ぐなど尾州家当主と非常に密接な存在となっていた。
それを踏まえると、尚順弟が戦死した後も尾州家と近しい存在の人物が継いだと思われる。

第一候補は畠山尚順の子、もしくは尚順弟の子だろう。
畠山尚順の生年は1475年で、尚順弟は明応5年『石垣荘白岩丹生神社造営棟札写』願主の「寅千代丸」と考えられ、明応9年に戦死している。
尚順の子と考えた場合、稙長が5歳で「稙」偏諱を貰っているにも関わらず、その弟が「尹」偏諱を貰うとは思い難く、先に生まれた庶兄という想定になるだろう。
その場合、『両畠山系図「政氏」に該当するのが尹弼だったという線も出てくる。
「政氏」が石垣で長経に殺害されたという説を取る場合、戦死ではなく没落先から呼び寄せられて殺害された事態を考えられるだろうか。
また、子を作れるかギリギリの年齢ではあるが寅千代丸の遺児が継いだ可能性もなくはない。

尚順の近親でない場合は、他の畠山分家から石垣家に迎えられたことになる。
尚順方に属した畠山分家は、中務少輔家・播磨守家・石垣家・宮原家・右馬頭家・式部少輔家と多数候補があるが、このうち右馬頭家を検討してみたい。

右馬頭家に関しては、川口成人氏の研究がほぼ唯一の専論と言ってよく*5、以下の情報はこれに従ったものである。

右馬頭家の畠山政純(出家して伴雲軒紹高)は尚順方として紀伊随行した分家の中でも年長の人物だった。
注目するのは、上記の白岩丹生神社棟札の筆者を紹高が務めており、石垣家と直接の繋がりがあるという点である。
材料はこの一点だけではあるものの、紹高は幼年の尚順弟を補佐する立場にあったことが伺える。
そのような関係だったのならば、戦死した尚順弟の穴埋めの候補として右馬頭家もあり得たのではないだろうか。

更に言えば、紹高の後継者である右馬頭尹胤が一旦石垣家に入っていたとも考えている。
尹胤は紹高没後も紀伊に在住していた形跡が伺えるが、この当時すでに足利義稙は京に復帰しており、在京することは可能だった。
にも関わらず尹胤が紀伊に在住し続けたのは、紀伊に定住する居所があった、それが石垣荘という線はないだろうか、という話である。

原文が確認できていないため自信はないが、写であることを考慮して「尹弼」「尹胤」の誤記であり、永正末頃まで石垣家を継いでいたのは右馬頭尹胤当人ではないかと考えることもできるかもしれない。

また、『東寺過去帳』には大永7(1527)年に畠山義堯によって堺で殺害された「典厩舎弟」という人物が残り、これは右馬頭(典厩)家の長継の弟で、この年1月20日に殺害された畠山順光(『二水記』)と同時に殺害されたと考えられている*6
この「典厩舎弟」も、紀伊から没落し阿波に下っていた尹弼だと当てはめられないかと考えている。

殺害理由に関しては、「尹弼」と総州家がともに賀茂氏と繋がりを持っていたことが関わっているのではないか。
大永4年、総州家は賀茂年寄衆に尚順の筋目を持ち出して忠節を求めていた。
総州家は亡き尚順の人脈を吸収することを目論んでおり、大永4年の上洛戦には阿波公方方は直接参加していなかったため、好きに筋目を主張できた。
しかし、大永7年の上洛戦は阿波公方方も渡海して加わっており、そこで尚順方との尚順の筋目の競合が浮き彫りになり、その果てに「典厩舎弟」の殺害が起こったのではないだろうか。
総州家が賀茂年寄衆に前年の筋目を持ち出し忠節を求めた大永7年2月は、「典厩舎弟」らの殺害後であるのも、関わりがあると言えるのではないだろうか。

もっとも、その場合兄の長継が将軍偏諱ではなくおそらく稙長から偏諱を貰っている一方で、弟の尹弼は将軍偏諱を貰っているという不自然さはある。
これに関しては、例えば尹胤という先代が健在だった長継に対し、尹弼は石垣家を継いだ当人であるため、先に偏諱が授与されていた、長継は何らかのタイミングのズレで将軍偏諱を貰う機会を逃した、と考えられなくもない。
もしくは、不自然さを解消するために、尹弼=尹胤と想定し、長継が右馬頭家を継いだ一方で、その弟が石垣家を継いでいたと考えることは可能だろうか。

以上、仮定だらけだが、「尹弼」という未知の人物の輪郭をできるだけくっきりさせられないかと思い、私見を述べてみた。
仮に「尹弼」周りの史料が発掘されれば前提から崩れかねない論ではあるが、何かの参考になれば幸いである。


参考文献
川口成人『忘れられた紀伊室町文化人 : 伴雲軒紹高の活動と系譜』(日本文学研究ジャーナル19)

 

*1:森成史『足利義材の「義尹」改名とその政治的意義』(日本歴史906)

*2:『間藤家文書』天文16年6月15日飯沼九郎左衛門康頼・寒川与助景範連署状。天文19年閏5月10日飯沼九郎左衛門康頼・寒川与助景範連署

*3:弓倉弘年『紀伊守護家畠山氏の支配体制』(中世後期畿内近国守護の研究)

*4:天文年間にも賀茂年寄衆宛の書状が残っているが、この時は賀茂小法師丸という賀茂氏の若年の当主の存在が確かめられるいる

*5:川口成人『忘れられた紀伊室町文化人 : 伴雲軒紹高の活動と系譜』(日本文学研究ジャーナル19)

*6:『戦国武将列伝7 畿内編下』畠山順光

◆「九郎」と石垣左京大夫家

今回取り上げるのは、紀伊関連で登場する「九郎」という人物。
先行研究ではあまり取り上げられていないと思われるが、この人物の発給文書は二通存在する。

ただし、二つの文書はともに写しであるためか、花押については形状は似るものの完全一致しない。
疑問の余地はあるが、ひとまずは同一人物として話を進める。

 

二通の九郎書状

一通目は、紀伊国名所図会』に収録される九郎書状(一部歯抜けだが既に『町誌たちばなの里』翻刻が取り上げられている)。

 

今度於宮崎合戦□□無比類働祝着不及是非候、就其丹生図□之事為本知□□不入□□共一職進退申付事実也、然上者弥於向後忠節可為肝要候、謹言

紀伊国名所図会』大永2年12月20日   飯沼彦八宛九郎書状)


二通目は『笠畑家文書』収録されている*1

就爰元之儀貴志宮崎梶原へ、自然於別儀存念無疎略可相支事肝要候、然者一段可為忠節候、委細飯沼蔵人可申候、謹言

『笠畑家文書』10月1日   前山左京亮・奥四郎左衛門・笠松中務丞・橋爪与三左衛門宛九郎書状)

 

この九郎とは一体何者だろうか。
まず、文末が「謹言」なので、守護クラスの高位の人物と考えられる。
また、二通とも紀伊関係の文書なので、畠山氏、それも紀伊での基盤を持つ尾州家の人物であることはほぼ確実だろう。
更に署名が諱ではなく仮名であることから、若年の人物であることも想定できる。

そして、『紀伊国名所図会』書状は大永2(1522)年の年号が付記されている。
尾州家当主畠山稙長はこの年14歳。若年である九郎はそれと同世代の人物、もっと言えばその兄弟をを想定できるのではないだろうか。

特に注目すべきは『紀伊国名所図会』書状の宛先の飯沼彦八
この飯沼氏は石垣左京大夫の被官として伝わる人物である(過去の記事を参照)。

内容は、飯沼彦八の宮崎合戦(宮崎合戦については後述)での働きを賞し、丹生図での本知不入や一職進退などの権限を保証し、今後の忠節を求めたたものと思われる。
更に書状内で飯沼氏が領する丹生図石垣荘にある地名。

これらを総合すると、九郎は石垣左京大夫家の人物と見るのが自然だろう。

石垣家は左京大夫を極官とし、その地位の高さから「謹言」と結ぶ文書を発給しても違和感はない。
そして畠山稙長と同世代の石垣左京大夫家の人物となると、想定するべきは稙長弟とされる畠山長経*2ではないだろうか。

 

賀茂年寄中と九郎書状

次に『笠畑家文書』の九郎書状を検討する。
宛先の前山・奥・笠畑・橋爪の四氏は、賀茂谷の領主賀茂氏に属し、賀茂庄橘本を中心に領していたと思われる被官*3
他の書状の宛先では「賀茂年寄衆中」「賀茂被官衆中」「橘本被官惣中」などと記される(以下、「賀茂年寄衆」で統一)。
内容は、こちらのことは貴志・宮崎・梶原氏と協力することが肝要とし、更なる忠節を求めたもの。

これは未年号文書なので年次比定の必要がある。
前述の通り、九郎が仮名表記なのは若年のためと思われるため、二通の書状はさほど年代が離れていないと考えられる。

そこで、比定の鍵として宛先の人物を検討したい。
『下津町史』には『笠畑家文書』『中尾家文書』などといった賀茂荘関連の文書が収録されているが、賀茂年寄衆に関わる書状のうち、宛先または差出人として下の名前が判明している書状は他に3通あり、差出人・宛先は以下の通り。


年未詳6月9日曽我平五郎□宗・長少将連宗書状写(笠畑家文書)
「前山左衛門九郎殿」「笠畑左衛門二郎殿」「奥四郎次郎殿」

「賀茂谷役所事、為可致取沙汰候、御公用者有次第可致進細候、然者於御扶持儀者、重而可被仰出候由候、恐々謹言」


大永4年11月3日英治・英正書状写(笠畑家文書)
「橋爪三郎左衛門殿」「奥四郎右衛門殿」「笠畑中務丞殿」「前山新介殿」


天文5年5月6日寺領売渡証文(中尾家文書)
「番頭与十郎」「前山介九郎」「賀茂小法師丸」「笠畑左衛門二郎」「中尾新兵衛」「奥四郎二郎」「橋爪与三右衛門尉」

二通が年号付き、一通が未年号だが、未年号文書の差出人の「曽我平五郎□宗・長少将連宗」「曽我平五郎山崇・長少将連栄」の誤記だと思われる。
両者ともに畠山尚順の被官であり、ともに稙長被官の丹下盛賢と連絡を取ったり*4、永正15(1518)年にはこの組み合わせで連署状を発給している*5
内容は賀茂谷役所についてのもので、出兵を示したり忠節を求める文言は無く、軍事活動に関わる発給文書ではないと考えられる。
そのため、発給時期は尚順紀伊支配に専念して以降の永正15年から、尚順が追放される永正17(1520)年の間に絞り込める。

以上から、賀茂年寄衆の代表はこの変遷を辿っていることまでは確定する。

・前山氏
①左衛門九郎→②新介→③介九郎
・笠畑氏
①左衛門二郎→②中務丞→③左衛門二郎
・奥氏
①四郎次郎→②四郎右衛門→③四郎次郎
・橋爪氏
①某→②三郎左衛門→③与三右衛門

笠畑氏の左衛門二郎→中務丞、奥氏の四郎次郎→四郎右衛門は官途成した同一人物として考えることが可能、残りは別人の可能性が高いだろう。

これを踏まえて、九郎書状が「①永正末→②大永4(1524)→③天文5(1538)」の、どの期間に書状発給されたかを推測する。
まず、天文3-4年には左京大夫を名乗る石垣家の人物(=長経)がいるため*6、③以降に九郎書状が発給された可能性はまず無いだろう。

①の前と考えるには、永正末から天文5年までの20年ほどの間に前山氏が四人、笠畑・奥氏が三人の代替わりを起こしていることとなり、流石に不自然と考える。

よって可能性が高いのは①と②の間、②と③の間と想定する。
九郎書状宛先の笠畑氏は中務丞、奥氏は四郎右衛門であり、②の宛先と同一人物と思われるため、どちらの間に入れる場合でも想定される人物の数は増えない。

そのため絞り込みの材料は前山氏と橋爪氏の名乗りになる。
ここで利用したいのが、『笠畑家文書』の南紀加茂庄前山氏由緒」という由緒書である。
この由緒書は江戸期のものであり辻褄が合わない部分もあり、全幅の信頼は置けない史料ではあるが、全くの荒唐無稽という訳でもなさそうなので一考の価値はあると考えた。

さて、この由緒書内の前山氏の系譜は、明応─天文間の惣領として『前山左京亮長重「長家一男初新助」』という人物を記す。
そして系譜内で左京亮を名乗ったとされるのはこの長重のみで、初名は新助としている。

②の山新が九郎書状の発給時期に左京亮に官途成していたと考えるならば、九郎書状は②-③の間になる*7

そして、橋爪氏は①-②の間と想定すると与三右衛門→三郎左衛門→与三右衛門と3人代替わりしていることになるが、②-③の間と想定すると三郎左衛門→与三右衛門の2人のみとなり、短期間で代替わりが起こることへの不自然さは減る。

これらの仮定から、九郎書状の発給年次は②-③の間、つまり大永4年から天文2・3年の間とする方が妥当だと考える。
この時系列順ならば、取次の飯沼蔵人は大永2年の九郎書状宛先の飯沼彦八の後身なのかもしれない。

ただ、内容・日付的には、賀茂被官衆が貴志・宮崎氏を通して尾州家への忠誠を表明した(永正17年)10月6日書状(前回の記事参照)との関連も思わせる。
とはいえ、関連すると考えた場合、九郎書状にのみ貴志・宮崎氏に加え梶原氏も記さることになるのは気になる。
梶原氏の明確な尾州家への敵対は翌永正18年なので、尾州家方として記されること自体は問題ない。
今回は上記の前山氏の名称の変化も考慮し、大永4年以前の書状とするには若干の不利があると考え除外する。

両畠山の紀伊を巡る争いと賀茂年寄衆

ひとまず、大永4年~天文4年の間という発給時期を前提とし、次に内容から九郎書状の位置付けを考える。
尤も、結論から先に言うと、確実な年次比定できる材料はない。

上述の『笠畑家文書』大永4年11月3日の書状は、畠山総州の奉行人である木沢英治・平英正が発給している。
内容は、勝仙院(尚順)が仰せ付けた筋目の如く、「当庄」を御料所にし、併せて那賀郡野上八幡宮領を宛行うので忠節を求めるものである。

更に総州家が賀茂年寄衆に書状を宛てたケースは『笠畑家文書』にもう一つあり、2月11日の遊佐堯家書状・小河基数書状がそれに該当する。
二通の内容は阿波勢と仰せ合わせた御入洛の儀について知らせ、先年の御屋形様(畠山義堯)の筋目に相違はないとし、忠節を求めるもの。

内容から阿波勢が総州家と共に上洛作戦を開始した大永7(1527)年と推定されている。

この大永4年・大永7年は、ともに総州家が軍事行動を起こした年であり*8、その際に賀茂氏を誘った動きが判明する。また、英治・英正書状では尾州家の尚順が仰せ付けた筋目を総州家が遂行しようとしている。
御料所を仰せ付けるまでの経緯は不明瞭ではあるが、永正の中頃から中央政治から遠ざかっていた尚順がこれを仰せ付けていることから、この御料所は出奔後の義稙のために仰せ付けたものだったのではないだろうか。

義稙出奔後、大永元(1521)年に尚順と協力して広城を抑えようとした梶原氏下津町大崎を拠点としており、賀茂氏の拠点とは近い。
この時に賀茂氏も梶原氏同様に義稙・尚順方に転じた可能性があり、その際の筋目を利用し総州家も賀茂氏に誘いをかけたのではないだろうか。

また、資料④では堯家は先年の御屋形様の筋目と述べており、これはおそらく大永4年に総州家が保証したものを指していると思われる。
文言から両者はそう頻繁にやり取りを交わしていた訳ではなく、賀茂氏は一貫した総州家方だった訳では無さそうだ。
つまり賀茂氏は何かしら総州家が巻き返す動きがあると靡く態度をとっていた可能性があり、梶原氏もまた同様の動きを取っていたのではないだろうか。

九郎書状の年次比定の材料の決め手がない、と上で述べたのはこの梶原・賀茂氏の流動的な動きを指してのことでである。
梶原氏・賀茂氏双方が尾州家方に靡いたタイミングで、九郎書状は発給されたと見られるが、大永7年以降に尾州家方に戻った可能性もあるし、(若干節操がないが)大永5-6年に尾州家に忠誠を示した後に再度の総州家方に靡いた可能性もある


余談だが、大永2年12月の九郎書状で触れられる「宮崎合戦」も、賀茂・梶原氏が関わっていた可能性があると考える。

「小南村井上林家由緒」(『林茂雄家文書』。『下津町史』収録)では賀茂氏被官井上氏の由緒として、「弘治年間に貴志・宮崎氏が賀茂庄に焼き討ちを行い、反撃として賀茂・梶原氏が宮崎表に陸路と海路から攻め寄せた」という「宮崎合戦」での働きを記す。
弘治年間の「宮崎合戦」の実否については今の所見当がつかないが、この賀茂・梶原氏が宮崎・貴志を海路を経て攻撃する構図は、大永2年の「宮崎合戦」も同様の構図だった可能性がある。

大永2年での情勢について、宮崎氏は前後の行動から一貫した稙長方と思われるため、宮崎氏が稙長方と敵対して攻め込まれたとは考え難い。
そうなると宮崎での戦闘は稙長方の宮崎氏が攻撃されたことになるが、石垣家が宮崎で戦闘をしていることから、宮崎氏の東に位置する勢力が攻め込んできた線は無いだろう。
そのため、想定される敵は西ないし北から来たこととなり、最も有力なのは北に位置して尚順方に靡いた梶原氏、また大永・弘治ともに梶原氏に近しい立場だった賀茂氏も加わっていたという想定である。
尚順は大永2年7月に既に没しているが、義稙・阿波細川方として引き続き旧尚順方が活動して稙長方と対峙していたのではないか。

まとめ

以上の検討から、九郎の石垣家当主としての初見は大永2年と考える。
そこで関わってくるのが『両畠山系図「宮原長経による石垣政氏殺害」である。
長経の宮原家継承や、稙長の兄弟の政氏の実在の形跡は現状では見当たらない。
ただ、この伝承が示す「石垣家当主が正式な継承でない形で長経に渡った」という状況ならば大永2年というタイミングで成立し得る。
つまり、先代の石垣家当主は永正17年の紀伊での騒乱で尚順と共に没落し*9、後釜として長経が収まったと想定している。

以前の記事で、「『古今采輯』収録の系図で長経が石垣家元祖と記されるのは、それ以前の系譜と断絶があったから」という予想を立てたが、その断絶とは永正17年の石垣家先代の没落だったのではないだろうか。
ともあれ、「石垣家当主の殺害」という伝承は年齢から考えても長経の野心から生じたものではなく、周囲の政治状況によって起こったものと考える。

また、二通の発給文書からは、九郎(=長経)は宮崎荘への援軍や、賀茂年寄衆と梶原・宮崎・貴志氏との間を取り持ったりと、石垣荘の範囲に留まらない活動をしていることが伺える。
本来の石垣家当主もこの程度の権限があった可能性もあるが、『祐維記抄』永正17年8月に見える広城の大将として派遣された稙長弟こそが九郎(=長経)であり、その名残から紀伊での広域の活動を可能にしたという可能性も触れておきたい。

 

*1:同様の史料が『奥家文書』『前山家文書』などといった呼称の文書集にもあるが、ここでは『下津町史』収録文書に従い全て『笠畑家文書』で統一する。

*2:『両畠山系図』などで稙長弟の石垣家を継いでいたとされる畠山政氏の可能性もあるが、実在から不確かな人物なので今回は考慮しない。また、長経の仮名が九郎ならば過去の記事で触れた「吉益系図」での七郎という仮名は誤りということになる。

*3:『下津町史 通史編』

*4:鹿王院文書』10月8日盛賢書状、同10月11日山崇書状

*5:施福寺文書』永正15年6月17日曽我平五郎山崇・長少将連栄連署

*6:『御内書案』『御内書引付』8月16日畠山左京大夫足利義晴御内書

*7:ちなみに、由緒書で左衛門九郎は嫡流ではなくその弟の仮名として見られ。更に『加茂神社棟札』天文18年7月12日に見える「前山浄円長光」という人名について、由緒書では浄円を「左京亮」、長光を「左衛門九郎」としている。これに従うと左衛門九郎からその子世代の新介→左京亮、その弟の左衛門九郎と、3人が代替わりしているが、世代としては二世代の交代に留まっている可能性がある

*8:『戦国武将列伝7 畿内編【上】』「畠山義英・義堯」

*9:この時に尚順方に属した紀州在住の畠山一門として畠山右馬頭家が想定されている(参照)。

◆誰が畠山卜山を「追放」したか

永正17(1520)年、畠山尚順(入道して卜山)は紀伊から没落した。

この尚順の没落についての評価だが、特に昔の先行研究においては「息子稙長に追放された」と書かれることが多い。
また親子相克の例として、あるいは黒幕を守護代遊佐順盛とし後の遊佐長教の行動と絡め下剋上の例として、衰退する守護家の文脈として語られている印象を受ける。

一方で、近年の研究の総括となる『戦国武将列伝7 畿内編下』畠山尚順・畠山稙長の項目では尚順の没落を「湯河氏らに背かれ没落」としており、稙長の関与は記されていない。
過去の記事で紹介しているが、近年になり稙長の生年は従来より下っており、父の没落時彼はまだ12歳でしかない。
おそらくは、陰謀の主体になり得ないような年齢と判明したため、どうやら黒幕と考えるのは無理があるぞという認識が共有されていってるのではないだろうか。

そのためか近年では稙長が追放の黒幕という説は薄れつつあるようだが、はっきりと従来の言説が否定された研究は管見の限りない(あればご指摘願いたい)。
そこで今回は各史料を検討して、尚順の「追放」の過程を改めて確かめてみたい。

従来の尚順の没落想定

尚順紀伊から没落したことを明確に示すのは、『祐維記抄』永正17年8月の記事

 

尾州内衆与被及合戦、打負テ、人ニ三十人ニテ泉堺迄落候ト云々、
仍広ノ大将ノ事、尾州御曹司河内に被座、弟を内衆との相定云々
 

これにより、畠山尚順が内衆との合戦に負けて堺まで没落したことと、尚順の後任の広城の大将に畠山稙長の弟が迎えられることが内衆と(稙長)の間で定められたことがわかる。
ただし、この記事は8月としか記されておらず、尚順紀伊から没落した日付、広城の大将の決定の日付が明確にわからないという問題がある(前後の日時は6月23日と10月9日まで飛ぶ)。

没落のタイミングについては、『上杉家文書』8月11日の長尾為景宛卜山書状で、「中意雑説により紀伊を出て無事に堺に退いた」尚順自身が述べているので、それ以前であることは確定する。
この時、尚順と対立したのは奉公衆の湯河光春尚順被官の野辺慶景であることが、『神宮寺小山家文書』からわかる。
同文書は『解題 紀州小山家文書』で全て翻刻されておりweb上でも閲覧できるが(同史料集の「補論1 神宮寺小山家文書」に一部翻訳あり)、ここに全文を載せる。

 
今度被差下上使処、所々知行等光春押領、度々雖被成御届候、不被去渡候、無是非次第候、近日国之儀、以御思案、如先々可被仰出候、然上者平守之事、肝要被思召候、堅固之覚悟被任御下知、其働可為神妙之由、可申旨候、恐々謹言、
 
 『小山家文書』7月11日  小山八郎左衛門尉宛丹下備後守盛賢・遊佐左衛門大夫長清連署状)
 
野辺掃部允依企不思儀覚悟、国怱劇言語道断次第、湯川・玉置許容之処、光春所々押領、然時者別儀各不敏 旦非分国候、掃部充並令同心輩赦免之上者、申合別而忠節可為神妙候、委細遊佐左衛門大夫・丹下備後守可 申候也、謹言
 
 『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛稙長書状)
 
野辺掃部允慶景依不思儀之覚悟、国怱劇出来所々合戦、湯河・玉置動被思召無比類御許容処、国人知行其外光春押領、種々雖被成御届不被致承引、剰広庄押而可被入候由、言語道断然者御敵造意候歟、所詮非可被捨国候条、慶景並令同心仁躰被召置御恩地被仰付上者、如先々各可被申合、若背御下知輩在之者、永代被放御被官至知行候者忠次第可被仰付、然時者忠節可為肝要候、於時宜者、神保式部丞・保田五郎右衛門尉被仰含由 可申上候、恐々謹言、
 
 『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛盛賢・長清連署状)
 

以上から、尚順が没落する以前の7月の段階で湯河氏の押領が問題視され、畠山氏の制止にも応じないことと、それに対する対応の協議が行われていることがわかる。
また、平守(平須賀城)は野辺氏の居城と考えられており、それを固める指示が出されていることから、野辺慶景の造反はこの時点では起こっていなかったと考えられる。

多くの先行研究ではこれらの史料により、8月時点で稙長方は野辺慶景らとともに湯河氏も赦免し、尚順を切り捨てる形で戦乱を沈静化させたという解釈しているように感じる。
おそらくは、その前提による対応の早さが稙長黒幕説を根強くしていた一因なのだろう。

だが、果たしてその解釈は正しいのか。実際はその後も尚順の処遇に関わると思われる史料は存在する。

足利義稙による尚順の復帰支援

就卜山*1進退之儀、被成下知処、為礼太刀一腰、馬一疋鵇毛、鷲眼万疋到来、神妙候也
十月八日 (花押)
畠山次郎とのへ
 
(山下智也『中島家文書所収 畠山氏関係および中近世移行期史料』「刈谷市歴史博物館研究紀要2」)
 

この文書は写しではあるが、花押は永正18年頃の足利義稙のものに似ている。
卜山の進退について触れていることから、宛先の畠山次郎も畠山稙長と見てよいだろう。
要するに、この御内書は永正17年8月の尚順の没落後の10月に、義稙が稙長に尚順の処遇についての下知を下し、稙長がそれに返礼をしたことを示す史料なのである。

尚順の処遇について幕府から下知が出たことは、『伊勢家書』永正17年9月26日の根来寺宛の飯尾貞運・斎藤時基連署状(上の大日本史料のリンクを参照)からも判明する。
これを見る限り、卜山(尚順)の処遇に関わることへの御内書に稙長が応じる姿勢を見せたことは明白と言っていいのではないか。

それを裏付けるように、『上杉家文書』9月28日長尾為景尚順書状では「都鄙(京と尾州家)と申し合わせて近日入国するつもりで、そうなればすぐに本意を達成できるので安心して欲しい」と述べている。
為景宛の一連の書状は、越中の神保慶宗討伐に長尾氏の助力を要請している中で出されたものあり、相手方に弱みを見せないよう自身の境遇についても問題がないことを強調している傾向はある。
が、前述の史料と突き合わせると、京都からの下知と稙長方がそれに応じる姿勢を見せたのは確実であり、その点においては尚順の報告に誇張や事実誤認があるとは考え難い。

そのため、義稙の下知の具体的な指示は、尚順紀伊への復帰を支援するものであると考えてよいだろう。
また同『上杉家文書』8月11日の書状で尚順は為景に紀州国民がいかに子細を述べようとも、遊佐順盛と調談し軍事行動を起こして解決するつもりだ」と述べており、この下知は敵対勢力を討伐したい尚順の意思も後押しするものでもあったのではないか。

が、翌年には別の動きを示す史料が存在する。

 
対御屋形貴志宮崎依無別儀候、日吉兵部少輔遣候、処々各無疎略通慥相届候、神妙候、就其此刻弥急度被色立候ては善悪尾州可無御取合候、不紛忠節候者、於口郡少所可申納候、謹言
 

この書状内で、湯河光春は「御屋形」には別儀ないと述べる一方で、敵対行為をしたのが尾州が善悪を取り合わなかったためだと述べている。
文脈的に「御屋形」尾州は別人と考えられ、それぞれ稙長尚順と想定して問題ないだろう。

つまり、これは湯河氏の稙長方に対しての弁明であり、2月6日というタイミングでこの書状が出されたということは、翌永正18年になっても畠山氏と湯河氏の対峙は続いており、この時点でようやく落とし所が見えたということになるのではないだろうか(広城まで押領しようとした湯河氏の行為が尚順への不満のみで都合がつくかは別としても)*2

その前提で考えると、もう一点関連資料が浮上する。

 
今度応御下知、各致忠節之由、貴志宮崎注進、尤神妙、弥粉骨肝要之由可申聞旨被仰出候、恐々謹言
『笠畑家文書』10月16日 賀茂被官衆中宛成賢*3・長清書状。)
 

「御下知」の主体は畠山氏なのか、9月の義稙からの尚順進退の下知に関わっているのかは判断し辛い。
ともかく、この賀茂被官衆の忠節を貴志・宮崎氏が注進していることに注目したい。
上記の光春書状でも御屋形(稙長)と並んで貴志・宮崎氏が弁明の対象になっていることを合わせ、貴志・宮崎氏はこの騒動においていち早く尾州家支持の姿勢を取ったのではないだろうか。
この解釈の場合、賀茂被官衆の忠節とは、根来寺や稙長宛の幕府からの書状で触れられている尚順復帰への支援を指すのだろう。
このような関連要素から、賀茂被官衆(年寄中)宛のニ通の書状を一連の騒動に関わるものだと考える。

話を光春書状に戻すと、稙長との和解は望むが、尚順に対しては拒絶が伺える。この根深い尚順への反発が、幕府によって後押しされていた尚順紀伊への復帰を最終的に阻んだものである可能性は高い。
その後、『祐維記抄』永正18年5月11日条では尚順は梶原氏と結託して広城に進出しようとしたものの敗北したとある*4
この段階になると、流石に明白に尚順と稙長方は敵対していると言い切れる。
そして、その転機となったのは上記の湯河氏などの反発による紀伊への復帰の頓挫と考えている。
『上杉家文書』を見るに尚順紀伊復帰へのモチベーションは相当なものであり、それを白紙にした稙長方や紀伊勢力に対し武力衝突も辞さず復帰を狙ったのではないか。

総合すると、「8月の段階で稙長は湯河氏を赦免し、更に尚順を切り捨てて紀伊の騒動は収まった」という想定は成り立ちづらいと考える。
義稙からの下知を受けた稙長方は尚順の復帰を支援する振る舞いをしており、翌年2月頃にそれが頓挫することで、初めて従来想定されていたような父子対立の構図となったのではないだろうか。
仮に稙長方が8月段階で尚順の切り捨てを企図したとするにしても、その後の義稙からの下知に応じたことでその方針は撤回したことになるだろう。

湯河氏「赦免」の再検討

これらの前提を踏まえた上で、『久木小山家文書』の一連の書状を解釈し直してみたい。(『解題 紀州小山家文書』に載る訳を下敷きにしている)
 
今回上使を差し越されたところ、湯河光春の各地での知行押領に度々連絡をされたものの、未だに放棄されないとのこと、どうしようもないことです。
近日の国のことについて、考えをもって、先々のごとく仰せ出られるように。こうなった上は平須賀城のことを肝要だと考えられたい。堅固の心構えを任される御下知で、その働きを為すようにと伝えます。
 
『小山家文書』7月11日  小山八郎左衛門尉宛丹下備後守盛賢・遊佐左衛門大夫長清連署状)
 
野辺慶景の思いがけない心構えの企みによって、国中が混乱になったのは言語道断のことです、湯河・玉置を許容したところ、湯河光春の各地の押領が問題になり、そのような時に別の問題の発生はとても都合が悪いです。
ただし国を分けるものではないので、野辺慶景と彼に同心したものを赦免の上は、申し合わせて特別に忠節をなすべきです。
委細は遊佐長清・丹下盛賢が伝えます
 
『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛稙長書状)
 
野辺掃部允慶景の思いがけない心構えにより、紀伊国中が大混乱となり、各地で合戦が繰り広げられた。湯河氏や玉置氏をともすると特別に許容しようと考えられていたところ、国人知行そのほかの湯河光春の押領について様々に連絡されたが承引いたされず、あまつさえ広庄に強引に入られたとのこと、言語道断でそうなると敵として悪事を企てているということでしょうか。
結局のところ、国をないがしろにされるというものではないので、慶景とそれに同心した連中については召し抱えて、主君から与えられた領地についてはそのままにして赦免なさるとのことなので、以前の通りそれぞれ申し合わせ、下知に背くものがあれば、永代に被官を放ち、知行については忠次第に仰せ付けられるはずであるので、忠節をすることが肝要です。
ふさわしい時期に、神保式部丞・保田五郎右衛門尉が説明するので申し上げるように。
 
『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛盛賢・長清連署状)
 

まず最初に注目した所は、8月書状の「湯川・玉置許容之処」「湯河・玉置動被思召無比類御許容処」である。
7月書状に見られず8月書状に見られる記述であり、これだけ見ると、湯河・玉置氏に対する許容は二通の書状の間に起こったように見える。
ただ気になる点もある、許容した件は「湯河氏の押領・尾州家の制止」の前に記されていることである。
加えて、その後の押領が問題視されてるのは湯河光春であり、玉置氏は含まれていない(玉置氏についてはその後の動向も不明瞭)。

なので、こういった解釈もできないだろうか。
「許容」された湯河・玉置氏の行動とは、まさにこの押領行為だったのではないか。
尾州家はその行為自体には罪に問わないなどといった条件で、押領した知行は返すように湯河・玉置氏に再三の連絡をしていたが、湯河光春は知行を返そうとはしなかった。
すなわち湯河氏の押領とそれに対する尾州家の許容は7月11日以前に発生したものと考えてみる。

にも関わらず、許容の件は8月20日の書状になってから記されている。
その解釈については、広庄に乗り込もうとするなどよりエスカレートしていった湯河氏の反発(更にそれを助長したと思われる野辺慶景の行動)に対して、「例外的に許容したというのにけしからん」と強調して批判を鳴らす意図があったのではないか。

もう一つは、稙長方が赦免した野辺慶景と「野辺に同心した者」の解釈。
先行研究ではこの「野辺に同心した者」を湯河氏とみなしているが、疑問の余地はあると考える。

「野辺に同心した者」が湯河氏ではないと考える理由は複数ある。
まず、慶景の行動より前に湯河氏の押領などの反発行動は起こっていたと考えているので、「野辺に同心した者」と扱われるだろうかという点。
また、「野辺に同心した者」の処遇については「畠山氏が与えた領地は召し置き仰せ付けた」とあり、奉公衆であって被官ではない湯河氏がこの表現に該当するだろうかという点。
ついでに言えば、この書状の意図も踏まえるべき要素なのではないか。
一連の書状は小山氏に宛てられたものであり、『小山家文書』では野辺氏は小山氏の取次を務めるなど、近しい立場にあるようだ。
つまり、この書状は湯河氏の赦免を連絡するためのものではなく、「野辺らは特別に赦免したが、それに近しい小山氏もこれを肝に銘じるように」と野辺氏に近しい者に釘を刺す意味があったと考えられないだろうか(ついでに言えば湯河・玉置への対応は「許容」、野辺慶景らへの対応は「赦免」と使われている言葉が違うのもポイントかもしれない)。

総合すると、湯河氏の押領などの反発は尾州家から最も問題視されていたものであり、赦免はされておらず常に対立軸にあったという解釈になる。
上のニ件の解釈はともに断言できないものだが、問題提起として記したい。

尚順「追放」過程の再解釈

「湯河氏らの押領は当初から問題視されていた」「野辺慶景の造反後は湯河氏は赦免されていない」この解釈を前提として、時系列を想定してみたい。

まず、話の発端は湯河・玉置氏の押領
後に湯河光春が尚順を非難しているように、湯河氏からすればこの押領を巡る問題は尚順に非があると認識していたのかもしれない。
先行研究では尚順紀伊の国衆などに強硬的な姿勢で挑み、それによって反発が生まれたと想定されており、この見解については異論はない。
ただ、この段階での稙長方は尚順方の姿勢に同調していたと思われ、押領を咎めて許容の代わりに奪った知行を返すように何度も求めたが、湯河氏は応じない。
そのため尾州家は平須賀城を固めるなど、武力衝突の可能も考慮しだす。
これが7月11日時点での状況と考える。

そして、8月に入ると野辺慶景の造反と、畠山尚順紀伊からの没落が起こる。
慶景の企みの具体的な行動・動機についてははっきりしない*5
動機としては湯河氏らを庇ったか、尚順の強硬的な姿勢に対する反発などが考えられる。
あるいは、野辺慶景自身は直接尚順を攻撃していないものの、平須賀城で湯河氏を制止する役割をボイコットするなどして間接的に混乱を招いたか。
いずれにせよ、慶景自身かそれに加担した内衆との内輪揉めで、尚順は広城に戻れず没落に至ったと考えられる。

その結果、「国総劇」と言われる事態が発生し、うち一つが湯河氏の広庄押し入りなのだろう。
稙長方はこの「国総劇」を前にして、事態の沈静化のため、野辺慶景らを赦免して対抗勢力を湯河氏らに絞ったと思われる。
おそらく、慶景らは尾州家の紀伊の領地を湯河氏に売り渡したり、外部勢力と結びついて尾州家そのものと敵対することまでは考えていなかった*6
尚順に造反した内衆であっても、紀伊に自分の知行を抱えており、湯河氏らに領地まで奪われるべくもないため、手打ちに至ったのではないか。
稙長弟の広城大将派遣も、内衆の赦免後に起こったものだろう*7

不確かな点は、稙長方の内衆赦免・稙長弟派遣などを尚順がどこまで許容していたか、である。
8月11日書状で尚順は、紀州国民」の征伐を遊佐順盛を企図していると述べている。
紀州国民」は文脈から考えて少なくとも湯河氏は含まれているはずで、また稙長方も湯河氏には対抗しているので、尚順方と稙長方が湯河征伐という点において同調していてると考えても問題はない。

ただ、11日段階では野辺慶景らも討伐対象として想定されていたのが、20日段階で稙長方は慶景らの赦免に方針転換したという可能性はある。
その場合、この方針転換は尚順の同意を得ずに行われており、更に稙長弟の派遣は尚順紀伊復帰を否定するものだったという解釈になる。
一方で稙長弟はあくまで尚順復帰までの名目上の繋ぎであり、一連の方針転換が11日段階で行われつつ、尚順からも同意を得ていたという想定もできる。
これに関しては断定できる根拠がないので、記して後考を待ちたい。

まとめ

以上のように見直した限り、一連の騒動に対する稙長方の反応は受動的であり、主体的に尚順を追放させた黒幕とは思い難い(仮に黒幕であってもその後起きる事態に明らかに想定外の反応を見せており、相当お粗末な動きをしていたことになってしまう)。
重ねて言うが、8月段階での稙長方の方針がどのようなものであっても、義稙の下知に応じた時点で9月段階の方針は尚順の復帰支援になっていることには変わりはない。
ただ、野辺慶景らの内衆や湯河氏など、紀伊の人間は尚順に対して不満を抱えている者が多かった。
それらの反対を押し切ってまで尚順を元の地位に復帰させるのは現実的ではなく、翌永正18年に稙長方は尚順復帰を諦め湯河氏らを赦免し紀伊の騒乱を収めるという落とし所を選んだのではないだろうか。

確かに結果的に見れば稙長方が湯河氏らを赦免して尚順を切り捨てたという点は従来の解釈と変わりはない
ただしそれは8月段階ですぐに決着したものではなく、紆余曲折があった上で翌年までずれ込むという過程を経たものであることを強調したい。

ここからは余談。永正18年年3月7日に足利義稙は京を出奔しているが、その一ヶ月前まで畠山氏と湯河氏の問題はもつれ込んでいたことになる。
出奔の原因は明言されていないため、従来様々な理由が考察されていたが、この尚順の進退問題も切っ掛けの一つとして考えられるのではないか。
出奔直後から畠山総州家や阿波勢との結託は噂されていたが、確実に直後の義稙との提携が確認できるのは堺で出迎えた尚順
このタイミングかつ、尚順のいる地を出奔先に選んだのは偶然ではなく、一連の紀伊の騒動が関わっていたという説である。

 
 
参考文献
新谷和之『紀伊国における守護拠点の形成と展開』「南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆」
山田邦明『戦国のコミュニケーション』

*1:論文内の翻刻では「下山」としているが、原本を見るとニ行目の「下知」と比べると僅かだが「卜」に近い形状をしている。「下山ついての進退」と解釈すると意味が通りづらいことや、宛先が畠山氏であることをを考えると卜山=尚順とするのが自然と考えた。

*2:ついでに言えば、『上杉家文書』(永正18年)1月19日の卜山書状で12月21日に為景が神保慶宗を討ち取ったことを賞している。一連の越中計略は尚順が没落後も在地ではつつがなく続いており、「尚順を追放した」稙長方が何か横槍を入れたような形跡はない、尚順も父子対立を匂わせることは(弱みは見せないという意思があったのかもしれないが)記しておらず、翌1月段階ではまだ父子で対立しているという認識は双方になかったと考える。また尚順越中計略が「稙長による追放」の動機にはなり得ないとも考える。

*3:原文は確認していないが、写であるため、「成賢」に関しては永正末年から遊佐長清との連署状が多数見られる丹下盛賢の誤記と推測する。

*4:なお、『祐維記抄』の記述では尚順自身が広城に入ろうとしたように受け取れるが、『佐治文書』永正18年5月3日に尚順細川高国退治のために足利義稙が淡路に動座したことを伝える書状を発給している。同日に同内容の飯尾之秀・斎藤時基連署状が発給されており、3日時点では尚順は飯尾・斎藤と同じ場所にいたと考えるのが自然であり、それから10日もしない間に渡海して広城に攻め込んで淡路に敗走するというのは厳しいのではないか。よって、『祐維記抄』の記述は誤認があるか(祐維は他の記述でも尚順の河内出陣や海部氏に殺害されたという風説を載せ、後日訂正している)、解釈に問題があると考える。広城に入ろうとした(あるいは既に入っていたのか)は梶原氏のみで、尚順の淡路への移動は義稙の動座に付き従ったものと考えることも可能ではと考えている。

*5:慶景が平須賀城に在城していたと仮定すると、平須賀城と広城との位置はかなり遠いため、尚順と慶景が直接争ったとは思い難い。その場合尚順と争ったのは慶景に同調した内衆となる

*6:尾州家の敵対勢力は畠山総州家・阿波細川家などだが、この一連の騒動で彼らが動いた形跡はなく、また慶景らがそういった露骨な売国行為までしていたのならば、建前であっても「国をないがしろにするものではないから」とすんなりと赦免にはならなかったのではないか

*7:『祐維記抄』に書かれる尚順と争った内衆と稙長方と相談し広城大将を決めた内衆を別個のものと解釈するのは苦しいので、湯河氏は尾州家の内衆ではないことを踏まえ、尚順と内衆の争いと湯河氏の広庄侵入は別々の事態と考えた。

◆幻の和泉守護畠山晴熈

『久米田寺文書』には畠山晴熈の発給文書が含まれている。

今度寺領之儀 存分之通
雖申出候 種々懇望之上者
無別儀候 早々可有寺納候
猶遊佐若狭守和田対馬守可申候
恐々謹言
 十二月十六日 晴熈
 久米多寺


後に畠山氏が三好実休を討ったことでお馴染みの、和泉久米田寺に宛てたもの。
古くから紹介されている文書であり、既に先行研究*1晴熈が和泉守護を務めていた可能性が指摘されている。
その解釈に従い、いつの時期ならば晴熈が和泉に関われる可能性があるのか独自に検討してみたい。

まず、取次として登場する遊佐若狭守・和田対馬はこの文書以外には見えず、人物からの比定は困難。
ただし、和泉支配に関与する遊佐氏に関しては心当たりが一件ある。
以前の記事でも紹介した、『和田文書』永正15(1518)年9月10日和田太郎次郎宛山崇・順正連署状である(こちらのリンクでも閲覧可能)。

既に小谷利明氏が詳しく検討されているが、この文書は畠山氏奉行人の曾我山崇・某順正和泉国衆和田氏に原次郎四郎跡を宛行う奉行人奉書であり、奉書を受けて林堂山樹が和田氏に給地を宛てがっている*2
林堂山樹は尚順の腹心であり、同様に山崇・順正は当時紀伊に在国中の畠山卜山(尚順)の側近と考えられる。

さて、この某順正だが、尾州家では「順」「慶」「長」といった当主の偏諱を与えられる人物は限られていると思われる。
具体的には畠山一門(畠山順光・畠山長経・畠山長継)、守護代家(遊佐順盛・遊佐順房・神保慶宗・遊佐慶親・椎名慶胤・遊佐長教・遊佐長清・神保長職・椎名長常)に限られ、その他は丹下氏・平氏などの筆頭格の内衆であっても与えられた例を見ない(野辺慶景・保田長宗などの例外と思われるものもある)。
すなわち、彼の姓は遊佐氏の可能性が高いと考えている*3
この順正の系譜(ないし同一人物)が遊佐若狭守であり、同様に和泉支配に関わったと考えられないだろうか*4

話が逸れたが、尾州家が継承していた和泉守護家は先述の通り上守護家。
これは細川晴元方の上守護細川元常と競合するものである。
久米田寺は守護領の岸和田に近く、尾州家と晴元方が提携している時期に元常の頭を飛び越えて尾州家が介入する余地はあまりないのではないか。

そのため、尾州家当主が晴元方と対立している時期にこそ、尾州家方の人物が和泉に関与できると考えられる。
その時期として、以下の3つを想定している。

①天文4年末〜天文5年初の天文の本願寺戦争終結までの時期。
②天文10年からの木沢長政の乱勃発による和泉錯乱、畠山稙長復帰の時期。
③天文15年からの細川氏綱・畠山政国の乱の時期*5

まず②の時期。木沢長政の乱に乗じて上洛した稙長は、和泉守護代松浦守を追い落として和泉の確保を目論んでいる*6。そのため和泉支配に関わる文書が発給される余地は多分にあるのだが、この時期の晴熈は晴元方に属していた。稙長の挙兵を見て稙長方に奔った可能性も想定できない訳ではないのだが、和泉守護として活動できた可能性は低いと見ておく。

続いて③の時期。この時期の問題点は、以前の記事でも触れたが尾州家方が下守護の細川勝基・弥九郎を擁立していることである。
仮に尾州家が両守護制の維持を考えていたとしても、上守護の継承者として晴宣子の刑部大輔(氏朝)も存在する*7
この時期の晴熈の動向が伊予守任官以外は全く不明ということもあり、やはり可能性は低いと見ておく。

残るは①の時期だが、天文5(1536)年の12月頃は、『天文日記』などの史料からも稙長を排除した後の尾州家と晴元方の提携が軌道に乗っており、尾州家が和泉支配に介入する余地はないと思われる。
そのため、考えられるのは天文4年以前となるが、ここにも競合する問題がある。それは細川晴宣の存在である。

何度か触れたが、大物崩れで没した「和泉守護」は晴宣ではなく細川高基だったというのが現在の自説である*8
そのため、改めて『証如上人方々へ被遣宛名留』に晴宣の名が記されている意味を考えてみたい。

問題となるのが『宛名留』の成立時期である。これには「天文年中」としか記されていないが、人名の並び方からある程度の絞り込みはできると思われる(現存する『宛名留』が証如の記した順で残っていることが前提だが)。
『宛名留』は公家の一覧の後に武家が続く形だが、武家で最初に記されているのは尾州家方の人物(畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信)。
その後に赤松政村(晴政)・上杉播磨守(上条定憲)・山本寺定種が続き、大友家・赤松家の人間や湯河光春・仁科道外・十市遠忠などが続いた後、ようやく幕臣や晴元方の人間が並びだし、畠山弥九郎(晴満)を最後にこの形式での記述は一旦終わる。

武家方の追記がされた下限は畠山晴満が屋形になった天文7(1538)年頃として、開始時期はどうだろうか。
細川高国など天文以前に没した人物の名前はないこと、天文以前には交流のあったはずの義晴・晴元らの名が記されるのが後になってからなどのことから、『宛名留』は天文の本願寺戦争の開始後に記されたと見るべきではないか*9(最初の方に記される上条定憲・山本寺定種も長尾為景と闘乱に及び天文5年頃に戦死ないし没落したとされる人物のため、時期の絞り込みに使えるのではないだろうか)。

更に、尾州家の並びの中に遊佐長教が共に記されていることが注目される。
周知の通り遊佐長教は稙長を逐った側であるため、彼が稙長方の基信と共に記されているということは、この並びは稙長がまだ屋形として河内に健在の頃に書き込まれたと考えて良いのではないか。
つまり、細川勝基・細川晴宣も同様に、稙長が河内に健在の時期に、旧高国方の正式な和泉守護として証如から音信の対象になっていたのではないだろうか(実質的な和泉の支配状況は、晴元方の細川元常・松浦守が優勢だったと思われるが)。

これを前提に考えて、晴熈が和泉守護らしき動きをするのは、稙長方の勝基・晴宣が没落した後に可能になると考える。
稙長を逐った時点では、長経を屋形とする尾州家は本願寺と断交しただけであり、晴元方と完全な和睦までは至っていないはず。
長経方も和泉の支配権まで手放すのは本意ではなく、代わりの和泉守護として擁立したのが晴熈だったのでは……という考えである。

稙長の失脚時期は早くて天文3(1536)年末頃だと考えているため、晴熈書状の発給美は天文3年か4年のどちらかと推定する。
それぞれの場合で晴熈の立場は微妙に異なることとなる。
天文3年の場合は長経を屋形とした下での和泉守護だと考える。
天文4年の場合は晴熈が屋形と和泉守護を兼ねており、またこの時点で晴元方との和睦は進んではいるものの、まだ権限の振り分けが明確に定められていなかったため、元常・守と競合する形になるが久米田寺に書状を出すことが可能だったと考えている。

*1:確か出典は、弓倉弘年『天文年間の畠山氏』(和歌山県史研究16)だったと思うが、手元に無いので後日確認ができたら追記したい

*2:小谷利明『宇智郡衆と畠山政長尚順』(奈良歴史研究59)

*3:守護代格の重臣は他に神保氏がいるが、尚順の代の神保氏として確認されるのは慶宗・慶恵・慶明と「尚慶」に改名してから偏諱を与えられた人物、そこから「尚順」時代に偏諱を与えられた神保氏が不自然と思われるので除外した

*4:なお、順正に該当する遊佐氏として遊佐又五郎を想定している。又五郎は『蔭凉軒日録』5月5日に明応の政変時に正覚寺畠山尚順と共に落ち延びた人物として、『伊勢貞親以来伝書』永正12年11月19日に畠山鶴寿丸(稙長)が元服した際に供をした内衆として登場している。登場時期が20年離れているため、同一人物という保証はないが、明応の政変時に元服しているということは「順」の偏諱を貰っている可能性が高く、また永正12年は順正の登場する史料と同時期であるため、又五郎と順正が同一人物である余地はあると考えた。また又五郎紀伊守護代の又次郎順房と仮名が似ているため同族の可能性が高く、上記の通り順正は紀伊在国中の尚順の側近であるため、そこからも接点を見いだせる。

*5:天文17年12月頃に政国は遊佐長教と反目して遁世し、義晴・晴元方に属しているので畠山氏が和泉支配に関われる余地はないと思われる。

*6:小谷利明『畠山稙長の動向』(戦国期の権力と文書)

*7:この記事で述べたが、氏朝の「氏」は細川氏綱偏諱であり、この時期に元服したものと想定している。

*8:多分、そのうち某先生がそれに関わる発表をしてくれると思う(該当する研究発表は全くの未見)

*9:その場合、細川晴国などの本願寺方と連絡を取っていた人物が記されていないのが問題となるが、没落後も交流を続けている畠山稙長らと違い、晴国は本願寺方が途中で関係を断ったため記されていない、ないし削除されたと考えるべきか。

◆畠山播磨守晴熈について

長経同様、僅かな期間ではあるが尾州家当主に据えられた稙長弟の晴熈。
彼が最初に継いだのは分家である畠山播磨守家。
この播磨守家は国清(右馬頭家祖)・義深管領家祖)・清義(中務少輔家祖)の弟の国熈を祖とする家とされ、「国熈」「満熈」「政熈」といった名の当主がおり、晴の諱にもその通字が表れている。

畠山播磨守家について

歴代播磨守家についての詳しい検討や晴熈の初期の動向は、以前に川口成人氏が研究発表を行っていたが、ここでは触れられる範囲以外は省略する(論文発表の形になれば追記したい)。

播磨守家については、明応の政変以降分裂したことが指摘されている。
『大乗院寺社雑事記』明応4年(1495)2月19日条に、畠山播磨守について「誉田屋形方也、八尾持之、子息ハ紀州屋形方也」と記されており*1、親子で総州家と尾州家に分かれていた。
総州家方についたのは播磨守政元尾州家方についたのは右馬助政熈とされる*2

また、晴熈の初見は『益田家文書』永正12(1515)年12月2日が記した足利義稙の伊佐貞陸邸御成の際に、御門役として見える「畠山勝松」が幼少の晴熈と推定される*3

晴熈の動向

将軍偏諱+「熈」の通字が示すとおり、彼は足利義晴に公認されたれっきとした播磨守家の当主である。
上記の通り政熈が尾州家方に属しているため、合意を得てその後継となったと見られる。
ただし、大永7(1527)年の桂川合戦以降、没落した義晴に随行する幕臣の中に晴熈らしき名は見られない。
おそらくは畠山一門としての立場を優先して、稙長に同行することを選んだのだろう(播磨守家は河内に所領を持っていたようで、それを維持する優先順位が高かったと思われる)。

その後、晴熈が再び脚光を浴びるのは尾州家当主として。
これ以降の動向については、弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)に詳しく検討されている。
また、長経から晴熈への家督交代についての個人的な考察は過去の記事でも行った。

179yougoha.hateblo.jp

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これらの解釈は今も特に変わりはないが、『天文日記』の「遊佐新次郎婦民部卿婦トひとつになり」の解釈について検討を一つ加えたい。
まずこの「婦」について、妻と解釈すべきようなので、これに従う*4
やはり「ひとつになり」の解釈が悩ましいが、『天文日記』には民部卿興正寺実秀)の親族は記載されるものの、実秀本人は出てこないように見える。
そのため、民部卿(実秀)はこの時点で亡くなっており、未亡人が遊佐長教に嫁いだ、あるいは遊佐長教妻と実秀妻が近い親族であるといったことが考えられないだろうか。

さて、屋形に迎えられた晴熈だが、さしたる活動もなく天文7(1538)年に畠山弥九郎(晴満)に屋形が交代している。
『天文日記』同年8月10日条に「播磨守(畠山高屋屋形上表*5とあり、上表(辞退)という形で当主から退いたことがわかる。
その後の晴熈は『大館常興日記』で活動が僅かに見える。
晴熈が登場するのは御門役についての件であり、当初は細川元常が勤める予定だったが、その次の役を誰に勤めさせるかで難航したようで、常興らは晴熈に3ヶ月間御門役の依頼を送った。
晴熈は要請を請けたものの、先々まで勤めることは難しいと返答したようだ*6
依頼が晴熈にされたのは、かつて御門役を務めた経験を踏まえたのもあるだろうか。

また、晴熈の家督就任について、幕府から承認されたものではないことが上記の弓倉論文などで指摘されている。
確かに前後の長経*7・晴満*8は幕府から家督就任に関わる文書が残っている一方で、晴熈にはない(残存資料の問題の可能性はあるが)。

『天文日記』でも晴熈が屋形である内の天文6・7年の年始は遊佐長教らには贈答が送られるものの*9、晴熈にはない。
この視点でも、贈答の対象にならない晴熈は正式な屋形ではなかったと言えそうだ。

ただし、これは総州家の在氏も同じである。
在氏も木沢長政らに屋形として擁立されているはずだが、天文6・7年は年始の贈答の対象とはなっていない((天文7年正月には「就還住之儀」として音信を送られているが*10、これを年始の贈答と判断すべきかは保留)。
在氏は天文6(1537)年末に代替わりの安堵状を発給しており*11、「右衛門督」に名乗りを変え、天文8(1539)年以降は証如からも年始の音信が送られるようになる*12
御内書は残っていないようだが、この間に在氏は正式な屋形として認可されたのではないか*13

つまり、擁立された当初は非公認の当主であったという立場は、晴熈だけではなく在氏も同様だったと思われる。
にも関わらず在氏は後から幕府から追認を受けており、一方で晴熈は屋形の立場を返上している。
すなわち、晴熈が屋形を返上させられたのは「幕府に無断で擁立された」ことそのものに問題があった訳ではないと考えている。
加えて晴熈は辞任後も証如から交流を持たれているし、幕臣播磨守家として御門役を打診されるなど、屋形は退いても政治的生命を全て失った訳ではない。
つまり弥九郎晴満への交代は、晴熈に何か問題があった訳ではなく、晴満を屋形に据える方に積極的な動機があったと推測しているが、この件に関しては後日検討したい。

その後の晴熈と伊予守任官

その後、木沢長政の乱を経て畠山稙長が晴満を追い落とし守護に復帰。
この際の晴熈の動向は不明だが、後に伊予守に任官されたことがわかる。
『歴名土代』天文14(1545)年12月4日に「源晴熈」従五位下に任じられ、同日に伊予守に任じられたと記される。
他の畠山一門が『歴名土代』に任官が記される例はそう多くなく、この任官が正式なものであり、京における晴熈の認知度が伺える。

ただし、上記の弓倉論文で既にで指摘されている通り、この任官日はズレている可能性がある。
『天文十四年日記』同年8月15日に「畠山播磨守」「若公(足利義輝)」に太刀・馬を進上しているが、これには「始而御礼」と付記されており、晴熈と考えると不自然である。
すなわちこの播磨守は政国であり、晴熈の伊予守任官はこれ以前となる、従うべき見解だと考える。

また、『大館常興札抄』(『群書類従』9)によれば「讃岐守・伊予守・阿波守」「左衛門佐・右衛門佐など程事也」とし、尾張守・安房守・上総介・淡路守・播磨守・伊勢守・摂津守」「八省輔(中務大輔・式部大輔・治部大輔・民部大輔・兵部大輔・少輔など)ほどの御用なり」と受領名のランクが記されており、播磨守から伊予守への遷移は格上げ人事と言える。
しかし、入れ替わるように政国が播磨守として登場していることから、名目上は格上げだが、実質的には播磨守家の地位を政国に譲らされたと見ることも可能かもしれない。
稙長没後の尾州家は暫くの間後継者を巡って混乱していたことを考えると、この人事は稙長の存命時に行われた可能性があり、稙長を追い落とした義晴・晴元方に属していた晴熈と、岩室城を拠点としていたため紀伊に没落した稙長を支持していたと思われる政国、両者の稙長への貢献度の差異によって、この人事が行われたとも考えられるのではないだろうか。

晴熈が遷移した伊予守は、過去に幾つか畠山氏に任官の例が見られる。
これは川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究』(京都学・歴彩館紀要3)に詳しい。
一次史料において「畠山伊予守」として見えるのは、畠山基国の弟系図では満国・深秋)*14畠山貞清の子系図では満国)*15、そして畠山義就
このうち義就は管領家なので除外、基国弟(満国・深秋)は石垣左京大夫家の祖とされ、石垣家はこの時代にも存続しているため、晴熈の伊予守任官がこの家を継いだとは思い難いのでこれも除外。

残る貞清子の伊予守だが、子として伊予次郎持重伊予九郎持安が見える*16
このうち持重は中務少輔家の系統となり、この時期まで家は続いている。
残る持安の系統が、晴熈の任官した伊予守の家である可能性があるのではないだろうか。
持安と同じ仮名を持つ「畠山九郎」が永正7(1510)年に確認され*17、この系統も御供衆の家格を備えていたと思われる。

また、能登畠山義総の兄弟に山九がおり、永正年間の九郎の家を継いだ、あるいは本人という可能性も考えられるかもしれない*18
山九郎は天文8(1539)年8月に討死したと見られるため*19、いずれにせよ伊予九郎家は空席になっており、晴熈が移るには問題ないと思われる。

晴熈の子としては、『両畠山系図』に九郎某万里小路惟房母が記される。
このうち万里小路惟房母については、以前の記事でも触れたように播磨守政元娘の誤り。
九郎については、『両畠山系図』畠山政義(政能)の子にも「永禄八年光源院御供討死」と付記される九郎がいる。
この九郎の元服と永禄の変での討死は一次史料で確認できる*20が、享年14歳と記されている。
しかし政能嫡子と見られる定政は没年から逆算すると1559年生まれであり、九郎はそれより年上となってしまう。
舎兄である可能性もあるが、九郎は在京して奉公している立場であり、政能と京との繋がりは極めて希薄。
以上の要素から、『両畠山系図』は誤記であり、永禄の変で討死した九郎は実際は晴熈の子に当てはまると考えている。

また、九郎という仮名は前述の「伊予九郎持安」の家を継いだことを意識して名付けられたと、伊予守家の由緒も絡めて考えたい。
この九郎の父を晴熈と想定した場合、晴熈は1552年頃まで存命だったことになる。
ただし、晴熈らしき人物の動向は伊予守任官以降は見当たらないことも付け加えておく。

 

参考文献
弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)
川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究 : 室町幕府近習・奉公衆家の一展開』(京都学・歴彩館紀要3)

*1:弓倉弘年「畠山義就の子孫たち」(中世後期畿内近国守護の研究)

*2:川口成人「忘れられた紀伊室町文化人」(日本文学研究ジャーナル19)

*3:twitterで呟いたところナタネ油氏からお墨付きを頂いた(https://twitter.com/nknatane/status/1605498460249022465

*4:小谷利明「遊佐長教」(戦国武将列伝畿内編【下】)

*5:石山本願寺日記』ではこの二文字が欠落

*6:『大館常興日記』天文9年2月9日条・2月15日条・3月28日条

*7:『御内書案』年未詳8月16日足利義晴御内書

*8:『大館記』収録文書(天文7年)8月26日大館晴光書状など

*9:『天文日記』天文6年3月9日条・天文7年2月5日条

*10:『天文日記』天文7年1月21日条

*11:観心寺文書』天文11月13日畠山在氏安堵状など

*12:『天文日記』天文8年2月23日条など

*13:天文7年に尾州家屋形となった弥九郎晴満にしても、天文8年4月10日条では年始の音信は遊佐方のみだが、天文9年5月3日条では弥九郎にも年始の音信が送られ。以降は恒例となっている。
これらを踏まえると、証如は守護などの地位が公認されたものであるかどうかで年始の祝賀などの音信を送る対象にするかを判断しているのではないか(上記のように公的な守護となっても翌年の時点では音信が送られていないことももあるが)。

*14:宝鏡寺文書』明徳3年6月13日書状

*15:「鏡外」など

*16:『花営三代記』応永29年1月30日・応永30年11月2日など

*17:『益田家文書』「永正七年在京交名衆」

*18:この時期、義総(『後法興院記』永正9年4月16日条など)・宮内大輔(義元次男・『実隆公記』永正8年5月22日条など)・義元孫(『守光公記』永正9年4月1日条)と、能登畠山家の子弟が御供衆に並んでいる例が複数確認できる。また九郎弟の畠山駿河駿河は、明応の政変で討死し没落した駿河守政清の刑部少輔を名乗った可能性が指摘されている

*19:『永光寺年代記

*20:『言継卿記』永禄7年12月7日条・永禄8年5月19日条

◆石垣家・和泉守護畠山家についての雑多な考察

今回は今まで紹介した石垣左京大夫家・和泉下守護家に関してのこぼれ話をしてみたい。
紀伊の畠山一門・和泉の細川一門と本来ならば特段接点のないこの両家だが、畠山宗家の一門が双方を継承することによって密接に関わるようになった。
特に結論として言いたいことがある訳でもないのでご了承ください。

 

『古今采輯』収録系図と石垣家・和泉守護畠山家

当ブログではお馴染みのマイバイブル・『古今采輯』。
その中にこのような系図があるので、まずは見て頂きたい。

clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

ご覧の通り、石垣左京大夫家の系譜を記した系図である。

石垣家系図の隣には三箇条の追而書、その隣には湯河氏の系図、宮崎氏の系図がある。
湯河・宮崎系図にも気になることが書かれてはいるのだが、長くなるので今回はパス。
その追而書の中にだが、「玄心様(畠山定政)御親父様(政能)と刑部大輔従弟」という記述がある。
畠山政能(政国子)・細川刑部大輔(晴宣子)は従兄弟関係にあるので、事実を正確に記していると言えよう。

また、この記述者は畠山一門に「様」をつけている。
以前の記事で畠山家が江戸期に自家の由緒を収集していたことを指摘したが、この系図も同一の性質を持つ史料ではないかと考えている。

 

更に個人的な想定だが、この系図『両畠山系図に先行し、その下敷きの一つになったものなのではないだろうか。

『両畠山系図』は一見して石垣家にまつわる記述が多いように思える。
確実な活動時期が大永年間に限られる細川晴宣が、諱を「某」と不明としつつも痕跡が『両畠山系図』の中に残ったのは、晴宣が石垣家の関係者だったから……という考えである。

 

ともあれ、系図の一つ一つの記述を確認していきたい。

・長経

「石垣元祖 卜山二男 左京大夫とある。
系図類では大体稙長の次に置かれている印象があるが、はっきりと次男であると示しているのはこの系図くらいかもしれない。
石垣家の元祖と記されているが、既に述べた通り石垣家の系譜はもっと以前まで遡ることができ、なおかつ尚順弟という既に尾州家の人間が養子入りしていた先例もある。

なので「元祖」とするのは誤りなのだが、『両畠山系図』では以前の石垣家当主の政氏は長経に滅ぼされたとされている。
事実として長経以前の石垣家とそれ以降では断絶があり、それが「元祖」という表記に繋がったとも考えられるかもしれない。

また、長経子として安鶴・岩鶴が記され、これは『両畠山系図』と共通するが、ともに「早世」と記されている。

 

・細川和泉守

「卜山三男長経弟 童名三郎」とある。
細川晴宣のことと見ていいだろう。
これも系譜を明確に三男と示すのは、ここ以外に見えない。
左の追而書にある通り、系図作成者は畠山政国系の存在を知った上で長経を次男・晴宣を三男としているので、そこから政国は四男より下の生まれであると示せるかもしれない。
ただし、仮名を「五郎」ではなく「三郎」と記す誤りもあるので、過信は禁物である。

また、この位置関係では晴宣が岩鶴・安鶴の後の石垣家当主であるかのように見える。
単に石垣家を継いだ刑部大輔の実父を差し込んだだけとみなすべきか、あるいは晴宣自身が石垣家を継いでいた伝承が存在していたとみなすべきか……。
前回も触れたが、「大物崩れで死んだ和泉守護は晴宣ではない」という可能性が否定できず、『証如上人書札案』に晴宣の名が記されていることから、天文5(1536)年頃まで晴宣が生存していたと考える余地はあると思う。

その想定と合わせて一つ考えられるのは、「晴宣は長経の後の石垣家当主」という線である。
天文3-4年頃には尾州家当主として長経が擁立されてりるが、その際に長経が高屋城に入ったのならば、当然鳥屋城の石垣家は当主不在になる。
その穴埋めの形で晴宣が石垣家に入った……という想定である。

結局石垣家当主は長経の系譜の岩鶴丸に戻ったことになるが、その没後に刑部大輔が石垣家を継いだのは、父が一時的に石垣家を継いだ前提があったからではないか……と*1

・細川刑部大輔

「和泉守子」とある。
『古今采輯』系図の情報はこれだけだが、『両畠山系図』では尚順の子に「政清」があり、「是石垣城主岩鶴早世。和泉守護細川和泉守子。以卜山為養子。為石垣領主。号細川刑部大輔」とある。
『足利季世記』に「畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」という記述があるのは以前も述べた通り。
『両畠山系図』では尚順の養子とし、『足利季世記』では尚順の子とするが、これに関しては疑わしいものがある。

刑部大輔の活動時期は尚順がとうに没した後であり、そこから尚順孫をわざわざ尚順養子に位置づける必要性が今ひとつ考えられない。
何か別の伝承が混ざっている気がするのだが、後考を待ちたい。

そして、この刑部大輔の実在性について深く掘り下げたのが、馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)『永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から― 』(史敏4)である。
詳細は省くが、彼は実際に永禄の変後、和泉の松浦光に進退を任せた上で畠山氏によって和泉守護に擁立されている。

この際の刑部大輔の立ち位置について、馬部氏は「松浦氏が和泉支配を貫徹される上で刑部大輔の存在が必要だった」とする一方で、嶋中佳輝『織田信長と和泉松浦氏の動向』(十六世紀史論叢16)では「刑部大輔は和泉支配に関わりが見えず実権は一切なかった」という指摘がある。

実際に現状では刑部大輔が和泉支配に関与する文言が見られない以上、彼は傀儡(このワードを安易に使うのは好きではないが、この場合は本当に実権を伴わないガチ傀儡だと思う)であり、嶋中氏の推定の方が妥当だと考えている。
一方で、永禄の変直後とみられる承禎六角義賢)や、織田信長の近日の上洛を告げる長政*2が刑部大輔に送った書状が残っており、対外的に彼が名目上の守護であることは認知されていたと思われる。

また、刑部大輔が石垣家を継承していたことを示す一次史料として、「模本」の湯河家中連署状がある。
宛先が「宮原殿」「石垣殿」となっており、細川刑部大輔関連文書を収集している「模本」という史料の性質上、「石垣殿」は刑部大輔の可能性が高い*3

書状の年代比定だが、差出人の一人湯河弥七郎春信は、法隆寺文書』永禄2(1559)年8月の禁制では湯河治部大輔春信と名乗っているため、それ以前となる。
他の差出人の湯河一族の名前を鑑みても、おそらく永禄初年からそう遡らない時期の書状ではあると思うのだが、この時期に刑部大輔が石垣家を継いでいた……以外の絞り込みにはなり得ないのが残念。


・景春

「民部大輔 童名松若 二郎八郎」
隣の湯河氏の系図に直春弟として「石垣 二郎八郎」とあり、合わせると湯河直春の弟の景春が石垣家を継いだということになる。
また、湯河直春の仮名は不明*4だが、その子として太郎五郎『湯川彦衛門覚書』等)、二郎太郎顕如上人貝塚御座所日記』天正11(1583)年10月22日)が見える。

 

この記述は果たして事実とみなせるのか。
ここに3つの史料がある。

『湯川彦衛門覚書』*5「亦直春弟は紀伊国有田郡の宇智。石ガキ云所のとやがじょうと云山に城有て。紀伊国之屋形ニテ候。臣下ニハ神保イヌマト申テ兩殿有」
『玉置家系図*6「是は其比湯川末子と左助(保田知宗)娘を取合、石垣畠山之家を継せし縁に依而也」
『崎山氏由緒書』*7「有田郡湯浅に白樫、石垣に湯川の舎弟屋形、此臣下神保、又下津野に片田、是は玉置の縁者也、宮原に畠山、保田に貴志、是は畠山の従弟也、又宮崎、是は岸の縁者也」

①は湯川彦衛門の覚書。寛永10(1633)年没の玉置小平太(直和孫)を文中で「今の(玉置)小平太」としているため、それ以前の成立。
②は玉置与右衛門の覚書。覚書の文中に元和7(1621)年の出来事が記され、与右衛門の子と思われる追記の文中には寛文9(1669)年とあるので、覚書はそれ以前の範囲での成立。
③は崎山弥左衛門時忠の覚書。「元和元(1615)年乙卯」の年号が付記されている

石垣家が存在したリアルタイムを生きた人物ではないものの、その下の世代の人物による覚書である。
相互補完で成り立った史料ではないと考えられ、このような複数の史料から石垣家に関する証言が残っていることから、湯河直春の弟が石垣左京大夫家を継いだことは事実とみなして良いのではないだろうか。

 

以下補足。

①の「臣下には神保イヌマト申テ」のうち神保は江戸時代に旗本として残った家で、系譜にも畠山家臣として紀伊鳥屋城に住したという情報がある。
一次史料に置いても『岩倉神社棟札』天文11(1543)年棟札に「神保三河守」『白岩丹生神社棟札』永禄3(1560)年の棟札に「神保之光茂」の名が見える。
ともに鳥屋城近辺の寺社であり、神保氏が石垣家重臣であることは疑いようがないだろう。

「イヌマ」については飯沼(いぬま)氏を指すと思われる。
石垣家関連人物と判断し難いのがネックだが、『間藤家文書』天文末年に畠山氏被官と思われる飯沼九郎左衛門康頼が確認できる。
また『足利季世記』では教興寺の合戦で紀州衆として飯沼九郎左衛門が討死している。

 

②は天正9(1581)年に保田佐介(知宗)が高野山から攻められた戦いを記したもの。
保田知宗は織田政権下においての厚遇が目立つ畠山被官である*8

独自の記述として、湯河直春弟が知宗娘と婚姻した上で、石垣家を継承したとしているのは注目される。
保田氏は畠山氏の有力内衆であり、その保田氏と婚姻させることが石垣家継承に必要な条件だったことになる。
そのため、湯河氏からの養子入りは湯河氏からの圧迫などで畠山分家が乗っ取られたといった類の話ではなく、畠山側が主導して行ったものと考えたい。

また、元亀4(1573)年の畠山秋高の殺害と足利義昭没落の際、保田知宗は織田方に属す一方で、湯河直春は義昭方に属している。
そのため、景春と知宗娘の婚姻、景春の石垣家継承は畠山氏が河内守護として健在の頃に行われたと絞り込めるだろう。

 

更にもう一点、景春の存在とその死去を示せそうな史料がある。
天正13(1585)年の羽柴秀吉紀伊攻めに関わる『小早川文書』3月25日秀吉書状では、「畠山式部大輔・村上六右衛門親子三人・柏原父子・根来法師蓮蔵院以下数多を討ち、畠山居城戸屋城を乗捕った」と記す*9
「畠山居城戸屋城」は石垣家の鳥屋城に他ならない、ではそこに籠もっていた「畠山式部大輔とは?
「式」は字形の似ている「民」の誤記である可能性がある。
とすれば「畠山民部大輔」……つまり系図「民部大輔」と記される景春を示せるのではないだろうか。

湯河氏の伝承でも、その後紀伊山中で抵抗した湯河一門の中に「民部大輔」を名乗る人物はいない。
石垣景春は秀吉の紀伊攻めに抵抗して討死にし、石垣家は滅んだと想定したい。


刑部大輔の実名

次に細川刑部大輔についてだが、一次史料でその実名を推定できるかもしれない文書がある。
『田代文書』永禄9(1566)年1月5日田代内匠助宛氏朝書状がそれである*10

この史料内には他に細川元常松浦守が宛てた書状が存在しており、田代氏は基本的に和泉守護方に属する国衆と見られる。
件の文書は「望申候、官途之事、得其意候也、謹言」という簡素な文書だが、官途の望みを取り次いでいること、書札礼から「氏朝」は守護クラスはある高位の人物と思われる。

更に『田代文書』収録の「田代家系図によると「内匠助」はこの文書から間もない永禄9(1566)年2月17日に和泉で討死したと記される。
2月17日はまさに和泉家原で三好義継・三好三人衆・阿波三好家と畠山高政・松浦氏の連合軍が激突し、後者は大敗した合戦が行われた日。

すなわち、内匠助に文書を発給している「氏朝」はこの時期の和泉守護に擬えられた人物!
……と言い切りたい所だが、内匠助がどちらの立場で家原合戦に参加したまでは記されていない。
また『田代文書』元亀年間と思われる田代道徳*11宛恕朴(篠原長房)・三好康長書状から、時期によっては田代氏は松浦氏ではなく三人衆・阿波三好家方に属している動きが確認されるため、悩ましいところ。

ただ、敗北した畠山・松浦方の方に大身の戦死者が出やすい、三好方に和泉守護的な人物を擁立する意義はあまり考えられないことから、「氏朝」は畠山・松浦方の人物である可能性の方が高い……くらいは言えるだろうか。
そして、この「氏朝」こそが畠山・松浦方に擁立された和泉守護細川刑部大輔その人、と言いたいのである。

『田代文書』の氏朝が刑部大輔である前提で進めると、彼は永禄9(1566)年1月、松浦氏が畠山方に転じた時点で和泉守護として双方から擁立されたこととなる。
そうなると、上記の『関本氏古文書模本』による永禄11(1568)年の和泉入国作戦への解釈も多少変わる。
畠山・松浦・義継の三者によって刑部大輔がこの時に擁立された訳ではなく、刑部大輔の和泉への関与は永禄9年前後の畠山・松浦氏の提携が前提にあり、後に義継が加わった形になると言えるだろう*12

また、「氏朝」という諱はどういった経緯で名乗ったのか、についても可能性を示せる。
もとより畠山一門の諱にはあまり共通点や法則性は見受けれず、意味を見出そうとするべきではないのかもしれないが。

ともあれ、誰かの偏諱を得て名乗ったと仮定するのならば、一人思い当たる人物がいる。
そう、細川氏綱である。
周知の通り氏綱は尾州家の庇護を受けており、また刑部大輔父の晴宣に代わりに和泉に赴任するなど、刑部大輔との間に接点も見いだせなくもない。

彼が初名の「清」から「氏綱」に諱を改めたのは天文11(1542)年から。
刑部大輔の生年については、早く見積もって1530年頃になる*13ので、元服したタイミングで氏綱から偏諱を授与される条件は揃っているのではないか。
また、氏綱への改名と同時期に彼が起こした挙兵には尾州家が合力せず、早期に鎮圧されている。
氏綱から畠山一門に偏諱が与えられた背景として、それを経て氏綱と尾州家の関係性の再確認をするためという理由も想定しておきたい。

 

……が、そうなると気にかかるのが、『両畠山系図』で刑部大輔と想定される人物に記される「政清」の名である。
無論『両畠山系図』は二次史料であるためただ無から生えた諱という可能性も十分あるのだが、この史料を利用価値のあるものとして使い倒している当ブログのメンツもあるので別の可能性を考えておきたい。

 

①「政清」は畠山刑部大輔政清と混同した。

畠山政清は畠山分家駿河守家の人物で、明応の政変で戦死している。
活動時期は違うが、官途・諱が一致するため混同された可能性はあるだろう。

②刑部大輔には「氏朝」と「政清」という二つの名があった。

これも妥当な可能性だとは思う。
ただし、疑問点がないわけでもない。
「政清」の政は政国・高政・政頼(秋高の署名)の偏諱を連想させるが、例えば永禄9(1566)年以前に「政清」→「氏朝」と改名したとなると、畠山当主の偏諱を捨てたことになる(上記の氏綱からの偏諱説を取り入れるとより考え難いことになる)。
となると永禄9年以降に「氏朝」→「政清」と改名したことになるが……これ以降のタイミングで偏諱を授与されるイベントがあったのかというと、やはりあまりしっくりこない。

③「刑部大輔氏朝」とは別に「政清」という人物もいる。

本題。
まず、『古今采輯』収録系図の刑部大輔は「和泉守子」とのみを示すのに対して、『両畠山系図』の「政清」は畠山尚順の子の位置に置き、「和泉守子が卜山の養子となった」と若干異なる情報を載せている。
『古今采輯』収録系図の情報は簡素な分特に不審な点はないが、『両畠山系図』のそれは尚順の孫を尚順の養子にする必要性は感じられず、「政清」の情報には何か誤りがあるのではないかと考えた。

そこで、持ち出すのが前回に述べた、「『両畠山系図』(から派生した『足利季世記』も)の和泉守護の情報は上守護と下守護が混線しているのでは」という可能性である。
つまり、刑部大輔とは別に尚順の養子となった上守護家の人物がおり、その名が「政清」だったのではないか……という話である。

そして、ちょうど諱が不明で候補としてお誂え向きの人物がいる。畠山政国期に擁立された「細川弥九郎」である。
彼こそが「政清」の正体であると提案したい。

弥九郎は進退を遊佐長教に任せているなど、畠山氏に依拠している立ち位置であり、その弱い立場が政国からの偏諱授与に繋がったのではないか(先代からの名前の法則からいうと「政基」と名乗るほうが自然では、などとも言えてしまうが)。
また、その場合尚順の養子になったという記述は、尚順娘が嫁いだということを意味するのかもしれない(弥九郎が勝基子とするなら、細川尹賢の弟春具の曾孫にあたり、年代的にギリギリ尚順の娘と合わなくもない)*14


④そもそも「氏朝」は刑部大輔じゃないよ。

身も蓋もない話だが、この可能性も想定しておきたい。


刑部大輔と湯河直春書状

「模本」における刑部大輔名義の宛先の史料は、永禄の変以降の義昭上洛戦に関わるものが殆どだが、唯一それに関わる文言が無い書状がある。
それが4月8日(湯河)直春書状である。
以下、全文を書き起こす。

其以後不申通*15本意存候、仍根来寺為加勢至山東出陣仕候。殊被対両三人御書中にて被見候、満足申於様体者老中可申参不能再筆候、恐々謹言

卯月八日           直春
刑部大輔殿
     御宿所

 

刑部大輔と湯河氏の関係については、直春弟が石垣家を継いだことや、「模本」に先述の刑部大輔宛の湯河家中連署状が存在することから、それなりに親しい間柄が想定できる。
内容としては、直春はしばらく刑部大輔に連絡を取っておらず、根来寺に加勢のため山東紀伊名草郡山東荘。根来寺領とのこと)に出兵していたという。
山東への出兵は根来寺領に何かしらのトラブルがあったということだろうか。

文書の絞り込みだが、まず刑部大輔含めた畠山氏が紀伊(有田郡)に没落している時期ならば、湯河氏の山東への出兵は普通に考えれば畠山領内を通るものなので、書状で説明する必要性が薄いと思われる。
よってこの時の刑部大輔の在所は畿内のどこかと想定し、畠山氏が上洛戦を開始する永禄9(1566)年以降と見て良いのではないか。

更にこの直春の書状の内容も気になっている。
根来寺も湯河氏も畠山氏の根強い与同勢力であり、当然義昭上洛戦においても義昭・畠山方からその軍事力は期待されたものと思われる。
湯河氏の行動は見えにくいが、根来寺は実際に畠山氏に協力して何度か畿内出兵をしている。
しかしここでの両者は、どうも根来寺の私的な要請で援軍に赴いているように見え、これが逼迫した時期のものとは思い難い。
(この山東出兵が義昭上洛戦において重要なものである可能性も完全否定はできないが。)

なのでこの書状は畠山氏を巡る環境が比較的落ち着いており、根来寺・湯河氏が特に下知を受けずフリーで動ける時期のものと推定したい。
その場合の4月という月は、永禄9(1566)年はまさに畠山・松永・松浦方が大敗し堺に逼塞している時期、永禄11(1568)年は義継・畠山が刑部大輔と松浦氏の和泉入国作戦を実行しようとしている時期。
どれも畠山方が湯河氏としばらく連絡を取っておらず(=根来寺含めた軍事協力要請などをしておらず)、湯河方が呑気に根来寺に協力していると返答している状況は考えづらいのではないか。

その点、永禄10(1567)年は可能性の一つになり得る。
この年は2月に三好義継が松永方に転向し、畿内の騒乱が再燃した時期ではある。
ただし、義継・松永方への畠山・松浦の合力が見え始めるのは同年8月頃、そのため4月段階では畠山方も軍事行動予定がなかったため根来寺・湯河氏もフリーに動いていた、と考えられる。。
他の可能性としては畿内戦線が義昭方の有利でひとまず落ち着いている永禄12(1569)年以降。
その場合義昭・信長上洛後に、刑部大輔の消息が確認できる史料ということになる。

かなり推察混じりで穴が多い推論なのはご容赦いただきたい。
また、もしこの湯河氏の山東出兵時期を絞り込める史料が見つかれば結論が出るので、期待したい。

石垣家当主と和泉守護家当主の変遷

石垣岩鶴丸→細川刑部大輔→石垣民部大輔(景春)と継承されていったと思われる石垣家。
例によって確たる一次史料があるわけではないが、この継承時期についても想定してみたい。

先に刑部大輔から景春への継承を考察する。
今回用いるのは、『吉備町史 上』「畠山氏関係記録」として紹介される星田家所蔵文書。
この史料、有田郡関係の古記録が見えるのだが、町史の中では書き記したのは享保8(1723)年としており、正直なところ確からしさに欠ける。

そんな史料ではあるが、その中に「畠山中元祖」という文書がある。
オンラインでも閲覧可能だが全文を書き写しておく。

畠山朴山様御子 惣領種永様 其後は大夫様
其後は泉州守様則泉守護也
畠山大夫様御子 国置後□岩千鶴様
畠山種永様御子 正国様御□原之御子
高正様 宮崎腹 宮原殿 同
正吉様 同   秋高様 同

外山城(鳥屋城)主始代
畠山泉守也嫡子畠山刑部大夫殿大夫様の甥也当寺にて死去す
是より湯川宮内少輔直光御子松若殿へ御ゆずる被成也
畠山民部大夫殿と申也 此御子南都水門に二郎八と申て有之

 

一見して、朴山(卜山)・種永(稙長)・大夫(左京大夫長経)、泉州守(晴宣)・岩千鶴(岩鶴丸)・正国(政国)・高正(高政)・正吉(正能)・秋高と、綴りこそ誤りがあるものの読み自体は合っており、畠山一門の系譜もそれなりに正確に記している(「宮原殿」だけ不詳だが)。
そのため、系譜に関しては比較的正確な典拠があったことを思わせるが、次の「鳥屋城主次第」に気になる情報がある。
湯河直光子の二郎八郎に石垣家当主が譲られ、畠山民部大輔と名乗ったという点は『古今采輯』などの早い段階の伝承と一致するが、「畠山中元祖」ではその時期は刑部大輔が当寺(如意輪寺と思われる)で没した後だとする。

すなわちこの情報に従えば、刑部大輔は生涯石垣家当主と和泉守護家当主を兼ねており、またある時期に和泉から石垣荘に戻っていたということになる。
無論、この伝承がいつ成立したのかは不明なので全幅の信頼は置けないが、上記の畠山一門の系譜のようにそれなりの確からしいソースがあったことも想定できるのではないだろうか。
なので、今回は刑部大輔から景春への継承について、和泉の刑部大輔と石垣の景春で家督を分業したのではなく、刑部大輔が石垣荘で没した後に景春に石垣家が継承されたものと想定して話を進める*16

そうなると、その時期は刑部大輔の活動が和泉で見れる義昭上洛戦の期間には当てはまらない。
また家督継承の際に景春が保田知宗の娘と婚姻したという覚書も合わせると、信長上洛の永禄12(1469)年以降から元亀4(1573)年頃まで絞り込めそうである。

刑部大輔が信長上洛後にフェードアウトした理由は、死去・追放だけではなく、
和泉周りの情勢が落ち着くと、いよいよ実権のない刑部大輔が和泉に留まるメリットが薄れ、兼業している石垣家当主として紀伊に下向したため、という可能性も提唱できるのではないか。

次に岩鶴丸から刑部大輔への継承時期について。
こちらについてもやはり根拠として使えるものは少ない。
刑部大輔は「五郎」と名乗っていることから、元服時は和泉守護の継承者として位置づけられ、その後岩鶴丸が没したため石垣家を継いだ、までは言い切れるだろう。

鶴丸の動向についてだが、歓喜寺八幡社棟札』天文10(1542)年4月1日年の棟札に鶴丸が大檀那として見えるのは以前述べた通り。
一方で上記の『岩倉神社棟札』は、天文11(1543)年3月3日に神保三河が主となり岩倉神社を再建したと伝えている。

神保氏は上記の通り石垣家の家老で、この記録には岩鶴丸の名前は見えない。
この間に没したので名前が見えないとも言えるし、別の神社なので事情が違った・神保氏が畠山氏を介さずに再建を行ったとも考えられ、なんとも言えない。

ともあれ、永禄元(1558)年以降松浦氏などの和泉の勢力は三好氏から遊離しがちになる。
その中で畠山氏にとって刑部大輔は和泉に影響力を浸透させるための神輿となり、久米田合戦の後に岸和田城に入った伝承のように、石垣荘を離れる機会が増えたことが想像できるのではないか。
先述の『白岩丹生神社棟札』永禄3(1560)年棟札で石垣家当主ではなく家老の神保光茂が願主となっているのは、単なる下剋上文脈ではなくこのような状況も手伝ったのかもしれない。

 

参考文献
馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)
馬部隆弘『永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から― 』(史敏4)
嶋中佳輝『織田信長と和泉松浦氏の動向』(十六世紀史論叢16)

*1:系図の順番を尊重して、長経→岩鶴丸→晴宣→刑部大輔と当主が変わったという想定もなくはないが、そこまで行くと晴宣が天文10年以降も存命だった痕跡が欲しい所

*2:浅井長政と比定されているが、浅井氏の家格で守護細川家に対等な書状を送れるかどうかには疑問がある。「長政」を守護格の人物と想定する場合、伊賀守護の仁木長政が候補に挙がる。これも志末与志氏の提言による。なお花押や年月日については写されていないため不明。

*3:なお、三浦蘭阪が途中で全文を模写することを諦めたため、これ以降に収録される書状は内容を略され差出宛名のみとなっている。おそらく内容が記されていればもっと多くの知見が得られただけにもうちょっと頑張って欲しかった。

*4:清和源氏湯川系図』では「小太郎」としている。

*5:続群書類従』第五輯上

*6:『川辺町史』第3巻に収録。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

*7:『川辺町史』第3巻に収録。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

*8:弓倉弘年『織田信長と畠山氏家臣』(中世後期畿内近国守護の研究)・小谷利明『織豊期の南近畿の寺社と在地勢力』(南近畿の戦国時代)

*9:弓倉弘年『畠山式部太輔と貞政』(中世後期畿内近国守護の研究)

*10:この文書は志末与志氏のツイートで知見を受けたものである。

*11:「田代家系図」と合わせると俗名は豊前守尚綱で、内匠助の父と思われる

*12:もっとも、永禄11年の段階では刑部大輔は松浦氏に進退を任せる立場となっており、和泉への具体的関与も見えないため畿内和平を経て立場が変化した可能性もある

*13:父晴宣が稙長(永正6(1509)年生)とさほど変わらない年齢だと仮定した場合

*14:尚順養子(=尚順娘が嫁ぐ)になったのは勝基で、その後継の政清と二代の情報と混同した可能性も考えたが、そこまで行くと流石にこじつけ方が苦しいか

*15:「非」などが欠か

*16:なお、『足利季世記』の記述では、久米田合戦後に岸和田城に細川刑部大輔が入ったと書く一方で、石垣家は当主の代わりに神保氏が名代として参戦したと書かれている。これに従うと、和泉守護家と石垣家の当主は別々ということになってしまう。これに関しては、『足利季世記』が刑部大輔の和泉守護家と石垣家の兼任を知らなかっためと言えるかもしれないが……