後に尾州家当主(名代と記されることも)を継いだ畠山政国。
信長の野望での登場回数も多いことから、畠山稙長の弟の中では相対的に知名度が高いと思われる彼だが、謎も多い。
一時期は「政国」という諱の人物の実在も疑われることもあったが*1、実際は政国の諱で発給される尾州家の人物の書状が複数存在するため*2、現在では政国の実在性に異論は挙がらないと思われる。
『両畠山系図』では没年を天文19年8月12日とするが、『天文日記』から天文21年2月に政国の存命が確認されるという矛盾が指摘されている*3。
一方で『津川本畠山系図』では没年を天文21年8月12日としており、こちらのほうが妥当性が高いと思われる。
*4
- ・宮原兵部少輔家代々
- ・岩室城主畠山政国の登場
- ・稙長没後の家督争いと政国の自負
- ・名代就任の意義
- ・謎の「和束ノ御屋形様」殺害事件
- ・江口合戦における政国の立ち位置
- ・畠山高政の存在から見る政国の意志
- ・まとめ
・宮原兵部少輔家代々
政国は『両畠山系図』などで当初は紀伊有田郡宮原荘岩室城に在していたとされる。
宮原荘を知行する畠山一門についての研究は、近年川口成人氏が詳しくまとめている*5。
まず、兵部少輔を官途とする畠山氏が宮原荘を知行していたことが、「康正二年(1456)造内裏段銭并国引付」で畠山兵部少輔が紀伊国宮原に五貫文を賦課していることで確認できる(参照)。
もっとも『両畠山系図』には兵部少輔を名乗る畠山氏の系統が載っていないため、どの一族から分かれたのかは不明。
畠山兵部少輔の宮原荘知行もこの一例だけなので、慎重になる必要がある。
他に宮原荘を知行する畠山氏については、『和歌山県古文書目録2 有田川流域古文書調査報告書』でも徴証がある。
『目録』が載せる『宮原神社文書』の一覧には、嘉吉元(1441)年12月26日棟札、永正13年6月1日大旦那源順家棟札、天文元年12月6日棟札、天文15年4月29日大旦那万徳丸棟札がある。
また、『紀伊続風土記 第2輯』によると嘉吉元年棟札の大旦那は「源常久」だという(参照)。
(なお、天文元年棟札の人名は不明。宮原神社や博物館などに問い合わせてみたが残念ながら原本は確認できなかった。)
常久の素性は特定できないが、永正13年の順家は畠山尚順の偏諱を受けていることから畠山一門の可能性は高く、また天文15年の万徳丸は『両畠山系図』の政国子畠山政能の子に「萬徳」がおり、1534年生の政能の前身である可能性が高いことが指摘されている。
以上から、兵部少輔を名乗る家かは不明なものの、宮原荘を継承している畠山一門がいたことが考えられる*6。
次に、「畠山兵部少輔」を名乗る一門について、川口氏の研究に従って述べる*7。
①『花営三代記』永和元(1375)年3月27日条に畠山兵部少輔
②『花営三代記』応永28(1422)年3月16日条に畠山兵部少輔満祐
③『永享以来御番帳』四番衆交名に畠山兵部少輔
④『文安年中御番帳』四番衆交名に畠山兵部少輔
⑤『親元日記』文明10(1478)年2月22日「政所賦銘引付」に応仁の乱以前に清水西門下円通庵を質入れしていた畠山兵部少輔
⑥『久下文書』四番衆交名に畠山三河三郎「畠山兵部少輔」
①から、畠山基国の代から兵部少輔を名乗る畠山氏は存在することがわかる。
ただし、諱が判明するのは②の満祐のみで、宮原荘と関わりがあるかも確実ではない。
⑥の『久下文書』の成立時期は厳密には特定できないのだが、畠山三河三郎に「畠山兵部少輔」という付記がされている。
『両畠山系図』によると、畠山貞清の子には満国・持貞・持清がいる。
このうち満国は中務少輔家、持清は刑部大輔家の祖となっている。
持貞は三河守を名乗ったとされ、『満済准后日記』応永22(1415)年8月26日条は持貞と思われる畠山三河入道常満が見え、この三河三郎はその子孫である可能性を指摘されている*8。
持貞の系統は川口氏がブログで更に検討を加えており(参照)、持貞の子に刑部大輔がいたことを指摘し、⑥の三河三郎と『後法興院記』文亀3(1503)年1月5日条・文亀4年1月5日条にみえる畠山刑部大輔は、同系統の人物の可能性を指摘されている。
三河入道常満(持貞)の系統が兵部少輔を継いでいた想定となると、気にかかるのが嘉吉元年にみえる「源常久」である。
持貞父の畠山貞清の法名は常忠で、その孫持重・持重子政近の法名は宗祐・宗守である*9。
この法名の傾向を見ると、「常久」も法名であり、この頃から兵部少輔家は持常に近い血統の人物が継いでいたと考えられないだろうか。(「本姓+法名」という表記があるのか不明だが)
また『後法興院記』に見える畠山刑部大輔は、二例とも中務少輔家の畠山政光の子澄重*10と共に行動しており、足利義澄ないしそれに属する義就流畠山氏(総州家)に近い立場と思われる。
大永4年にも総州家と共に登場する「畠山刑部大夫」がみられ*11、永正13年の源順家も兵部少輔家の人間と想定するのなら、兵部少輔家は総州家方と尾州家方で二つの系統に分かれていたことになるのだろうか。
・岩室城主畠山政国の登場
確実に畠山政国とみなせる人物が登場するのは天文14年以降で、稙長の兄弟の中ではかなり遅い。
播磨守という官途も当初は兄弟の畠山晴熈が名乗っていたもので、政国にはそれ以前の通称があったはずだが、それも不明である。
以前に天文11年から登場する畠山稙長弟中務少輔が政国の前身ではないかという仮説を立てたが*12、これは参考までに。
ただ、政国が宮原荘を知行した時期はある程度特定可能である。
政国の子である畠山高政の生年は『観心寺文書』永禄2年9月19日安堵状の押紙に29歳と書かれることから、逆算して1531年生まれとなる。
高政の母は『両畠山系図』では「宮原隠岐守」とされ、これは代々隠岐守を通称とする有田郡の宮崎氏を指していると見てよい。
宮崎氏については「◆天文初期の畠山稙長と紀伊-「二階合戦」の虚実など」(参照)でも言及し、稙長期に紀伊で重要な役割を担ったことを指摘した。
宮崎氏の拠点がある宮崎荘は宮原荘と近く、婚姻関係を結んだということはその時点で政国が宮原兵部少輔家を継いでいたことが想定できるだろう。
つまり宮原兵部少輔家の継承の下限は高政が生まれた1531年となる。
この年、稙長は23歳となるので、政国は兄とさほど年齢は離れていない弟だと思われる。
永正13年段階では(畠山)源順家が宮原兵部少輔家当主として岩室城を領していた可能性がある。
史料上で岩室城が登場するのは稙長が「有田進発」と記す有田郡出兵であり、これを享禄3(1530)年と推定した*13。
宮崎氏が明確に尾州家に属したのもこの時期ではないかと推測しており、享禄年間の稙長の紀伊下向を期に、政国と宮崎氏が縁組した可能性も想定している。
なお、『両畠山系図』では石垣畠山政氏は宮原畠山長経に殺害されたと記している。
岩室城は有田出兵の前線基地になっていたようであり*14、この伝承は享禄3年に岩室城主だった長経が賀茂氏などの紀伊勢と共に有田郡の石垣家を滅ぼし、その功で石垣家を継いだことを示しているのかもしれない。
この場合、政国が宮原家を継いだのは享禄3年頃という想定になる。
・稙長没後の家督争いと政国の自負
上の項目で述べた通り、政国の動向が確認できるのは天文14年、畠山稙長の没後である。
稙長の頓死を受け、後継者を巡って争いが起きており、この辺は弓倉弘年氏の先行研究に詳しい*15。
この家督争いについては不明瞭な所が多いので、ここでは深く掘り下げず必要なものだけ取り上げる。
まず、死後の話ではあるが稙長は後継者として能登守護家畠山義総の子息を指名していた。
弓倉氏は『両畠山系図』から尚順の娘が義総の室になったと想定し、尾州家の血を引く能登守護息が後継に迎えられることは妥当と見ている*16。
弓倉氏は同時にこの能登守護息を畠山四郎晴俊と想定されている。
なお、四郎晴俊は通称から能登守護家一門の大隅守家に連なる人間とも目されている*17。
『天文十四年日記』8月19日吉田兼右書状では、稙長に続き義総も没したことで混乱が起こるも、足利義晴幕府の重鎮である六角定頼が能登守護息の後継を後押しし、それに対して河内では稙長の舎弟衆が抵抗していたことがわかる(参照)。
政国はこの「舎弟衆」に含まれると思われるが、この騒動がどういう落着を迎えたのかは不明。
『天文日記』は天文14年が年欠で、翌15年には河内での騒動を示す文言は見当たらないため、年内に落着を迎えたと考えるべきか。
また、弓倉氏は政国の子である高政・秋高の仮名が次郎四郎であることについて、「畠山四郎の家督継承を無視しえなかった」という可能性を指摘している*18。
それに従って考えると、例えば政国の仮名が四郎だったと想定する。
本来ならその子高政の仮名も四郎になるはずだが、高政が15歳という一般的な元服の歳となる年は、まさに畠山四郎の家督継承が確認できる天文14年である。
そのため四郎と被らない仮名として、次郎四郎と変形させた可能性はあるのではないか。
政国に当初から自身が稙長の後継になる意志があったかは不明だが、この時政国が家中で存在感を増したこと自体は想定できる。
稙長の弟(とされる人物)のうち、畠山長経と晴熈は稙長の代わりに擁立された経緯があり、畠山基信は元義維方だった可能性がある。
一貫して稙長を支える側だった弟は細川晴宣と政国に限られると思われる。
晴宣が細川氏を継いでいるため優先度が下がると考えると、稙長に対する貢献への自認から、実子がいない稙長の後継は自身が相応しいと考えてもおかしくはないのではないか。
・名代就任の意義
天文15年8月に細川高国の後継者の細川氏綱が挙兵する、いわゆる細川氏綱の乱である*19。
『細川両家記』『興福寺年代記』『多聞院日記』などは細川氏綱に同心した相手を遊佐氏としており、外部から見て挙兵における尾州家の主体は河内守護代遊佐長教と見られていたようだ。
長らく細川晴元方として活動していた長教が、この時に晴元との敵対を選んだ動機は不明。
直接的に関わりそうなのは前述の稙長跡目を巡る騒動が思いつくだろうが、これ以上はなんとも言えない。
先行研究においては、この時期の遊佐長教の権力が注目されている*20
遊佐長教は一般的イメージと反して、天文初期には若年で権力も貧弱だったが*21、河内半国体制、畠山稙長との再提携を経て権力の変質があったことは確かだと思われる。
一方で、政国に対する検討は『天文日記』天文15年12月28日条で示される名代就任を取り上げられるくらいで、看過されがちである。
ただ、実際にはそれ以前に政国の動向が見える史料がある。
『音信御日記』天文15年8月25日条では、河内衆と牢人衆が河崎表(大阪府西成郡川崎)に打ち出たため証如が音信を送っている。
その対象は畠山播磨守(政国)・平三郎左衛門(盛知)・丹下孫三郎・保田佐介(長宗)・酒匂久介・萱振玄蕃(賢継)・野尻(治部丞)・走井(盛秀)・上野玄蕃頭(細川国慶)・瓦林対馬守(春信)・薬師寺与十郎である。
また同年9月5日条では天王寺の遊佐河内守(長教)・鷹山(弘頼)・高野山三宝院(快敏)・吉益甚介(匡弼)・行松源内助・安見(宗房)に音信が送られている。
政国は守護家の平・丹下・保田・酒匂を率いて前線に出ており、長教とは別行動をしつつ守護代家の萱振・野尻・走井と氏綱方の国慶・瓦林・薬師寺と同行している。
これは紛れもなく政国と長教の連携を示しており、政国は氏綱の挙兵当時から河内で活動していたと見てよい。
この後も「河内衆」が摂津を中心として戦闘をしているが*22、この「河内衆」は政国が率いていたとも考えられる。
あるいは氏綱挙兵当初は長教のみが注目され「遊佐」表記をされていたが、尾州家全体で動いていることが認知され「河内衆」という表記が使われるようになったとも考えられないだろうか。
また、この時長教に本願寺送られた音信は三種五荷なのに対し、政国には三種三荷。扱いは長教以下で他の畠山被官と同等だった。
一方で『天文日記』翌15年1月27日の年始の贈答では政国・長教ともに三種五荷となっている。
これから見るに、政国は当初本願寺方から守護格とみなされなかったものの、後に守護格としての待遇を受けるようになったと考えられる。
その契機は証如自身が「名代之間遣之」と記しているように、名代に就任したからであろう。
畠山氏への年始の贈答が対象の立場によって変化する事例は、天文初期でも伺える。
『天文日記』で両畠山に対する年始の贈答を見ると、以下のようになる*23。
晴熈:天文6年・天文7年贈答なし
晴満:天文8年贈答なし・天文9年・天文10年・天文11年贈答あり
在氏:天文6年贈答なし・天文7年(木沢長政の意見によるものと付記)・天文8年・天文9年・天文10年(年始の贈答はなく、10月に始めての音信を送る)・天文11年贈答あり
晴熈は天文5年5月に高屋城に入っていることが確認される*24。
晴満は天文7年7月4日に高屋城に入り、10月16日に一字拝領をしたことが確認される*25。
在氏も『観心寺文書』天文6年11月13日の在氏安堵状から幕府に家督を認可されたと思われる。
また天文7年段階で飯盛山城に入っているものの、木沢長政の意見によって贈答を行ったとしているため、それが無ければ送っていなかった可能性がある。
その上で証如は両者への贈答に慎重であり、幕府から認可されていない可能性のある晴熈は高屋城に入城しているにも関わらず一度も贈答の対象にならなかった。
つまり、証如は畠山氏当主へ年始の贈答を行うかを、幕府から認可されているかで判断しており、認可を受けずに擁立された人物は対象としていなかったと考える。
すなわち、名代になったことで政国を年始の贈答の対象にしたということは、それを認めたのは幕府ということになる。
一方で、幕府がそれまでは政国を家督を認めなかったこと、認めても名代に留めたことも注目されるだろう。
能登守護息への家督継承は幕府が進めていたことを考えると、それに抵抗した政国は義晴や定頼の面子を潰したに等しい。
その幕府からの政国への印象の悪さが、名代止まりに繋がったのではないだろうか。
そもそも政国の名代は誰の名代という話であるが、幕府は未だに能登守護息を正統な継承者とみなしており、政国はその代理という形で渋々認めたのかもしれない(子の高政に継がせるまでの中継ぎだった可能性もあるが)。
政国が名代に就任したのは天文15年9月から12月までの間と思われる。
その間に見られる、幕府と尾州家との繋がりとして、遊佐長教の動きが見られる。
長教は戦況を大館晴光に報告しており*26。
また、12月20日の足利義輝元服式の二日目の祝事で、通例ならば畠山氏が役を勤めるところを、代わりに遊佐長教が勤め費用を出している*27。
この時期の長教の実力を示すものとして語られる事例である。
稙長期から幕府とのコネクションを持つ長教に対して、紀伊の分家であるため幕府との繋がりも薄く、家督争いの一件で遺恨もありそうな政国とでは、長教が外交を一手に引き受けていたのだろう。
とはいえ、これを長教の越度や主家への超克を目指す行為とは必ずしもみなせないと考える。
元服式の後の名代就任で、政国が守護格相応として地位を上昇させたことは本願寺からの贈答を見ても明白である。
仮に長教の目的が下剋上を目指しているのならば、政国の地位上昇は都合が悪いはずである。
にも関わらず、政国は乱の当初から被官と共に前線に出ており、長教が活動を掣肘していたとは思い難い。
また、政国の名代就任後に守護代被官の吉益氏が「御屋形様明後日御進発も可相延候」と政国を御屋形様と呼んでいる*28。
守護代家も名代の政国を当主相応に扱っているということは、そこに対立はなかったと考えている。
後の『天文日記』天文16年閏7月8日条の本願寺の贈答では、河内勢では遊佐長教・走井盛秀のみに贈答されている。
この時は政国に贈答されていないが、『大日本伝皇代記』10月21日条(参照)でその理由が伺える。
「政国御上洛、紀国衆御供」とあり、畠山政国はこれ以前に紀伊に下向していたようだ。
『天文日記』翌17年5月25日条では政国にも贈答がされているため、単に前年閏7月段階では河内に不在だったから贈答の対象になっていなかったと考えられる。
まとめると、本願寺から贈答の対象にされていないことは、その畠山氏が内部から奉じられていないとは限らないということである。
その理屈から、政国も天文14年の年始の贈答の対象にはなっていないが、この時点で尾州家内部からは奉じられていた可能性はあると考えている。
もちろん、幕府と直接繋がることで長教の存在感が増したことを否定するものではない。
畠山稙長は紀伊に没落している時期も本願寺の贈答対象になっていたことと比較すると、守護権力の退潮が見えるとも言える。
・謎の「和束ノ御屋形様」殺害事件
天文15年8月の挙兵後、尾州家と細川氏綱は各地で一進一退の戦いを繰り広げるが、翌16年7月の舎利寺合戦で晴元方が勝利すると和睦の機運が高まり、17年4月に停戦となる。
そんな中、政国も関わる一つの事件が起きる。
『享禄天文之記』「七月二十九日、筒井殿順昭、和束ノ御屋形様ノ城ヲ責二御立有、明八月朔、御自身御責、本城ヘ数千騎コミ入、御屋形様切腹アル、筒井衆モ手負打死モアリ、河州御屋形様御腹立以外也、筒井殿ヨリ一万座ノ御祓、若宮右馬殿被申候、若宮座ニテ各勤仕申也」
何コレ?
外部からも政国が屋形と認識されているのも注目されるが、問題は内容である。
筒井順昭が和束屋形を攻撃し、順昭自身が攻め寄せて屋形を切腹させ、それに政国が激怒しているとのこと。
あまりにも唐突かつ意味不明な内容で、で先行研究でも触れられることこそあれ、深く掘り下げられることはない印象がある*29。
まず、「和束ノ御屋形様」というのは何なのか。
和束は京都府相楽郡にあり、筒井氏の領地とは比較的近いが、ここに「御屋形様」と呼ばれる存在が置かれる城があるのかを寡聞にして知らない。
「和束」という表記に関しては、『両畠山系図』にも畠山稙長の弟として「某 和束屋形」が記され、「和泉屋形」の誤記として細川晴宣に比定されている*30。
こちらの「和束」も「和泉」の誤記ならば「御屋形様」と呼称されることは理解できるが、今度は和泉守護の拠点が筒井氏単独の侵攻で落とされるのかという疑問も生まれる。
晴元方の和泉上守護家の細川元常・晴貞父子のうち、元常はこの後も活動が確認される。
一方で晴貞はこの直前に本願寺から音信を送られている細川刑部大輔が終見とされ*31、タイミング的にこの時の死亡はあり得る。
ただし、氏綱方にも和泉守護家を継ぐ人間がいるので(後述)、どちらかは絞り込めない。
一抹の不安はあるが、ひとまず誤記であり和泉屋形と解釈して話を進める。
ひとまずの問題は、この段階における筒井氏の立ち位置である。
筒井順昭は前年までの細川氏綱の乱で尾州家方として行動していた。
一方で、この後の江口合戦に至る戦乱では、良質な史料で筒井氏の参戦は確認できない。
その最中の天文18年4月に、筒井順昭は突然坂本に遁世する。それを庇護したのは六角氏だった*32。
また、江口合戦後には古市・越智氏が筒井氏を攻撃し、前者に三好氏が加勢する風聞が流れるなど、筒井氏が三好氏の敵と見られていた*33。
つまりどこかで筒井氏は氏綱・尾州家側から離脱したことになる。
傍証になるかは不明だが、『二条寺主家記抜粋』天文16年11月条に「城州守護筒井より之入」という記述がある。
「城州守護」については不明。上山城はかつて木沢長政が守護格の進退権を付与されている*34。
長政没後、氏綱方は山城国上三郡郡代職を鷹山弘頼・安見宗房に与えている*35。
晴元方ならば、木沢長政の後継者に該当するのかもしれない(『音信御日記』天文16年10月29日に晴元方として贈答されている木沢大和守・山城守兄弟は候補に挙がるか)。
また、筒井順昭は氏綱の乱以前から六角氏と足利義晴の下知を受けた大和猿楽の開催について相談しており、天文15年11月に一旦途切れるも、天文17年5月2から相談を再開している*36。
六角定頼は氏綱の乱では当初晴元側に寄った立場を取りつつ静観していたが、天文16年7月に晴元と共に義晴の籠る北白川城を攻め、義晴を晴元方に転向させている*37。
江口合戦時の動向から逆算し、筒井氏は義晴・定頼との関係を重視していると考え、この時期に転向が行われた可能性はあるだろうか。
また、筒井順昭が出撃した7月29日は、よりによって細川晴元邸で御成が行われた日と同日である*38。
残念ながら晴元方の御成参加者は内衆しか判明していないが、通常の御成ならば接待者側の一門衆も参加するものと考えられる。
その場合、和泉守護家も当然御成に参加するはずで、居城に残った挙句に筒井氏に討たれるという状況はあり得るかという疑問がある。
もっともこの天文17年の細川邸御成は三好長慶らの内衆が除外される特殊なもので*39、一般的な御成の傾向と当て嵌まらない可能性があるが。
ともあれ、同日というのは偶然ではなく、京に晴元方の被官が結集した隙を突いてこの襲撃が行われた可能性もあるだろう。
また、この直後に挙兵した三好長慶は三好政長父子を弾劾しているが*40、この和泉守護襲撃は弾劾の事例に入っていないため、少なくとも晴元や政長が関わって仕掛けた事件ではないと思われる。
確定的ではないのがもどかしいが、ひとまず晴元方和泉守護家はこのタイミングならば御成に参加しているはずという考えを重視して、殺害されたのは氏綱方和泉守護家とみなす。
なお、筒井順昭が氏綱方和泉守護家を襲撃する理由についてはやはり見当がつかないので、記して後考を待ちたい。
前置きが長くなったが、次にこの時期の氏綱方和泉守護家を検討する。
氏綱方和泉守護家については「◆和泉上守護細川晴宣について」(以下、記事A)でも述べたが、考えを修正した所もあるのでもう一度おさらいをする。
まずは細川晴宣の消息について。
先行研究では大物崩れで討死した和泉守護は細川晴宣と想定されているが、このブログでは何度か疑問を呈している。
端的に言えば、晴宣の大物崩れの戦死説を否定するのは『証如上人方々へ被遺宛名留』の存在である。
この宛名留には細川晴宣と遊佐長教が併記されている。
これが何を示すか。まず、遊佐長教の父順盛の没年は享禄4年6月ということが判明している*41。
そして享禄4年6月は大物崩れの起こった月、すなわち和泉守護某の没年でもある。
つまり和泉守護某と順盛は同タイミングで死去したことになり、仮に晴宣が大物崩れで討死したのならば、順盛の後継者である長教と並んで記せる状況が成立しない。
これは『宛名留』の成立時期がいつであろうと起こる矛盾であり、このことから晴宣の大物崩れ討死の可能性はほぼなくなる。
では討死した和泉守護は誰なのか、後述の通り勝基は天文期も活動が確認できる、すなわち消去法になるが勝基の父細川高基ということになる。
同時に、討死していなかった晴宣には天文以降も活動していた可能性が出てくる。
次に、政国期の和泉守護細川氏として候補に挙がるのは、勝基・五郎・弥九郎である。
細川勝基の経歴については(記事A)でも述べている。
高国の従弟に当たる高基の子で、通称は九郎。晴宣と共に行動する機会も多く、舎利寺合戦に至る細川氏綱の乱でも尾州家に身を寄せたと思われる。
弥九郎も同様に細川氏綱の乱の頃に登場する人物と見られ、遊佐長教に進退を委ねていることが『古今采輯』8月22日政国書状で確認できる。
勝基の後継者とも考えられるが、長教に進退を委ねるということはかなり尾州家に依拠した存在である。
五郎は『河州石川郡畑村関本氏古文書模本』に写される(畠山)政国書状の宛先の人物*42。
内容は簡略化され「家督之儀為上意」とだけ記され、年月日も未詳。
馬部隆弘氏の先行研究ではこの五郎を晴宣子とされる細川刑部大輔の前身としている。
確かに『模本』には刑部大輔を宛先とする文書が多く、晴宣の仮名は五郎のため、その子も同じ仮名を名乗ったというのは妥当な想定だろう。
ただし、系図類でも刑部大輔の仮名を示すものはないため、あくまで可能性の話に留まることを留意したい。
ここは敢えてシンプルに考えてみたい、尾州家方の畠山氏・細川氏で「五郎」を名乗る人物は晴宣のみと思われる。ならばこの五郎を晴宣に比定して良いのではないだろうか。
上記の通り晴宣は活動を天文以降を広げられる余地ができたため、政国期に存命だったと考えても矛盾は起きない。
その場合晴宣は世に出てから二十年ほど仮名のままとということになるが、細川氏綱をはじめ高国系の細川氏は正式な任官を受けるまで仮名で過ごしていたため、あり得ない話ではないと考える。
ここから発展して、刑部大輔の仮名が五郎ではないとすれば、別の候補も生まれる。
すなわち、政国書状の宛先の弥九郎である。
遊佐長教に進退を委ねているのも、元々弥九郎が尾州家の身内だったからとも考えられるのではないだろうか。
父の五郎とは似つかない仮名であるが、上の考えの通り晴宣が長らく仮名のままで過ごしていたのなら、元服した際に違う仮名になるのはむしろ当然とも言える。
もっとも、晴宣の五郎は和泉上守護の仮名を意識して名乗ったものだが、弥九郎は下守護の仮名である。
弥九郎を刑部大輔の前身とすると、下守護家の仮名に変えておきながら後に上守護家の官途を名乗るという不自然さはある。
以上は一次史料から推定した考察だが、次は二次史料を用いる。
まずは、(記事A)でも引用した『足利季世記』の記述である、
時と場合によってはボロクソに貶すことも多いが、『足利季世記』独自の記述の中には検討に値するものもあると考えている。
「故高国と一所に打れし細川和泉守護の子新和泉守も氏綱に力を合わせ高屋に来たりけるか病死しけるか男子なくして畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」
まず前半の「細川高国と共に討たれた和泉守護の子が氏綱に合力し高屋に来るが病死する」という記述は、極めて正確な情報を記しているとみている。
なぜなら、大物崩れで討死したのは細川高基で、子の勝基は氏綱の乱の際に尾州家と連携し、やがて家を継いだとみられる弥九郎に代替わりするという一次史料から想定できる状況と完全に合致するからである。
そうなれば、後半の「新和泉守には男子がなかったため畠山政国の弟を遊佐長教のはからいで聟として細川刑部大輔と名乗らせる」にも一定の信が置けるのではないだろうか。
これを採用すれば、政国の兄弟で細川姓を名乗った人物は晴宣のみなので、『模本』の政国期の五郎は晴宣に比定できるのではないか。
そして、勝基には男子がいないとされるため弥九郎は勝基子ではなく、晴宣子=刑部大輔としてみれる可能性も高くなる。
次いで用いるのは、『古今采輯』収録の石垣系図(参照)と、『星田家所蔵文書』の「畠山中元祖」(参照)である。
細川刑部大輔は石垣家と関わることが一次史料で確認されるが*43、この系譜は両方とも和泉守(細川晴宣)も石垣家を継いだとしている。
また、『古今采輯』の系譜は畠山長経→岩鶴→和泉守→刑部大輔という順になっている。
岩鶴丸は天文10年に実在が確認される*44。
系図が示す通りその後岩鶴丸は早逝し長経の系統は消え、穴埋めとして晴宣が石垣家を継ぎ、それが後の刑部大輔の石垣家継承に繋がったという想定ができないだろうか。
上の『足利季世記』の記述も、一旦は石垣家を継いだ晴宣が、勝基の病死を受けて再度和泉守護家を継いだという解釈になる。
話を天文17年8月1日の和泉守護殺害事件に戻すと、弥九郎宛書状は8月22日という日付から、和泉守護が討たれたことを受けて出されたものとも考えられるのではないか。
その場合討たれた和泉守護は晴宣が想定される。
仮定に仮定を重ねた話だが、天文期の高国方和泉守護は上守護家と下守護家が併存していた訳ではなく、勝基→五郎(晴宣)→弥九郎(刑部大輔)という継承になると考える。
晴元方和泉守護家同様、単独での継承に変化していたということになるだろう。
・江口合戦における政国の立ち位置
天文18年6月の江口合戦で氏綱方が晴元方に勝利する。
長らく高国系細川氏を支持してきた尾州家にとっては願ってもない展開のはずだが、この段階における畠山氏の動向は語られない。
『細川両家記』では天文17年の情勢について「畠山方と細川方和睦のうへは、世上五年も十年も静謐候はんずるかと」と記されており、細川晴元と敵対する主体を畠山氏とみなす世間の風潮が伺える。
すなわち該当期も畠山氏は十分存在感があったはずなのだが、江口合戦に至る氏綱の挙兵では畠山氏の記述が消える。
該当期の畠山政国の動向として、先行研究で検討されているのは、『御内書要文』12月19日畠山播磨守宛御内書である(参照)*45。
案文であるため花押もなく、発給者が義晴か義輝か不明。
内容は三好長慶・遊佐長教が「一味参洛」したことに対し、政国が意見を加えたが受け入れられず遁世したことを聞き神妙とし、細川晴元・六角定頼・大館晴光を取次としている。
弓倉氏はこの書状の年次比定を長教・長慶が「一味参洛」したとあるため、江口合戦後に氏綱方が入京した天文18年7月以降、遊佐長教が死去する天文20年5月以前の天文18年か天文19年とする。
一方で、天野忠幸氏の『戦国遺文 三好編』では天文17年と比定している*46。
政国の遁世について、弓倉氏は細川晴元との対決には賛同したものの将軍家と対立するに及んでこれに反対したと解釈しており、一方天野氏の比定では晴元との対決時点で反対したものとなる。
大分ニュアンスが異なってくるため、この文書の年次比定はそれなりに重要かと思われる。
そのための傍証として挙げるのが、『古今采輯』に載る湯河直光宛3月3日遊佐長教書状。同宛5月3日畠山政国書状である(参照)。
残念ながら内容は簡略化されており(またこのパターンかよ)、長教の取次が「三宝院(快敏)・宮崎隠岐守(直定)吉益長門守(匡弼)」、政国の取次が「三宝院・吉益長門守」であることしかわからない。
ここで注目するのが、宛先の湯河直光が宮内大輔を名乗っていることである。
先代の湯河光春は天文16年閏7月8日に没したとされ*47、『古今采輯』には宛先は仮名の弥太郎の8月17日直光宛長教書状がある(参照)。
この書状は直光の出陣について触れているため、上記の天文16年10月に政国が紀伊から上洛した件と関わるものかもしれない。
それはさておき、『渡部家所蔵文書』によると、天文17年12月3日に湯河直光は宮内大輔に任じられ(参照)、官途の礼を幕府に送っている(参照)。
このことから、湯河直光は天文17年12月に弥太郎から宮内大輔に改称したことはほぼ確実である。
すなわち、湯河宮内大輔宛の長教・政国書状も天文18年以降に比定される。
政国書状を守護代家被官の吉益匡弼が取り次いでいることから、この書状を出した時期は政国と長教が連携していることの証左になる。
すなわち、政国と長教の対立を示す政国宛御内書は天文17年である可能性は限りなく低くなり、弓倉氏の解釈通り天文18年か19年のものとなるだろう。
また、長教書状の取次は三宝院・吉益に加えて宮崎直定も務めていることも注目している。
宮崎氏は上で述べた通り政国と縁戚関係を結んでおり、紀伊において湯河氏と並んで尾州家から頼りにされた勢力である。
その宮崎氏が長教書状では取次を務める一方で、政国書状では務めていない理由は何故だろうか。
一つ考えられるのが、河内にいる長教は湯河氏への口添えに紀伊の有力者である宮崎氏を必要としたが、政国は必要としなかったのではということである。
それはつまり政国がこの当時紀伊に在国していたためであり、宮崎氏を介する必要が無かったということになる。
前述の通り、江口合戦に繋がる細川氏綱の乱で畠山氏の動向は殆ど見えず、『天文日記』天文18年の年始の贈答でも丹下盛知・遊佐長教・走井盛秀が対象となる一方で畠山政国は記されない。
しかし、天文18年以降に推定される湯河直光宛書状の存在を見るに、該当期も政国と長教は連携しており、反目したため江口合戦に協力しなかったという線は薄くなる。
加えて、天文16年に政国が紀伊に下向していたため贈答の対象から一時外れていたことを想定できる例はあり、天文18年も同様に考え、政国は長教と連携しつつ紀伊に下向する立場だったと想定している。
あるいは政国の遁世も河内から紀伊に遁世したものではなく、紀伊に下向した状態で長教との意見の相違が起き遁世したものであるとも考えられる。またこのパターンかと思われるかもしれないが。
とはいえ、江口合戦における政国の不在を紀伊への下向と解釈すると、それは第二次細川氏綱の乱の際の下向と違い相当長期に渡るものとなる上、河内に戻ってきた形跡もない。
この動向の違いを両者の乱の性質の違いに求めるなら、やはり江口合戦では細川晴元のみならず将軍家とも対決する形になったことが思い浮かぶ。
晴元の排斥は本懐ではあるが、将軍家と正面から敵対する気はなかったため、政国はパフォーマンスとして紀伊に下ったのではないだろうか。
その後の遁世に関しても、文面から政国の側から弁明を送ったようにもとれないだろうか。
ここから更に、政国宛御内書が天文18年か天文19年かどちらに妥当性があるかも検討してみる。
「一味参洛」が具体的に何を指すまでは想像になるため、弓倉氏の指摘通り天文18年7月の氏綱方の入京という線も十分考えられるだろう。
ただ、『兼右卿記』天文18年11月12日条では、三好方が吉田社を破却しようとした際、足利義晴が密々に中止させるために三好方に使者を下したとあり、この時点で将軍家と三好氏は全面対決に至っていなかったという指摘もある*48。
一方で天文19年は、11月に三好以下摂津・丹波・河内の人数4万が京に上り、足利義輝の中尾城を攻撃しこれを没落させている*49。
中尾城を陥落させ破却したことはこれまでと比べても幕府に対する攻撃性の高い行動であり、また河内勢が将軍家攻撃に加わったのもこれが始めてと思われる。
幕府との全面対決を望まない政国は、明確に反対の意志を幕府に伝えるために遁世したと考えられないだろうか。
更に言えば義輝・晴元はこの後坂本に没落したため、政国宛御内書の取次が晴元・定頼・晴光が近い場所に固まっているという整合性もある。
以上、政国の遁世が18年か19年かの特定は推測混じりになるが、江口合戦後であること自体は濃厚と言える。
『天文日記』は天文19年が年欠のため、他の年より尾州家の動向が掴みにくいのが残念な所である。
仮に政国の遁世が天文19年12月だった場合、遊佐長教と反目していた期間は翌年に長教が殺害されるまでの半年程度に過ぎなかったことになる。
政国期は長教の存在が増すこともあって、両者は対立的なイメージで語られる印象があるが、必ずしもそうではないのではないだろうか。
・畠山高政の存在から見る政国の意志
冒頭で述べた通り、政国の没年は天文21年8月と思われる。
高政の家督継承が確認できるのはその一ヶ月後である*50。
高政の家督継承はこの年足利義輝が氏綱方と和睦し帰京したことが働いていると思われる。
その義輝の帰京の際に、随行者の中に遊佐勘解由左衛門尉が確認される*51。
遊佐勘解由左衛門尉は紀伊守護代とみられ、新五郎・兵庫助という人物と同族ないし同一人物と思われる*52。
仮名の新五郎から新次郎を仮名とする長教とは近い一族とみられ、長教息の遊佐信教が当時幼少であるため代行して役割を担ったことも考えられる。
この時、細川・三好は義輝を出迎える側として別記されており、幕臣と共に入洛している遊佐氏は明確に義輝に近しい立場と思われる。
この直後の2月11日、安見宗房によって守護代被官の萱振氏らが粛清され、長教弟の根来寺杉之坊も萱振方に一味したとして殺害されている*53。
そして、政国の存命が確認される証如からの音信はその6日後の2月17日である。
幕府との関係性に注意を払っていた政国と、義輝入洛に近侍した遊佐氏の動向は同じスタンスになり、また政国への音信は萱振氏の粛清と何らかの関わりがあった可能性もあるが、現時点ではなんとも言えない。
いずれにせよ証如によると政国は目を患っており、この時点で病に犯されていたようだ。
また、畠山高政が高屋城に入ったことが確認されるのはこの天文21年だが、それ以前に河内にいた時期もあったと考えている。
『仁和寺文書』弘治3年安見美作守宛書状には、「先年就尾州雖申掠、依被仰分遊佐前河州并丹下備中守以書状致落居候」という文言がある*54。
過去に「尾州」の押領を受け遊佐長教・丹下盛知の書状で停止させたというもので、遊佐長教は天文20年5月に殺害され、丹下盛知が平三郎左衛門尉と名乗っていた終見は天文15年12月なので、「尾州」の押領はこの期間になる*55。
問題はこの「尾州」が何者なのかである。政国の官途は播磨守で尾張守を名乗ったことはない。尾州家であることを表しての「尾州」である可能性もあるが、この時点で故人の長経を「前河州」と記しているにも関わらず、同様に故人である政国を「前尾州」と表記しないのは不自然ではないだろうか。
ならば、この「尾州」は高政に比定されるのではないか。
高政は上記の期間の通称は次郎四郎であり尾張守には任官していないが、わざわざ「当時は次郎四郎」と注記しなかっただけと考える。
つまり、高政は天文16年1月以降天文20年5月以前に仁和寺領を押領できる場所にいたことになる。
『天文日記』にはこの時期高政に該当する人物は見られないが、上で考察した本願寺の贈答の基準を踏まえると、名代の息子にすぎない高政は単に贈答の対象にならなかっただけと考えられる。
天文15年4月29日の万徳丸(政能)の宮原神社の棟札は、政能が宮原兵部少輔家の地位を引き継いでいることを想像させる。
裏を返せば、この段階で政国は高政を尾州家家督の後継(播磨守家の可能性もあるが)とみなしており、自身の高屋城入りに息子を伴っていた可能性はある。
前述の通り、政国が長教と反目した期間は早くて天文18年12月以降と、印象より短い。
それ以前ならば、政国が紀伊に下向している時期も高政は高屋城に残っていた可能性も考えられるのではないだろうか。
ところで、『両畠山系図』などによると、政国以降の畠山氏は高政・政能・政頼(秋高)・定政・政次・政信と「政」を通字にしている。
このうち、高政と定政のみが「政」の字を下にしている。
更に高政に関しては時期的に足利義輝(当時は義藤)から家督の承認を受けたことは明白にも関わらず、その偏諱を得ていない。
同時期に義輝から家督を承認されたにも関わらず偏諱を受けていないのは細川氏綱も同様で、これについて志末与志氏が考察をしている*56。
似たようなモデルケースとして、同じように考えてみたい(もっとも、明確に義輝から一字拝領されたにも関わらず諱を変えていない細川氏綱とは違い、高政が一字拝領したという記録はないが)。
常識的に考えると「藤政」ないし「藤高」と改名して然るべき所をしていないとなると、上の「高」の字に何らかの意味があったとみなすべきだろう。
仮定を重ねる話に勿体ぶっても仕方ないので結論から述べると、「高」の由来を細川高国に求められないかと考えている。
兄の稙長は細川高国の有力な支持者であり、高国没後も後継者の晴国・氏綱と連携していた。
一方で、稙長は氏綱を庇護してはいたものの、河内復帰後は晴元と両天秤的な行動を取り実際に共に軍事行動を起こしたことはないという指摘もされている*57。
それと比較すると、政国は明確に細川氏綱と連携しての挙兵に踏み切っており、また江口合戦後の遁世も幕府との対立によるものであり、晴元打倒そのものは賛同していたと思しく、高国派との連携へのモチベーションは高かったと見なしてよいのではないか。
その政国の意識が、子息に「高」の字をシンボルとして与えたとは考えられないだろうか。
あるいは政国の「国」も、「国◯」という名を持つ高国被官を結集するための偏諱の読み換え諱であるとも考えたが、政国がいつ頃からこの諱を名乗り始めたのかは不明なため、これはあくまで与太である。
・まとめ
流石に名代とはいえ畠山氏の家督を継いだ人物ともなれば、その事績も点と点を繋ぐものだけではなく豊富になる。
先行研究における畠山政国の立ち位置は守護代遊佐長教に克服されるものとして、芳しくない印象を受ける。
とはいえ政国は兄稙長が実行しなかった細川氏綱を擁しての挙兵をなし得ており、足掛け三年に渡り善戦しており、世間からも畠山氏は対立の一方の主体とみなされていた。
江口合戦での晴元方放逐の際も引き続き氏綱側に属していたと思しく、尾州家が長年目指していた高国系細川氏の再興という本懐は果たしたともいえる。
一方で、幕府が承認した家督継承者に抵抗して名代になるまでこぎつけた経緯もあってか、幕府との関係には注意を払っており、江口合戦以降は前面に出てこず存在が薄くなっていった。
ただ、従来対立的なイメージのあった政国と長教の反目は半年程度だった可能性があり、政国の遁世も長教との本格的な対決に踏み切ったというよりは、幕府に敵意がないことを示すアピールも兼ねていたとも考えられるのではないか。
繰り返すが、該当期にあたる天文19年の『天文日記』が年欠しており、肯定的にせよ否定的にせよ評価材料が欠けているのがもどかしい所である。
また、政国の記事に限った話ではなく、主役としては扱っていないもののこのブログの記事を通して遊佐長教についての検討を多数行ってきた。
その結果、長教期にしばしば行われる尾州家の家督交代に、所謂「下剋上」的な文脈は殆ど無かったと言えるのではないだろうか。
長経は対立する義晴側が押し付けた家督交代であり尾州家が受け入れた様子はなく、晴熈は紀伊に下向した稙長が方針の違いにより戻らなくなったため本願寺と妥協して擁立しており、晴満は義晴側の意向が強い家督交代であり、再度の稙長擁立は紀伊から大軍を引き連れて刷新を狙う彼との和睦を図ったもの、幕府から名代に留められた政国も屋形として奉じており、その遁世も本格的な対決に至らずごく僅かな期間だった可能性がある。
長教が明確に主体的に当主を放逐した例となると、稙長との和解の際に晴満を切り捨てたことに限られるのではないか。
近年、小谷利明氏も従来の老獪な野心家とする遊佐長教像に疑問を呈し、イメージの修正を図っているが*58、このブログの解釈はそれに乗っかるものと言える。
政国の支持する戦略が幕府との対立を避け、晴元を放逐し氏綱を擁立するものだった場合、天文21年に晴元が出奔しつつ義輝が帰京したことは理想的な状況だったと言えるのではないか。
政国・長教の反目が幕府への本格的な対立姿勢によるものだったのならば、将軍が帰還すればそれは解消されるはずである。
ただ、実際には長教・政国が相次いで没したため両者の思惑がどうだったかは闇の中である。
もっとも、政国の立場への過大評価は禁物である。
該当期に守護権力の範囲は限定的になり、反比例する形で守護代の遊佐長教が対外的にも存在感を増している。
長教が政国の意に沿わない行動をとっていたのも事実であり、守護権力の衰退に繋がる時期であることには違いない。
「必ずしも守護代と反目している訳ではないが、確実に存在が希薄化していっている」という政国の属性は、あるいは三好長慶に対する細川氏綱に近いのかもしれない。
参考文献
弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』「中世後期畿内近国守護の研究」
*1:森田恭二「河内守護畠山政国の実像を巡って」(帝塚山学院短期大学研究年報41)
*2:『土屋家文書』2月28日土屋喜左衛門尉宛政国書状。『古今采輯』2月28日壷井源右衛門宛政国書状・5月3日湯河宮内大輔宛政国書状・8月22日(細川)弥九郎宛政国書状。馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)収録五郎宛政国書状
*3:弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)
*4:「畠山氏の系図まとめ」(参照) 『両畠山系図』の成立と『古今采輯』(参照
*5:川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究~室町幕府近習・奉公衆家の一展開~』(京都学・歴彩館紀要)以下、川口A。同『室町~戦国初期の畠山一門と紀伊』(和歌山地方史研究81)以下、川口B
*6:前掲注*5川口B
*7:前掲注 *5川口A
*8:前掲注*5川口A
*9:前掲注*5川口A。『不問物語』永正5年6月4日
*10:前掲注*5川口A
*11:『九条家文書』(大永4年)11月28日信濃小路大膳大夫宛て勢長書状
*14:白石博則『紀伊国における畠山稙長:活動と居所』(人文学学際研究1)(参照)
*15:弓倉弘年『天文期の政長流畠山氏』(中世後期畿内近国守護の研究) 以下、弓倉A
*16:なお、畠山義総の妻はWikipediaなどでは勧修寺政顕娘とされているが、先行研究でそれに触れたものは見かけない。『尊卑分脈』では勧修寺娘として畠山大隅守家俊妾と畠山陸奥守妾を載せているが(参照)、これをさしたる根拠もなく義総に比定したのではないか。また『興臨院月中須知簿』(加能史料 戦国ⅩⅡ P31)の過去帳には義総の妻とその母が載っている。
*17:麦居和真『蓮能尼の出自に関する一考察 ー能登畠山氏一族の可能性をめぐってー』(加能地域史76)
*18:弓倉弘年『紀伊守護家畠山氏の家督変遷』(中世後期畿内近国守護の研究)
*19:『細川両家記』
*20:前掲注*15弓倉A。小谷利明『畿内戦国期守護と室町幕府』(日本史研究510)。岡本侑樹『戦国期河内国における三好氏権力の地域支配 : 畠山氏との比較から』
*21:小谷利明『遊佐長教』(戦国武将列伝8 畿内編【下】)
*22:『細川両家記』、『興福寺年代記』天文15年9月3日条、『長亨年後畿内兵乱記』同年9月13日条、『二条寺主家記抜粋』同年9月18日条
*23:『天文日記』天文6年1月日条・同年3月9日条・天文7年1月21日条・同年2月5日条・天文8年2月23日条・同年4月1日条・天文9年3月21日条・同年5月3日条・天文10年3月18日条・同年10月9日条・天文11年1月25日条・同年2月10日条
*24:『天文日記』天文5年5月18日条
*25:『天文日記』天文7年7月4日条『大館記』10月16日足利義晴御内書
*26:『古簡雑簒』9月17日大館左衛門佐宛長教書状。『戦国遺文 三好編1』【参考20】では年次を天文18年としているが、文中に登場する吉益甚助(匡弼)は天文17年11月19日段階で長門守を名乗っているので(『森田周作氏所蔵文書 石川郡大工紺屋御朱印写覚』(参照)、天文17年以前のものとなる。『後鑑』(天文15年)9月25日大館左衛門佐宛長教書状(参照)
*27:『光源院殿御元服記』「群書類従」17
*28:『鷹山家文書』(天文16年)5月25日鷹山弘頼宛吉益匡弼書状
*29:金松誠「筒井順興・順昭」(戦国武将列伝畿内編7【上】)
*30:前掲注*2馬部論文
*31:『天文日記』天文17年6月4日条
*32:『多聞院日記』天文18年4月26日条『尊経閣古文書纂』(天文18年)5月8日八条殿宛定頼書状 『戦国遺文 佐々木六角氏編』P214
*33:『良尊一筆書写大般若経奥書集』天文18年7月13日条・9月13日条
*34:馬部隆弘『木沢長政の政治的立場と軍事編成』(南近畿の戦国時代―躍動する武士・寺社・民衆)
*35:『鷹山家文書』10月4日鷹山弘頼・安見宗房宛平三郎左衛門尉盛知書状
*36:『般若窟文庫所蔵文書』 『戦国遺文 佐々木六角氏編』P184-212
*37:『長亨年後畿内兵乱記』
*38:「天文十七年細川亭御成記」『続群書類従』35
*39:馬部隆弘『天文十七年の細川邸御成と江口合戦』(年報中世史研究)46
*41:畑和良『河内守護代遊佐順盛の没年』「戦国史研究86」
*42:前掲注*2馬部論文
*43:前掲注*2馬部論文
*44:『歓喜寺八幡宮棟札』(金屋町誌 上)天文10年4月1日棟札
*45:弓倉弘年『戦国期河内国守護家と守護代家の確執』「中世後期畿内近国守護の研究」
*46:『戦国遺文 三好編』1【参考18】
*47:『湯川氏代々系図』
*48:『足利将軍家年表』
*49:『言継卿記』天文19年11月19日
*50:『天文日記』天文21年9月29日条
*51:『言継卿記』天文21年1月28日条
*52:「『芋生家文書』8月23日遊佐長教書状。9月28日遊佐長教書状。11月12日遊佐長教書状。
*53:『良尊一筆書写大般若経奥書集』天文21年2月11日条
*54:『遊佐信教の初見文書』「志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』」(参照)
*55:『良尊一筆書写大般若経奥書集』 天文20年5月21日条 『天文日記』天文15年12月28日条
*56:『細川氏綱の実名について』「志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』(参照) 『細川氏綱の実名についてPart2』「同」(参照)」
*57:川口成人・窪田頌『本覚院文書にみる戦国期の畠山・大友間交渉』(古文書研究97)
*58:前掲注*21