河内畠山氏に関する雑多な考察ブログ

タイトルの通りのモノ置き場です。備忘録を兼ねて畠山氏関連のネタを投稿しています。

◆宮原畠山政国について

後に尾州家当主(名代と記されることも)を継いだ畠山政国
信長の野望での登場回数も多いことから、畠山稙長の弟の中では相対的に知名度が高いと思われる彼だが、謎も多い。

一時期は「政国」という諱の人物の実在も疑われることもあったが*1、実際は政国の諱で発給される尾州家の人物の書状が複数存在するため*2、現在では政国の実在性に異論は挙がらないと思われる。

『両畠山系図』では没年を天文19年8月12日とするが、『天文日記』から天文21年2月に政国の存命が確認されるという矛盾が指摘されている*3
一方で『津川本畠山系図』では没年を天文21年8月12日としており、こちらのほうが妥当性が高いと思われる。
*4

・宮原兵部少輔家代々

政国は『両畠山系図』などで当初は紀伊有田郡宮原荘岩室城に在していたとされる。
宮原荘を知行する畠山一門についての研究は、近年川口成人氏が詳しくまとめている*5

まず、兵部少輔を官途とする畠山氏が宮原荘を知行していたことが、「康正二年(1456)造内裏段銭并国引付」で畠山兵部少輔が紀伊国宮原に五貫文を賦課していることで確認できる(参照)。

もっとも『両畠山系図』には兵部少輔を名乗る畠山氏の系統が載っていないため、どの一族から分かれたのかは不明。
畠山兵部少輔の宮原荘知行もこの一例だけなので、慎重になる必要がある。

他に宮原荘を知行する畠山氏については、『和歌山県古文書目録2 有田川流域古文書調査報告書』でも徴証がある。
『目録』が載せる『宮原神社文書』の一覧には、嘉吉元(1441)年12月26日棟札、永正13年6月1日大旦那源順家棟札、天文元年12月6日棟札、天文15年4月29日大旦那万徳丸棟札がある。
また、『紀伊続風土記 第2輯』によると嘉吉元年棟札の大旦那は「源常久」だという(参照)。
(なお、天文元年棟札の人名は不明。宮原神社や博物館などに問い合わせてみたが残念ながら原本は確認できなかった。)

常久の素性は特定できないが、永正13年の順家は畠山尚順の偏諱を受けていることから畠山一門の可能性は高く、また天文15年の万徳丸は『両畠山系図』の政国子畠山政能の子に「萬徳」がおり、1534年生の政能の前身である可能性が高いことが指摘されている。
以上から、兵部少輔を名乗る家かは不明なものの、宮原荘を継承している畠山一門がいたことが考えられる*6

次に、「畠山兵部少輔」を名乗る一門について、川口氏の研究に従って述べる*7

①『花営三代記』永和元(1375)年3月27日条に畠山兵部少輔
②『花営三代記』応永28(1422)年3月16日条に畠山兵部少輔満祐
③『永享以来御番帳』四番衆交名に畠山兵部少輔
④『文安年中御番帳』四番衆交名に畠山兵部少輔
⑤『親元日記』文明10(1478)年2月22日「政所賦銘引付」に応仁の乱以前に清水西門下円通庵を質入れしていた畠山兵部少輔
⑥『久下文書』四番衆交名に畠山三河三郎「畠山兵部少輔」

①から、畠山基国の代から兵部少輔を名乗る畠山氏は存在することがわかる。
ただし、諱が判明するのは②の満祐のみで、宮原荘と関わりがあるかも確実ではない。
⑥の『久下文書』の成立時期は厳密には特定できないのだが、畠山三河三郎に「畠山兵部少輔」という付記がされている。
『両畠山系図』によると、畠山貞清の子には満国・持貞・持清がいる。
このうち満国は中務少輔家、持清は刑部大輔家の祖となっている。
持貞は三河守を名乗ったとされ、『満済准后日記』応永22(1415)年8月26日条は持貞と思われる畠山三河入道常満が見え、この三河三郎はその子孫である可能性を指摘されている*8
持貞の系統は川口氏がブログで更に検討を加えており(参照)、持貞の子に刑部大輔がいたことを指摘し、⑥の三河三郎と『後法興院記』文亀3(1503)年1月5日条・文亀4年1月5日条にみえる畠山刑部大輔は、同系統の人物の可能性を指摘されている。

三河入道常満(持貞)の系統が兵部少輔を継いでいた想定となると、気にかかるのが嘉吉元年にみえる「源常久」である。
持貞父の畠山貞清の法名は常忠で、その孫持重・持重子政近の法名は宗祐・宗守である*9
この法名の傾向を見ると、「常久」も法名であり、この頃から兵部少輔家は持常に近い血統の人物が継いでいたと考えられないだろうか。(「本姓+法名」という表記があるのか不明だが)

また『後法興院記』に見える畠山刑部大輔は、二例とも中務少輔家の畠山政光の子澄重*10と共に行動しており、足利義澄ないしそれに属する義就流畠山氏(総州家)に近い立場と思われる。
大永4年にも総州家と共に登場する「畠山刑部大夫」がみられ*11、永正13年の源順家も兵部少輔家の人間と想定するのなら、兵部少輔家は総州家方と尾州家方で二つの系統に分かれていたことになるのだろうか。

・岩室城主畠山政国の登場

確実に畠山政国とみなせる人物が登場するのは天文14年以降で、稙長の兄弟の中ではかなり遅い。
播磨守という官途も当初は兄弟の畠山晴熈が名乗っていたもので、政国にはそれ以前の通称があったはずだが、それも不明である。
以前に天文11年から登場する畠山稙長弟中務少輔が政国の前身ではないかという仮説を立てたが*12、これは参考までに。
ただ、政国が宮原荘を知行した時期はある程度特定可能である。

政国の子である畠山高政の生年は『観心寺文書』永禄2年9月19日安堵状の押紙に29歳と書かれることから、逆算して1531年生まれとなる。
高政の母は『両畠山系図』では「宮原隠岐守」とされ、これは代々隠岐守を通称とする有田郡の宮崎氏を指していると見てよい。
宮崎氏については「◆天文初期の畠山稙長と紀伊-「二階合戦」の虚実など」(参照)でも言及し、稙長期に紀伊で重要な役割を担ったことを指摘した。

宮崎氏の拠点がある宮崎荘は宮原荘と近く、婚姻関係を結んだということはその時点で政国が宮原兵部少輔家を継いでいたことが想定できるだろう。
つまり宮原兵部少輔家の継承の下限は高政が生まれた1531年となる。
この年、稙長は23歳となるので、政国は兄とさほど年齢は離れていない弟だと思われる。

永正13年段階では(畠山)源順家が宮原兵部少輔家当主として岩室城を領していた可能性がある。
史料上で岩室城が登場するのは稙長が「有田進発」と記す有田郡出兵であり、これを享禄3(1530)年と推定した*13

宮崎氏が明確に尾州家に属したのもこの時期ではないかと推測しており、享禄年間の稙長の紀伊下向を期に、政国と宮崎氏が縁組した可能性も想定している。
なお、『両畠山系図』では石垣畠山政氏は宮原畠山長経に殺害されたと記している。
岩室城は有田出兵の前線基地になっていたようであり*14、この伝承は享禄3年に岩室城主だった長経が賀茂氏などの紀伊勢と共に有田郡の石垣家を滅ぼし、その功で石垣家を継いだことを示しているのかもしれない。
この場合、政国が宮原家を継いだのは享禄3年頃という想定になる。

・稙長没後の家督争いと政国の自負

上の項目で述べた通り、政国の動向が確認できるのは天文14年、畠山稙長の没後である。
稙長の頓死を受け、後継者を巡って争いが起きており、この辺は弓倉弘年氏の先行研究に詳しい*15
この家督争いについては不明瞭な所が多いので、ここでは深く掘り下げず必要なものだけ取り上げる。
まず、死後の話ではあるが稙長は後継者として能登守護家畠山義総の子息を指名していた。
弓倉氏は『両畠山系図』から尚順の娘が義総の室になったと想定し、尾州家の血を引く能登守護息が後継に迎えられることは妥当と見ている*16

弓倉氏は同時にこの能登守護息を畠山四郎晴俊と想定されている。
なお、四郎晴俊は通称から能登守護家一門の大隅守家に連なる人間とも目されている*17

『天文十四年日記』8月19日吉田兼右書状では、稙長に続き義総も没したことで混乱が起こるも、足利義晴幕府の重鎮である六角定頼が能登守護息の後継を後押しし、それに対して河内では稙長の舎弟衆が抵抗していたことがわかる(参照)。
政国はこの「舎弟衆」に含まれると思われるが、この騒動がどういう落着を迎えたのかは不明。
『天文日記』は天文14年が年欠で、翌15年には河内での騒動を示す文言は見当たらないため、年内に落着を迎えたと考えるべきか。

また、弓倉氏は政国の子である高政・秋高の仮名が次郎四郎であることについて、「畠山四郎の家督継承を無視しえなかった」という可能性を指摘している*18
それに従って考えると、例えば政国の仮名が四郎だったと想定する。
本来ならその子高政の仮名も四郎になるはずだが、高政が15歳という一般的な元服の歳となる年は、まさに畠山四郎の家督継承が確認できる天文14年である。
そのため四郎と被らない仮名として、次郎四郎と変形させた可能性はあるのではないか。

政国に当初から自身が稙長の後継になる意志があったかは不明だが、この時政国が家中で存在感を増したこと自体は想定できる。
稙長の弟(とされる人物)のうち、畠山長経と晴熈は稙長の代わりに擁立された経緯があり、畠山基信は元義維方だった可能性がある。
一貫して稙長を支える側だった弟は細川晴宣と政国に限られると思われる。
晴宣が細川氏を継いでいるため優先度が下がると考えると、稙長に対する貢献への自認から、実子がいない稙長の後継は自身が相応しいと考えてもおかしくはないのではないか。

・名代就任の意義

天文15年8月に細川高国の後継者の細川氏綱が挙兵する、いわゆる細川氏綱の乱である*19
『細川両家記』『興福寺年代記』『多聞院日記』などは細川氏綱に同心した相手を遊佐氏としており、外部から見て挙兵における尾州家の主体は河内守護代遊佐長教と見られていたようだ。
長らく細川晴元方として活動していた長教が、この時に晴元との敵対を選んだ動機は不明。
直接的に関わりそうなのは前述の稙長跡目を巡る騒動が思いつくだろうが、これ以上はなんとも言えない。

先行研究においては、この時期の遊佐長教の権力が注目されている*20
遊佐長教は一般的イメージと反して、天文初期には若年で権力も貧弱だったが*21、河内半国体制、畠山稙長との再提携を経て権力の変質があったことは確かだと思われる。

一方で、政国に対する検討は『天文日記』天文15年12月28日条で示される名代就任を取り上げられるくらいで、看過されがちである。
ただ、実際にはそれ以前に政国の動向が見える史料がある。
『音信御日記』天文15年8月25日条では、河内衆と牢人衆が河崎表(大阪府西成郡川崎)に打ち出たため証如が音信を送っている。
その対象は畠山播磨守(政国)・平三郎左衛門(盛知)・丹下孫三郎・保田佐介(長宗)・酒匂久介・萱振玄蕃(賢継)・野尻(治部丞)・走井(盛秀)・上野玄蕃頭(細川国慶)・瓦林対馬守(春信)・薬師寺与十郎である。
また同年9月5日条では天王寺の遊佐河内守(長教)・鷹山(弘頼)・高野山三宝院(快敏)・吉益甚介(匡弼)・行松源内助・安見(宗房)に音信が送られている。
政国は守護家の平・丹下・保田・酒匂を率いて前線に出ており、長教とは別行動をしつつ守護代家の萱振・野尻・走井と氏綱方の国慶・瓦林・薬師寺と同行している。
これは紛れもなく政国と長教の連携を示しており、政国は氏綱の挙兵当時から河内で活動していたと見てよい。

この後も「河内衆」が摂津を中心として戦闘をしているが*22、この「河内衆」は政国が率いていたとも考えられる。
あるいは氏綱挙兵当初は長教のみが注目され「遊佐」表記をされていたが、尾州家全体で動いていることが認知され「河内衆」という表記が使われるようになったとも考えられないだろうか。

また、この時長教に本願寺送られた音信は三種五荷なのに対し、政国には三種三荷。扱いは長教以下で他の畠山被官と同等だった。
一方で『天文日記』翌15年1月27日の年始の贈答では政国・長教ともに三種五荷となっている。
これから見るに、政国は当初本願寺方から守護格とみなされなかったものの、後に守護格としての待遇を受けるようになったと考えられる。
その契機は証如自身が「名代之間遣之」と記しているように、名代に就任したからであろう。

畠山氏への年始の贈答が対象の立場によって変化する事例は、天文初期でも伺える。
『天文日記』で両畠山に対する年始の贈答を見ると、以下のようになる*23

晴熈:天文6年・天文7年贈答なし
晴満:天文8年贈答なし・天文9年・天文10年・天文11年贈答あり
在氏:天文6年贈答なし・天文7年(木沢長政の意見によるものと付記)・天文8年・天文9年・天文10年(年始の贈答はなく、10月に始めての音信を送る)・天文11年贈答あり

晴熈は天文5年5月に高屋城に入っていることが確認される*24
晴満は天文7年7月4日に高屋城に入り、10月16日に一字拝領をしたことが確認される*25
在氏も『観心寺文書』天文6年11月13日の在氏安堵状から幕府に家督を認可されたと思われる。
また天文7年段階で飯盛山城に入っているものの、木沢長政の意見によって贈答を行ったとしているため、それが無ければ送っていなかった可能性がある。
その上で証如は両者への贈答に慎重であり、幕府から認可されていない可能性のある晴熈は高屋城に入城しているにも関わらず一度も贈答の対象にならなかった。
つまり、証如は畠山氏当主へ年始の贈答を行うかを、幕府から認可されているかで判断しており、認可を受けずに擁立された人物は対象としていなかったと考える。
すなわち、名代になったことで政国を年始の贈答の対象にしたということは、それを認めたのは幕府ということになる。

一方で、幕府がそれまでは政国を家督を認めなかったこと、認めても名代に留めたことも注目されるだろう。
能登守護息への家督継承は幕府が進めていたことを考えると、それに抵抗した政国は義晴や定頼の面子を潰したに等しい。
その幕府からの政国への印象の悪さが、名代止まりに繋がったのではないだろうか。
そもそも政国の名代は誰の名代という話であるが、幕府は未だに能登守護息を正統な継承者とみなしており、政国はその代理という形で渋々認めたのかもしれない(子の高政に継がせるまでの中継ぎだった可能性もあるが)。

政国が名代に就任したのは天文15年9月から12月までの間と思われる。
その間に見られる、幕府と尾州家との繋がりとして、遊佐長教の動きが見られる。
長教は戦況を大館晴光に報告しており*26

また、12月20日の足利義輝元服式の二日目の祝事で、通例ならば畠山氏が役を勤めるところを、代わりに遊佐長教が勤め費用を出している*27
この時期の長教の実力を示すものとして語られる事例である。
稙長期から幕府とのコネクションを持つ長教に対して、紀伊の分家であるため幕府との繋がりも薄く、家督争いの一件で遺恨もありそうな政国とでは、長教が外交を一手に引き受けていたのだろう。
とはいえ、これを長教の越度や主家への超克を目指す行為とは必ずしもみなせないと考える。
元服式の後の名代就任で、政国が守護格相応として地位を上昇させたことは本願寺からの贈答を見ても明白である。
仮に長教の目的が下剋上を目指しているのならば、政国の地位上昇は都合が悪いはずである。
にも関わらず、政国は乱の当初から被官と共に前線に出ており、長教が活動を掣肘していたとは思い難い。
また、政国の名代就任後に守護代被官の吉益氏が「御屋形様明後日御進発も可相延候」と政国を御屋形様と呼んでいる*28
守護代家も名代の政国を当主相応に扱っているということは、そこに対立はなかったと考えている。

後の『天文日記』天文16年閏7月8日条の本願寺の贈答では、河内勢では遊佐長教・走井盛秀のみに贈答されている。
この時は政国に贈答されていないが、『大日本伝皇代記』10月21日条(参照)でその理由が伺える。
「政国御上洛、紀国衆御供」とあり、畠山政国はこれ以前に紀伊に下向していたようだ。
『天文日記』翌17年5月25日条では政国にも贈答がされているため、単に前年閏7月段階では河内に不在だったから贈答の対象になっていなかったと考えられる。

まとめると、本願寺から贈答の対象にされていないことは、その畠山氏が内部から奉じられていないとは限らないということである。
その理屈から、政国も天文14年の年始の贈答の対象にはなっていないが、この時点で尾州家内部からは奉じられていた可能性はあると考えている。
もちろん、幕府と直接繋がることで長教の存在感が増したことを否定するものではない。
畠山稙長は紀伊に没落している時期も本願寺の贈答対象になっていたことと比較すると、守護権力の退潮が見えるとも言える。

・謎の「和束ノ御屋形様」殺害事件

天文15年8月の挙兵後、尾州家と細川氏綱は各地で一進一退の戦いを繰り広げるが、翌16年7月の舎利寺合戦で晴元方が勝利すると和睦の機運が高まり、17年4月に停戦となる。
そんな中、政国も関わる一つの事件が起きる。

『享禄天文之記』「七月二十九日、筒井殿順昭、和束ノ御屋形様ノ城ヲ責二御立有、明八月朔、御自身御責、本城ヘ数千騎コミ入、御屋形様切腹アル、筒井衆モ手負打死モアリ、河州御屋形様御腹立以外也、筒井殿ヨリ一万座ノ御祓、若宮右馬殿被申候、若宮座ニテ各勤仕申也」

何コレ?
外部からも政国が屋形と認識されているのも注目されるが、問題は内容である。
筒井順昭が和束屋形を攻撃し、順昭自身が攻め寄せて屋形を切腹させ、それに政国が激怒しているとのこと。
あまりにも唐突かつ意味不明な内容で、で先行研究でも触れられることこそあれ、深く掘り下げられることはない印象がある*29

まず、「和束ノ御屋形様」というのは何なのか。
和束は京都府相楽郡にあり、筒井氏の領地とは比較的近いが、ここに「御屋形様」と呼ばれる存在が置かれる城があるのかを寡聞にして知らない。
「和束」という表記に関しては、『両畠山系図』にも畠山稙長の弟として「某 和束屋形」が記され、「和泉屋形」の誤記として細川晴宣に比定されている*30
こちらの「和束」も「和泉」の誤記ならば「御屋形様」と呼称されることは理解できるが、今度は和泉守護の拠点が筒井氏単独の侵攻で落とされるのかという疑問も生まれる。

晴元方の和泉上守護家の細川元常・晴貞父子のうち、元常はこの後も活動が確認される。
一方で晴貞はこの直前に本願寺から音信を送られている細川刑部大輔が終見とされ*31、タイミング的にこの時の死亡はあり得る。
ただし、氏綱方にも和泉守護家を継ぐ人間がいるので(後述)、どちらかは絞り込めない。
一抹の不安はあるが、ひとまず誤記であり和泉屋形と解釈して話を進める。

ひとまずの問題は、この段階における筒井氏の立ち位置である。
筒井順昭は前年までの細川氏綱の乱で尾州家方として行動していた。
一方で、この後の江口合戦に至る戦乱では、良質な史料で筒井氏の参戦は確認できない。
その最中の天文18年4月に、筒井順昭は突然坂本に遁世する。それを庇護したのは六角氏だった*32
また、江口合戦後には古市・越智氏が筒井氏を攻撃し、前者に三好氏が加勢する風聞が流れるなど、筒井氏が三好氏の敵と見られていた*33
つまりどこかで筒井氏は氏綱・尾州家側から離脱したことになる。

傍証になるかは不明だが、『二条寺主家記抜粋』天文16年11月条に「城州守護筒井より之入」という記述がある。
「城州守護」については不明。上山城はかつて木沢長政が守護格の進退権を付与されている*34
長政没後、氏綱方は山城国上三郡郡代職を鷹山弘頼・安見宗房に与えている*35
晴元方ならば、木沢長政の後継者に該当するのかもしれない(『音信御日記』天文16年10月29日に晴元方として贈答されている木沢大和守・山城守兄弟は候補に挙がるか)。

また、筒井順昭は氏綱の乱以前から六角氏と足利義晴の下知を受けた大和猿楽の開催について相談しており、天文15年11月に一旦途切れるも、天文17年5月2から相談を再開している*36
六角定頼は氏綱の乱では当初晴元側に寄った立場を取りつつ静観していたが、天文16年7月に晴元と共に義晴の籠る北白川城を攻め、義晴を晴元方に転向させている*37
江口合戦時の動向から逆算し、筒井氏は義晴・定頼との関係を重視していると考え、この時期に転向が行われた可能性はあるだろうか。

また、筒井順昭が出撃した7月29日は、よりによって細川晴元邸で御成が行われた日と同日である*38
残念ながら晴元方の御成参加者は内衆しか判明していないが、通常の御成ならば接待者側の一門衆も参加するものと考えられる。
その場合、和泉守護家も当然御成に参加するはずで、居城に残った挙句に筒井氏に討たれるという状況はあり得るかという疑問がある。
もっともこの天文17年の細川邸御成は三好長慶らの内衆が除外される特殊なもので*39、一般的な御成の傾向と当て嵌まらない可能性があるが。
ともあれ、同日というのは偶然ではなく、京に晴元方の被官が結集した隙を突いてこの襲撃が行われた可能性もあるだろう。
また、この直後に挙兵した三好長慶は三好政長父子を弾劾しているが*40、この和泉守護襲撃は弾劾の事例に入っていないため、少なくとも晴元や政長が関わって仕掛けた事件ではないと思われる。

確定的ではないのがもどかしいが、ひとまず晴元方和泉守護家はこのタイミングならば御成に参加しているはずという考えを重視して、殺害されたのは氏綱方和泉守護家とみなす。
なお、筒井順昭が氏綱方和泉守護家を襲撃する理由についてはやはり見当がつかないので、記して後考を待ちたい。

前置きが長くなったが、次にこの時期の氏綱方和泉守護家を検討する。
氏綱方和泉守護家については「◆和泉上守護細川晴宣について」(以下、記事A)でも述べたが、考えを修正した所もあるのでもう一度おさらいをする。

179yougoha.hateblo.jp

まずは細川晴宣の消息について。
先行研究では大物崩れで討死した和泉守護は細川晴宣と想定されているが、このブログでは何度か疑問を呈している。
端的に言えば、晴宣の大物崩れの戦死説を否定するのは『証如上人方々へ被遺宛名留』の存在である。
この宛名留には細川晴宣と遊佐長教が併記されている。
これが何を示すか。まず、遊佐長教の父順盛の没年は享禄4年6月ということが判明している*41
そして享禄4年6月は大物崩れの起こった月、すなわち和泉守護某の没年でもある。
つまり和泉守護某と順盛は同タイミングで死去したことになり、仮に晴宣が大物崩れで討死したのならば、順盛の後継者である長教と並んで記せる状況が成立しない。
これは『宛名留』の成立時期がいつであろうと起こる矛盾であり、このことから晴宣の大物崩れ討死の可能性はほぼなくなる。
では討死した和泉守護は誰なのか、後述の通り勝基は天文期も活動が確認できる、すなわち消去法になるが勝基の父細川高基ということになる。
同時に、討死していなかった晴宣には天文以降も活動していた可能性が出てくる。

次に、政国期の和泉守護細川氏として候補に挙がるのは、勝基・五郎・弥九郎である。
細川勝基の経歴については(記事A)でも述べている。
高国の従弟に当たる高基の子で、通称は九郎。晴宣と共に行動する機会も多く、舎利寺合戦に至る細川氏綱の乱でも尾州家に身を寄せたと思われる。

弥九郎も同様に細川氏綱の乱の頃に登場する人物と見られ、遊佐長教に進退を委ねていることが『古今采輯』8月22日政国書状で確認できる。
勝基の後継者とも考えられるが、長教に進退を委ねるということはかなり尾州家に依拠した存在である。

五郎は『河州石川郡畑村関本氏古文書模本』に写される(畠山)政国書状の宛先の人物*42
内容は簡略化され「家督之儀為上意」とだけ記され、年月日も未詳。
馬部隆弘氏の先行研究ではこの五郎を晴宣子とされる細川刑部大輔の前身としている。
確かに『模本』には刑部大輔を宛先とする文書が多く、晴宣の仮名は五郎のため、その子も同じ仮名を名乗ったというのは妥当な想定だろう。
ただし、系図類でも刑部大輔の仮名を示すものはないため、あくまで可能性の話に留まることを留意したい。

ここは敢えてシンプルに考えてみたい、尾州家方の畠山氏・細川氏で「五郎」を名乗る人物は晴宣のみと思われる。ならばこの五郎を晴宣に比定して良いのではないだろうか。
上記の通り晴宣は活動を天文以降を広げられる余地ができたため、政国期に存命だったと考えても矛盾は起きない。
その場合晴宣は世に出てから二十年ほど仮名のままとということになるが、細川氏綱をはじめ高国系の細川氏は正式な任官を受けるまで仮名で過ごしていたため、あり得ない話ではないと考える。

ここから発展して、刑部大輔の仮名が五郎ではないとすれば、別の候補も生まれる。
すなわち、政国書状の宛先の弥九郎である。
遊佐長教に進退を委ねているのも、元々弥九郎が尾州家の身内だったからとも考えられるのではないだろうか。
父の五郎とは似つかない仮名であるが、上の考えの通り晴宣が長らく仮名のままで過ごしていたのなら、元服した際に違う仮名になるのはむしろ当然とも言える。
もっとも、晴宣の五郎は和泉上守護の仮名を意識して名乗ったものだが、弥九郎は下守護の仮名である。
弥九郎を刑部大輔の前身とすると、下守護家の仮名に変えておきながら後に上守護家の官途を名乗るという不自然さはある。

以上は一次史料から推定した考察だが、次は二次史料を用いる。
まずは、(記事A)でも引用した『足利季世記』の記述である、
時と場合によってはボロクソに貶すことも多いが、『足利季世記』独自の記述の中には検討に値するものもあると考えている。

「故高国と一所に打れし細川和泉守護の子新和泉守も氏綱に力を合わせ高屋に来たりけるか病死しけるか男子なくして畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」

まず前半の「細川高国と共に討たれた和泉守護の子が氏綱に合力し高屋に来るが病死する」という記述は、極めて正確な情報を記しているとみている。
なぜなら、大物崩れで討死したのは細川高基で、子の勝基は氏綱の乱の際に尾州家と連携し、やがて家を継いだとみられる弥九郎に代替わりするという一次史料から想定できる状況と完全に合致するからである。
そうなれば、後半の「新和泉守には男子がなかったため畠山政国の弟を遊佐長教のはからいで聟として細川刑部大輔と名乗らせる」にも一定の信が置けるのではないだろうか。
これを採用すれば、政国の兄弟で細川姓を名乗った人物は晴宣のみなので、『模本』の政国期の五郎は晴宣に比定できるのではないか。
そして、勝基には男子がいないとされるため弥九郎は勝基子ではなく、晴宣子=刑部大輔としてみれる可能性も高くなる。

次いで用いるのは、『古今采輯』収録の石垣系図(参照)と、『星田家所蔵文書』の「畠山中元祖」(参照)である。

細川刑部大輔は石垣家と関わることが一次史料で確認されるが*43、この系譜は両方とも和泉守(細川晴宣)も石垣家を継いだとしている。
また、『古今采輯』の系譜は畠山長経→岩鶴→和泉守→刑部大輔という順になっている。
岩鶴丸は天文10年に実在が確認される*44
系図が示す通りその後岩鶴丸は早逝し長経の系統は消え、穴埋めとして晴宣が石垣家を継ぎ、それが後の刑部大輔の石垣家継承に繋がったという想定ができないだろうか。
上の『足利季世記』の記述も、一旦は石垣家を継いだ晴宣が、勝基の病死を受けて再度和泉守護家を継いだという解釈になる。

話を天文17年8月1日の和泉守護殺害事件に戻すと、弥九郎宛書状は8月22日という日付から、和泉守護が討たれたことを受けて出されたものとも考えられるのではないか。
その場合討たれた和泉守護は晴宣が想定される
仮定に仮定を重ねた話だが、天文期の高国方和泉守護は上守護家と下守護家が併存していた訳ではなく、勝基→五郎(晴宣)→弥九郎(刑部大輔)という継承になると考える。
晴元方和泉守護家同様、単独での継承に変化していたということになるだろう。

・江口合戦における政国の立ち位置

天文18年6月の江口合戦で氏綱方が晴元方に勝利する。
長らく高国系細川氏を支持してきた尾州家にとっては願ってもない展開のはずだが、この段階における畠山氏の動向は語られない。

『細川両家記』では天文17年の情勢について「畠山方と細川方和睦のうへは、世上五年も十年も静謐候はんずるかと」と記されており、細川晴元と敵対する主体を畠山氏とみなす世間の風潮が伺える。
すなわち該当期も畠山氏は十分存在感があったはずなのだが、江口合戦に至る氏綱の挙兵では畠山氏の記述が消える。

該当期の畠山政国の動向として、先行研究で検討されているのは、『御内書要文』12月19日畠山播磨守宛御内書である(参照*45

案文であるため花押もなく、発給者が義晴か義輝か不明。
内容は三好長慶・遊佐長教が「一味参洛」したことに対し、政国が意見を加えたが受け入れられず遁世したことを聞き神妙とし、細川晴元・六角定頼・大館晴光を取次としている。

弓倉氏はこの書状の年次比定を長教・長慶が「一味参洛」したとあるため、江口合戦後に氏綱方が入京した天文18年7月以降、遊佐長教が死去する天文20年5月以前の天文18年か天文19年とする。
一方で、天野忠幸氏の『戦国遺文 三好編』では天文17年と比定している*46

政国の遁世について、弓倉氏は細川晴元との対決には賛同したものの将軍家と対立するに及んでこれに反対したと解釈しており、一方天野氏の比定では晴元との対決時点で反対したものとなる。
大分ニュアンスが異なってくるため、この文書の年次比定はそれなりに重要かと思われる。

そのための傍証として挙げるのが、『古今采輯』に載る湯河直光宛3月3日遊佐長教書状。同宛5月3日畠山政国書状である(参照)。
残念ながら内容は簡略化されており(またこのパターンかよ)、長教の取次が「三宝院(快敏)・宮崎隠岐守(直定)吉益長門守(匡弼)」、政国の取次が「三宝院・吉益長門守」であることしかわからない。
ここで注目するのが、宛先の湯河直光が宮内大輔を名乗っていることである。
先代の湯河光春は天文16年閏7月8日に没したとされ*47、『古今采輯』には宛先は仮名の弥太郎の8月17日直光宛長教書状がある(参照)。
この書状は直光の出陣について触れているため、上記の天文16年10月に政国が紀伊から上洛した件と関わるものかもしれない。

それはさておき、『渡部家所蔵文書』によると、天文17年12月3日に湯河直光は宮内大輔に任じられ(参照)、官途の礼を幕府に送っている(参照)。
このことから、湯河直光は天文17年12月に弥太郎から宮内大輔に改称したことはほぼ確実である。
すなわち、湯河宮内大輔宛の長教・政国書状も天文18年以降に比定される
政国書状を守護代家被官の吉益匡弼が取り次いでいることから、この書状を出した時期は政国と長教が連携していることの証左になる。
すなわち、政国と長教の対立を示す政国宛御内書は天文17年である可能性は限りなく低くなり、弓倉氏の解釈通り天文18年か19年のものとなるだろう。

また、長教書状の取次は三宝院・吉益に加えて宮崎直定も務めていることも注目している。
宮崎氏は上で述べた通り政国と縁戚関係を結んでおり、紀伊において湯河氏と並んで尾州家から頼りにされた勢力である。
その宮崎氏が長教書状では取次を務める一方で、政国書状では務めていない理由は何故だろうか。
一つ考えられるのが、河内にいる長教は湯河氏への口添えに紀伊の有力者である宮崎氏を必要としたが、政国は必要としなかったのではということである。
それはつまり政国がこの当時紀伊に在国していたためであり、宮崎氏を介する必要が無かったということになる。

前述の通り、江口合戦に繋がる細川氏綱の乱で畠山氏の動向は殆ど見えず、『天文日記』天文18年の年始の贈答でも丹下盛知・遊佐長教・走井盛秀が対象となる一方で畠山政国は記されない。
しかし、天文18年以降に推定される湯河直光宛書状の存在を見るに、該当期も政国と長教は連携しており、反目したため江口合戦に協力しなかったという線は薄くなる。
加えて、天文16年に政国が紀伊に下向していたため贈答の対象から一時外れていたことを想定できる例はあり、天文18年も同様に考え、政国は長教と連携しつつ紀伊に下向する立場だったと想定している。
あるいは政国の遁世も河内から紀伊に遁世したものではなく、紀伊に下向した状態で長教との意見の相違が起き遁世したものであるとも考えられる。またこのパターンかと思われるかもしれないが。
とはいえ、江口合戦における政国の不在を紀伊への下向と解釈すると、それは第二次細川氏綱の乱の際の下向と違い相当長期に渡るものとなる上、河内に戻ってきた形跡もない。
この動向の違いを両者の乱の性質の違いに求めるなら、やはり江口合戦では細川晴元のみならず将軍家とも対決する形になったことが思い浮かぶ。
晴元の排斥は本懐ではあるが、将軍家と正面から敵対する気はなかったため、政国はパフォーマンスとして紀伊に下ったのではないだろうか。
その後の遁世に関しても、文面から政国の側から弁明を送ったようにもとれないだろうか。

ここから更に、政国宛御内書が天文18年か天文19年かどちらに妥当性があるかも検討してみる。
「一味参洛」が具体的に何を指すまでは想像になるため、弓倉氏の指摘通り天文18年7月の氏綱方の入京という線も十分考えられるだろう。
ただ、『兼右卿記』天文18年11月12日条では、三好方が吉田社を破却しようとした際、足利義晴が密々に中止させるために三好方に使者を下したとあり、この時点で将軍家と三好氏は全面対決に至っていなかったという指摘もある*48
一方で天文19年は、11月に三好以下摂津・丹波・河内の人数4万が京に上り、足利義輝の中尾城を攻撃しこれを没落させている*49
中尾城を陥落させ破却したことはこれまでと比べても幕府に対する攻撃性の高い行動であり、また河内勢が将軍家攻撃に加わったのもこれが始めてと思われる。
幕府との全面対決を望まない政国は、明確に反対の意志を幕府に伝えるために遁世したと考えられないだろうか。
更に言えば義輝・晴元はこの後坂本に没落したため、政国宛御内書の取次が晴元・定頼・晴光が近い場所に固まっているという整合性もある。

以上、政国の遁世が18年か19年かの特定は推測混じりになるが、江口合戦後であること自体は濃厚と言える。
『天文日記』は天文19年が年欠のため、他の年より尾州家の動向が掴みにくいのが残念な所である。
仮に政国の遁世が天文19年12月だった場合、遊佐長教と反目していた期間は翌年に長教が殺害されるまでの半年程度に過ぎなかったことになる。
政国期は長教の存在が増すこともあって、両者は対立的なイメージで語られる印象があるが、必ずしもそうではないのではないだろうか。

・畠山高政の存在から見る政国の意志

冒頭で述べた通り、政国の没年は天文21年8月と思われる。
高政の家督継承が確認できるのはその一ヶ月後である*50

高政の家督継承はこの年足利義輝が氏綱方と和睦し帰京したことが働いていると思われる。
その義輝の帰京の際に、随行者の中に遊佐勘解由左衛門尉が確認される*51
遊佐勘解由左衛門尉は紀伊守護代とみられ、新五郎・兵庫助という人物と同族ないし同一人物と思われる*52
仮名の新五郎から新次郎を仮名とする長教とは近い一族とみられ、長教息の遊佐信教が当時幼少であるため代行して役割を担ったことも考えられる。

この時、細川・三好は義輝を出迎える側として別記されており、幕臣と共に入洛している遊佐氏は明確に義輝に近しい立場と思われる。
この直後の2月11日、安見宗房によって守護代被官の萱振氏らが粛清され、長教弟の根来寺杉之坊も萱振方に一味したとして殺害されている*53
そして、政国の存命が確認される証如からの音信はその6日後の2月17日である。
幕府との関係性に注意を払っていた政国と、義輝入洛に近侍した遊佐氏の動向は同じスタンスになり、また政国への音信は萱振氏の粛清と何らかの関わりがあった可能性もあるが、現時点ではなんとも言えない。
いずれにせよ証如によると政国は目を患っており、この時点で病に犯されていたようだ。

また、畠山高政が高屋城に入ったことが確認されるのはこの天文21年だが、それ以前に河内にいた時期もあったと考えている。
『仁和寺文書』弘治3年安見美作守宛書状には、「先年就尾州雖申掠、依被仰分遊佐前河州并丹下備中守以書状致落居候」という文言がある*54

過去に「尾州」の押領を受け遊佐長教・丹下盛知の書状で停止させたというもので、遊佐長教は天文20年5月に殺害され、丹下盛知が平三郎左衛門尉と名乗っていた終見は天文15年12月なので、「尾州」の押領はこの期間になる*55
問題はこの「尾州」が何者なのかである。政国の官途は播磨守で尾張守を名乗ったことはない。尾州家であることを表しての「尾州」である可能性もあるが、この時点で故人の長経を「前河州」と記しているにも関わらず、同様に故人である政国を「前尾州」と表記しないのは不自然ではないだろうか。
ならば、この「尾州」は高政に比定されるのではないか。
高政は上記の期間の通称は次郎四郎であり尾張守には任官していないが、わざわざ「当時は次郎四郎」と注記しなかっただけと考える。

つまり、高政は天文16年1月以降天文20年5月以前に仁和寺領を押領できる場所にいたことになる。
『天文日記』にはこの時期高政に該当する人物は見られないが、上で考察した本願寺の贈答の基準を踏まえると、名代の息子にすぎない高政は単に贈答の対象にならなかっただけと考えられる。

天文15年4月29日の万徳丸(政能)の宮原神社の棟札は、政能が宮原兵部少輔家の地位を引き継いでいることを想像させる。
裏を返せば、この段階で政国は高政を尾州家家督の後継(播磨守家の可能性もあるが)とみなしており、自身の高屋城入りに息子を伴っていた可能性はある。
前述の通り、政国が長教と反目した期間は早くて天文18年12月以降と、印象より短い。
それ以前ならば、政国が紀伊に下向している時期も高政は高屋城に残っていた可能性も考えられるのではないだろうか。

ところで、『両畠山系図』などによると、政国以降の畠山氏は高政・政能・政頼(秋高)・定政・政次・政信と「政」を通字にしている。
このうち、高政と定政のみが「政」の字を下にしている。
更に高政に関しては時期的に足利義輝(当時は義藤)から家督の承認を受けたことは明白にも関わらず、その偏諱を得ていない。
同時期に義輝から家督を承認されたにも関わらず偏諱を受けていないのは細川氏綱も同様で、これについて志末与志氏が考察をしている*56
似たようなモデルケースとして、同じように考えてみたい(もっとも、明確に義輝から一字拝領されたにも関わらず諱を変えていない細川氏綱とは違い、高政が一字拝領したという記録はないが)。

常識的に考えると「藤政」ないし「藤高」と改名して然るべき所をしていないとなると、上の「高」の字に何らかの意味があったとみなすべきだろう。
仮定を重ねる話に勿体ぶっても仕方ないので結論から述べると、「高」の由来を細川高国に求められないかと考えている。
兄の稙長は細川高国の有力な支持者であり、高国没後も後継者の晴国・氏綱と連携していた。
一方で、稙長は氏綱を庇護してはいたものの、河内復帰後は晴元と両天秤的な行動を取り実際に共に軍事行動を起こしたことはないという指摘もされている*57
それと比較すると、政国は明確に細川氏綱と連携しての挙兵に踏み切っており、また江口合戦後の遁世も幕府との対立によるものであり、晴元打倒そのものは賛同していたと思しく、高国派との連携へのモチベーションは高かったと見なしてよいのではないか。
その政国の意識が、子息に「高」の字をシンボルとして与えたとは考えられないだろうか。
あるいは政国の「国」も、「国◯」という名を持つ高国被官を結集するための偏諱の読み換え諱であるとも考えたが、政国がいつ頃からこの諱を名乗り始めたのかは不明なため、これはあくまで与太である。

・まとめ

流石に名代とはいえ畠山氏の家督を継いだ人物ともなれば、その事績も点と点を繋ぐものだけではなく豊富になる。
先行研究における畠山政国の立ち位置は守護代遊佐長教に克服されるものとして、芳しくない印象を受ける。
とはいえ政国は兄稙長が実行しなかった細川氏綱を擁しての挙兵をなし得ており、足掛け三年に渡り善戦しており、世間からも畠山氏は対立の一方の主体とみなされていた。
江口合戦での晴元方放逐の際も引き続き氏綱側に属していたと思しく、尾州家が長年目指していた高国系細川氏の再興という本懐は果たしたともいえる。
一方で、幕府が承認した家督継承者に抵抗して名代になるまでこぎつけた経緯もあってか、幕府との関係には注意を払っており、江口合戦以降は前面に出てこず存在が薄くなっていった。
ただ、従来対立的なイメージのあった政国と長教の反目は半年程度だった可能性があり、政国の遁世も長教との本格的な対決に踏み切ったというよりは、幕府に敵意がないことを示すアピールも兼ねていたとも考えられるのではないか。
繰り返すが、該当期にあたる天文19年の『天文日記』が年欠しており、肯定的にせよ否定的にせよ評価材料が欠けているのがもどかしい所である。

また、政国の記事に限った話ではなく、主役としては扱っていないもののこのブログの記事を通して遊佐長教についての検討を多数行ってきた。
その結果、長教期にしばしば行われる尾州家の家督交代に、所謂「下剋上」的な文脈は殆ど無かったと言えるのではないだろうか。
長経は対立する義晴側が押し付けた家督交代であり尾州家が受け入れた様子はなく、晴熈は紀伊に下向した稙長が方針の違いにより戻らなくなったため本願寺と妥協して擁立しており、晴満は義晴側の意向が強い家督交代であり、再度の稙長擁立は紀伊から大軍を引き連れて刷新を狙う彼との和睦を図ったもの、幕府から名代に留められた政国も屋形として奉じており、その遁世も本格的な対決に至らずごく僅かな期間だった可能性がある。
長教が明確に主体的に当主を放逐した例となると、稙長との和解の際に晴満を切り捨てたことに限られるのではないか。
近年、小谷利明氏も従来の老獪な野心家とする遊佐長教像に疑問を呈し、イメージの修正を図っているが*58、このブログの解釈はそれに乗っかるものと言える。

政国の支持する戦略が幕府との対立を避け、晴元を放逐し氏綱を擁立するものだった場合、天文21年に晴元が出奔しつつ義輝が帰京したことは理想的な状況だったと言えるのではないか。
政国・長教の反目が幕府への本格的な対立姿勢によるものだったのならば、将軍が帰還すればそれは解消されるはずである。
ただ、実際には長教・政国が相次いで没したため両者の思惑がどうだったかは闇の中である。

もっとも、政国の立場への過大評価は禁物である。
該当期に守護権力の範囲は限定的になり、反比例する形で守護代の遊佐長教が対外的にも存在感を増している。
長教が政国の意に沿わない行動をとっていたのも事実であり、守護権力の衰退に繋がる時期であることには違いない。
「必ずしも守護代と反目している訳ではないが、確実に存在が希薄化していっている」という政国の属性は、あるいは三好長慶に対する細川氏綱に近いのかもしれない。

 

参考文献
弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』「中世後期畿内近国守護の研究」

*1:森田恭二「河内守護畠山政国の実像を巡って」(帝塚山学院短期大学研究年報41)

*2:『土屋家文書』2月28日土屋喜左衛門尉宛政国書状。『古今采輯』2月28日壷井源右衛門宛政国書状・5月3日湯河宮内大輔宛政国書状・8月22日(細川)弥九郎宛政国書状。馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)収録五郎宛政国書状

*3:弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)

*4:「畠山氏の系図まとめ」(参照) 『両畠山系図』の成立と『古今采輯』(参照

*5:川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究~室町幕府近習・奉公衆家の一展開~』(京都学・歴彩館紀要)以下、川口A。同『室町~戦国初期の畠山一門と紀伊』(和歌山地方史研究81)以下、川口B

*6:前掲注*5川口B

*7:前掲注 *5川口A

*8:前掲注*5川口A

*9:前掲注*5川口A。『不問物語』永正5年6月4日

*10:前掲注*5川口A

*11:『九条家文書』(大永4年)11月28日信濃小路大膳大夫宛て勢長書状

*12:『◆島津氏に仕えた「畠山中務少輔」』(参照

*13:『◆享禄年間推定の畠山稙長の紀伊出張再考』(参照

*14:白石博則『紀伊国における畠山稙長:活動と居所』(人文学学際研究1)(参照

*15:弓倉弘年『天文期の政長流畠山氏』(中世後期畿内近国守護の研究) 以下、弓倉A

*16:なお、畠山義総の妻はWikipediaなどでは勧修寺政顕娘とされているが、先行研究でそれに触れたものは見かけない。『尊卑分脈』では勧修寺娘として畠山大隅守家俊妾と畠山陸奥守妾を載せているが(参照)、これをさしたる根拠もなく義総に比定したのではないか。また『興臨院月中須知簿』(加能史料 戦国ⅩⅡ P31)の過去帳には義総の妻とその母が載っている。

*17:麦居和真『蓮能尼の出自に関する一考察 ー能登畠山氏一族の可能性をめぐってー』(加能地域史76)

*18:弓倉弘年『紀伊守護家畠山氏の家督変遷』(中世後期畿内近国守護の研究)

*19:『細川両家記』

*20:前掲注*15弓倉A。小谷利明『畿内戦国期守護と室町幕府』(日本史研究510)。岡本侑樹『戦国期河内国における三好氏権力の地域支配 : 畠山氏との比較から』

*21:小谷利明『遊佐長教』(戦国武将列伝8 畿内編【下】)

*22:『細川両家記』、『興福寺年代記』天文15年9月3日条、『長亨年後畿内兵乱記』同年9月13日条、『二条寺主家記抜粋』同年9月18日条

*23:『天文日記』天文6年1月日条・同年3月9日条・天文7年1月21日条・同年2月5日条・天文8年2月23日条・同年4月1日条・天文9年3月21日条・同年5月3日条・天文10年3月18日条・同年10月9日条・天文11年1月25日条・同年2月10日条

*24:『天文日記』天文5年5月18日条

*25:『天文日記』天文7年7月4日条『大館記』10月16日足利義晴御内書

*26:『古簡雑簒』9月17日大館左衛門佐宛長教書状。『戦国遺文 三好編1』【参考20】では年次を天文18年としているが、文中に登場する吉益甚助(匡弼)は天文17年11月19日段階で長門守を名乗っているので(『森田周作氏所蔵文書 石川郡大工紺屋御朱印写覚』(参照)、天文17年以前のものとなる。『後鑑』(天文15年)9月25日大館左衛門佐宛長教書状(参照

*27:『光源院殿御元服記』「群書類従」17

*28:『鷹山家文書』(天文16年)5月25日鷹山弘頼宛吉益匡弼書状

*29:金松誠「筒井順興・順昭」(戦国武将列伝畿内編7【上】)

*30:前掲注*2馬部論文

*31:『天文日記』天文17年6月4日条

*32:『多聞院日記』天文18年4月26日条『尊経閣古文書纂』(天文18年)5月8日八条殿宛定頼書状 『戦国遺文 佐々木六角氏編』P214

*33:『良尊一筆書写大般若経奥書集』天文18年7月13日条・9月13日条

*34:馬部隆弘『木沢長政の政治的立場と軍事編成』(南近畿の戦国時代―躍動する武士・寺社・民衆)

*35:『鷹山家文書』10月4日鷹山弘頼・安見宗房宛平三郎左衛門尉盛知書状

*36:『般若窟文庫所蔵文書』 『戦国遺文 佐々木六角氏編』P184-212

*37:『長亨年後畿内兵乱記』

*38:「天文十七年細川亭御成記」『続群書類従』35

*39:馬部隆弘『天文十七年の細川邸御成と江口合戦』(年報中世史研究)46

*40:『後鑑』8月12日三好長慶書状(参照

*41:畑和良『河内守護代遊佐順盛の没年』「戦国史研究86」

*42:前掲注*2馬部論文

*43:前掲注*2馬部論文

*44:『歓喜寺八幡宮棟札』(金屋町誌 上)天文10年4月1日棟札

*45:弓倉弘年『戦国期河内国守護家と守護代家の確執』「中世後期畿内近国守護の研究」

*46:『戦国遺文 三好編』1【参考18】

*47:『湯川氏代々系図』

*48:『足利将軍家年表』

*49:『言継卿記』天文19年11月19日

*50:『天文日記』天文21年9月29日条

*51:『言継卿記』天文21年1月28日条

*52:「『芋生家文書』8月23日遊佐長教書状。9月28日遊佐長教書状。11月12日遊佐長教書状。

*53:『良尊一筆書写大般若経奥書集』天文21年2月11日条

*54:『遊佐信教の初見文書』「志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』」(参照

*55:『良尊一筆書写大般若経奥書集』 天文20年5月21日条 『天文日記』天文15年12月28日条

*56:『細川氏綱の実名について』「志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』(参照) 『細川氏綱の実名についてPart2』「同」(参照)」

*57:川口成人・窪田頌『本覚院文書にみる戦国期の畠山・大友間交渉』(古文書研究97)

*58:前掲注*21

◆島津氏に仕えた「畠山中務少輔」

畠山中務少輔基信についての捕捉。
基信の家である中務少輔家については「◆畠山中務少輔基信について」(以下、記事A)で考察を行った。

179yougoha.hateblo.jp

先行研究とは違う結論にはなってしまうが、畠山基信ないし同時期に登場する中務少輔家の畠山種元については今のところ、この解釈のままである。
以前と変わらず「中務少輔を名乗る人物が同時に二人存在したわけではない」「義稙系将軍に仕える七郎→中務少輔が基信。義澄系将軍に仕える次郎→民部大輔→上野介が稙元」という想定で進めたい。

さて、2024年に桐野作人氏による南日本新聞連載「かごしま街道見聞記」第103回「南薩路⑤知られざる畠山橘隠軒」が掲載された。

橘隠軒自体は既出の人物であるが、自分はこの記事で初めて知った。
内容には非常に興味深いものがある。橘隠軒の俗名は畠山中務少輔頼国で、河内守護畠山尚誠の子孫だというのだ。
記事に記されている通り、橘隠軒は一次史料に記される人物である。
天文14年頃には島津氏の下にいることが確認され、以降は外交役として活動。
明確に畠山氏出身であるかは一次史料では確認できないものの、席次の高さから相応の家格の人物であることが伺える。
天文13年に橘隠軒は没するが、翌14年から後継としての活動が見えるのは子である長寿院盛淳である*1
盛淳は島津義弘の老中として活動し、関ヶ原合戦では撤退する義弘の身代わりとなり本陣に留まり、「島津兵庫頭死に狂いなり」と叫んで討たれたことで著名*2
信長の野望に登場しているためこのブログで取り上げるには格段に知名度の高い人物と言える。

さて、「畠山中務少輔」という橘隠軒の俗名から想定されるのは、このブログの読者ならば当然、基信である(断定)。
果たして両者を同一人物と見なせるのか、検証してみたい。

・二次史料から見える橘隠軒

副題通り、二次史料から橘隠軒に関わる伝承を確認してみる。
まずは元禄14(1701)年と思われる時期に『御家伝并諸家由緒』「畠山家由緒書」という長寿院盛淳の孫(養子)による主張がある*3

彼は島津光久庶子の義扶が阿多忠栄に養子入りしたもので、阿多淡路(基明)と名乗る。
語るところによると、九州に逃れたあと橘隠軒は阿多甚左衛門という人物に家財を譲り、子には畠山の名を残さなかったものの、盛淳は還俗後畠山姓を名乗り、その死後に幼少の子忠栄を甚左衛門が世話した恩から阿多姓を名乗るようになったという。
その上で義扶は「本家に隠れなき畠山の名字なのに、恩があるとはいえ謂れのない名字を名乗ることは不本意だった」とアピールして本家の畠山基玄に畠山名字を名乗る許可を得ようとしている。
ここでは橘隠軒の諱は記されず、「畠山中務少輔」とのみある。
また、橘隠軒は永禄の変後に牢人して近衛前久の伝手で島津氏に身を寄せたとするが、「本藩人物志」によると長寿院盛淳は1548年に生まれ幼年の頃から鹿児島の大乗院に入っていたとするため矛盾している。
上記の通り、実際に橘隠軒は天文14年に九州への下向が確認されるので、この部分は明確に誤りだろう。

次に、『漢学紀源』(成立は文化9年(1812年)から天保12年(1841年)という)の南浦文之の項目に橘隠軒が登場する。
文之は俗姓湯佐氏で、弘治元年に飫肥南郷外浦で生まれたとされ、永禄3年に父は河内に向かい戻ってこなかったという。
また文之には兄二人がおり、元亀2年に長兄は信長によって高屋城で死に、次兄は比叡山焼き討ちの際に死んだという。
『畠山譜』(薩摩藩に伝わる畠山の伝承か)によると、河内の橘隠軒が天文8年30歳で京を出て、遂に薩摩に至り、その際に遊佐幸雲と杉原某もまた来しており、文之父の湯佐氏はこの幸雲ではないかと推測されている。

遊佐幸雲については該当する人物が見当たらず記して後考を期したい。
二人の子が死んだという元亀2年は畠山秋高の高屋城が三好義継・松永久秀に攻められた年と一致する。
ただ、高屋城と比叡山で信長と敵対して殺害されたとあるが、この時点では尾州家は信長方であり、それと敵対する遊佐幸雲の家は総州家の人間だったのではないかとも想像させる。

さておき、『畠山譜』に従うと橘隠軒の生年は1510年となる。
1509年生まれの畠山稙長の弟としては成り立つだろう。

また、橘隠軒を先祖とする薩摩藩重臣新納久仰が安政4(1857)年に写した橘隠軒の墓誌もある。
天正13(1585)年8月7日に76歳で没したことから逆算して生年が1510年になることや、天文已亥(1539)年に京を出て坊津に在したことは『畠山譜』の情報と一致する。
寛政丙辰(1796)年に墓を作り直したとあるが、墓誌が記された時期はわからないようだ。

阿多義扶の述べる由緒と、『畠山譜』や橘隠軒墓誌が記す由緒は、前者は頼国という諱を記さないことや、九州に下向した時期が明確に誤っているなどの違いがある。
後者の元となった情報が前者に先行する可能性があるかははっきりしない。
前者で橘隠軒が下向したとする永禄8年を、矛盾しないように天文8年と後筆で修正した可能性もあるだろう。
そのためこれらの情報には取り扱いに慎重になる必要があるが、これを踏まえて先に進みたい。

・橘隠軒と島津氏と近衛家

「知られざる畠山橘隠軒」には(天文15年)2月29日橘隠軒宛本庄新次郎将久書状の訳文が載っているため、以下のように引用する。

「去年はふとご下向のところ、いろいろとご懇志をいただき、ご祝着です。よって内々に約束していた一乗院を勅願所に補されることになり珍重です、その綸旨を下されました」

また、同日に近衛稙家日野町資将が島津氏に宛てた書状があり、それらは『旧記雑録前編2』で確認できる。
これらの書状は町資将が近衛家の使者として天文14年に薩摩に下向し、帰京した後に近衛家が島津氏に宛てたものである。
町広光の娘に高辻章長室と近衛尚通家女房があり、資将は章長の実子であり広光の養子となった。
母方のおばが尚通の家女房にあたる形で、資将と近衛家は縁がある。
本庄将久は諱から考えて、資将の家司だと思われる*4

以下、先行研究に従って町資将の下向について簡潔に述べる。
資将は天文13年11月2日から京を離れており、薩摩に移ったあと天文14年6月下旬以降に薩摩を離れたと見られ、12月に帰京したという。
坊津に立ち寄ったのは薩摩出向直前とも見られる。
島津氏側から見ると、当時は島津氏は家督継承で内戦が繰り広げられており、天文8年に相州家の島津貴久が勝利し優勢となる
天文14年には相州家が反抗勢力を解体した結果一家衆から守護と奉じられるようになり、資将の下向は画期のタイミングだった*5

近衛家側から見た場合、天文5年に近衛尚通は島津方の有力者八人と通交しているが、相州家が権力を確立するにつれて交渉相手も一本化していったと思われる。
そして町資将の下向は、これまでより印象度の高い方法のアプローチしだった。
その目的は相州家の家督継承を祝すと共に、近衛邸新造のための費用の交渉であった。
そして下向した町資将らを歓待した例として、近衛家などの働きかけにより、島津氏が創設した寺である福昌寺と坊津一条院の勅願寺化がなされたという*6

本庄将久書状の「御下向」の対象は橘隠軒とも読めるが、他の近衛家側の書状では全て下向の主体を町資将としているため不自然さはある。
将久の主である資将の下向であるため「御下向」と表現されたと解釈すべきか。
また、一連の書状の中で、一条院の勅願寺化に触れているのは、橘隠軒宛将久書状と同日一条院宛資将書状のニ点のみなので、橘隠軒は当時坊津に在していたと考えられる。
これらの想定に従うと、橘隠軒は少なくとも天文14年6月以前に薩摩に下向していたことになる。(下向の時期が天文14年とは限らないと考える)

・畠山基信の履歴書

次に、畠山基信の動向を再検討する。
史料上で確認できる「畠山中務少(大)輔」は以下のような経歴になる。

大永7年2月に足利義維方として畠山中務少輔が上洛→天文3年1月に畠山中務少輔が本願寺に入る→天文4-5年頃に尾州家方として畠山中務少輔基信が記される→天文5年12月に義晴の伊勢貞孝亭への移徒に畠山中務大輔が随行する→天文11年閏3月に稙長と共に尾州弟中務少輔が高屋城に入る→天文14年12月に足利義晴に畠山中務少輔が使僧を送る

大分コロコロ陣営を変えている気がするが、このような遍歴はあり得るのだろうか。順を追って見ていこう。

明確に基信と断定できる畠山中務少輔が登場するのは、天文の錯乱の時期である。
天文の錯乱における尾州家の動向については、「◆天文の錯乱における畠山稙長の没落過程再考」の記事(以下、記事B)で考察している。

(記事B)では天文の錯乱当初は尾州家は義晴方であり、天文2年7月に本願寺と義晴方の一度目の和睦によって河内に入国し、天文3年5月の和睦破綻の際に本願寺との連携を優先して義晴方と対峙、翌年9月以降から二度目の和睦に向けての動きが始まるが、その際に抗戦派の稙長がはじき出されたと想定しており、今回もこの想定に従う。

天文3年1月時点では基信は本願寺に入っており、尾州家守護代家出身と思われる遊佐千々代と共にいるため、この段階で尾州家側になっていると思われる。
また、本願寺方からも尾州家方として音信を送るべき人物とみなされている。
史料上では、基信と直接的に関わりを持っている相手は稙長ではなく本願寺であることは注目に値する。

大永7年の義維方の中務少輔を基信と見なした場合、義維方と尾州家は本来対立する陣営にある。
そして天文の錯乱ならば、一度目の和睦破綻後の天文3年10月に、松田守興という義維方の人間と尾州家の連携の徴証がある。
同様に、基信は元は義維派で、天文の錯乱を切っ掛けに尾州家と同陣営に入ったと想定することは可能とみる。

以上から、次のように想定する。
天文の錯乱当初は義晴派に属していた尾州家に、義維派の基信が属した可能性は薄い。
想像になるが、先に本願寺と義維派の連携があり、和睦によって基信は尾州家と繋がったのではないだろうか。
天文3年6月に、義維派は義晴の帰京の動きに抵抗し、本願寺を結集核として挙兵したと見られる*7
この本願寺を義維派の結集核とする動きが一度目の和睦以前に遡れれば、基信の動向をより想像しやすくなるが、それは確認できていない。

次に、『後法成寺関白記』の天文5年12月に義晴に随行した「畠山中務大輔」を、中務少輔の誤記で、基信を指していると想定した場合である。
義維派に属して尾州家と繋がった基信が、稙長が失脚する一方で自身は義晴派に転じる動きはあり得るだろうか。
これを補強するのは、(記事B)で想定していた、「稙長は天文4年段階では紀伊に下向しており、9月以降の和睦に対しての方針の違いで家中からはじき出された」である。
基信は稙長の紀伊下向には同行しておらず河内に留まり、そのまま本願寺と高屋城衆と共に義晴方との和睦に従ったのではないか。
それならば、天文5年に義晴派として登場しても不自然ではない

稙長は細川晴国と連携しており、それに固執して義晴派との和睦に抵抗したと思われるが、義維派の基信は旧高国派との連携に拘る理由はない。
むしろ前述の通り本願寺と直接の接点があるため、本願寺が和睦を望むのならばそちらを優先したというのも考えられる。
あるいは「高屋衆」として本願寺に入ったまま和睦を迎えたのかもしれない。

・薩摩で畠山氏が発見される謎

天文11年閏3月に稙長と共に高屋城に入った中務少輔と、天文14年段階で薩摩に在している橘隠軒。
基信が天文の錯乱終結後に義晴方に転じていたとする想定の場合、どちらを基信に比定した場合でも、彼は再び京を離れたことになる。
なお、高屋城に入った中務少輔についての検討は後に回す。

基信の出京ついて、一次史料で何か裏付けがある訳ではない。
そこで、成立時期が不明の史料であるため心許ないが、上で引用した『畠山譜』の「天文八年年三十而出京師、遂寓薩摩」と天文8年に橘隠軒が出京したという記述に注目したい。
この天文8年というタイミングと併せて、義晴方として中務少輔家の家格を確立した畠山種元の動向を取り上げる。
(記事A)でも述べているが、天文初期に幕臣として登場する畠山民部大輔上総介種元の前身だった場合、改称したタイミングは天文6年1月から天文8年10月の間になる。
また、天文9年に種元は中務少輔家代々の所領である摂津国橘御園の押領を訴えている。
上野介への改称や、代々の所領への訴えからは、中務少輔家の嫡家となった畠山政近の後継であることを意識しているように見える。
そしてその裏には、競合相手である基信が京から去ったことにより、何の遠慮もなく政近の後継であることを主張できるようになったからではないかと考える。
もっとも、種元の上野介としての初出や橘御園を知行していることが天文8年を遡ることが確認できれば、崩れかねない主張だが。

基信の出京の動機や、橘隠軒とした場合薩摩という遠国まで下向した理由は判然としない。
没落によるものなのか、何らかの役割を帯びたものだったのか。
天文7年の畠山弥九郎晴満の尾州家家督継承により、半国守護体制が始まるが*8、それが都合が悪かったか、義維方からの転向という経歴が響いて居心地が悪かったのか。

義維派に島津氏や九州とのコネクションがあったという徴証も今のところ確認はできていない。
一方で、この当時の畠山氏と九州の直接の関わりとして、窪田頌氏によって天文11年11月に大友氏が畠山稙長と通交しようとしたことが指摘されている。
窪田氏はこの通交の目的として、大友氏の関わる遣明船派遣の海路安定のために、紀伊に影響力を持つ尾州家と友好関係を築こうとした可能性を指摘している*9
この遣明船は種子島を経由して派遣されており、島津氏も関わるものであったかもしれない。
畠山氏と島津氏の間に接点ができる可能性として、この一件を挙げておく。

また、本庄将久書状からは橘隠軒と近衛家との交流が伺えるが、この交流がそれ以前に遡れるかは不明。
尾州家と近衛家は徳大寺家・細川高国一門を介する形で縁戚での繋がりはあるが*10、天文年間には近衛家と高国派の関わりが見えなくなるように、その繋がりは過去のものとなっていると思われる。
実際、近衛尚通の『後法成寺関白記』では尾州家や中務少輔との交流は特に見られず、上記の通り基信と推定される人物も「畠山中務大輔」と誤記しており、関係性が濃いとは思い難い。
可能性を指摘するとすれば、『後法成寺関白記』が記されるのははちょうどこの天文5年12月までで、子の近衛稙家の日記は現存していない。
そのため近衛家の動向が詳細に知れない時期と基信が在京していた時期が重なるので、もしかしたら天文6年以降に交流が芽生えたと言えることくらいだろうか。

・混在する基信・橘隠軒・稙長弟

(記事A)で触れた通り、『天文十四年日記』12月3日条では畠山中務少輔の使僧が進上を行っている。
天文14年6月以前に橘隠軒が薩摩にいたことは前述の通りで、翌15年2月の将久書状の内容から、その後上洛した様子も伺えない。
そのため橘隠軒とこの中務少輔を同一人物とするには、薩摩から贈答をしたことになる。
ただ、同日記では能登畠山家・山名氏・大内氏などの守護格からの贈答はあるものの、薩摩のような遠国から、それも守護格ではない人物が贈答した例は他に見られない。
また贈答品は御扇一本と杉原十帖のみであり、手間をかけて九州の南端から送るには少なく感じる。
(2026/6/8追記)加えて、9月13日条では「朝倉弾正左衛門入道(宗滴)」からの贈答が記されている。
この史料は出家している人物は「入道」を付記しているため、畠山中務少輔は出家した人物ではないと考えられる。
書状などを送る際に相手の改称や出家を把握していないケースはあり得るが、贈答は当然送った人物の名が明記されるはずで、受け取った側がその人物の改称を把握せずに記録するというのは考えづらいだろう。(追記了)
これらのことから、この畠山中務少輔を薩摩の橘隠軒と見なしていいのかという疑念が芽生えている。

仮に天文14年の畠山中務少輔と橘隠軒を別人として見た場合、どのようなケースが考えられるだろうか。
一つは橘隠軒が基信とは別人の出自不明の人物だった場合。
結局のところ一次史料では橘隠軒を畠山氏出身と見なせる根拠はないので、あり得る話だが、その場合話がここで終わってしまう。
もう一つは基信は橘隠軒と同一人物だが、基信と天文14年に登場する中務少輔は別人という場合。

天文5年12月に京にいた中務大(少)輔は登場時期が違いのもあり、基信と同一人物であると想定しやすいと考える。
その後、基信が薩摩に下向し、別の人間が中務少輔を名乗って登場したという形になる。
ここで注目するのは、「畠山家由緒書」での阿多義扶の「橘隠軒は畠山の家の名を残そうとしなかった」という証言である。
後世の情報ではあるものの、実際に橘隠軒の子孫が畠山ではなく阿多氏を名乗り、元禄期に改名運動をしていることから、信用度は高いと思われる。
薩摩下向時点で基信=橘隠軒が中務少輔家を子に継承させるつもりがなかった、あるいは周囲からそう認識されていたのなら、代わりに別人の畠山中務少輔家が登場することも想定しやすいのではないか。

以降の畠山中務少輔の登場は、天文11年に稙長と共に高屋城に入った稙長弟の中務少輔と、天文14年に進上を行った中務少輔のニ例である。
どちらの段階で基信=橘隠軒の薩摩下向と別人の中務少輔が登場したとみなすべきか。
前者の段階では基信、後者の段階では基信と別人とみなすと、基信を稙長の弟としつつ橘隠軒とも同一人物としてみなすことはできる。
ただその場合、天文14年の中務少輔が詳細不明の人物になってしまうというネックもある。

もう一つは、前者の天文11年の段階で基信と別人の中務少輔が登場しているという想定である。
ここで再度確認するが、(記事A)の冒頭でも触れているように、他の稙長弟と異なり、基信と名乗る中務少輔が稙長弟であるかは確定してはいない。
明確に稙長の弟と言及されているのは、共に高屋城に入った畠山中務少輔のみである。
この想定の場合、基信は稙長弟でなかったという可能性が出てくる。
『両畠山系図』の稙長の弟に基信らしき人物の名が見られないのも、弟ではなかったからという単純な話になる。

そして、天文11年段階で畠山中務少輔を名乗れる稙長弟となると、一人に限られる。
長経は左京大夫、晴熈は播磨守、晴宣は細川姓と、「畠山中務少輔」を名乗れない。
そうなると消去法だが、畠山政国しか残っていないのだ。

政国の通称として確実に史料から見られるのは畠山播磨守で、それ以外は不明である。
ただ、播磨守は晴熈と被るため、必ずそれ以前の別の通称があったことになり、不明ということは他の弟と違い当てはめられる余地はあるということ。
更に天文11年に高屋城に入城した中務少輔は、このタイミングしか確認されずに後に姿を消す。
これも政国と考えれば、稙長の上洛に従って領地である岩室城周辺の勢を率いて入城していたが、その後帰還したという動きで説明がつく。

後に政国子の高政が湯河氏に中務少輔家の家督を与えていたのも、以前から政国系がその家督を保持していたからと考えられるのではないだろうか。
ついでに言えば、基信の畿内での活動を天文5年までと考えた場合、彼が稙長と連携したのは天文の錯乱の僅かな時期に限られる。
それ以前は義維方、それ以降は義晴方と稙長と対立する陣営に属しているため、仮に基信が畿内から離れた場合、稙長方が中務少輔家の家督を乗っ取ることに特に躊躇はなかったと思われる。

なお、「◆畠山播磨守晴熈について」でも引用したが、天文14年8月15日には「畠山播磨守」が進上を行っている。
中務少輔の進上の翌日の天文14年12月4日に晴熈は伊予守に任じられている。
弓倉弘年氏の先行研究では、晴熈の任官を記す『歴名土代』が年月日を誤記した可能性が指摘されており*11、以前は自分もそれに従いこの播磨守が政国であると想定していた。
実際、弓倉氏の指摘通り、播磨守の進上が「始而御礼」と記されているのは、晴熈と考えるには不審さもある。
ただ、最近は中務少輔の素性問題を抜きにしても、『歴名土代』の年月日は正しく、『歴名土代』『天文十四年日記』をどちらも採用してこの播磨守を晴熈とみなせないかと考えている。
12月は畠山稙長が急死してその後継者問題が落着したか不明瞭な時期であり、晴熈の伊予守任官はこれに関わることを想起させるが、理由についてそれ以上の結論は出せない。
ともあれ、『歴名土代』の日付を正確とした場合、政国の播磨守任官が可能となるのは天文14年12月4日以降なので、この点において12月3日の中務少輔を政国とみなすことに支障はないと考える。

以上のように推論を行ったが、状況証拠が多く、今後関係する史料が発見されれば覆りかねないものでもある。
基信が稙長弟と確認できた場合、政国の中務少輔説は成り立たなくなるだろう。
逆に天文14年に中務少輔の畿内での活動が他に確認できた場合、少なくとも橘隠軒とこの中務少輔は別人とみなせる。

・まとめ

明確な結論は出せないが、畠山基信と橘隠軒に関わる事例の推論を行った。
一つ言えるのは、天文年間に登場する畠山中務少輔と橘隠軒を全て同一人物と思うのは難しいのではないかということ。
義維方として登場する中務少輔を基信とみなすのはこのブログの独自見解だが、仮に義維方中務少輔を種元とみなした場合でも、この問題点は同じだと考える。
また、橘隠軒と基信を同一人物とみなす場合、途中から別の中務少輔に入れ替わっている可能性を指摘した。
この中務少輔を畠山政国の前身と想定するのも、根拠の乏しいものではあるが、今後正否どちらでも補強ができる史料を発見できることを期待したい。
ただ、従来の「稙長弟の基信が『両畠山系図』に記されていない」という疑問が、「基信は稙長弟ではないので記されていないだけ」「中務少輔は系図に載る稙長弟と同一人物」という形で解消できる想定ではあると考える。

再三だが、一次史料で橘隠軒が畠山氏とみなせるものはないため、無視すれば登場する中務少輔を全て基信とみなすことは可能である。
知名度の高い長寿院盛淳が政長流の畠山氏の子孫だったという想定は個人的には魅力的だったのだが、成り立たなかった場合はやむを得ない。
基信は中務少輔家の畠山政近の系譜の人物だと想定しているため、稙長弟でなかった場合その血統が島津氏の下に流れたことになるのだろう。

 

参考文献
川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究 : 室町幕府近習・奉公衆家の一展開』(京都学・歴彩館紀要3)
川口成人『畠山政近の動向と畠山中務少輔家の展開』(年報中世史研究45)

*1:岩川拓夫『中近世移行期における島津氏の京都外交 ―道正庵と南九州―』「シリーズ・中世西国武士の研究1 薩摩島津氏」

*2:桐野作『関ケ原島津退き口 : 敵中突破三〇〇里』

*3:林匡『「小松」改号一件─近世寝氏の系譜意識と島津吉貴─』(黎明館調査研究報告20)

*4:『旧記雑録前編2』9月26日町資将書状に「将亦本庄新次郎有子細、他国させ候由、去年申下候」とある

*5:大山智美『戦国大名島津氏の権力形成過程―島津貴久の家督継承と官途拝領を中心に―』(シリーズ・中世西国武士の研究1 薩摩島津氏)

*6:金井静香『中世末期における近衛家と島津氏の交流 ―近衛政家・尚通・稙家―』(シリーズ・中世西国武士の研究1 薩摩島津氏)

*7:馬部隆弘『足利義晴派対足利義維派のその後』(戦国期細川権力の研究)

*8:弓倉弘年『天文年間河内半国体制考』中世後期畿内近国守護の研究)

*9:川口成人・窪田頌『本覚院文書にみる戦国期の畠山・大友間交渉』(古文書研究97)

*10:小谷利明『畿内戦国期守護と室町幕府』(日本史研究510)

*11:弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)

◆天文の錯乱における畠山稙長の没落過程再考

今回の記事は、ブログ立ち上げ当初に書いた『天文の錯乱における畠山尾州家の動向(前篇)』(以下、記事A)『同(後編)』(以下、記事B)の再考である。

179yougoha.hateblo.jp

 

179yougoha.hateblo.jp

現在、畠山稙長の経歴を最も良く要点をまとめているのは、小谷利明氏執筆の『戦国武将列伝7』の畠山稙長の項目だろう。
その項目から稙長が尾州家(政長流畠山氏)家督から追われた部分を要約する。
まず、天文元(1532)年金剛寺宛稙長安堵状に守護代遊佐長教の遵行状が発給されていないことから、この時点で両者の関係が上手くいっていなかったとしている。
さらに天文3年8月に畠山長経が遊佐長教・木沢長政に擁立され、丹下盛賢が10月に本願寺方として河内で挙兵して対立が決定的になったとする。

このように、畠山稙長が家督を追われた時期というのは天文3年8月で定説化している。
その根拠は、(天文3年)8月16日付の畠山左京大夫(長経)宛足利義晴御内書(以下、史料①)*1である。
ただ、このブログではこの認識に対して何度も疑義を呈している*2

また、稙長追放の経緯を明確に示すのは後世の軍記である『足利季世記』のみという問題もある。
内容も既に天文3年に死去している畠山尚順の没落と絡めたストーリー化するという荒唐無稽なもので、到底採用に値しない。
過去の話題と重複する面もあるが、改めて「稙長の追放」に関する自分の見解を述べておきたい。
(『金剛寺文書』の稙長安堵状に長教の遵行状が発給されていないことは無視できない件だが、今回は保留する)

 

尾州家の河内入国時期について

享禄~天文初期の南河内の情勢については記事Aでまとめているので、それを元におさらいをする。

高屋城は享禄元年に柳本賢治に攻められ、12月頃に和議によって引き渡される。
それ以降は総州家(義就流畠山氏)方のものになっていたが、享禄5年6月に本願寺に扇動された一揆で畠山義堯が戦死するとともに落城している。
以降の高屋城の所在は不明だが、尾州家や総州家が取り返したと見なせる記録もないため、どちらにも属していなかったとみなしておく。
その後本願寺と足利義晴細川晴元の対立が深まるが、この時点では尾州家と関係の深い根来寺杉之坊が対本願寺戦線に加わる、両畠山が本願寺追討の御内書を受けるなど、尾州家も義晴方に属していた形跡がある*3

記事Aでは尾州家の河内入国や高屋城復帰のタイミングはわからないと書いていたが、改めて考え直す。
尾州家の河内復帰の時期を絞り込めるのは、『慈願寺文書』7月28日付の慈願寺宛遊佐長教書状である。
これは稙長同様に小谷氏が執筆者の『戦国武将列伝8』の遊佐長教の項目で示され、内容の解釈は遊佐長教ひいては稙長の河内入国を示すものと述べられており、それに従う。
また長教の花押も天文6年段階のものとは違う未知の形状であり、併せて天文初期のものと考えられる。

『戦国武将列伝』はこの書状の年次比定を享禄5(1532)年としている。
その根拠は、長教は天文2年3月段階で細川晴元方として本願寺と対立しているため、本願寺との入国はそれ以前に限られるというものである。
ただし、その根拠である3月4日足利義晴御内書は、記事Aでも既に触れている通り天文2年とみなすには明確に矛盾がある。
この御内書は天文16年に比定するのが妥当で、天文の一揆に関わるものではない。
(推論が多く研究基準では採用できなさそうな仮説だらけのブログではあるが)これに関しては推測ではなく言い切れるものであり、これを端緒にする「天文2年始めの段階で稙長と長教の対立は始まっていた」という先入観が多くの歪みを生み出してしまっているのではと感じる。
加えて、上記のようにこの時期の尾州家は細川晴元と共に足利義晴に属し、本願寺と敵対する立場として認識されている。
そのため万が一この御内書が天文2年に比定されるにしても、尾州家全体が義晴・晴元方に属している時期なので、「稙長と長教の対立を示す史料」としては使えないだろう。

この天文2年では、6月に足利義晴・細川晴元と本願寺の和睦が成立している*4
同年前半までに尾州家が本願寺と敵対していたとしても、和睦後ならば本願寺と連携を始めても問題はない。
長教書状を享禄5年とした場合、尾州家は7月段階では本願寺と連携するも、翌年には敵対する立場に変わり、6月に再び和睦をするという些か無節操な動きになってしまう。
それよりも、享禄5年の天文の錯乱開始時点では義晴方と歩調を合わせ本願寺と敵対する立場だったが、6月の和睦にも歩調を合わせて本願寺に接近、7月に河内に入国したと考える方が妥当な流れではないだろうか。
おそらく高屋城もこの時に返還されたと考えており、尾州家の河内復帰は本願寺との連携の上で成り立っていたという可能性を指摘しておきたい。

最優先ではなかった細川晴国との連携

この間、細川高国弟の細川晴国が後継者として活動を開始する。
当初、足利義晴は晴国に御内書を送るなど*5、晴元と晴国どちらと連携するのか決めかねていたようだが、やがて晴元と和睦。
『本福寺明宗跡書』では天文2年2月の堺での合戦時に晴国方が本願寺に加勢すると記すなど、この頃には義晴・晴元と本願寺・晴国という対立構造が明確になる。
一方で細川高国との長年の連携相手だった畠山稙長は、上記の通り義晴・晴元側に属している。
この時期の尾州家の動向は本願寺との関係を優先し、晴国と連携することは必ずしも自明の理ではなかったのかもしれない。
とはいえ旧高国方と全く接点がなくなったわけではなく、『証如上人方々へ被遺宛名留』では、尾州家家中と共に高国方和泉守護の細川勝基細川氏綱の従兄弟)が記されている。
和泉を拠点としていた細川氏綱・勝基は高国存命期から稙長弟の細川晴宣を介して尾州家と関わりがあるが、晴国との連携は伺えない。
氏綱・勝基が晴国と距離を置いていることも、当初尾州家が晴国と連携しなかった理由なのかもしれない。


実際に細川晴国と畠山稙長の連携が行われたことを示す史料は、『古今采輯』収録の6月19日畠山稙長宛細川晴国書状(以下、史料②)である。
内容は「御音信本望候、仍河内表合戦不及是非候、雖然谷無別儀候、可御心安候、弥諸口調略半候、此砌急度御上洛可然候、猶三宅出羽守(国村)可申候、恐々謹言」とある。

史料②の年次比定だが、岡田謙一氏は「河内表合戦不及是非候」について、『私心記』などに天文4年6月11日に「本願寺滅亡」と記されるほどの合戦が記されていることから、天文4年とする*6
一方で馬部隆弘氏は「雖然谷無別儀候」に注目し、8月頃に谷山田での合戦が記される天文3年のものとする*7
馬部氏の指摘する通り、史料上谷山田を晴国方が確保していたのは天文3年のこの時期しかあり得ないのだが、一方で天文3年6月段階では「河内表合戦不及是非候」に該当する合戦は起こっていないのが気になる。
岡田氏の説も天文4年の大坂での本願寺方の大敗の6日後に出されたと考える点では自然なものの、「雖然谷無別儀候」の「谷」が何を指しているかが不明になる。

また、馬部論文では細川晴国の花押の編年比較を行っているが、『古今采輯』は写であるためこの文書は花押での年次比定は不可能。
また、天文4年8月には晴国は改名のため署名をしなくなっている。
三宅国村は天文3年11月から取次としての活動が見られ、天文4年4月から7月までの間に晴国陣営の有力者の波多野秀忠が晴元方に帰参したことで存在感を増すとされている。
花押や取次の要素で判断するのならば、史料②は天文3年と天文4年のどちらもあり得ると言える。

一長一短ではあるが、個人的な見解を述べると天文4年が妥当性ではないかと考える。
理由としてはやはり、天文3年では「河内表合戦不及是非候」に該当する合戦が見当たらないという不自然さの方が大きいからである。
その場合「谷」が何を指すのかは不明になるため、説明義務が発生するが、ひとまず天文3年8月頃の谷山田の合戦とは別のものであるとしか言えない。
また、この書状では晴国は各方面への調略は半ばながらも、稙長に急いで上洛を求めている。
天文4年とするならば、本願寺の大敗を受け晴国方が劣勢になった背景にも合致するだろう。
なお、この時の稙長の立場については後述する。

石垣左京大夫家が擁立された意味について

天文3年5月29日に細川晴元と本願寺の和睦は破れる*8
その三ヶ月後に出されたのが石垣左京大夫家の畠山長経の家督を承認する史料①である。
多くの先行研究で、この際に畠山稙長が追放され、遊佐長教らの尾州家家中が長経を擁立したとみなしている。
だが、史料①が発給された後の10月には丹下盛賢の河内での軍事行動や、その際と思われる足利義維被官松田守興の戦功を稙長が賞していることが確認される*9

上記の『戦国武将列伝7』の項目ではこの丹下盛賢の行動を、「8月に追放された稙長方が蜂起したもの」と解釈している。
あり得ない解釈ではないだろうが、本拠を追放された人間が河内で支障なく行動できるものだろうか。
また、天文の錯乱の開始から和睦が破綻するまでの期間、尾州家は義晴・晴元方と歩調を合わせていたと思われるので、従来想定されていた「本願寺に協力し晴元方と敵対する尾州家」の期間は3ヶ月しかなくなるというのも気になる。

こういった解釈が定着しているのは、上記の「天文2年始めの段階で稙長と長教の対立は始まっていた」という先入観が影響していないだろうか。
その先入観をひとまず取っ払い、史料①が本当に稙長追放を表したものなのか再検討してみたい。
史料①は足利義晴が畠山長経の家督を承認し、長経がそれに応じ礼物を送ったことまでは確実に示しているが、長経を擁立しようとした主体は誰か。
従来の解釈では遊佐長教ら尾州家家中とされ。特に疑問は出ていないが、それは何故か。
おそらくだが、石垣左京大夫家という馴染みの薄い家と義晴は接点が無く、それをわざわざ家督に推戴する動機は尾州家内部にしかない、という認識がないだろうか。
しかし、近年は川口成人氏らによる石垣左京大夫家の研究も進み*10、それを踏まえてこのブログでは何度か石垣家に考察を行っている。
そして自分の認識では稙長期における石垣家はただの分家ではなく、大永・享禄年間には総州家に属して尾州家と敵対していたとみている。

この前提に基づくのならば、稙長の対抗馬として石垣左京大夫家の長経を擁立する動機は、対立的関係にあった尾州家家中よりも、むしろ大永・享禄年間は総州家と提携し、間接的に石垣左京大夫家と同陣営だった晴元方にこそあるのではないだろうか。
(大永・享禄年間に敵対していた石垣家の当主が長経であるかは不明だが)

以下のような想定ならば、天文3年8月に長経への家督交代が行われたことと、その後も稙長方が河内で活動していることの両立ができる。
本願寺と義晴・晴元方の和睦破綻によって、尾州家は本願寺方との同盟を維持し義晴・晴元に歯向かう姿勢を見せた。
その懲罰として、おそらくは晴元方が主体となり、対立候補である石垣左京大夫家の長経への家督交代を義晴に働きかけた。
ただし、尾州家は本願寺との連携を優先し、尾州家家中が稙長を追放するなどといったことは起こらなかった。
長経が高屋城に入ることはなく、この上からの家督交代は黙殺された。10月の稙長勢の軍事行動がその傍証である。

以前も述べたかもしれないが、『天文日記』で長経に関わる記録が全くないのも、証如からすれば全く認知していない相手だったからではないか。ともすれば最後まで紀伊に在住したままだったかもしれない。
結論として、史料①は尾州家家中による稙長更迭を意味するものとは限らないとする。

打ち出した「高屋衆」は敵なのか

『私心記』天文4年4月7日条では「高屋衆等打出候、自此方も町衆出候」と記されている。
先行研究ではこれを高屋城が本願寺に敵対した行動であるとしている。

ただ、文章からは「高屋衆が出撃した」と書かれているのみで、「高屋城から出撃した」とまでは読み取れない。
4日後の同月11日条では、「河内敵方打出候。自寺中衆出備出候」と記されている。
7日に本願寺から出撃したのは町衆で、11日に本願寺から出撃したのは寺中衆と備(下間頼盛)と、区別がされていないだろうか。
つまり、7日に本願寺から高屋衆と町衆が出陣し、11日に寺中衆が追加で出陣したと解釈できないだろうか。
実際、天文3年1月に稙長弟の畠山基信や守護代一門と思われる遊佐千々代が本願寺に陣しており*11、尾州家が本願寺に軍勢を送ったケースは存在すると言える。*12
また、同年10月20日条には「三好伊賀・久介出候、此方の衆も出候」と記されているが、これは「高屋衆等打出候、自此方も町衆出候」と同じ表現である。
前者は「味方の勢力が出陣したので、本願寺方からも出撃した」という意味のため、後者も同じ意味だとは考えられないだろうか。

要するに、先入観を除くと天文4年4月7日条の記述は「本願寺に駐屯していた高屋衆が出撃したので、本願寺方からも町衆が出撃した」という解釈もあり得るのではないだろうか。

以上のように、従来「稙長を追放し尾州家が本願寺と敵対した」と解釈されていた史料を検討した。
「あり得ない」と断言できるほどの根拠はないが、「本願寺との敵対を示すものではなかった」という解釈の余地はあるのではないだろうか。
ここまでのまとめとして、「天文2年6月の和睦以降、天文の錯乱終結まで尾州家は本願寺と断交したことはなかった」という可能性を指摘したい。
尾州家は本願寺と連携することで河内に復帰し、本願寺が晴元方と敵対すると尾州家も敵対し、本願寺が晴元方と和睦すると尾州家もそれに従ったのではないか。
『戦国武将列伝8』の遊佐長教の項目では、稙長と長教の立場の違いとして、かつて幕政に関わった立場として晴元の打倒と高国派の復権を目指す稙長と、河内支配の安定を優先する長教としている。
ただ、河内復帰が本願寺との連携に成り立っていたという想定をするならば、本願寺との連携を維持すること自体は長教の目的と合致すると言えるのではないだろうか。

天文4年の稙長の動向

前節において、天文の錯乱において尾州家は本願寺と断交していないという指摘を行った。
しかし、事実として畠山稙長は家督を失い紀伊に没落している。
この二つは両立し得るものなのか。
ここから先は前節までと比べても多分に推論が含むものであるが、天文4年の稙長の動向を検討してみたい。

天文4年段階の稙長の居所については、先行研究では紀伊に在していたという見解で一致している。
具体的な紀伊での活動として、同年3月のこうの宮社家衆牢人の還住に稙長が関わっているが、この際に紀伊に在住していたと想定されている*13
これはこの時点で高屋城から追放されていたという認識も手伝っているだろうが、紀伊に在していたという点については特に異論はない。

結論から言うと、『「御孝弟御取相」と畠山稙長の紀伊出張』で考察した、紀伊の賀茂氏が記す「御孝弟御取合」は天文4年に発生したものではないかと考えている。
以前は史料での書きぶりから、「御孝弟御取合」は天文5年5月段階で落着したものと解釈し、享禄年間の稙長の紀伊出向に関わるものと考えたが、再び考えを改めることになる。
その理由は、史料内に稙長方の協力者として現れる宮崎氏・湯河式部大輔家の存在である。
両者の動向については『天文初期の畠山稙長と紀伊-「二階合戦」の虚実など』で触れている。
この両者は享禄年間の紀伊出向では殆ど登場せず、逆に天文年間は稙長に重用された様子が見て取れるため、時期の確からしさは後者が高いのではないかと思い当たったからである。

宮崎氏・湯河式部大輔家の存在を重視すれば、賀茂氏の服属以降天文5年5月以前で、稙長が紀伊に下向した年は天文4年が最も可能性が高いと考えた。
同時に「御孝弟」も長経を指すものになる。
余談になるが、某年4月に稙長方が石垣家を攻撃したものと想定している「二階合戦」も天文4年のものとすれば、天文5年5月段階で落着しているという想定と整合性がつく。

その考えに基づいて、再び天文4年と比定している史料②を検討する。
史料②を天文4年に比定している岡田論文では、この段階で高屋城が本願寺に敵対し、それを受けて稙長が本願寺に接触したと解釈している。
論文内ではこの時の稙長の居所は明言していないものの、上の解釈ならば追放されて紀伊に在していることに自動的になるだろう。
細川晴国が稙長に求める「御上洛」も、河内から進出することではなく、紀伊から河内まで戻ることという解釈になるだろう。

憶測ではあるが、史料②が数少ない畠山稙長の受給文書であることにも意味があるのではないか。
『古今采輯』に収録される稙長の受給文書はこの一通のみである。
残存する畠山氏関連文書のうち、戦国期の畠山氏の受給文書は非常に少ない。
御内書のように案文が発給者の手元に残っているものは別として、何度も河内を失陥したことで文書が失われているからだと思われる。
一方で『尾崎家文書』に稙長の受給文書がニ通残っているのは、紀伊国大野で受給した可能性が指摘されているように*14、本拠以外の場所で受け取ったことで受給文書が残っているケースがある。
すなわち史料②が残存しているのも同様のケースを想定でき、受け取った場所が本拠ではない=紀伊だったからと考えられないだろうか。

それはともかくとして、この節の頭で述べた「天文の錯乱において尾州家は本願寺と断交していない」「天文4年段階で稙長は紀伊にいた」という想定が両立し得るかという問題に戻る。
端的に言えば、尾州家視点では家督の変遷は稙長→長経→晴熈ではなく、稙長→晴熈だったのではないかと考えている。

天文3年8月に弟長経が義晴・晴元方に靡いて家督を承認されるが、これは尾州家内部に変化をもたらさなかった。
叛いた長経を征伐するため稙長は翌天文4年に紀伊に出向しこれを落着させる。これが「御孝弟御取合」を指す。
その間に本願寺が大敗し、細川晴国から河内への上洛を求められるも、実行できないうちに本願寺と義晴・晴元方の和睦の機運が高まる。
しかし、稙長は晴国との連携維持を優先し、本願寺・尾州家にとっては和睦の障害となり、そのため河内に戻ることができなくなった。
実際、下間頼玄・頼盛や細川晴国といった和睦の障害となる人物は、和睦の過程で本願寺方から排除されている*15
『天文日記』では 遊佐長教らには前年に和与の礼を送っているが、畠山稙長には送った形跡がない*16
これも稙長が和睦を歓迎していなかった傍証になるだろうか。
やがて正式に義晴・晴元方と本願寺の和睦が締結される中で、高屋城では畠山晴熈が擁立された。
つまりこの場で語る畠山稙長「追放劇」の真相とは、紀伊に下向している最中に情勢が変わり、結果的に家中から締め出されたというものになる。

晴熈と晴満、どうして差がついたのか

代わって家督となった畠山晴熈の擁立経緯は記事Bでも触れている。
『天文日記』天文5年5月18日、遊佐長教に久しく無音だったため音信を送った際、「又播磨守とて尾州弟高屋に遊佐新次郎婦民部卿婦トひとつニなり屋形などゝ申とて、其かたへ書札並太刀馬代遣候」と晴熈にも初めて音信を送ったという記述である。
これ以前に証如が遊佐長教に音信を送ったという記述は、1月20日条に記される前年の和睦の祝儀に遡ると思われる。
つまり前年の和睦の際には晴熈は擁立されていなかった、または証如が晴熈の存在を認知していなかったということになるのではないか。

『証如上人方々へ被遺宛名留』の尾州家関係者は畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信と、稙長に近しい人物と長教を併記している。
『宛名留』の成立時期は、『天文日記』を執筆開始した天文5年1月をそう遡らないと思われる
これを記した時点での証如の認識では、稙長と長教はまだ一体のものだったことになる。
証如は稙長が紀伊から戻ってこないことを認識しつつも、家督交代にまで発展すると想定していなかったのではないか。
このことからも、大きなクーデター劇が起きて稙長が高屋城から追放されるという事態はなかったのではと考えている。

また『戦国武将列伝8』の長教の項目では、この時登場する彼の妻が政治的に重要な存在であったという指摘がなされている。
長教の妻は天文5年5月の畠山晴熈の擁立に関わり、天文6年5月に重病に陥る。
木沢長政からその知らせを受けた本願寺は長教妻を大阪に迎え入れたが。同年11月2日死去したという。
若年の長教のことは頼りにならないと見ていた本願寺が、長教妻に対しては重んじる姿勢を取ったのは、彼女が木沢長政に関わる人物だったからと推定されている。

ただ、「畠山晴熈という稙長の弟が遊佐新次郎婦民部卿婦と一味して屋形になったと伝えてきた」という書きぶりからは、長教妻のみならず民部卿(興正寺蓮秀の子実秀)妻も擁立に関わったと読める。
前者の晴熈に対し、後者の二人は一体のものと表記されており、元々近しい関係の女性だったと考えられる。
本願寺が長教妻を重要視していたという理由は木沢長政と関係があるだけではなく、彼女が本願寺関係者だったからというのも考えられないだろうか。

興正寺は山科本願寺焼亡後の一時期罷免されていたようであり、復帰は本願寺と晴元の一度目の和睦が成った後の天文2年8月以降とされている*17
尾州家と興正寺の接点はこれ以前には特に無さそうであり、天文2年の和睦以降に接点ができたと思われる。
同様に実秀妻と近しい関係と思われる長教妻は、この時に婚姻がなされたのではないだろうか。
推測を重ねる形なので傍証としては心許ないが、そういった姻戚関係があるのならば長教には本願寺との断交は難しく、やはり尾州家と本願寺が断交した事実はなかったのではと指摘しておく。

晴熈の家督は長く続かず、天文7年に自ら辞退してして畠山弥九郎晴満に交代した。
弓倉弘年氏に指摘されているが、畠山長経は幕府から家督承認された形跡があるが、畠山晴熈にはその形跡がないという違いがある。
そのため晴元方は晴熈の家督を認めておらず、晴元方の息のかかった晴満を家督にしたという経緯が想定されている*18

この記事での主張では、尾州家家中は長経への家督交代は黙殺し、後に稙長と家中で方針に相違が起きたことで晴熈を擁立したことに違いがあったとみている。
晴元方の意向を無視した晴熈の擁立は、晴元方にとって好ましいものではないという想定は、弓倉氏の先行研究と一致している。
同様に、晴満は晴元方にとって都合の良い存在という点も弓倉氏の見解に従う。

では、そうまでして晴元方が擁立したかった弥九郎晴満とは何者なのか。
川口成人氏より、晴満の母方の伯父の「典厩」が畠山一門の畠山右馬頭家を指していることが明されている*19
つまり晴満の出自は畠山右馬頭家と近しい関係を持ち、かつ尾州家当主となる正当性はある程度必要なため嫡流に近い一門の出と考えられる。
そしてその条件にちょうど当て嵌まる一門衆がいる、すなわち石垣左京大夫家である。

石垣左京大夫家と畠山右馬頭家との関係性は『「尹弼」と石垣左京大夫家』で、川口氏の先行研究を参照しつつ取り上げている。
両家の関わりを踏まえると、大永・享禄年間の石垣家当主と思われる畠山九郎が、紀伊に在していた右馬頭家の尹胤の娘を娶っていてもおかしくない。
弥九郎晴満は仮名の共通もあり、九郎の子と想定できるのではないか。
右馬頭家は堺公方府に属していた可能性が高いため、その繋がりから晴満は晴元ないし総州家に庇護されていた。
その後に晴元方に都合の良い尾州家家督として白羽の矢が立ったのではないだろうか。
この前提なら長経・晴満が義晴・晴元方から承認を受けたのは、両者ともに稙長の対抗馬である石垣左京大夫家という属性にあったのではないだろうか。

稙長は天文6年段階から上洛を計画しているため*20、晴熈への家督交代も本意ではなかったと思われる。
ただ、晴満の家督就任後は、上洛の暁には遊佐被官の知行を没収しようとしており*21、晴満の擁立を受け入れた遊佐長教らに対しても敵意がうかがえる。
また、晴熈は稙長の家督復帰後も活動が見えるのに対して、晴満に対しては稙長は幕府の和睦仲介を拒否し、御敵認定をさせて完全に排除している*22
この両者に対する敵愾心の差は、晴満が度々対立した石垣左京大夫家の出自だったことから来るのではないかと考えている。

まとめ

今回の記事では改めて、天文初頭の畠山稙長の没落過程を検討した。
尾州家の高屋城復帰は本願寺との連携を前提としており、それがその後の尾州家全体の行動を規定していた。
義晴・晴元方と本願寺の和睦破綻後、義晴・晴元方によって稙長の家督は剥奪され長経に与えられるものの、本願寺と連携する尾州家の方針は変わらなかった。
しかし稙長が在地との連携や反対勢力の掃討を目指して紀伊に出向している間、上方では本願寺が劣勢となる。
稙長や晴国は継戦を望んだものの、本願寺や高屋城の尾州家家中は和睦に傾き、結果的に稙長は紀伊から戻れなくなった。
ただ、尾州家家中も義晴・晴元方に擁立された長経には関心を示さず、代わりに擁立したのは晴熈だった。

正直な所、先行研究で想定される「追放劇」を確実に否定できるものではない。
ただ、各史料を検討してみたところ、稙長が追放されていると確実に見なせるものもないと感じる。
『足利季世記』の極めていい加減な「追放劇」などから発生する先入観が、稙長の追放を想定させてしまっているのではないだろうか。
どちらの想定に妥当性があるのか、ご一考いただければ幸いである。

この自説のうち、ある程度確証を持って言えるのは尾州家と本願寺の関係性である。
享禄以前の本願寺と尾州家は、さほど関わりが深いように思えない。
しかし、天文以降になると『天文日記』で頻繁に尾州家の動向が記され、両者の友好的な関係が伺える。
その切っ掛けは、天文の錯乱の一度目の和睦締結以降、尾州家のみが本願寺と歩調を合わせ続けたことで信頼関係が生まれたのではないだろうか。

 

参考文献
弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究」

小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」

白石博則『紀伊国における畠山稙長:活動と居所』「人文学学際研究」1

*1:『御内書引付』「続群書類従 第23輯ノ下 武家部」

*2:なお、以前は記事Bなどで史料①の年次を以前は天文3年ではなく天文4年の可能性を想定しようとしたことがあったが、『天文初期の畠山稙長と紀伊-「二階合戦」の虚実など』で天文3年に従うと改めた

*3:記事Aでは『私心記』で南方で木沢長政と紀国衆が合戦した記事を引用し、尾州家に関わるものかとしていた。『私心記』の差す「南方」は当時在京していた実従から見た石山本願寺のことであり、紀国衆も本願寺方の雑賀衆などを差すと考えられ、尾州家とは無関係の記述であると訂正する

*4:『厳助往年記』

*5:『大館記 五』(天文元年)7月20日八郎(細川晴国)宛大館晴光副状

*6:岡田謙一『細川晴国小考』「戦国・織豊期の西国社会」

*7:馬部隆弘『細川晴国陣営の再編と崩壊―発給文書の年次比定を踏まえて』「戦国期細川権力の研究」

*8:『私心記』天文3年5月29日条

*9:『「松田氏家蔵古文書」所収畠山稙長感状の年次比定について』(志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』)

*10:川口成人『室町~戦国初期の畠山一門と紀伊 』「和歌山地方史研究81」

*11:『私心記』天文3年1月25日条。同年閏1月16日条

*12:丹下盛賢の天文3年10月11日の軍事行動は、「河内[丹下備後]森河内へ陣取候」と記されている。『私心記』で他に軍勢の出撃を記す記述を見ると、天文3年10月13日条では細川国慶が太融寺よりサセ堂(左専道)に、10月19日条では三好連盛・長逸は椋橋より灘に出陣したと書かれている。彼らが「どこから出撃したか」と書かれている一方で、丹下盛賢の軍事行動を示す天文3年10月11日条は「河内[丹下備後]森河内へ陣取候」と、「どこから出撃したか」の表記がない。森河内は石山本願寺の東にあり、位置関係から考えるとこの時の丹下盛賢は「高屋衆」として本願寺方に陣取っていた可能性はないだろうか。

*13:『【百四】 「紀伊在国」 ~畠山稙長との交渉~』(真宗置正派 本山興正寺)

*14:白石博則『紀伊国における畠山稙長:活動と居所』「人文学学際研究」1

*15:『戦国武将列伝7』「細川晴国」。『同』「下間頼秀・頼盛」

*16:『天文日記』天文5年1月24日条。同年4月29日条

*17:『【百三】 「大坂興正寺」 ~近江日野に滞在してから大坂へ~』(真宗置正派 本山興正寺)

*18:弓倉弘年『天文期の政長流畠山氏』(中世後期畿内近国守護の研究)

*19:川口成人『忘れられた紀伊の室町文化人―伴雲軒紹高の活動と系譜―』「日本文学研究ジャーナル」19

*20:『天文日記』天文6年11月8日条

*21:石田将大『本間孫四郎伝承の一考察―戦国期河内国衆本間氏をもとに
―』(八尾市歴史民俗資料館研究紀要)38

*22:小谷利明『鷹山家文書に見える河内守護畠山氏―鷹山弘頼を中心に―』「鷹山家文書調査報告書」

◆享禄年間推定の畠山稙長の紀伊出張再考

白石博則氏による『紀伊国における畠山稙長:活動と居所』「人文学学際研究」第1号という論文が発表された。
従来あまり整理されていなかった、紀伊における畠山稙長の活動を検討したものである。
紀伊に没落した稙長が復帰を果たせたのは、有田郡を制圧するなどの活動によって当初は敵対勢力の多い紀伊で基盤を固めた前提があったこと、またその居所が大野だったことを推定するなど、畠山氏研究において大変意義のある論考だと思われる。
この論文を期に地方からの視点を交えた畠山氏研究が活発になることを期待したい。
また、驚くべきことに参考資料として2025年8月21日段階での当ブログが挙げられていた。
このブログは論壇に上がっていない素人が好き勝手考察しているという自認なので、権利を主張する気もなかったのだが、その上で律儀に典拠として挙げて頂いたことに感謝いたします。
当論文によって史料の見落としや、この機に再検討して気づいたこともあるので、今回は再び享禄年間に推定される稙長の紀州での活動について考察したい。

紀伊出張に到るまでの畿内情勢

以前の稙長の紀伊出張を考察した記事(以下引用記事と表記)で述べたように、畠山稙長は享禄2(1529)年に紀伊に下向したと推定している。
それ以前での畿内の動向についても多少自分の見解を述べておきたい。
大まかな概要を『戦国武将列伝7』に基づいて述べると、畠山稙長は大永7(1527)年の阿波公方派の上洛を受けて、足利義晴細川高国方として細川晴元方と戦い、11月には大軍を率いて上洛している。
翌8年には陣を引き払い、11月に柳本賢治に居城の高屋城を攻められ、和睦して城を明渡し金胎寺城に退き、以降の動向ははっきりしないとする。*1

稙長勢は大永8年2月5日に京から退陣しているが*2、この日付はまだ前年末から始まった和睦交渉が続いている時期である。
この和睦交渉は晴元方、高国方双方から反対派による離脱が出た末に破綻に向かうのだが、当時の史料からは理由は伺えないものの、稙長の退陣も和睦に対しての抗議の可能性はないだろうか。

その後細川高国は10月頃までは近江に没落していることが確認できるが*3、11月には甲賀衆と共に大和に赴くという風聞が立っている*4
稙長は10月頃から柳本勢に高屋城を攻撃されているが*5、大和は畠山尾州家の勢力範囲であり、この行動は稙長と連携を試みたものと考えている。
その後11月16日に高国は伊賀に向かうが*6、12月頃に高屋城は和睦によって明け渡される*7
それを受けてか翌享禄2年1月23日に高国は伊賀から伊勢に移った*8

没落後の高国は『細川両家記』などの記述から、手当たり次第に諸国に協力を仰いでは断られている印象があるが、伊勢を出た段階で近江海津・越前敦賀を経由して丹後から播磨に向かうことを述べるなどある程度の計画性を持っており*9、本命は西国勢だったこと、また最初に頼ろうとしたのは尾州家だった可能性があることを指摘しておきたい。


「賀茂進発」をめぐって(自説)

続いて、白石論文を参考にしながら、享禄年間における紀伊での稙長の活動を再検討する。
「史料◯」と表記される史料は引用記事を見ていただきたい。

論文内で紹介されて知った史料として、『紀伊続風土記』収録文書6月27日畠山稙長書状がある。
「宛所の坂本八郎左衛門及び坂本氏は熊野三山本宮(田辺市)の社家」とのことで、6月7日に行われた「賀茂進発」により義就流畠山氏の総州家に属していた賀茂氏が尾州家に与するようになったとされている。

賀茂氏の尾州家への服属時期を知れたのは個人的に大きく、これを軸に解釈を改めたい。
稙長が賀茂荘不入を認めた6月26日付の史料④⑤は、これは6月7日の賀茂氏服属の際に出された条件を確認したものと考えることができる。
稙長が有田郡を攻撃することを示した8月3日付の史料⑥は、白石論文で「岩室城は自分(稙長方)の城であるので、賀茂氏被官らにはそこで忠節を尽くすように」という訳が提示されており、こちらにに従う。
稙長が藤並荘を給付した5月10日付の史料③は、白石論文で史料⑥の翌年に有田郡を制圧したことによって藤並荘の給付が可能になったという想定で、こちらの想定と一致していた。
また新谷和之氏が指摘する、7月29日に畠山稙長・湯河光春によって行われた広城攻め*10についても、白石論文では有田進発と同時に行われたものと想定しており、こちらもそれに従う。

賀茂進発についてもう一つの検討対象は、9月23日付の史料②から伺える大野進発とどちらが先だったかである。
賀茂進発が6月7日で、大野進発は9月23日以前になる。

白石論文では、賀茂進発の時期を天文年間の稙長の河内退去以前のものとし、「この賀茂攻めは、守護拠点の一つである大野の南側を固める意味があったのではないだろうか。」と述べており、この見解に従いたい。(先述の通り稙長の花押の形状で発給時期が天文以前が天文以降かを確定できるが、この書状のみ未確認だったので後日確認を行う)
一方で史料②は天文3(1534)年8月以降に紀伊に移動した稙長が、賀茂荘を足場に大野攻めを行ったものとしているが、史料②は花押形から天文以前の発給文書である。
享禄年間に収める場合、9月頃に大野進発を行い翌年6月7日に賀茂進発を行ったか、6月7日に賀茂進発を行い9月頃に大野進発を行ったかの二択になると考えられる。
後者の場合、有田進発などの軍事行動は賀茂・大野進発の翌年と考える。理由としては、8月頃に有田郡攻撃が延引しているにも関わらず、直後の9月頃に賀茂荘から見て逆方向の大野攻めを行うのは不自然に思えるからである。

なお、白石氏は『尾崎家文書』の稙長宛畠山義総書状を引用し、稙長と大野に何かしらの関連があることを指摘しつつも、無関係の書状が『尾崎家文書』に紛れ込んだことも想定し取り扱いには微妙な史料であると述べている。
尤もな見解であるとこちらも心に留めつつ、可能性を提示できる補強材料として使っていきたい。

大野進発と賀茂進発の前後について、確実な決め手にはならないが、『笠畑家文書』10月1日賀茂被官宛(畠山)九郎書状を混じえて改めて考えたい。
白石論文では、賀茂氏は稙長方の賀茂進発が行われるまでは総州家に属していたと想定しており、自説と見解が一致する。
九郎の書状は賀茂氏に貴志・宮崎・梶原氏と連携しての忠節を求めたものであるが、これらの勢力との連携の確認は、彼らが稙長方ならば稙長やその被官が書状を発給するのが妥当ではないかと考える。
そのため、九郎の立場は石垣左京大夫家でありながら、尾州家に敵対して総州家に属するもので、同じく総州家に属する賀茂氏らとの連携を試みた可能性の方がやはり高いと考える。
また、引用記事でも述べたが、日付から見て九郎書状は史料②の稙長の大野攻めに刺激されて出されたという想定ができる。
これに従えば、大野攻め段階では賀茂氏は総州家側に属していたことになり、賀茂進発はそれ以降に行われたと想定したい。

ただ、この想定だと9月に大野を確保しておきながら、6月7日に賀茂進発が行われるまで半年以上の膠着期間があったことになる。
この説明についてはあまり確信がないが、畿内の情勢と連動していた可能性を示しておく。この時期の畿内情勢の細川晴元方の内部分裂による変動は馬部隆弘氏の研究に詳しい*11
享禄2年6月段階では義晴方と晴元方は高国を疎外しての和睦交渉を行っていたが*12、翌年正月には柳本賢治と高国方の細川国慶が同行しており、高国方も交えた和睦交渉を行っていることが確認できる*13
しかしこの和睦交渉は5月に破綻して賢治は出家し*14、6月29日の依藤城攻略中に賢治が暗殺され、高国方が勢いづく*15

享禄4年3月には足利義晴は高国方の細川尹賢に御内書を発給しており*16、明確に高国方と連携していることが確認できる。
この時期の高国方と稙長方の明確な連携の様子は確認できなかったが、義晴方と稙長方の連携については引用記事の小山俊次への官途推挙が当て嵌められるかもしれない。
俊次は大野攻めの際には三郎五郎表記だが、享禄4年3月以前に畠山稙長の推挙により式部大輔に任官している。
この推挙が紀伊での貢献に対する報酬と仮定すると、(この記事で享禄3年と推定している)賀茂進発や有田進発が行われる前だと些か早すぎる気もするため、奥三郡(有田・日高・牟婁郡)を概ね抑えた翌年と考えるのが妥当ではないかと考えている。
以上のように確実性はないが、稙長の紀伊での活動は連携相手である義晴・高国の動きとある程度関連していたという理由付けを述べておく。


その他の文書の比定

その他、引用記事で言及したものの深く掘り下げなかった書状を改めて検討する。

『熊野本宮玉置氏所蔵文書』2月5日本宮式部卿宛長清・康頼連署状は、2月1日に土生口(有田郡藤並荘土生か)での戦功を賞したものであるが、『坂本家文書』により、稙長の紀伊攻略に熊野三山本宮が参戦していたことが裏付けられ、この書状も享禄年間の有田攻めに関わるものである可能性が高まった。
史料⑥の段階では藤並荘土生より北の岩室城を稙長方の拠点としているので、その翌年以降の可能性が高いだろう。

『隅田家文書』8月18日隅田一族宛遊佐順盛書状は、大野で三好氏との合戦があった注進を受け、和泉衆の加勢を伝えたもの。
遊佐順盛は享禄4年6月に没したと見られるので*17、享禄3年以前のものとなる。
これに関しては享禄年間の紀伊攻略と関連するものと確証できるほどの材料はない。
ただ、大野が係争地になっていることから、史料②との関連する可能性はある。
三好勢の大野攻撃によって稙長の大野進発が引き起こされたのか、稙長が大野を居所としたことによって攻撃対象になったのか、今の段階では判断はできない。
また、順盛が河内衆ではなく和泉衆を援軍に送ろうとしているのは、尾州家が河内衆を動員できず、根来寺などの和泉衆への依拠が高まっていた時期とも考えられるかもしれない。

三好勢が8月頃に軍事行動を行いやすい時期を想定すると、大永7年は三好元長が柳本賢治と連携しつつ高国方への攻撃の主攻を狙っている時期、大永8年は元長が山城下五郡守護代に任じられる絶頂期とも言える時期*18。ただし、畠山稙長は7・8年ともに河内での活動が見えるため史料②はこの年ではない。
一方享禄2年は元長が8月10日に失脚し阿波に下国しており*19、この時期に晴元方という意識で大野攻めを行うか微妙なところ。享禄3年は賢治が殺害され元長の復権に移る時期ではあるが、8月段階で目立った行動は見えていない。
尾州家・三好氏視点双方で決め手がないため、可能性を指摘することに留めておく。

史料⑧の10月16日盛賢・長清連署状については、引用記事でも触れたように丹下盛賢は天文初頭の稙長の紀伊没落に従った一方で、遊佐長清は従わなかったため、この連署状の発給時期は賀茂氏の服属後から稙長没落以前まで、つまりこれも享禄年間のものである可能性は高い。
(稙長からの)下知に応えた忠節が貴志・宮崎氏から注進されているという内容から、史料⑥段階では行われなかった有田攻めが行われ、そこでの賀茂氏の働きを岩室城の南を拠点とする貴志・宮崎氏から注進されたという形を想定し、史料⑥と同年の可能性が高いと考える。

史料⑦の2月6日湯河光春書状は引用記事では賀茂氏の服属に関わるものと解釈していたが、実際の服属時期は6月7日なので無関係ということになる。
更に文中の「色立」の用法については必ずしも敵対・寝返りを示すものではなく「立場をはっきりさせる」という用法があるという指摘があり*20、この書状は享禄年間のものと想定できる要素がなくなった。

これを受けて、史料⑦の候補として天文9(1540)年を挙げたい。
この天文9年2月は、尼子氏の軍事行動に合わせて畠山稙長・細川氏綱が上洛を試みた徴証があることが過去に小谷利明氏に指摘されている。
稙長・氏綱が和泉への進発を計画しているとする『福田家文書』2月7日福田三郎左衛門尉細川国慶書状はこの年に比定され、『湯河家文書』2月13日畠山式部大輔(直春)宛畠山稙長書状もこの時期のものとされている*21
また、和泉横山城に集うことを指示する『日根文書』2月22日和田太郎次郎宛畠山稙長書状も天文10年以前のものになるため*22、天文9年2月の上洛計画に関わるものと見る。
『福田家文書』国慶書状には「急度申候」「尼子働一段火急候」、」『湯河家文書』稙長書状「色々火急陣立之儀整難候由」といったようにこの軍事行動が急なものであり、急かす文言が見られるため、「急度」賀茂氏に立場をはっきりとさせることを求める文言がある史料⑦は内容の点でも共通すると考える。

『湯河家文書』稙長書状では湯河光春への協力が難航しているように見えるが、史料⑦がそれに関わるものだった場合、光春自身も上洛に向けて諸勢力との調整に働いていたことになる。
また、史料⑦に登場する「日吉兵部少輔」は素性は不明だが、賀茂氏などの諸勢力との連携のために奔走している姿が想像できるため、『湯河家文書』の稙長書状に何度か登場する「兵部少輔」「俊直」に比定できるかもしれない。


まとめ

暫定的ではあるが、再び享禄年間と推定する畠山稙長の紀伊での活動を時系列順に並べてみる。

・享禄2年
8月頃   三好勢が大野に侵攻し合戦が行われる(これより以前の年の可能性あり)
9月23日  史料② 小山俊次が稙長の大野進発に対して音信を送る
10月1日  畠山九郎が賀茂・貴志・宮崎・梶原氏との連携を確認
12月15日  畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る

・享禄3年
5月10日   足利義晴の帰京が頓挫し、柳本賢治らが出家
6月7日   稙長勢が賀茂進発を行う
6月26日   史料④⑤ 賀茂荘の不入を畠山稙長が保証
6月29日   柳本賢治が殺害される
7月29日   湯河光春によって広城攻めが行われる
8月3日   史料⑥ 稙長の有田進発が延引中。賀茂氏の家の事を改めて保証
8月15日    畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る
10月16日  史料⑧ 丹下盛賢・遊佐長清が有田郡での賀茂氏の働きについて
      貴志・宮崎氏から注進を受ける

・享禄4年
2月1日    藤並荘土生口で合戦
3月     畠山稙長が足利義晴に小山俊次の官途の推挙を行う
5月10日   史料③ これ以前に稙長方が藤並荘を確保しており、
       賀茂氏に去年以来の貢献により藤並城周辺が与えられる 
6月4日    大物崩れにより細川高国が敗北
7月28日    小山俊次の保呂城が敵対勢力に敗れ落城し、稙長がその際の感状を出す

 

参考文献
小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」
新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」
坂本亮太『解題 紀州小山家文書』「熊野水軍小山家文書の総合的研究」
坂本亮太『戦国期熊野の基本動向―戦乱を中心に― 』「紀伊考古学研究」24
白石博則『紀伊国における畠山稙長:活動と居所』「人文学学際研究」1

*1:『畠山稙長』「戦国武将列伝7」

*2:『厳助往年記』

*3:『箱根神社文書』(享禄元年)10月5日道永(細川高国)書状

*4:『実隆公記』享禄元年11月5日条

*5:『厳助往年記』

*6:『実隆公記』享禄元年11月20日条

*7:『実隆公記』享禄元年12月14日条

*8:『実隆公記』享禄2年1月26日条

*9:『実隆公記』享禄2年5月25日条

*10:新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」

*11:馬部隆弘『「堺公方」期の京都支配と柳本賢治』「戦国期細川権力の研究」

*12:『朽木文書』6月2□書状

*13:『尚通公記』享禄3年1月12日条『実隆公記』享禄3年1月12日条

*14:『二水記』享禄3年5月10日条

*15:『細川高国晴元争闘記』

*16:『往古御内書』(享禄4年)3月21日左衛門佐晴光書状

*17:畑和良『河内守護代遊佐順盛の没年』「戦国史研究86」

*18:『東寺百合文書』(大永7年)7月11日三好元長書状

*19:『細川両家記』

*20:馬部隆弘『富田林寺内町宛ての安見宗房定書』「中京大学文学部紀要」60-2

*21:小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」

*22:志末与志氏のご教示による。

◆天文初期の畠山稙長と紀伊-「二階合戦」の虚実など

畠山稙長が天文初頭に尾州家当主から逐われたのは周知の通り。
その時期を示す『御内書引付』8月16日畠山左京大夫宛足利義晴御内書について、以前は天文3(1534)年という比定を疑っていたが、一連の御内書案には「天文二三廿四貞忠御調進案」と付記されており、発給順に編年されているもののようなので、従来の天文3年という比定に改めて従う。
ただし、その後も稙長方勢力が河内で活動している徴証があるため*1、この御内書が「これ以前に遊佐長教らが稙長を追放し左京大夫(長経)を擁立し、幕府がそれを承認した」という出来事を示すものかは疑問の余地があると考えている。

ともあれ、前回の記事では享禄年間にも稙長が紀伊に出張していた蓋然性が高いことを示した。
よって稙長方の紀伊での活動を示す史料は、享禄年間と天文年間という二つの時期に大別され、個々に検討していく必要があると考える。

畠山稙長の没落と紀伊諸勢力

前回述べた通り、畠山稙長書状のうち、紀伊に関わるものの年次比定は、稙長の花押が前期型か後期型か、丹下盛賢が俗体か僧体かで享禄年間か天文年間かの二択に分けられると考えている。
厳密には前期型ならば稙長の後期型が確認される天文元(1532)年12月以前のものであることが確定するが、後期型の場合は同様にそこから遡る可能性があるため、天文元年12月以降を確定するものにはならない。
一方で丹下盛賢の出家が天文以降であることは確実で、また「宗徹」と署名している時期は紀伊在住中に限られるので、こちらの方がより確からしい根拠となるだろう。

紀伊関係かつ丹下盛賢の出家が確認できる史料は、「宗徹」「丹下備後入道宗徹」と記される『和歌山県立博物館所蔵文書』8月10日林次郎左衛門尉宛書状・『笠畑家文書』12月13日賀茂年寄中宛書状・『古今采輯』4月22日白樫弥四郎宛書状。

うち、『和歌山県立博物館所蔵文書』書状は新谷和之氏が指摘する通り、天文7年の湯河光春や五方衆(小山氏等)との連携を示すものだと思われる*2
『笠畑家文書』書状は諸公事の免除について述べたもので、年次の特定はできないが上記の通り稙長の紀伊在住時代であることは確定。
『古今采輯』書状は同日の畠山稙長書状の副状であり、4月19日に行われた石井谷での合戦で白樫弥四郎が武功を挙げたことを賞している。
石井谷は『紀伊続風土記』によると宮崎荘新堂村の東にあるとされる。
ここで稙長方が戦った相手が具体的に誰なのかは特定できない(あるいは、享禄年間は宮崎氏と共に稙長方として記されていたにも関わらず、天文年間は稙長方としての活動が見えない貴志氏か)。

以上のことから、天文初期に紀伊に下った稙長には湯河氏・五方衆・賀茂氏・白樫氏などが味方しており、後述のように玉置氏・宮崎氏なども含まれる。
石垣左京大夫家の家督擁立により、再度石垣家が紀伊での稙長の敵に回ったことが考えられるが、享禄年間に構築された紀伊諸勢力との連携はこの時も概ね維持されていたと見て良いだろう。

宮崎「直定」と湯河「直春」

史料① 『安養寺文書』 天文6年4月宮崎直定禁制

一 たけのこおさへておる事
一 むめ取事、
一 柿殊ニつき木、志ふに取事
右惣このみにかきらす材木等、寺家其外にてもきりあらす事せいはい、但土居よりも使者切紙にてもあるにおいては分別可行者也
 天文六
  四月日      直定
   三ヶ寺中


史料①は安養寺を含む宮崎荘の三ヶ寺に出された木の実や木材の勝手な収穫への禁制でを宮崎直定が出したものである。
文中の「土居」が藤並荘の藤並館を指すものならば、この地は享禄年間に「藤並荘下津野分」として賀茂氏に与えられているため、稙長方勢力を指す可能性が高く、その場合宮崎氏も稙長方とみなせる。

宮崎氏は本姓藤原、有田郡宮崎荘を本拠とした在地勢力である。
宮崎氏に関する論考は近年のものは見当たらなかったが、昔の自治体史である『有田市誌』『町誌たちばなの里』『故江見寺文書』などで取り上げられている。
それらによると、『安養寺文書』には宮崎氏当主と思われる人物の発給文書が複数残されており、定経・定軌・定辰・定茲・直定・定秋が確認できる。

そして先行研究では触れられているか確認できなかったが、大永3(1523)年12月の藤原定茲田地売券、天文6(1537)年4月に直定禁制定茲・直定の花押はほぼ一致しており、両者は改名した同一人物と思われる。
更に『町誌たちばなの里』では天文4年12月11日の箕島神社棟札に藤原定茲・同雲秀による上棟が記され、天文5年9月には藤原定茲が宝剣を箕島神社に寄贈したと記している。
箕島神社に関する記録は原本を確認できなかったが、これを採用すると定茲→直定の改名のタイミングは天文5年9月(or天文4年12月)から天文6年4月の間に絞り込める。

また、宮崎氏の当主は上記の通り「定◯」と「定」の字を通字にしていることが伺えるが、改名後の直定のみ「定」を下にしている。
これはつまり、「直」の字を入れて改名する際に、通字を下にする必要があったと示しているのではないだろうか*3


史料②『湯河家文書』4月9日 畠山稙長書状

 此とおり俊直にも伝られ候へく候
けさはそうそうかへられ候、今度は自余ニかわり出陣こころかけしんらうにて候間、不抑留候、ここもとの事、小松はらにてよくよく申され候て、此おりふし一ミち候やうに、兵もししめしあわせ、ちそうかんようにて候、ちきに可相通候ところに、はやこされ候まま、おいおい申こし候、あなかしく
 卯月九日  長
  湯七次もしへ


史料②は畠山稙長の自筆状で、この書状を収録する『湯河家文書(東京都千代田区四番町 湯河元恭氏所蔵)』(和歌山県史 中世史料 2に収録)は湯河氏の分家である式部大夫家宛の受給文書を豊富に残している。

宛先の「七次もし(七郎次郎だろうか)」も、『湯河家文書』には「七郎」という宛先の書状が残っており、史料の性質上式部大夫家の人物である可能性が高い。
また、稙長の自筆状は他にも「ゆのかわしきふ大夫」宛に(天文7年か)8月8日・(天文9~11年か)2月13日の二通が残されている。
稙長の花押は三通とも後期型だが、これだけでは史料②が天文の稙長没落期のものかは確定しない。
ただ、他二通同様に史料②はかな書きの私信という形式であり、このような丁重さは逼迫の裏返しであり、家督を剥奪されて紀伊に下向したといった状況を想像できるのではないだろうか。
またこの三通からは「兵もし」「兵部のせう」「兵部少」という人物(諱は「俊直」か)が宛先の人物と揃って稙長から頼みにされる様子が伺えるため、宛先の人物は全て同一人物であり、「七次もし」を湯河式部大夫の前身と見なして良いと考える。
「ゆのかわしきふ大夫」宛書状の発給時期は天文7年から始まる稙長の上洛計画に関わるものと思われるので、史料②の発給時期は天文7年以前となる。

更に、この「七郎次郎=式部大夫」の諱だが、「直春」と考えている。
2月13日書状において、前書きで稙長は「光春この時出陣候へば、せんこともの馳走にて候間、しかるべきように意見頼み入り候」と宛先の人物に湯河光春への意見を頼む一方で、本文では「なを春」の内々の意見という形で頼むように伝えている。
これは宛先の人物の名が「なを春」であることを示しているのだろう。

更に、『湯河家文書』12月7日弥太郎宛直春*4起請文と、同日の式部大夫宛直光起請文が収録されている。
つまり「式部大夫=湯河直春」「弥太郎=湯河直光」となり、ここからも当時の湯河式部大輔家に直春を諱にする人物がいることがわかる。
なお、この式部大夫直春は湯河直光の子の中務大輔直春とは別人である(この件に関しては後述)。

さて、史料②では、稙長は「今朝は早々帰られ候、今度は自余にかわり出陣、心がけしんらうにて候間、不抑留候」と、直春が早々に帰宅したことと、今回稙長に代わり出陣したことを労い引き止めなかったことを述べている。
ここから、何かしらの戦闘に関して稙長自身が出陣できず、代わりに湯河氏に頼ったことが伺える。
また、「小松原にこちらのことを知らせるように」と小松原の湯河光春自身は出陣していなかったことも伺える。

上述の宮崎直定の天文6年4月の禁制や、某年4月16日の石井谷合戦など、稙長没落後に紀伊で戦闘の徴証は現時点では4月に限定される。
そのため、史料②がこれらの戦闘に関わるものと考えることは可能性だろう。

湯河直光の諱に込められた意味

天文5,6年頃に通字を下につける「直定」に改名した宮崎直定と、稙長から大きく期待を寄せられた「直春」という湯河一門。
この宮崎氏・湯河式部大夫家は享禄年間の稙長と弟の争いの際にも稙長方として行動しており、彼らが「直」の一字を上にしているのは偶然だろうか。
これらを踏まえて検討したいのが、後の湯河氏当主の「直光」という諱の由来である。

湯河直光は『湯河家文書』2月13日稙長書状の「みつ春・や太郎(弥太郎)」が確実な初見で*5、同年推定の『目良文書』3月23日丹下盛賢書状*6「光春・直光覚悟之様」が諱の初見と思われる。

また、『脇田文書』には「春」という諱を持つ人物の書状がニ通収録されている。
同文書には他に湯河直光感状、湯河光春への意見を依頼する丹下盛賢書状があり、「春」は湯河氏の人物と見て間違いない。


史料③ 『脇田文書』12月5日春書状

今度各雖罷退候、為此方殿被罷残候、対我々忠節祝着候、年寄衆令談合、弥馳走肝要候、謹言
 十二月五日  春
  脇田三郎左衛門尉殿

史料④ 『脇田文書』1月3日春書状

 如比候処、重而申事候間、いわうし免畑二反扶持候
今度無二之忠節祝着候、仍其庄にて加扶持持度候へ共、定而下地有間敷候間、山内にて三反扶持候、猶無油断馳走肝要候、委細忠直可被申候、恐々謹言
 正月三日  春
  脇田三郎左衛門尉殿


史料③④は、春の居所に各勢力が集結していたが大半が帰宅し、脇田氏は残って湯河氏への忠節を示したことを賞し、山内(日高郡南部町山内)に扶持を与えたことを記している。
史料③で「謹言」が使われているため「春」は湯河氏の当主格と想定できそうだが、史料④では一転して「恐々謹言」を使っているのが悩ましい。
年次比定はできないが、「春」の花押は政春・光春・直光・直春といった湯河氏歴代の花押とは一致しなかった(なお、式部大輔直春の花押は現存のものが確認できなかった)。
が、そのうち直光の花押とは類似する部分があり、直光の前身の可能性もあると考える。

それに則れば、直光は本来「◯春」という諱を名乗るつもりだった可能性も出てくる。
それでなくても、湯河宗家歴代は「◯春」という諱が多く、「◯光」という諱は例外的である。
ではなぜ「直光」という諱になったのか、それは上の字に「直」を使おうとしても、既に「直春」という人物がいたからではないだろうか(代わりに光春の上の字を使用したと思われる)。
直定・直春同様に直光も「直」の字を上に置くのは、そのことに意味があった、要するに他者からの偏諱だったと考える。
そしてこの時期に湯河氏・宮崎氏に偏諱を与えた上位者は、畠山稙長以外に考えられない。
では何故、「直」の一字だったのか、奉公衆である湯河氏は本来将軍偏諱を貰う立場であり、稙長の下の字である「長」を与えると扱いが格下げになってしまう。
さりとて「稙」は将軍偏諱であるためそのまま他人に与えるのは憚られる。
そこで「稙」を右側の「直」に変形させ、「長」よりも格上の偏諱とみなして授与しようとしたのではないか。
なお、上記の経緯から直光は直定・直春から遅れて偏諱を得たのかもしれない。

また、湯河直光の子の中務大輔直春も「直」の字を名乗っている。
中務大輔が登場した頃、式部大夫家には「湯河安芸入道宗慶」という人物が見える。
これは式部大夫直春が出家した姿なのではないだろうか*7
式部大夫直春が出家したことで、「直春」を名乗る人物が存在しなくなったため、直光の子もこの諱を名乗ったと考える。
中務大輔直春は初期の発給文書では「直」とのみ署名しており*8、当初から「直」の字を受け継いでいたと思われる。
これはつまり、湯河氏が畠山氏から偏諱を与えられることに忌避感を示していなかったことを示すのではないか。

奉公衆である湯河氏は畠山氏と直接の被官関係にある訳ではなく、またこの当時紀伊での支配領域は畠山氏を上回るものだったことは確かである。
しかしそれは必ずしも畠山氏に協力的ではないことを意味するものではなく、下剋上文脈に囚われ畠山氏を克服しようとした独立独歩の勢力だと安易にみなすには一考を要する。

「二階合戦」の虚実について

『金屋町誌』には以下のように、「二階合戦」という紀伊での戦いの伝承が記される*9
「その頃二階城には神保彦九郎茂政の弟長治がいて、むかえ討つ準備を進めていた。天文九年四月三日、湯川直光は広の竹中治部少輔久澄らを寄手の先陣に立て、大挙してこの城に攻めかけた。城内では川口主膳友光等勇戦したが守は潰え、主将長治は討死して軍兵は金屋方面へ退散した。直光の勢は深追をやめて広に帰陣した(神保系図 竹中系図)。」

おそらく、この経過をそのまま記す古記録があった訳ではなく、文中で紹介されている「神保系図」「竹中系図」、また同節で触れられている金屋川口家の先祖書を総合して「二階合戦」の経過を想像したのだと思われる。

二階城は遺構は残っていないが有田郡有田川町垣倉にあったとされ、石垣荘で起こった合戦ということになるだろう。

ただ、古い自治体史であるため仕方のない部分もあるが、『金屋町誌』の該当の章は飛躍した記述も目立つ*10
それもあって、この「二階合戦」の記述もどこまでが系図類の情報を忠実に記しているものなのか判別しかねる。
年代についても、天文9(1540)年段階での湯河氏の当主は直光ではなく光春であることや、この時期の湯河氏は既に畠山稙長の上洛計画に協力している段階であり*11、石垣荘に侵略戦争のようなものを起こすかという疑問があり、無批判には用いれない。

うち「神保系図」とは『紀伊八庄司流諸氏系図集』収録の系図と思われ、「重春 彦九郎 茂政」の弟に「長治 天文九・四・三 紀州外屋城討死」と記している*12
ただ、「神保系図」は彦九郎弟の外谷城(鳥屋城)討死とその年月日しか記さず、二階城の名前も出てこないため、これだけでは「二階合戦」に関わる情報とは断定できない。

「川口家の先祖書」については『金屋町史』の同節で、「川口主膳については金屋川口家の先祖書では累代二階城に居住していたが、城落居の後、天文十一年畠山尾張守に従って河内に出で、和泉粂田の戦に三好実休を討って功があったが、後流浪し、子左近右衛門光行が金屋村の辻に居住して農に帰したとある」と記し、これが先祖書に書かれた情報と思われる。
天文11年の畠山尾張守(稙長)の河内復帰、久米田の戦いでの三好実休討死は事実であり、この辺に不自然な点は見られない。

「竹中系図」は『広川町誌』『重要文化財広八幡神社他四棟修理工事報告書』で「広八幡宮記録」「広八幡佐々木家蔵竹中系図」と紹介されている史料を指すと思われる。
竹中氏は広八幡神社の社務を担ったとされる氏族(『広川町史』)で、同氏が当時広に在住し湯河氏に動員されたことには特に疑問はない。
ただ、この系図が載っている自治体史など、もしくは原本を閲覧する方法がどこにあるのかわからず、内容までは確認できなかった。

そのため推測になるが、「竹中系図」には「神保系図」と金屋川口家の先祖書に載っていない『金屋町史』の情報、つまり湯河氏の石垣荘攻撃と、竹中氏がそれに動員されたことが書かれているのではないだろうか(湯河方の攻撃先が石垣荘であると書かれていなければ、金屋川口家の先祖書の情報と結びつけることはできないだろう)。

ただ、「竹中系図」と川口先祖書にも合戦の日次が記されていたのか、それが「神保系図」と同日のものなのか確認できないのが心許ない。
日次を示したのは「神保系図」のみで、鳥屋城での討死を二階城での合戦と結びつけたのは『金屋町史』独自の見解であり、「二階合戦」がこの日次に行われたものではない可能性もあるかもしれない。
ともあれ、『金屋町史』該当箇所の執筆経緯を想像するのならば、互換性が無いと思われる複数の由緒に「二階合戦」に関わる伝承が伝わっていることになるので、元となる出来事自体はあったのではと考える。
ひとまずこの記事では湯河氏が二階城の川口氏を攻めた戦いと、4月3日に神保彦九郎弟が鳥屋城で討死した件を合わせて「二階合戦」と呼称する。
心許ない部分はあるものの、「二階合戦」の伝える所は「湯河氏と石垣荘の勢力の間で起こった戦闘」ということになるだろう。

この合戦の時期について、天文9年が疑わしいのは上記の通りだが、確実に有田郡での戦闘が想定されるのは享禄年間、天文年間も石垣家が稙長に背いて家督を得たことから両者の対立が想定でき、また史料①②から(天文6年)4月に稙長方が関わる戦闘が起こっているため関連付けもできそうだが、どちらとも確証が言えない感じである。

ただ、いずれにせよ湯河氏は領土欲のために「二階合戦」を起こした訳ではなく、畠山氏からの要請に答えて出陣したことは想定できないだろうか。
過去に天文初期の湯河氏と遊佐長教の連携を否定したように(参照)、湯河氏は畠山稙長との対立は基本的に見られず、基本的にその側に立っている。
上記の湯河直光の偏諱からも、湯河氏の畠山氏に対する近さを想定できると思う。
『金屋町史』の「湯河氏が二階合戦の後は広に帰陣した」という記述は典拠となる史料に沿ったものなのか測りかねるが、動きとしては妥当性があると考える。
「二階合戦」を経て石垣家の拠点である鳥屋城は和議ないし降伏を選び、稙長の支援という目的を果たした湯河氏は在地に留まらず撤退したのではないか。

謎の畠山氏「長光」

小山氏に宛てられた文書には、差出人に素性不明の「長光」という人物がいる*13
「長光」が発給した書状は二通存在し、『善妙寺文書』『久木小山家文書』『神宮寺小山家文書』『紀伊続風土記』のそれぞれで異同があるが、内容自体は概ね同じである。
ここでは『久木小山系図』(『日置川町史』第一巻)に載せる同書状を記す(なお、『久木小山系図』掲載の文書は『紀伊続風土記』文書と文面が一致している)。

史料⑪ 『久木小山系図』収録 天文23年8月30日長光書状

今度爰元へ下国之処走舞祝着ニ候、於上洛広之代官可申付候、弥忠節肝要ニ候、謹言
  天文廿三   畠山
   八月卅日   長光
 小山長八郎殿

史料⑫ 『久木小山系図』収録 長光書状

右同意趣田殿代官可申付、為兄弟さはくへき者也
         長光
 小山善十郎殿


宛先の小山長八郎・善十郎は、後に畠山氏に命じられ日高郡に移って円通寺・鳳生寺に入寺したという伝承があり、そのため日高の善妙寺に書状が残ったと考えられている。
天文23(1554)年という年号が書き込まれているが、既に坂本亮太氏がこの年号についての疑問を指摘している(加えて、天文23年という時期は畠山高政が河内に復帰した後の時期であり、この内容に該当する人物がいるとは思い難い)。
『善妙寺文書』に残る長光書状も、善十郎宛文書は花押が写されず、長八郎宛文書も文意が通らなかったり、宛先の位置が離れすぎているなど不自然な箇所があるので、ともに写しであり原本ではないと思われる。
また『久木小山系図』は、小山氏の歴代の横に『久木小山家文書』などを出典とした書状を略しつつ記入している。
その中で、長八郎経次・善十郎清次の項は「右之弐通、大形かな書、大破故略して是を書付ル」とあり、本来はかな書きだった書状を書き写した可能性がある。
原文がどのような形だったか不明な以上、坂本氏の指摘に従い、年号を疑う形で話を進める。

『久木小山系図』では長光の素性を畠山氏としている。実際「謹言」で結ぶ文言や上洛の主体となる人物であること、広・田殿荘の代官を申し付けていることからその可能性は高いと思われる。
ただし、長光の花押影はかなり独特の形状をしており、既存の畠山一門と一致しない。

他に素性を推定する材料だが、長光は稙長方と敵対しており、かつ不利な立場にあることが伺える。
まず、長光は小山長八郎・善十郎を頼って小山氏の拠点まで下国している。
そして上洛の際には広・田殿荘の代官に任じるとしているが、本来小山氏は有田郡に縁もゆかりもなく、些か過分な褒賞に思える。
当時の広荘は湯河氏の影響が浸透していたことが指摘されており、それと競合する代官の任命は稙長方の采配としては不自然になる。
加えて文書形式も簡略で、元がかな書きの私信と伝えるものもあり、この段階での長光の立場の弱さを想定できるのではないか。

広・田殿荘代官という報酬は稙長方を排除した上でなければ与えることができないものであり、これは空手形に近いものなのだろう。
ただし、空手形とはいえ、長光が広・田殿代官を与えられる根拠を持っていなければ空手形としても成立しないため、長光は本来は広・田殿を差配できるような立場にあった人物だったと考える。

これらの条件に該当し、かつ稙長から偏諱を受けたと思しき「長光」は、石垣家の人物を想定できる。
三郎左衛門尉光房天文10年4月1日『歓喜寺八幡宮棟札』)や神保光茂(永禄3年9月2日『白岩丹生神社棟札』)など、天文中頃から登場する石垣家の重臣には光のつく諱の人物が複数見受けられる。
これは「◯光」という主君から偏諱を受けたものであると考えられないだろうか。

他に気になる点と言えば、宛先の小山長八郎・善十郎の素性である。
『久木小山系図』では彼らを小山宗家の春次の子で、俊次の弟としている。
ただ、『久木小山系図』は実際の文書とは齟齬が見受けられ、また春次と俊次は活動時期が重なることが既に坂本氏に指摘されている。
加えて、『小山家文書』を見る限り、春次と俊次が同時に登場する文書はなく、系図の通りに親子だと想定するには若干の不自然さを受ける。*14
また湯河氏・山本氏の小山三郎五郎宛書状に「御同名孫五郎殿御兄弟」「御同名次郎左衛門尉」という俊次の同名衆が登場するが、少なくとも俊次の兄弟としては系図に見えない。

一方で、小山家の嫡流は基本的に通称に「八郎」が入っており、「長八郎」という仮名はに嫡流という関わりを伺わせる。
また、長八郎・善十郎兄弟が日高郡に移り出家した伝承は、実態としては没落を示していると考えられないだろうか。
これらを踏まえて、長光が頼ったのは長八郎は小山氏の嫡流であり、これが原因で分家の俊次が嫡流となったという流れを想定している。

なお、石垣家の当主らしき九郎という存在を以前挙げていたが(参考)、九郎と長光の花押とは一致しない。
九郎と長光の想定する登場時期は10年ほどの隔たりがあり、花押改変の機会はあったとは思うが、確実性のないところである。

そのため、あるいは一次史料で諱が確認されない畠山長経も候補に挙げられると考えている。
後に長経息の岩鶴丸が石垣家を継いでいるものの、長経が家督を狙ったことにより紀伊に下向した稙長と争い、小山氏の下に没落していたという考えである。
もっとも、現在に伝わる諱はほぼ「長経」で一致しており、長光と伝わらないというのは不自然という点もある。
最初から長光と名乗っていたが、誤記によって長経と伝わったのか、あるいは長光と改名したのは限られた時期であるため伝承に残らなかったのか、理由付けはできるがこれも不安要素である。

まとめ

稙長の発給文書からある程度の確定はできる享禄年間に比べると、天文年間の稙長没落時の紀伊はどの程度の規模の戦闘が起こったのか判断しづらい。
「二階合戦」を事実として採用するにしても、それが天文年間という確証もない。享禄年間と違い尾州家家中が分裂しているため、稙長方の手勢が弱体化し軍事行動が低調になったいうこともあるだろう。
「長光」の存在にしても、天文23年という年号は疑わしいものの、代案として確実に言える年次はない。
一方で、宮崎直定・湯河直春・湯河直光の諱は偏諱を受けていたものであり、その時期が天文年間の稙長の紀伊下向時である可能性については、ある程度確証を持って言えると考えている。

いずれにせよ、紀伊での騒乱は天文6年後半までに落着したと見られ、11月には「畠山へ当年未通書音候条」(『天文日記』天文6年11月13日条)「表微志計候、目出御上洛奉待候」(『証如上人書札案』)とこの年初めて証如が稙長に音信を送り、上洛について振れている。
追放された身にも関わらず、紀伊勢力を糾合しての上洛計画を可能としたのは、享禄年間に紀伊での反稙長勢力を制圧したことも功を奏しているのだろう。


参考文献
小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」
新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」
坂本亮太『解題 紀州小山家文書』「熊野水軍小山家文書の総合的研究」

*1:『私心記』天文3年10月11日条に丹下盛賢が河内森河内に陣取ったことや、その際と思われる10月20日の稲田口合戦に畠山稙長が感情を出していることなど。(『松田氏家蔵古文書』(天文3年)11月5日松田孫三郎宛稙長書状。参照:https://monsterspace.hateblo.jp/entry/matsudabunsho-tanenaga

*2:新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』(文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭)

*3:なお、玉置氏は「直」を通字としており、上記の正直のように「◯直」と名乗る人物が多く、また同時期に湯河氏と見られる「兵部少輔俊直」(『湯河家文書』)「忠直」(『脇田家文書』)という人物も見受けられるが、これらの諱は今回は考慮外とする。

*4:『和歌山県史』は「直光」と翻刻しているが、原文を確認したところ「直春」が正しかった。そもそも交わした起請文の差出人が両方「直光」なのは不自然だろう

*5:同書状の比定は最も早くて天文9年と推定。そのため湯河弥太郎の初見も同年が最も早くなる。

*6:弓倉弘年『「藩中古文書」に見える目良・脇田文書』(田辺市史研究)。同論文では年次比定がされていないが、日付と「高蔵(屋)敵味方討死候」などの文言から3月18日に木沢長政が高屋衆に討ち取られた天文11年のものと考える。

*7:宗慶は中務大輔直春の伯父と伝わり(「湯川記」など)、湯河直光の姉は式部大輔に嫁いだとする(『古今采輯』石垣系図)。合わせて式部大輔直春は直光の姉婿であり、安芸入道宗慶と同一人物と解釈できる。

*8:『湯河家文書』永禄5年7月1日湯河直春起請文

*9:『金屋町誌』上巻 P339

*10:信憑性に疑問がある江戸期の神保氏の系譜を全面的に採用し、同氏があたかも紀伊土着の勢力かのような記し、畠山氏に実権が全く無かったと強調するなど

*11:小谷利明『畠山稙長の動向』(戦国期の権力と文書)

*12:なお、同系図は神保氏の祖を鎌倉時代に石垣に移住したと記したり、越中守長誠・出雲守長通といった紀伊に関わった神保一門に触れない、一次史料で確認できない諱を当て嵌めていたりと、疑わしい部分が多い。対して『古今采輯』収録の神保系図は記述は簡素だが、その分こちらの方が正確なものと判断している。彦九郎の父とする彦次郎(「神保系図」では彦次郎を彦九郎の子とするがこれも誤りと思われる)、彦九郎の子とする三河守・光茂は一次史料で該当する人物の実在が確かめられ、彦九郎の実在性も高いと思われる。彦九郎弟長治は『古今采輯』収録系図には記されないが、諱の信憑性はともかく世代的には矛盾のない存在と考える。

*13:坂本亮太『解題 紀州小山家文書』(熊野水軍小山家文書の総合的研究)

*14:年未詳9月19日湯河光春書状の宛先の「小山しゅり(修理)」は俊次に関わりのある小山一門と思われる。この文書は湯河光春の花押形から大永2年以降、また文中に「御同名孫五郎」が登場しており、同じく「御同名孫五郎」が登場する小山三郎五郎宛湯河光春や可春書状と関わるものと思われる。年未詳11月2日尚慶(畠山尚順)書状の宛先に小山弥八(八郎左衛門尉春次の前身か)・小山修理亮が併記されており、また天文11年11月「教子明神社棟札写」にも式部大夫俊次の次に修理亮が記され、修理亮は有力一門の通称と考えられ、俊次はこの修理亮家に関わる人物だった可能性を挙げたい。

◆「御孝弟御取相」と畠山稙長の紀伊出張

※この記事は以前に投稿した記事を大幅改訂したものです。


またしてもブログを始めた時点ではこんなに触れることになるとは思わなかった石垣左京大夫家の話。

戦国期の畠山氏と紀伊の関わりはまだまだ不明な部分が多い。
近年、新谷和之氏が天文以降の紀伊での戦闘、かつ湯河氏と畠山氏の連携の可能性を指摘しているが*1、今回はその稙長と紀伊で争った勢力は何なのかというのを検討してみたい。

「御孝弟御取相」と賀茂氏

史料①『中尾家文書』天文5年5月6日 中尾新兵衛田地売渡状

(略)畠山殿様御孝弟御取相折節、湯川殿宮崎殿より、中尾之新兵衛御使、被仰付候、爰元従無通路申調如御本意候、則賀茂殿御入部候、従其忠節、彼龍洞院之儀、下芳養殿宮崎殿より、賀茂殿年寄中へ以折紙被仰付候(略)
天文五年 申丙 五月六日   中尾新兵衛


この文書はおなじみ賀茂氏被官の中尾氏が知行を売却したものだが、その際に知行を得た経緯が書かれている。
中尾新兵衛は畠山殿様(稙長)が弟と争った際に、湯河・宮崎氏に(賀茂氏からの)使者を仰せ付けらて(畠山氏の)本意のように通路を整えた功があり、賀茂氏が入部した際にその忠節によって広福寺のことを湯河・宮崎氏から賀茂年寄中に折紙で仰せ付けられたという。

まず、「畠山殿様御孝弟御取相折」畠山兄弟(畠山殿様=稙長とその弟)で争いがあったことがわかる。
天文5(1538)年5月以前に稙長と紀伊を舞台に争った弟とは、紀伊に拠点がある石垣左京大夫家宮原兵部少輔家の人物が該当するだろう。
通路が無かったので「御本位」のように申し調えたとあるように、中尾新兵衛は稙長の紀伊での何かしらの軍事行動を案内する働きをしたと思われる。
また、賀茂殿が入部したとあり、賀茂氏の当主(=小法師)は何らかの理由で賀茂荘を離れていたことが伺える。

そして、その際に湯河・宮崎氏が稙長を助ける動きをし、また寺領を与える折紙を出している。
文書は現存していないが、湯河・宮崎氏から揃って書状が出されたということは、両者がその当時同じ箇所にいたことを示している。
また、宮崎氏と共に記される人物が二箇所目では「下芳養殿」と記されているのに注目する。
これは下芳養を拠点とする湯河氏の支流の式部大輔家を指しており、一箇所目の「湯川殿」も同一人物だろう。

また、書きぶりから一連の稙長弟との抗争はこの文書発給の時点で終わったものと推定するべきだろうか(以前はこの抗争を天文初期の稙長の紀伊没落に関わるものと想定していたが、それは成り立ち難いことが判明した。詳細は後述)。

小山氏と畠山稙長の大野攻め

畠山稙長の花押は、大別して二種類に分けられる(以下、前期型と後期型と表記)。
後期型は天文元(1532)年12月を初見とし*2、以降特に変化は見られない。
前期型は書状の初見となる永正17(1519)年や*3、大永7(1527)年に同型のものが確認できる*4

そのため、前期型の稙長書状で、紀伊での活動に関わるものがあるのならば、それは天文以前の時期を示すことが確定する。
そして、実際にそういった書状は複数例確認できる。

史料② 『小山家文書』9月23日 畠山稙長書状

至大野進発之処、音信祝着候、殊五方令一味、可抽忠節由神妙候、弥馳走肝要候、猶委細玉置与三郎同兵部丞可申候、謹言
 九月廿三日   稙長(花押)
  小山三郎五郎殿


小山氏と小山家文書については、坂本亮太氏が詳しく解説を行っている*5
新谷氏はこの書状から畠山稙長が大野攻めを行ったことを指摘しており、文書中の「五方(小山氏などの紀南の領主を指すと思われる)」に注目し、熊野三山と稙長方の対立が解消される天文5~7年頃と関連するものと見ている*6
ただ「五方」に熊野三山を含むことに慎重になる見解も存在し*7、その場合史料②の年次は熊野三山の動向に囚われないものとなる。
ただ上記の花押推定によると、そもそもこの書状の稙長花押は前期型なので、天文元年以前のものということになる。

宛先の小山俊次の通称は大永5年11月段階では三郎五郎であり、その後丹下盛賢を介して式部大夫に推挙されている*8
この時の尾州家は足利義晴方という立場は動いていないと思われるため、この官途推挙が京方を介した正式なものの可能性もあるだろう。
更に稙長が前期型花押で小山式部大夫に宛てた書状があるため*9、この式部大夫宛稙長書状の年次は大永6年から天文元年までに絞り込める。
また、他の小山三郎五郎宛書状の年次は全てその前年からとなるだろう。

加えて、大野の『尾崎家文書』には某年8月23日・12月15日に能登守護家の畠山義総が尾張守(稙長)と音信を交わした書状が二通存在している*10
稙長宛の書状が尾崎家に残されているということは、この時の稙長の居所が大野にあったことを示している。
史料②と義総書状を関連するものと扱うと、稙長は某年8月から12月、あるいは某年12月から翌年9月頃まで大野に出陣していたことになるだろう。

『尾崎家文書』の年次を絞り込むと、の差出人の畠山義総は、天文4年の「義総」の名乗りを終見とし、天文5年月には出家して「徳胤」と名乗っている*11
また、宛先が「尾張守」となっており、稙長は大永4年末段階では「河内次郎殿」と表記され*12、尾張守への任官は大永5年以降と思われる(稙長父の尚順ならば義総の家督継承時に出家しているので「尾張入道」となるはずであり、除外できる)。
大永5年以降天文元年以前で上記の期間に稙長が紀伊にいた可能性のある年次(=河内にいたことが確認できない年次)は、大永6年・享禄元年・2年が該当する*13
義総は稙長と共に足利義晴・細川高国陣営に属しており、稙長の紀伊出張時もその構図は変わっていないと思われるため、贈答があることに問題はないだろう。
二つの書状には特別な文言が見当たらないため、たまたま稙長がその時大野にいたため『尾崎家文書』にこの二通のみが残っただけで、他にも恒常的に贈答が行われていたのかもしれない。

また、『隅田家文書』によると、某年8月頃に「今度三好一族乱入候処、於大野表一戦」と大野で合戦があったことが記される*14
遊佐順盛が存命時に三好氏が上洛戦を試みたのは永正16年と大永6年の2回だが、前者は淡路に出張したのが9月28日であり*15、翌年5月に三好之長らが自害しているので、8月段階での紀伊での戦闘は考え難い。
後者も8月段階では波多野元清・柳本賢治らの謀反は起こっておらず、阿波勢が堺に上洛したのは12月なので(『二水記』大永6年12月13日条等)、三好勢が大野に乱入したのは大永7年以降の想定になるだろう。
ただ、この三好勢乱入が史料②と同年であるかはなんとも言い切れないので、ひとまず大永以降の京方と阿波方との対立の際に、大野が係争地の一つになっていたことの証左として挙げておく。

稙長の有田郡攻めと賀茂氏の貢献

次に採り上げるのは、「御孝弟御取相」で稙長方に協力を行ったという賀茂氏の動向である。

史料③ 『中尾家文書』5月10日 畠山稙長書状

去年以来被官人馳走神妙候、為恩賞藤並之内下津野分各申付上者、弥可抽忠節事肝要候、謹言
 五月十日    稙長(花押)
  賀茂小法師殿

史料④ 『中尾家文書』6月26日 畠山稙長書状

当庄不入儀、成其意候上者、忠節可為肝要候、猶委細山本式部丞玉置兵部大輔可申候、謹言
 六月廿六日   稙長(花押)
  賀茂小法師殿

史料⑤ 『中尾家文書』6月26日 玉置正直・山本忠善連署状

当庄不入儀、被成御意得候、珍重候、弥御忠節可為肝要候、此旨相意得可申由、被仰出候、恐々謹言
 六月廿六日   正直(花押)
         忠善(花押)
  賀茂小法師殿

史料⑥ 『中尾家文書』8月3日 畠山稙長書状

有田進発之儀、依根来寺扱子細延引候、然者岩室手前之間、此時忠節可為肝要候、家之儀如前々可申付候、謹言
 八月三日  稙長(花押)
  賀茂被官中


これらの書状は稙長方より賀茂氏に宛てられたもので、史料③④⑤は史料①に登場する「小法師」と呼ばれる幼名の人物が宛先であるため、①の時期である天文5(1536)年をそう遡らない時期に発給されたと思われる。
また、稙長書状の花押は全て前期型であり、発給時期は天文年間以前が確定する。

史料③で「去年以来被官人馳走神妙候」とあるので、この文書は賀茂氏が稙長方への協力をした翌年に出されたものである。
また、この文書では賀茂氏は恩賞として藤並荘下津野が与えられている。
藤並荘は石垣荘の手前にあり、下津野は藤並城があったと伝えられ同荘の中核にある。
本来は賀茂氏と縁のない地域であり、それが与えられるということは闕所になったことが想像できる。
すなわち、藤並荘は反稙長勢力に属していたが、戦闘によって制圧されたのではないか。
この書状が出た時は戦局は稙長方優位で落ち着いていたことも想定できるかもしれない。

史料④⑤は賀茂荘不入を保証した判物で、これも賀茂氏の一連の働きに関わるものと考えられる。
また、史料⑤は史料④の稙長書状と同日に発給されているため、発給者の山本式部丞忠善・玉置兵部大輔正直は稙長と同陣していたことが伺える。
山本氏の当主の官途は中務大輔兵部大輔、玉置氏は民部大輔であることが確認されるため、彼らは当主ではなく、立ち位置は不明だが分家の人間が稙長に属していたと思われる。

弓倉弘年氏は先行研究でこの文書について、「この一例のみで判断することは難しいが、畠山稙長は河内高屋城を有力内衆によって負われるなど、その権力基盤は不安定であり、紀伊国内の有力国人である山本氏や玉置氏の協力なしには、海部郡でも十分に権力を行使できなかったのではないだろうか。」と畠山氏の退潮を見て取っているが*16、紀伊出張中の事例であることや、彼らが当主ではなく立ち位置不明の一門であることも考慮すべきだと考える。

これらの史料により、稙長は最低でも足掛け2年紀州に在していたことが伺える。
では、稙長が5月・6月・8月を含む時期に足掛け2年紀州にいたことが想定できる年次(=河内での活動が確認できない年次)はいつかとなると、大永年間は2年続けて河内に不在の時期は無いと思われ、享禄年間のみが該当することになる。
すなわち、大野攻めと賀茂氏の協力は両方享禄年間に行われたものであり、関連性のある軍事行動だったと考える。

それを踏まえて、史料④⑤の取次の玉置氏の名に注目すると、史料②の取次は「玉置与三郎・同兵部丞」と微妙に官途が違う。
玉置兵部丞の名は『小山家文書』(永正末~天文初)8月11日丹下盛賢・遊佐長清連署状*17、玉置兵部大輔は『湯河家文書』の天文年間の稙長書状にも「玉置兵部大夫」が登場しており、史料⑤を史料②の前とすると短期間に「兵部丞→兵部大輔→兵部丞→兵部大輔」という官途が違う人物が登場することになり、稙長本人の発給文書であるため書き間違いも考え難い。

そのため、史料④⑤は史料②より後の時期のものであり、兵部丞・与三郎のどちらかが兵部大輔正直の前身であると想定したい。

史料⑥は、「有田進発」が根来寺の子細によって延引されたことを伝え、岩室(=岩室城主 宮原兵部少輔家)と手前(=稙長)に対して引き続き忠節を求めている書状である。
岩室=宮原兵部少輔家が稙長方に属しているということは、「有田進発」で攻撃される対象は有田郡に拠点を持つもう一つの畠山分家、石垣左京大夫家である可能性が高いのではないだろうか。

つまり、冒頭の「御孝弟御取合」とは享禄年間に稙長が紀州に下向し石垣家を継いでいた弟を攻撃したことを指すものであると結論付けたい。

賀茂氏の立ち位置と稙長方への色立

ではこの時、賀茂氏は従来からの稙長方として協力を行ったのかというと、それは怪しい所がある。

史料⑦ 『紀伊国古文書』2月6日 湯河光春書状
対御屋形貴志宮崎依無別儀候、日吉兵部少輔遣候、処々各無疎略通、慥相届候、神妙候、就其此刻弥急度被色立候ては、善悪尾州可無御取合候、不紛忠節候者、於口郡少所可申納候、謹言
   二月六日    光春(花押)
    賀茂年寄中

写ではあるが、湯河光春の花押は大まかな形で確認でき、天文年間などの多くの文書で確認できる光春花押(「皿」のような形)と概ね同型と認められる。
一方で、『能仁寺文書』大永2(1522)年3月光春寄進状の花押はそれらの花押と明確に違う形状であり、史料⑦は自動的に大永3年以降のものとなる。
以前は「御屋形」を稙長、「尾州」を尚順とし、永正末年の尚順没落後の湯河氏の赦免に関連する史料と解釈していたが、それは成り立たないことになる。
そのため「御屋形」「尾州」双方が稙長を指し、稙長が尾張守に任官した大永5年以降のものと考えるべきだろう。
それを踏まえた上で訳すと、「御屋形様・貴志氏・宮崎氏に対して別儀ないと、日吉兵部少輔を遣わしました。方々を疎略にしないこと、確かに相届け、神妙です。今回いよいよ必ず色立てられることについては、何れにせよ尾州と争われないように、忠節に紛れないことです。口郡において少所を申納ました」といった意味になるだろうか。
「被色立」とあることから色立をするのは賀茂氏であり、これ以前、賀茂氏は稙長と敵対する勢力に属していたことになる。

史料⑧ 『笠畑家文書』10月16日 丹下盛賢・遊佐長清書状*18
今度応御下知、各致忠節之由、貴志宮崎注進、尤神妙、弥粉骨肝要之由可申聞旨被仰出候、恐々謹言
    十月十六日  成賢
           長清
      賀茂被官衆中


この史料も貴志・宮崎と賀茂氏が連携して稙長方に属していることから、史料⑦と同時期のものと想定することも可能かもしれない。

その他、賀茂氏被官宛書状は総州家などの他の畠山氏の発給文書が残っている(以前の記事参照)。この時は賀茂氏の立場を流動的なものと書いたが、現在では尚順・稙長の対立以降、賀茂氏は義稙・尚順・総州家といった反稙長勢力に近しい立場で基本一貫していたのではないかと考えている。
これらの勢力との賀茂氏の連携が確認されるのが大永7年までなので、この後に稙長方に転向したと考えるとそれは享禄元年以降になる。
享禄年間の尾州家は高屋城を総州家に明け渡すなど、全体として有利な情勢とは言い難く、この時期に賀茂氏等が尾州家方に転向したとするならば、その理由は稙長の紀伊出向で直接軍事的圧力をかけられたことによるものだろうか。

この辺、悩ましいのが賀茂氏被官に宛てた書状が残る、石垣左京大夫家の九郎の立場だったりする。
上の記事で紹介済みだが、九郎の動向が確認できるのは大永2年12月の宮崎合戦での関与と、某年10月に賀茂氏に対して貴志・宮崎・梶原氏と連携しての忠節を求めたものの二つ。

宮崎合戦については、以前は稙長方の宮崎氏に九郎が助力したという前提で想定していたが、史料⑦・⑧の発給時期が大永3年以降となると、永正末年からの宮崎氏の動向は不明瞭になる。
あるいは貴志・宮崎氏ともに賀茂・梶原氏と同調し、紀伊水道・有田川流域に面する勢力が団結して反稙長方の行動を取っていた可能性も出てくる。(動向が不明瞭な宮原兵部少輔家にも、同様にどちらの可能性があるのではないか。)
故に宮崎合戦は上記の想定に限らず、反稙長方の宮崎氏を稙長方の九郎が攻撃、あるいは反稙長方の九郎・宮崎氏と稙長方の戦闘である想定も否定できず、確証がないためこれ以上の結論は出せない。

同様に賀茂氏宛書状も、稙長方ではなく反稙長方としての独自の行動だった可能性も出てくる。
発給時期は以前の考察通り大永5年以降を想定しており、仮に九郎が反稙長方だったとするならば、時期的に史料②の稙長の大野攻めに刺激されて発給されたものという想定もできると考える。
その場合、大永2年から享禄年間とそれなりに時期が経っているのにも関わらず仮名が「九郎」のままなのは、堺公方派の細川六郎(晴元)等のように、偏諱を貰うべき相手がいなかったからなのかもしれない。

いずれにせよ、稙長の紀伊下向以降、宮原家・湯河・玉置・山本・賀茂・貴志・宮崎氏が稙長方に属していたことは確実であり、石垣家にとっては不利な状況だったと考えられる(梶原氏の動向に関しては史料が無いので不明。史料①より賀茂氏は一時本地を離れる自体になっていたことが伺えるが、その原因は敵対時に稙長方に攻撃されたか、色立の際に反稙長方に留まった梶原氏などの攻撃を受けたからだろうか)。

ただし、前述の享禄年間にあたる小山式部大夫(俊次)宛稙長書状では稙長方の保呂城が落城しており*19、敵対勢力の抵抗も根強かったと見られる。
坂本氏はこの「稙長敵対勢力」を熊野衆などを候補に挙げつつ不明としたが*20、立ち場としては稙長に敵対する石垣家方の勢力と考えて良いのではないだろうか。

まとめ

稙長の「有田進発」は史料⑥での延引の後、具体的な動向を示す史料が無いのでその後どうなったのか不明である。
石垣家を屈服させたのか、攻め込めないまま立ち消えになったどちらの可能性もあり得る。
享禄年間には細川高国の反撃からの敗死や、堺公方府の内紛による壊滅など、稙長方が紀伊での軍事行動を中止し可能性もあるが、関連史料からは上方の情勢は伺えない。

これ以降は確証性のない仮説を行う。
『両畠山系図』にある稙長弟の石垣家の政氏が石垣城で宮原家の長経に生害されたとする伝承は、享禄年間に紀伊に出張した稙長と争った弟の九郎(政氏)が、稙長方の宮原家の長経らに滅ぼされ、その後長経が石垣家を継承したことを表しているのかもしれない。

一連の出来事の年次比定だが、以下にひとまず紀伊出張が享禄2(1529)年に始まったものとしての想定を行ってみる。
その理由としては享禄元年末に稙長は柳本賢治と和睦しており、高屋城は失ったものの、享禄2年4月に段銭皆済状が発給されており*21河内方面ではある程度安定がもたらされ、他の軍事活動が可能だったという想定がひとつ。
また、享禄4年6月の大物崩れ以前に出来事を収められるため、関連史料に上方の情勢を記すものが無くても不自然にはならないと考えたからである。

・享禄2年
9月23日 史料② 小山俊次が稙長の大野攻めに対して音信を送る
10月1日 畠山九郎が賀茂・貴志・宮崎・梶原氏との連携を依頼
10月16日 史料⑧ 丹下盛賢・遊佐長清が賀茂・貴志・宮崎氏と接触(翌年でも可)
12月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る

・享禄3年
2月6日 史料⑦ 賀茂氏が稙長方に色立。湯河・貴志・宮崎氏と連携を行う
3月12日 丹下盛賢を介して小山俊次が式部大夫に推挙される(翌年でも可)
6月26日 史料④⑤ 賀茂荘の不入を畠山稙長が保証
7月28日 小山俊次の保呂城が敵対勢力に敗れ落城し、稙長がその際の感状を出す(翌年でも可)
8月3日 史料⑥ 稙長の有田進発が延引中。賀茂氏の家の事を改めて保証
8月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る

・享禄4年
5月10日 史料③ これ以前に稙長方が藤並荘を確保しており、賀茂氏に去年以来の貢献により藤並城周辺が与えられる 

これ以外にも、この享禄年間に当て嵌められる尾州家の紀伊での活動に関わる史料はあると思われる。
一つの傍証になり得るのは丹下盛賢の名乗りである。
盛賢は紀伊での没落以前は俗体だが*22、没落後のある時期に出家し「宗徹」と名乗っていることが確認され*23、天文11年3月には僧体のまま署名を「盛賢」に戻している*24
そのため、丹下盛賢の出家が確認される史料は天文年間のものであることが確定するが、俗体ならば享禄年間のものと考える余地はある。

一例を挙げると、新谷和之氏は某年7月29日に畠山稙長・湯河光春によって広城攻めが行われたことを指摘しているが*25、その際の稙長書状(花押は写されていない)の取次の表記は「丹下備後」であるため、広城攻めが享禄年間のものだった可能性は存在する。
今後史料の検討が進み、例えば丹下盛賢の出家時期が紀伊没落直後に遡ることなどが起これば、比定はより確実なものになるだろう。
もう一つ検討しているものとして、『紀伊続風土記』収録文書には2月1日の土生口(有田郡藤並荘土生か)での合戦を記す某年2月5日某康頼・長清書状がある。花押が写されていないため長清が遊佐長清であるかは確実ではないが、長清は天文年間は稙長の紀伊没落に従わず高屋方に残っているため*26、稙長方としての発給文書の場合はこれも享禄年間が想定される。

散発的になったが、石垣左京大夫家や賀茂氏の属する位置など、確定できない所は多いものの、稙長の大野進発と弟との抗争が天文以前に起こっていたことまでは証明できたと考える。
またその時期は享禄年間の蓋然性が高く、この時期の稙長の動向がほぼ確認されないことの穴埋めになり得るのではないだろうか。
今回の想定が、尾州家と紀伊の関わりを今後研究する上で少しでも糧になれば幸いである。

 

参考文献
小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」
新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」
坂本亮太『解題 紀州小山家文書』「熊野水軍小山家文書の総合的研究」
坂本亮太『戦国期熊野の基本動向―戦乱を中心に― 』「紀伊考古学研究24」

*1:新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」

*2:『金剛寺文書』天文元年12月12日稙長安堵状

*3:『小山家文書』(永正17年)8月20日小山八郎左衛門尉宛(畠山)稙長書状

*4:『長浜文書』(大永7年)7月20日たね長(稙長)書状

*5:坂本亮太『総論 熊野水軍小山家文書の総合的研究―熊野の海域史・序論― 』(熊野水軍小山家文書の総合的研究)

*6:注*1

*7:坂本亮太『紀州山本氏の地域展開』(山本氏関連城館群総合調査報告書)

*8:『小山家文書』年未詳3月12日小山式部大夫宛(丹下)盛賢書状

*9:『小山家文書』7月28日小山式部大夫宛(畠山)稙長感状

*10:『海南市史』第3巻

*11:末柄豊『畠山義総と三条西実隆・公条父子-紙背文書からさぐる-』(加能史料研究22)

*12:『祐維記抄』大永4年11月13日条

*13:大永元年は『祐維記抄』10月24日条などで河内で戦闘。大永2年は『親孝日記』9月15日条に稙長が尚順の御弔を送られている。大永4年は『御作事方日記』(大館記)2月3日条で稙長を総奉行として状況させる案が出ており、『大友家文書』年未詳3月11日勝光寺光瓚書状で「□□□郎(畠山次郎)殿河内在国候」とあり、『祐維記抄』11月13日条などで河内で戦闘が行われている。大永5年は『書札之御案文』より7月や10月に稙長が上洛を求められている。大永6年は『将軍家御社参之記録』(石清水八幡宮史料叢書)2月16日条で稙長の上洛が確認される。大永7年は『中島家文書』年未詳2月1日足利義晴御内書で稙長が参陣を約束、『長浜文書』年未詳7月20日畠山稙長書状で高屋城に在城、『厳助往年記』11月27日条などで上洛して在陣している。享禄元年は『厳助往年記』11月11日条などから10月より高屋城で籠城戦が行われている。また『観心寺文書』で大永6年8月・大永7年10月・大永7年11月・大永8年9月・享禄2年4月に丹下盛賢が段銭皆済状を出しているため、これも稙長が河内にいた証左になると思われる。

*14:『隅田家文書』年未詳8月18日(遊佐)順盛書状。

*15:『鷹山家文書』(永正16年)9月26日(遊佐)英盛書状

*16:弓倉弘年『奉公衆家山本氏に関する一考察』「中世後期畿内近国守護の研究」

*17:遊佐長清は稙長の紀伊没落後、稙長奉行人としての活動が見られなくなり、丹下盛賢と違い没落に同行していなかったと思われる。『天文日記』天文6年6月16日条に「遊佐左衛門大夫」が登場し、『芋生家文書』年未詳8月23日遊佐長教書状(長教花押は天文6年までの前期型花押ではなく後期型花押)にも取次として「長清」が見えるため、両者とも遊佐長清を指すと思われる。

*18:原文は確認できていないが、写であるため、「成賢」に関しては永正末年から遊佐長清との連署状が多数見られる丹下盛賢の誤記と推測する。

*19:注*9

*20:坂本亮太『戦国期熊野の基本動向―戦乱を中心に― 』(紀伊考古学研究24)

*21:注*13 『厳助往年記』『観心寺文書』

*22:『蓮成院記録』天文2年1月条など

*23:『証如上人書札案』天文6年11月8日証如書状。『和歌山県立博物館所蔵文書』(天文7年か)8月10日宗徹書状

*24:『目良文書』(天文11年)3月23日(丹下)盛賢書状

*25:注*1

*26:注*17

◆畠山中務少輔基信について

畠山六兄弟の五人目となるのは中務少輔基信……と言いたい所であるが、この畠山基信は果たして畠山稙長の弟と同一なのだろうか。

と言うのも、畠山稙長が河内復帰を果たした天文11(1542)年閏3月の本願寺の音信に「中務少輔(尾州弟)」と稙長弟の中務少輔が現れ*1、天文初期成立の『証如上人方々へ被遣宛名留』*2から中務少輔の諱が基信と判明するのだが、厳密に言えばこの二人の中務少輔が同一人物と確定している訳ではない。

宛名留は畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信の順で記され、この五人が天文初頭、本願寺視点での尾州家方の中心人物と見なされていたのは確かだろうが、晴宣には「稙長弟」と付記されているが、基信には無いため、天文11年の畠山中務少輔とは別人の可能性もある。
もっとも、これについては晴宣は細川姓であるため、本姓が畠山であることを注記したとも考えられる。
実際、宛名留に記される六角氏の表記で、六角定頼の弟である大原高保は同姓(佐々木)であるためか注記がなく、別姓の梅戸高実には弟との注記がある。
ともあれ、『両畠山系図』などの系図類に基信に該当する人物がいないこともあり、「稙長弟の中務少輔=基信」が必ずしも確定ではないことは念頭に置いておく意味もあると考える。


政近系畠山中務少輔家の動向

中務少輔家とは、室町幕府幕臣において四番衆番頭・申次衆・御供衆を継承していた家である。
この家の略歴については川口成人氏の一連の研究*3において詳しいので、以下それを参照に簡略に述べる。

この家は、管領畠山家の嫡流となった義深、その兄弟の一人である畠山清義から分かれている。
清義の子貞清は足利義満・義持の側近として重きをなし、貞清嫡子と思われる満国、満国の子持重の代に初めて中務少輔の名乗りを得たと思われる。
持重の子には政光・政近・政国があり、応仁の乱などの幕府の混乱で、三人とも入れ替わり立ち替わり四番衆番頭を経験している。
そのうち政近足利義材(以下、義稙)に接近し、明応の政変で義稙が没落した後も義稙側近として活動した。
政近の子には材堅がおり、彼らの系統は畠山尾州家とも近しい関係にあり、基信はこの系統を継いだと見られている。
中務少輔家の関連史料は他分家に比べると多めで、全て挙げていてはきりがないため、要点のみに絞って紹介したい。


永正末年になると足利義稙と畠山尚順は没落し、それと連動し中務少輔家でも変化があったと見られる。
ここで問題となるのが、畠山稙元・基信と、中務少輔家を継いだと思しき人物が二人存在することである。
川口氏の先行研究*4で指摘されているが、稙元は「上野殿」の養子として伝わる*5

川口氏は続けて永正18(1521)年3月の義稙の京都出奔に同行した畠山七郎*6を稙元に比定し、実父を義稙寵臣の畠山順光と想定し、彼は基信とは別系統の中務少輔家として活動し、足利義維の堺公方派に属した後に、足利義晴方に復帰したとしている。
一方で養父の材堅は中務少輔から上野介と名乗りを変え、稙元とは違い義晴陣営に留まったとする。
論旨は説得力に富んだものだが、人物比定については川口氏自身も試案と述べているように推測で補っている部分も多い。
基信の動向を追うには同時期に活動した稙元の動向も追う必要があるので、及ばずながら再検討を試みてみたい。

まず注目したいのは、大永7(1527)年2月の桂川合戦直後に「柳本・波多野孫三郎等入京、右馬助・畠山中務少輔等入京云々」*7と足利義維方として入京が噂される畠山中務少輔が何者かである。

川口氏はこれを稙元と比定しているが、その根拠には「尾州家出身の基信が敵対する義維派に属すとは思い難い」という逆算からの想定もあると思われる。実際、これまで自分も特にそこに疑問は挟んでいなかった。
しかし近年、馬部隆弘氏や嶋中佳輝氏が、堺公方府崩壊後の義維派が、足利義晴・細川晴元に対抗する細川高国残党・尾州家に合流していた時期があることを明らかにしている*8
要するに、再検討の結果義維方の中務少輔が稙長方に合流する余地が芽生えている。
また、この記述の「右馬助」は晴元方の典厩家の細川晴賢を指していると思われるが、晴賢のこの時点の通称は弥九郎であり右馬助(頭)は名乗っていない*9
恐らくこれは家の官途を記したのであり、畠山中務少輔に該当する人物も実際は中務少輔を名乗っていなかった可能性もあるかもしれない。


一方で、義晴の側近集団である内談衆の構成員は、かつて父義澄が義稙に追われた際に付き従った幕臣の系譜が多く含まれていることが指摘されている*10
彼らの中で義維の下で働いた経歴を持つ者は少ない。
そのような傾向がある義晴政権の下で、堺公方府に属して明確に義晴に敵対した経歴まで持つ人物が遇されるだろうか。*11
ついでに言えば、稙元が畠山順光の子であるならば義維方に非常に近しい立場となるが、義維方との接点がほぼ見られないのも気になる。

また、稙元が確実に名乗った通称は上野介である。
そのため確実な史料上の初見も天文8(1539)年頃になる*12
ただし、義稙の偏諱を受けていることから、稙元は義稙期から活動をしていたことになる。

この稙元のミッシングリンクを埋めるために、まずは畠山七郎の登場過程を検討していきたい。


畠山政近についての再整理

永正5(1508)年に足利義稙の将軍復帰が為ると、それに尽力した中務少輔家も、御供衆として在京するようになる。
成立時期が永正7-8年頃と思われる「高野山西院来迎堂勧進帳」*13鶴寿丸(畠山稙長)・山門阿闍梨位雲海修理大夫(畠山義元)・中務少輔(畠山材堅)・式部少輔(畠山順光)が署名している。
雲海の素性は不明だが、その他の人物は能登守護家・中務少輔家・式部少輔家を代表しており、彼らは畠山一門の中でも尾州家に近い立ち位置だったと思われる。

もっとも、政近・材堅は永正7-8年頃を期に活動が乏しくなる。*14
ただし、『幻雲文集』(続群書類従)の寿像賛の推定作成時期から永正9〜11年の段階では政近の存命が想定できるほか、『室町幕府申次覚書写』では永正13年4月23日に畠山上野入道が太刀を進上しているため、中務少輔家が断絶した訳ではない。
その後、前述の畠山七郎の父として畠山上野介の名前が見え、『厳助日記』大永3(1523)年1月12日条に「勢州(伊勢貞忠)・左馬頭(細川尹賢)・大館伊予(尚氏)・畠山上野・伯(白川雅業王)・藤兵衛督(高倉永家)・左衛門督局等」に贈答がされているのが見える*15

この畠山上野介について川口氏は材堅が上野介を名乗った可能性を想定しているが、この時期確実な史料で上野介を名乗っているのは政近なので、素直に永正18年・大永3年双方の上野介も政近と見てもいいのではとも思う。
少なくとも永正13年の上野入道は実際に入道が確認される政近とするほうが無難で、また大永3年の贈答者のうち「大館伊予」こと大館尚氏は既に入道しているが記述では省略されているため、「畠山上野」も政近とみなしても問題はない。

加えて、川口氏が紹介した上記の『走衆故実』の逸話は、稙元養父上野殿と走衆の萩殿(三郎元久か)とのやり取りを藤民部殿(政盛)・後藤佐渡殿(親綱)などから聞いたと(飯川)順職が語ったという形式で、登場人物に該当すると思われる萩元久・藤政盛・後藤親綱は明応以前に走衆として見える*16
つまり、彼らの同僚と思われる「上野殿」も畠山政近と見た方が自然なのではないか。
もっとも、政近の生年は嘉吉2(1442)年のため*17、大永3年の畠山上野を政近とすると81歳という相当な高齢で存命していたことになってしまうが、大館尚氏・大和晴完など長命の幕臣も存在するので、可能性がないわけではないと思う。
確実な証明ではないかもしれないが、以上の理由から永正・大永年間の畠山上野介は全て政近に比定し、彼が七郎の父かつ稙元の養父という前提で論を進めたい。

また、政近・材堅ともに現時点では仮名が確認されていない*18
そのため後継として登場する七郎が政近系の通称なのかは定かではない。
松山充宏氏によると、七郎という仮名の畠山氏は複数の家に渡って確認されるようで、外様衆畠山日向守家・二本松家・石垣左京大夫家で想定されている*19
政近の誕生後だと長禄4(1460)年と文明12(1480)年にそれぞれ畠山七郎が登場する。あるいは政近が中務少輔を名乗っている事例と被らないことが前提だが、政近の前身であるかもしれない。
いずれにせよ政近は本来は中務少輔家の嫡流ではないので、七郎が政近の通称だった場合、当初は上記の家の仮名を意識していたとも考えられそうだ。

足利義稙政権下の御供衆の畠山一門

一方で、永正6(1506)年に能登守護家の畠山義元の在京が見える。
この畠山義元は足利義稙政権を大内義興・細川高国・畠山尚順と共に支えた在京守護だが、前三者と違って当初から在京していた訳では無い。
また義元はこれより前に弟慶致との争いに破れ没落していた立場であり*20、上記の三者と違い義稙の帰京に直接関係していた訳ではなく、参与の経緯も違ったと思われる。
畠山義元の在京の初見は永正5年9月*21だが、永正6年10月には能登での活動が見られ*22、この時点では恒常的な在京にはならかなったようで、義稙幕府への参与も見受けられない。
一方で再度の上洛となる永正6年12月以降は在京大名としての活動が顕著となる。
義元の幕政参与の契機となったのはこの年畠山尚順の子鶴寿丸(畠山稙長)の誕生が指摘されている。
これに前後して尚順の在京は限られるようになり、河内・和泉・紀伊などの領国統治に専念するが、これは能登守護家に鶴寿丸の後見や畠山氏の在京奉仕の役割を委ねたからではないだろうか。

そして義元在京以降、能登守護家に関わる人物の在京が多数見えるようになる。
このうち御供衆に該当するのが保寧院徳宗の子で義元の後継となった次郎義総*23、義元の次男である宮内大輔*24、義総の兄の九郎*25である。
九郎の在京は僅かだが、義総・宮内大輔は御供衆としての行動が複数確認される。。
義元は永正10年9月頃まで在京していたようだが、*26、10月には能登に内乱が起こったため帰国している*27、更に義総も永正11年12月までに下向し*28、宮内大輔の在京も同年8月が終見となる*29

更に能登守護家と共に在京御供衆としての活動が多く見られるのが式部少輔家の畠山順光である。
この人物は本来畠山氏ではなく同朋衆木阿弥の子であったが、畠山姓を与えられ上洛を期に御部屋衆から御供衆に昇格した経歴を持つ*30
順光は「次畠山修理大夫、次同一家中式部少輔」*31、「両人(畠山修理大夫・同式部少輔)」*32など、畠山義元の一門として内外から認識されるようになり、特に不満も出ていないため他の畠山一門からも受け入れられていたようだ。

こうして能登守護家・式部少輔家の在京活動が多数見られる中で、中務少輔家の同時期の在京の動向は乏しいと言わざるを得ない*33
その原因は何故だろうか。

 

去る中務少輔家、そして七郎

在京活動が見えなくなる中務少輔家だが、その後も政近が存命しており、永正13(1515)年に政近が進上をおこなっているため少なくとも断絶していた訳ではない。
永正7年段階では能登守護家・式部少輔家と共に御供衆に並んでいるため、両家との軋轢を見いだせる訳でもない。
義稙の勘気に触れるなどの記録も特にないため、単純に没落したとも断言できる訳ではない。

一点気になる点があるとすれば、永正7年12月に中務少輔家の越中国所領の代官職を政近が上表していることだろうか*34
政近は中務少輔家の所領回復に熱心な姿が見られ*35、その政近が所領を手放すということは何かしらのトラブルがあり、時期的に中務少輔家の動向が乏しくなることと関わっているかもしれない。

一方で、中務少輔家の所領は摂津・河内・和泉・紀伊などに偏在したとされる。
この所領が義稙期に維持されていたのかは定かではないが、少なくとも摂津国橘御園に関しては天文9年に稙元が押領を訴えるなど自家領の自覚が強く、中務少輔家の主な経済基盤ではないかと推測されている*36

これらの所領は尚順の尾州家の支配下と重なるため、遠国の越中を手放す代わりに近国の所領維持のために下向したという積極的な理由も考えられないだろうか。
特に永正8年の船岡山合戦は、京以外にも摂津・河内・和泉で合戦が行われ、尾州家も大きな被害を受けている*37
これも在国志向を強くしたと言えるかもしれない。
稙長を支える在京畠山一門としての役割も、能登守護家が多数上洛しているため、良くも悪くも中務少輔家が離脱しても問題なかったと考えられる。

とはいえ、中務少輔家の具体的な在所が判明しているわけでもなく、御供衆としての活動が見えなくなったからといって在京していなかったとは限らないため、下向していた可能性は完全に推測になる。
単純に材堅がこの頃病没し、政近も高齢であるため将軍の供をする役割を果たせなくなっていただけの可能性もあるかもしれない。
永正13年の政近の進上も在京・在国のどの立場でもできるため、判別材料にはできない。

続いて能登守護家帰国後の在京畠山一門について検討を加える。
『益田家文書』には永正12年12月2日の足利義稙の三条高倉新第移住の記録があり、参加者が詳細に記される。
このうち畠山名字の人物は細川高国と共に太刀を進上し、参内の辻固めを務めた畠山次郎(稙長)、唐門御門役を務めた畠山勝松、御供衆の一人として畠山順光が登場する。
この勝松だが、少なくとも中務少輔家の人物ではない、理由は以下の通り。

伊勢貞順が永正15年畠山順光御成の様子を記した『公方様御成之次第』では、「次郎・勝益・七郎・宮菊」が太刀・馬の進上を行ったことを記している。
次郎は畠山稙長、七郎は件の畠山七郎で、畠山亭への御成という性質上、残り二人も亭主側として行動する畠山氏だろう。
宮菊は川口氏が推定した畠山順光子の維光の幼少期だろうか*38
残る勝益は一見諱のように見えるが、並びから考えて他の人物同様に通称と考えるのが妥当。またこの史料は伊勢備中守・因幡守を「大館備中守・大館因幡守」と誤記しており、勝益も誤記の余地があるのならば「勝松」が該当するのではないだろうか。
三条高倉新第移住では勝松と共に東御門役を和泉下守護細川高基が勤めており、勝松も御供衆の中では上位、守護格の人物と思われる。
そしてここまでの能登守護家の御供衆としての活動を鑑みれば、勝松は能登守護家の人物である可能性と推測できるのではないだろうか*39

畠山義元の孫は「修理大夫父子等也。修理大夫孫者御供衆一列也」*40と在京が確認されるため、この義元孫が都に残ったのが勝松に該当する可能性もあろう。
これが義元次男とされる宮内大輔の子なのか、後継者である義総の子なのかは不明。
義総の子には後の能登守護畠山義続の他に、『興臨院月中須知簿』で「天文二癸巳年六月、畠山徳胤息次席義繁」*41と付記される天文2(1533)年に没した大用寺殿心月徳安大禅定門=畠山義繁がいるため、この時点でこの義繁が後継として誕生しているならこちらが候補に上がる。

勝松が義総の子であった場合なら、義総の下向は一時的なものの予定だったのかもしれないが、下向して間もない永正12年に義元が病に倒れ死去してしまう*42
幕府側も義総の在京を求めていたようで、『親孝日記』永正13年6月18日条に「能登守護殿」が西御門役を来月より三ヶ月分勤めるように下知があったとするが、以降の関連史料が無いようなので実際に義総が在京して御門役を勤められたかは不明。
急な形で能登守護家を継ぐことになった義総は、上洛しての在京奉仕も難しくなったのではないか。

ともあれ、義稙政権下で畠山一門が結集する意識は生きていたものの、義総の帰国によって京に残されたのは稙長・勝松・宮菊など幼年の者が増え、保護者となり得るのは畠山順光という状態だったのではないか。
順光は永正14年頃から大和征伐の大将に抜擢され官符衆徒に任じられる話が持ち上がる、将軍御成を受けるなどの厚遇が目立ち始める*43
このような畠山順光の突出は、義稙政権の後期に在京守護が減少したことにより相対的に将軍直轄軍の重要性が増大したことによる指摘は既にされているが*44、抜擢されたのが順光である理由は単なる義稙の寵愛だけではなく、永正13年の西御門役を巡る件で義総の恒常的な在京の困難さが明確になったことを受けて、畠山一門代表としても地位向上を得たとも考えられないだろうか。
そのような中で、中務少輔家から畠山七郎が再び在京御供衆として姿を表す。
七郎は『守光公記』永正14年8月12日条の足利義稙の参内しての宴に、「御供衆細川右馬頭(尹賢)・細川弥九郎(高基)・畠山七郎・一色弥五郎・伊勢守(伊勢貞陸)・同兵庫(伊勢貞辰)・喜阿弥」を初見として現れる(守光公記)。

以降は永正15年1月に北野社が足利義稙に対面した際に順光と共に祝儀を行う、前述の順光亭御成に御供衆として参加、7月の足利義稙の醍醐山三宝院参詣に御供衆として随行し、永正18年に義稙に従って出奔している*45
中務少輔家が失脚していたのか意図して在国していたのかに関わらず、これまで在京が乏しくなっていった中で七郎が御供衆として活動するようになったのも、能登守護家の離脱による畠山一門の補充の必要に駆られた面があるとも考えられないだろうか。
こと、『公方様御成之次第』の進上を行った畠山一門の序列は、勝松を能登守護家と考えれば、「高野山西院来迎堂勧進帳」で素性不明の雲海を抜いた順と同じになるので、畠山一門の結集を再構築する意図もあったのではないだろうか。

 

大永・享禄年間の畠山氏の在京具合と稙元の出自

既に冗長な感じが出てきたが、ようやく大永以降の中務少輔家を検討する。
七郎の登場によって中務少輔家の在京活動は再び見え始めたが、出奔によって京から消える。
前述のように政近は義稙出奔後に擁立された足利義晴政権下でも姿が見えるが、義稙の出奔に同行しなかったのは義稙と隙が出来ていたか、あるいは単純に老齢故か、在京していなかったためそもそも七郎と居所が違ったのかもしれない。

一方で、大永2(1522)年6月の義晴の祇園会見物では、参加者が詳細に記されているのにも関わらず畠山氏は見当たらない*46
単に選ばれなかったのか、この段階では義稙も尚順も健在で、尾州家も義稙出奔から始まった総州家との抗争が予断を許さない時期であり、中務少輔家も在京していなかったのだろうか。
上記の大永3年1月の厳助の政近への贈答は他の御供衆と共に送られているため、これは政近の在京の確実な証左だと考えられる。

以降、御供衆として大永3年から6年にかけて御供衆の畠山次郎が登場してくる*47
ではこの次郎は何者か、川口氏は論文内で『為和詠草』(冷泉家時雨亭叢書)で大永6年5月25日条の能登での歌会に義総の次男が見えることから嫡男の義繁が在京していた可能性や、中務少輔家の澄重の子が義晴に従ったことを候補として挙げている。

前述の勝松が義繁の前身という仮定が成り立つのなら、義繁が長じて再び上洛したということも考えられるだろう。
ただ、義繁については上記の『興臨院月中須知簿』での記述が、先行研究*48と『加能史料 戦国12』では翻刻が「次郎義繁」か「次席義繁」かで異なってるようだ。
仮に「次席義繁」が正しいのならば義繁は次男ではあるが嫡男が早世するなどして後継者に繰り上がり、「義」の偏諱を与えられたことになり、仮名も次郎と考えられる。
そうなると大永6年5月に能登にいた義総の次男は義繁となり、大永6年8月の畠山次郎は能登守護家の人物ではあり得なくなってしまう。

「次郎義繁」の翻刻が正しく義繁が次男とは限らないと考える場合でも、大永6年8月の畠山次郎が能登守護家の人物として良いのか気になる点がある。
義晴は大永5年9月に石清水八幡宮参詣のために、在国御供衆である義総の兄九郎の上洛を要求している*49
また、大永4年の足利義晴の三条第移徒について、細川高国は当初総奉行に畠山義総を推していた(実際の総奉行は畠山稙長に要請される)*50
しかし、大永6年2月の参詣は在国が基本となっていた稙長も参加するほど大掛かりなものになったが、九郎の姿は見えない。
これらの事例からは幕府が能登守護家の再びの在京を望む姿勢が見え、大永6年に在京が確認される次郎が能登守護家の人物ならば尚更この年の参詣に加わって然るべきではないだろうか。

一方で畠山澄重の子という可能性はどうだろうか。
澄重は政近の兄政光の子であり、親子ともに通称は次郎で、義澄派としての活動が永正8(1510)年3月まで確認できる*51
また、川口氏の論文内では稙元以降に中務少輔家を継いだ人物は次郎を仮名としたことが指摘されている*52

稙元の後継者が次郎の仮名を継いでいったのならば、稙元自身の仮名も次郎だった可能性はないだろうか。
すなわち、澄重の子である可能性も高まり、大永年間の畠山次郎を澄重の子とするならばそれは稙元に該当すると提唱したい。

稙元が養子であるにせよ、中務少輔家を継ぐにはその血統はそれなりに政近と近しいものが必要だと考えられる。
その点、稙元が政近の兄の系統だったならば支障はない。
本来は対立する陣営の相手ではあるが、本来の後継者だった七郎が出奔してしまったためこの養子入りが成り立ったのだろう。

ただ、一点ネックとなるのが、澄重系はいつ義稙政権に下ったのかという問題である。
澄重は船岡山合戦直前でも義澄に近侍している間柄であり、にも関わらず彼の子が義稙の偏諱を受けているのならばその経緯についての証明が必要になると思われる。
現状では徴証が見当たらなかったので、この点は今後の課題にしたい。

稙元を義晴系の中務少輔家だとすれば、天文8(1539)年に上野介を名乗るまでにどのような過程を辿ったのか。
川口氏は天文5年に義晴が南禅寺から伊勢貞孝亭に移った御供の中に「畠山中務大輔」を見つけ、誤記の可能性を考慮しつつ試案として稙元に比定している。
一方で、同時期の御供衆には天文2年・6年に「畠山民部大輔」が見え*53、誤記でも無い限り中務大輔と民部大輔は明らかに別人である。

中務大輔の登場する箇所を見ると、「御騎大館九郎・畠山中務大輔・万阿・若公(足利義輝)板輿、御騎馬大館左衛門佐(晴光)・朽木民部少輔(稙綱)・伊勢兵(庫)助・幸阿弥、御台(慶寿院)、御騎馬結城景(勘解由)左衛門尉(国縁)・安東平二郎(光泰)・菊阿弥」の順で登場している。
このうち畠山中務大輔と共に先導する大館九郎は御部屋衆、後方の結城国縁は詰衆で、安東光泰は走衆である*54
ここから、中務大輔も御供衆の立場ではなく、(仮に中務少輔の誤記でも)稙元の前身には当たらないという可能性を挙げておく。
中務大輔の地位がどうあれ、確実に御供衆と記されている民部大輔の方が稙元の前身に当て嵌めやすいのではないだろうか。
民部大輔はそれまでの畠山一門では見受けられない官途だが、あるいは敵方の義維派とはいえ既に中務少輔を名乗る人物がいることで別の官途を選んだのかもしれない*55

先行研究に反する形になってしまったが、大永年間の中務少輔家は「次郎→民部大輔→上野介」の稙元が義晴方、「七郎→中務少輔」が義維方であり、同時期に中務少輔を名乗った人物が二人いた訳ではなかったという説を唱えたい。
その後の稙元は義晴・義輝に引き続き従い、その後継にも特に立ち位置に変化はなく、上野介を家の通称として御供衆として継承されていった。

結局基信ってどこから来たの?

一方の義稙に従った七郎のその後はどうだろうか。
大永7(1527)年に義維派として見える畠山中務少輔は、七郎の後身かその後継者として見て良い。

しばらく間をおいて、天文3(1534)年1月に畠山中務少輔が本願寺に入ったことが確認される*56
この中務少輔は冒頭で述べた『証如上人方々へ被遺宛名留』の基信と見てよいだろう。
もとより基信は他の稙長弟と違って、天文以前の畿内での活動が見えない。*57
これは偶然ではなく、義維派に属していたが故ではないだろうか。

また、基信が登場する天文3(1534)年は、6月に三好連盛・長逸が足利義晴と細川晴元の連携を嫌い本願寺方に寝返るなど、義維派と細川晴国・畠山稙長・本願寺といった反晴元派との連携が始まったことを指摘されている*58
従来基信の本願寺入りは、尾州家方として高屋城から入ったと想像されていると思われるが、中務少輔を名乗る人物が義維派に属していた可能性を考えると、本願寺・尾州家との連携を目論んだ義維派として外部から入寺した可能性も考えられるか。
もっとも、基信は一月も経たないうちに陣替し、本願寺の記録には見えなくなり、基信の動きがどの程度の影響を与えられたのかには慎重になる必要がある。

間もなく稙長は紀伊に没落し、これも冒頭で述べた通り天文11年の稙長の河内復帰に稙長弟の中務少輔が現れる。
この期間内の天文5年12月に義晴の供として現れる中務大輔が、稙長方の中務少輔の可能性はあるかは不明。
義維方から稙長の下に移り、没落には従わず義晴方に転向し、再び稙長の下に移り紀伊から上洛する際に随行したと考えると些か節操のない動きに思えるが、一旦保留しておく。
その後、天文14年に畠山中務少輔の使僧が進上を行っており*59、これが畿内での終見となる。
最終的に義維方の中務少輔家も義晴に出仕するようになるが、ここで両方の家が折り合いを付けて併存したと思われる。
もっとも稙元は上野介を名乗り、天文9年には中務少輔家代々の摂津の所領の押領を訴えているため*60、政近の後継者は稙元で確定したようである。
そのため稙長方の中務少輔家に何が継承されたのかは不明、畠山一門と御供衆という立場だろうか。

時代が下り、永禄3(1560)年には畠山高政湯河直光に中務少輔家の家督を与えており*61、尾州家の見解では尾州家一門としての中務少輔家は空白となっていたと見なされていたようだ。
意外にも、湯河氏側でも畠山一門の家督を得た認識は受け継がれていたようで、湯河直春子の丹波守の代に畠山定政に中務少輔家を返上したと伝わる*62

最後に、稙元と相対する陣営にいたと想定する七郎・基信・稙長弟を同一人物として見なせるかを考える。
『北野社家日記』の記述を素直に解釈して上野介の子、すなわち材堅の弟と見てもよいだろう。
政近の年齢を考えると高齢の子になりそうだが、細川政春が高齢で子作り(晴国)をしたようにあり得ない話ではない。
稙長弟と考えた場合、義稙の出奔に従った有力者は畠山尚順・順光に限られるため、尚順子が順光と親しくしていたと考えると七郎が従ったことを想像しやすい。
また、稙長の弟で中務少輔だけが義維陣営にいたことの理由付けも容易だろう。
ただ、稙長は永正14(1516)年時点で9歳なので、その弟となると更に年少となってしまい、御供衆として活動できるのかという疑問がある。
もっとも稙長自身が年少で元服して活動しているので、その辺りの感覚が麻痺していた可能性もある。

しかし、「七郎=基信=稙長弟」という想定の一番のネックになるのは「基信」という諱だろう。
中務少輔家は将軍偏諱を受ける御供衆であり、七郎が元服して義稙に出仕しているのならば、「稙」という偏諱を得て然るべきだろう。
一方で足利義維の偏諱は細川六郎(晴元)を始め授与されていない義維方が多く、義維方として登場しても義維の偏諱を受けていないことは十分あり得ると考える。

他に幼年で元服したために将軍偏諱を受けていない近臣の例があるならば、稙長の生年から考えてその弟が一般的な元服時期の15歳に達するのは大永3(1523)年が上限なので、諱を得る前に義稙が出奔・死去したことで棚上げになったと考えられるかもしれないが、実際にその例があるのかは確認できていない。

あるいは何らかの理由で出仕した時点で別人の偏諱を受けていたかである。
例えば畠山順光は義稙の寵臣ではあるが、元服した際に畠山尚順の偏諱を得ていたためか、その後御供衆に連ねる立場に登ったにも関わらず重ねて将軍偏諱は貰っていなく、基信という諱も同様であると考える。
とはいえ「基」の偏諱で説得力のあるものも思い浮かばない、字だけなら和泉下守護細川高基を想定させ、義稙政権下では畠山尚順・細川高基が和泉の両守護とみなされており*63、接点が無いわけではないが、守護と言っても和泉守護家は御供衆相応の家格である上、積極的に高基の偏諱を受ける程の関係かは疑問。
いずれの理由も現状では苦しいため、諱の問題に関しては保留して後考を待ちたい。

まとめ

義稙上洛後、有力側近の中務少輔家は上野介政近と中務少輔材堅の父子がいた。
しかし永正7-8(1509-1510)年頃から中務少輔家の在京活動が乏しくなり、再活動は永正14年の七郎の登場を待たなければならない。
この七郎は上野介政近の実子か、もしくは尚順子の可能性がある。
七郎は永正末の足利義稙の出奔に従い、都に残った老齢の政近は義晴政権下でも立場を維持する。
大永以降に義晴方に属した中務少輔家に該当するのは稙元で、澄重の子が政近の養子になったと推定する。
一方で義稙出奔に従った側の中務少輔が義維派の上洛戦に登場し、中務少輔家は二つに分裂するが、稙元は民部大輔を名乗ったため官位の重複は起きていない。
天文初期の畿内錯乱において中務少輔基信は稙長の下に合流し、稙長の河内復帰にも協力したため稙元と再び同陣営となり、政近の後継は別個の家として存続していくことになった。

以上がこの記事における結論である。
先行研究とは大きく変わった考察となってしまい、問題点もあると思われるが、叩き台にしていただければ幸いである。
ただ、稙元の養父が政近である可能性、稙元が政光系の人物で一貫して京方だった可能性、義維派の畠山中務少輔が基信だった可能性は一考する余地があるのではないかと考える。

また、今回は義維方の中務少輔の動向は詳細に検討しておらず、またその後身とみなせるかもしれない人物が存在するが、それは次の機会に置きたい。


参考文献
川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究 : 室町幕府近習・奉公衆家の一展開』(京都学・歴彩館紀要3)
川口成人『畠山政近の動向と畠山中務少輔家の展開』(年報中世史研究45)

*1:『天文日記』天文11年閏3月3日・4日条

*2:記入時期の推定はこの記事で行った

*3:川口成人A『貞清流畠山氏の基礎的研究 : 室町幕府近習・奉公衆家の一展開』(京都学・歴彩館紀要3)同B『畠山政近の動向と畠山中務少輔家の展開』(年報中世史研究45)

*4:前掲注*1B

*5:『走衆故実』(群書類従)

*6:「北野社家日記」永正18年3月8日条に「上野介子息也」とある。

*7:『実隆公記』大永7年2月16日条

*8:馬部隆弘『足利義晴派対足利義維派のその後』(戦国期細川権力の研究)。嶋中佳輝『足利義維派幕臣と三好権力―松田守興(光致)の動向を中心に』(戦国史研究89)

*9:馬部隆弘『「堺公方」期の京都支配と松井宗信』(戦国期細川権力の研究)

*10:設楽薫『足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察―その出身・経歴についての検討を中心に―』(足利義晴)

*11:馬部隆弘『下向した室町幕臣からみた都鄙関係―伊勢貞運と斎藤基速を中心に― 』(ヒストリア310)では伊勢貞辰・一色稙充・種村刑部少輔といった、義稙に親しかった幕臣の義晴期の微妙な立場が述べられている。もっとも、積極的に義晴に逐われたわけではなく周囲の目を気にして義晴から離れたという推測も同時にされている。

*12:『佐々木亭御成記』(続群書類従)天文8年10月18日六角定頼亭御成の御供衆の畠山上野介など

*13:『高野山文書』

*14:前掲注*1Bより。『守光公記』永正7年4月29日条に政近・材堅。「高野山西院来迎堂観進帳」(高野山文書)に材堅が署名。署名者のうち遊佐順房が永正8年7月に戦死しているので成立はそれ以前となる

*15:前掲注*1B

*16:『蔭涼軒日録』 延徳2年2月24日条・『大乗院寺社雑事記』明応2年5月2日条など

*17:前掲注*1B

*18:『本朝武家諸姓分脈系図83』では政光の仮名を次郎、政国の仮名を五郎とするが、政近には仮名の表記はない。政国の仮名は確かめられないが、政光の仮名が次郎であることは一次史料から確認が取れる。前掲注1A参照

*19:松山充宏『室町幕府外様衆畠山氏について : 日向守家の系譜と所領』(富山史壇190)

*20:『畠山義元』(戦国武将列伝3北陸編)

*21:『後法成寺関白記』永正5年9月10日条

*22:『総持寺文書』10月19日修理大夫(畠山義元)禁制

*23:『後法興院記』永正8年8月16日条・永正9(1511)年4月16日条、『守光公記』永正9年閏4月6日条、『御随身三上記』永正9年6月8日条・『御法成寺関白記』永正10年5月3日条・『実隆公記』永正11年2月17日条に登場する。

*24:『実隆公記』永正8年5月22日条で「畠山宮内大輔能登守護次男」とある。一方で永正7年から11年にかけて御供衆に「畠山宮内少輔」も登場する。当該期の宮内少輔の登場箇所は『守光公記』永正7年4月29日条・永正11年8月10日条、『石清水武家社参記』永正8年1月19日条、『後法興院記』永正9年4月16日条、『後法成寺関白記』永正10年11月9日条。宮内大輔の登場箇所は前述の『実隆公記』に加え、『御随身三上記』永正9年3月20日条・4月15日条・6月8日条、『守光公記』永正9年閏4月6日条・永正11年7月1日条。同一史料や同時期でも宮内大輔と宮内少輔が登場し、同一人物か否か判別がつきづらい。宮内少輔を名乗る畠山氏は政近の弟政国がおり、この人物の後継がいた可能性も否定できないが、両者ともに登場時期が能登守護家の在京期間と一致するのでひとまず同一人物とする

*25:『永正七年在京衆交名』(益田家文書)。御供衆としての登場はこの箇所のみだが、(大永5年)9月12日『書札之御案文』赤沢兵庫助(政真)宛案文。で足利義晴の石清水八幡宮参詣につき、在国御供衆の畠山九郎を上洛させるように畠山義総に伝える指示が出ているため、『鹿苑日録』天文13年6月19日条で畠山義総の「舎兄九郎殿」とされる人物とみて良い。九郎のみ在京が短期に終わった理由については、九郎の父にあたる保寧院徳宗が関わると考えている。徳宗は『後法成寺関白記』永正7年3月24日に在京が確認されるが、9月12日条で能登に帰国したことが記される。おそらく九郎は父と共に帰国したのではないか。また、畠山義総の在京が確認されるのは翌永正8年なので、当初は能登で留守約を担っていたが、徳宗・九郎と入れ替わりで上洛したことも想定できる。また徳宗についてだが、既に米原正義『戦国武士と文芸の研究』が『真珠庵文書』永正7年3月21日一休宗純卅三回忌之出銭帳で「畠山九郎殿宗徳」を見出し、義総兄の九郎に比定している。ただ、能登守護家の法名は概ね「徳◯」なので、父の宗徳をひっくり返したかのような記名には若干不自然に感じる、あるいはこの記名は誤記であり、父の宗徳その人にあたる可能性はないだろうか。なお、徳宗は東四柳史明氏が『能登畠山氏家督について再検討』(国学院雑誌73-7)で畠山義元の弟慶致に比定し、以来これが通説になっているが、確実に慶致が徳宗であることを示す史料はないようだ。慶致と見なす先行研究も妥当ではあると感じるが、記して後考を待ちたい。

*26:『賀茂別雷神社文書』(永正10年)9月15日書状に「殊能州守護在京之事候間」とある

*27:『飯尾文書』(永正10年)10月23日畠山義元書状。

*28:『飯尾文書』(永正11年)12月8日遊佐秀盛書状

*29:『守光公記』永正11年8月10日条の足利義稙参内の御供衆として、「□□次郎 御剣・畠山宮内少輔・同名式部少輔(順光)・一色弥五郎・伊勢伊勢守・同左京亮・直阿弥」が見られ、これが宮内大輔の在京の終見と思われる。一方筆頭の次郎の名字は欠けているが、当該期の御供衆で名字が二文字で仮名が次郎なのは畠山次郎・(淡路)細川次郎くらいである。細川次郎については、『後法興院記』永正9年4月16日条細川高国亭御成の御供衆に、「淡路二郎」が現れる。永正15年3月の畠山順光亭の御成の御供衆には「畠山亭御成記」で「細川次郎」、「公方様御成之次第」で「淡路」という人物が記され、他の人員は二つの史料で全て一致するため、この人物は淡路守護家の出身になる。淡路守護家の細川尚春は『蔭凉軒日録』文明18年4月19日条などで御供衆「細川淡路次郎」と表記されており、この後に尚春が殺害されると淡路次郎に該当する人物の姿も見られなくなるため、尚春ないしその一門と見ていいだろう。仮にこれが細川次郎ではなく畠山次郎ならば、義総の在京の終見が下ることとなる。「畠山次郎 同名宮内少輔」という表記にならないことが気にかかるのなら、「能登次郎」「能州次郎」と記されていた可能性を提案したい。

*30:『畠山順光・維広』(戦国武将列伝7)

*31:『後法成寺関白記』永正8年9月1日条

*32:『守光公記』永正9年2月12日条

*33:とはいえ御供衆全員の動向が常に確認できる訳ではないため、活動が途絶えた時期は断言しづらい。確実に中務少輔家の不参加が感じられるのは永正9年以降だろうか

*34:前掲注1B

*35:前掲注*1B

*36:前掲注1A

*37:『実隆公記』永正8年8月12日条など

*38:前掲注1B。『後法成寺関白記』永正16年6月1日条に畠山順光の使者として畠山菊が登場する。

*39:畠山晴熈の記事では勝松が後の晴熈である説を挙げていたが、記述位置から想定できる序列を考えると播磨守家より能登守護家の方が可能性が高いと現時点では考える。あるいは細川高基と共に御門役を務めているから、後の細川晴宣か。

*40:『守光公記』永正9年4月1日条

*41:翻刻は『加能史料 戦国12』による

*42:前掲注*20)

*43:前掲注*29

*44:萩原大輔『足利義尹政権考』(ヒストリア229)

*45:前掲注1B

*46:『祇園会御見物御成記』(群書類従)

*47:大永3年8月5日『伊勢貞忠亭御成記』、『蜷川家文書』大永6年8月3日幕府供衆参勤廻案文、大永4年3月『大永四年細川亭御成記』

*48:田中政行『畠山義続に関する二、三の問題(上)』(七尾の地方史11)ほか

*49:前掲注*24

*50:浜口誠至『義晴前期の幕府政治―「御作事方日記」を中心に―』(在京大名細川京兆家の政治史的研究)

*51:前掲注*1B

*52:前掲注*1B。永禄以降に御供衆の畠山次郎がみえる。また『蜷川家文書』「幕府公用手日記等文書」(成立は天文18(1549)年以前)の御供衆にも畠山次郎が記され、稙元以降に少なくとも二世代の次郎がいると思われる。

*53:天文2年4月21日『佐々木小弼御成申献立』、『言継卿記』天文6年1月1日条・同月2日条・同月28日条

*54:前掲注*51。 『佐々木小弼御成申献立』

*55:民部大輔はそれまでの畠山分家では見慣れない官途だが、中務少輔・式部少輔・治部大輔・治部少輔・兵部少輔・刑部大輔・刑部少輔・宮内大輔・宮内少輔などは既に他の分家で使われている通称であり、それ故に使われていない民部省の官途を選んだのかもしれない。また従五位上相当の少輔に対して正五位上の大輔を名乗ることで政近の後継としての優越性を示したとも考えられる。

*56:『私心記』天文3年1月25日条・閏1月7日条・閏1月8日条。

*57:長経晴宣晴熈は以前の記事を参照、政国も別の機会に述べるが、天文元年以前に宮原兵部少輔家を継ぎ紀伊に在住していたことが想定できる。

*58:前掲注*11馬部

*59:『天文十四年日記』天文14年12月3日条

*60:前掲注1A

*61:『尊経閣文庫所蔵文書』(永禄3年)9月13日湯河直光書状

*62:『古今采輯』収録系図。「丹波代ニ玄心様へ返シ申候」とある

*63:岡田謙一『細川高国派の和泉守護について』ヒストリア182