179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆幻の和泉守護畠山晴熈

『久米田寺文書』には畠山晴熈の発給文書が含まれている。

今度寺領之儀 存分之通
雖申出候 種々懇望之上者
無別儀候 早々可有寺納候
猶遊佐若狭守和田対馬守可申候
恐々謹言
 十二月十六日 晴熈
 久米多寺


後に畠山氏が三好実休を討ったことでお馴染みの、和泉久米田寺に宛てたもの。
古くから紹介されている文書であり、既に先行研究*1晴熈が和泉守護を務めていた可能性が指摘されている。
その解釈に従い、いつの時期ならば晴熈が和泉に関われる可能性があるのか独自に検討してみたい。

まず、取次として登場する遊佐若狭守・和田対馬はこの文書以外には見えず、人物からの比定は困難。
ただし、和泉支配に関与する遊佐氏に関しては心当たりが一件ある。
以前の記事でも紹介した、『和田文書』永正15(1518)年9月10日和田太郎次郎宛山崇・順正連署状である(こちらのリンクでも閲覧可能)。

既に小谷利明氏が詳しく検討されているが、この文書は畠山氏奉行人の曾我山崇・某順正和泉国衆和田氏に原次郎四郎跡を宛行う奉行人奉書であり、奉書を受けて林堂山樹が和田氏に給地を宛てがっている*2
林堂山樹は尚順の腹心であり、同様に山崇・順正は当時紀伊に在国中の畠山卜山(尚順)の側近と考えられる。

さて、この某順正だが、尾州家では「順」「慶」「長」といった当主の偏諱を与えられる人物は限られていると思われる。
具体的には畠山一門(畠山順光・畠山長経・畠山長継)、守護代家(遊佐順盛・遊佐順房・神保慶宗・遊佐慶親・椎名慶胤・遊佐長教・遊佐長清・神保長職・椎名長常)に限られ、その他は丹下氏・平氏などの筆頭格の内衆であっても与えられた例を見ない(野辺慶景・保田長宗などの例外と思われるものもある)。
すなわち、彼の姓は遊佐氏の可能性が高いと考えている*3
この順正の系譜(ないし同一人物)が遊佐若狭守であり、同様に和泉支配に関わったと考えられないだろうか*4

話が逸れたが、尾州家が継承していた和泉守護家は先述の通り上守護家。
これは細川晴元方の上守護細川元常と競合するものである。
久米田寺は守護領の岸和田に近く、尾州家と晴元方が提携している時期に元常の頭を飛び越えて尾州家が介入する余地はあまりないのではないか。

そのため、尾州家当主が晴元方と対立している時期にこそ、尾州家方の人物が和泉に関与できると考えられる。
その時期として、以下の3つを想定している。

①天文4年末〜天文5年初の天文の本願寺戦争終結までの時期。
②天文10年からの木沢長政の乱勃発による和泉錯乱、畠山稙長復帰の時期。
③天文15年からの細川氏綱・畠山政国の乱の時期*5

まず②の時期。木沢長政の乱に乗じて上洛した稙長は、和泉守護代松浦守を追い落として和泉の確保を目論んでいる*6。そのため和泉支配に関わる文書が発給される余地は多分にあるのだが、この時期の晴熈は晴元方に属していた。稙長の挙兵を見て稙長方に奔った可能性も想定できない訳ではないのだが、和泉守護として活動できた可能性は低いと見ておく。

続いて③の時期。この時期の問題点は、以前の記事でも触れたが尾州家方が下守護の細川勝基・弥九郎を擁立していることである。
仮に尾州家が両守護制の維持を考えていたとしても、上守護の継承者として晴宣子の刑部大輔(氏朝)も存在する*7
この時期の晴熈の動向が伊予守任官以外は全く不明ということもあり、やはり可能性は低いと見ておく。

残るは①の時期だが、天文5(1536)年の12月頃は、『天文日記』などの史料からも稙長を排除した後の尾州家と晴元方の提携が軌道に乗っており、尾州家が和泉支配に介入する余地はないと思われる。
そのため、考えられるのは天文4年以前となるが、ここにも競合する問題がある。それは細川晴宣の存在である。

何度か触れたが、大物崩れで没した「和泉守護」は晴宣ではなく細川高基だったというのが現在の自説である*8
そのため、改めて『証如上人方々へ被遣宛名留』に晴宣の名が記されている意味を考えてみたい。

問題となるのが『宛名留』の成立時期である。これには「天文年中」としか記されていないが、人名の並び方からある程度の絞り込みはできると思われる(現存する『宛名留』が証如の記した順で残っていることが前提だが)。
『宛名留』は公家の一覧の後に武家が続く形だが、武家で最初に記されているのは尾州家方の人物(畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信)。
その後に赤松政村(晴政)・上杉播磨守(上条定憲)・山本寺定種が続き、大友家・赤松家の人間や湯河光春・仁科道外・十市遠忠などが続いた後、ようやく幕臣や晴元方の人間が並びだし、畠山弥九郎(晴満)を最後にこの形式での記述は一旦終わる。

武家方の追記がされた下限は畠山晴満が屋形になった天文7(1538)年頃として、開始時期はどうだろうか。
細川高国など天文以前に没した人物の名前はないこと、天文以前には交流のあったはずの義晴・晴元らの名が記されるのが後になってからなどのことから、『宛名留』は天文の本願寺戦争の開始後に記されたと見るべきではないか*9(最初の方に記される上条定憲・山本寺定種も長尾為景と闘乱に及び天文5年頃に戦死ないし没落したとされる人物のため、時期の絞り込みに使えるのではないだろうか)。

更に、尾州家の並びの中に遊佐長教が共に記されていることが注目される。
周知の通り遊佐長教は稙長を逐った側であるため、彼が稙長方の基信と共に記されているということは、この並びは稙長がまだ屋形として河内に健在の頃に書き込まれたと考えて良いのではないか。
つまり、細川勝基・細川晴宣も同様に、稙長が河内に健在の時期に、旧高国方の正式な和泉守護として証如から音信の対象になっていたのではないだろうか(実質的な和泉の支配状況は、晴元方の細川元常・松浦守が優勢だったと思われるが)。

これを前提に考えて、晴熈が和泉守護らしき動きをするのは、稙長方の勝基・晴宣が没落した後に可能になると考える。
稙長を逐った時点では、長経を屋形とする尾州家は本願寺と断交しただけであり、晴元方と完全な和睦までは至っていないはず。
長経方も和泉の支配権まで手放すのは本意ではなく、代わりの和泉守護として擁立したのが晴熈だったのでは……という考えである。

稙長の失脚時期は早くて天文3(1536)年末頃だと考えているため、晴熈書状の発給美は天文3年か4年のどちらかと推定する。
それぞれの場合で晴熈の立場は微妙に異なることとなる。
天文3年の場合は長経を屋形とした下での和泉守護だと考える。
天文4年の場合は晴熈が屋形と和泉守護を兼ねており、またこの時点で晴元方との和睦は進んではいるものの、まだ権限の振り分けが明確に定められていなかったため、元常・守と競合する形になるが久米田寺に書状を出すことが可能だったと考えている。

*1:確か出典は、弓倉弘年『天文年間の畠山氏』(和歌山県史研究16)だったと思うが、手元に無いので後日確認ができたら追記したい

*2:小谷利明『宇智郡衆と畠山政長尚順』(奈良歴史研究59)

*3:守護代格の重臣は他に神保氏がいるが、尚順の代の神保氏として確認されるのは慶宗・慶恵・慶明と「尚慶」に改名してから偏諱を与えられた人物、そこから「尚順」時代に偏諱を与えられた神保氏が不自然と思われるので除外した

*4:なお、順正に該当する遊佐氏として遊佐又五郎を想定している。又五郎は『蔭凉軒日録』5月5日に明応の政変時に正覚寺畠山尚順と共に落ち延びた人物として、『伊勢貞親以来伝書』永正12年11月19日に畠山鶴寿丸(稙長)が元服した際に供をした内衆として登場している。登場時期が20年離れているため、同一人物という保証はないが、明応の政変時に元服しているということは「順」の偏諱を貰っている可能性が高く、また永正12年は順正の登場する史料と同時期であるため、又五郎と順正が同一人物である余地はあると考えた。また又五郎紀伊守護代の又次郎順房と仮名が似ているため同族の可能性が高く、上記の通り順正は紀伊在国中の尚順の側近であるため、そこからも接点を見いだせる。

*5:天文17年12月頃に政国は遊佐長教と反目して遁世し、義晴・晴元方に属しているので畠山氏が和泉支配に関われる余地はないと思われる。

*6:小谷利明『畠山稙長の動向』(戦国期の権力と文書)

*7:この記事で述べたが、氏朝の「氏」は細川氏綱偏諱であり、この時期に元服したものと想定している。

*8:多分、そのうち某先生がそれに関わる発表をしてくれると思う(該当する研究発表は全くの未見)

*9:その場合、細川晴国などの本願寺方と連絡を取っていた人物が記されていないのが問題となるが、没落後も交流を続けている畠山稙長らと違い、晴国は本願寺方が途中で関係を断ったため記されていない、ないし削除されたと考えるべきか。

◆畠山播磨守晴熈について

長経同様、僅かな期間ではあるが尾州家当主に据えられた稙長弟の晴熈。
彼が最初に継いだのは分家である畠山播磨守家。
この播磨守家は国清(右馬頭家祖)・義深管領家祖)・清義(中務少輔家祖)の弟の国熈を祖とする家とされ、「国熈」「満熈」「政熈」といった名の当主がおり、晴の諱にもその通字が表れている。

畠山播磨守家について

歴代播磨守家についての詳しい検討や晴熈の初期の動向は、以前に川口成人氏が研究発表を行っていたが、ここでは触れられる範囲以外は省略する(論文発表の形になれば追記したい)。

播磨守家については、明応の政変以降分裂したことが指摘されている。
『大乗院寺社雑事記』明応4年(1495)2月19日条に、畠山播磨守について「誉田屋形方也、八尾持之、子息ハ紀州屋形方也」と記されており*1、親子で総州家と尾州家に分かれていた。
総州家方についたのは播磨守政元尾州家方についたのは右馬助政熈とされる*2

また、晴熈の初見は『益田家文書』永正12(1515)年12月2日が記した足利義稙の伊佐貞陸邸御成の際に、御門役として見える「畠山勝松」が幼少の晴熈と推定される*3

晴熈の動向

将軍偏諱+「熈」の通字が示すとおり、彼は足利義晴に公認されたれっきとした播磨守家の当主である。
上記の通り政熈が尾州家方に属しているため、合意を得てその後継となったと見られる。
ただし、大永7(1527)年の桂川合戦以降、没落した義晴に随行する幕臣の中に晴熈らしき名は見られない。
おそらくは畠山一門としての立場を優先して、稙長に同行することを選んだのだろう(播磨守家は河内に所領を持っていたようで、それを維持する優先順位が高かったと思われる)。

その後、晴熈が再び脚光を浴びるのは尾州家当主として。
これ以降の動向については、弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)に詳しく検討されている。
また、長経から晴熈への家督交代についての個人的な考察は過去の記事でも行った。

179yougoha.hateblo.jp

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これらの解釈は今も特に変わりはないが、『天文日記』の「遊佐新次郎婦民部卿婦トひとつになり」の解釈について検討を一つ加えたい。
まずこの「婦」について、妻と解釈すべきようなので、これに従う*4
やはり「ひとつになり」の解釈が悩ましいが、『天文日記』には民部卿興正寺実秀)の親族は記載されるものの、実秀本人は出てこないように見える。
そのため、民部卿(実秀)はこの時点で亡くなっており、未亡人が遊佐長教に嫁いだ、あるいは遊佐長教妻と実秀妻が近い親族であるといったことが考えられないだろうか。

さて、屋形に迎えられた晴熈だが、さしたる活動もなく天文7(1538)年に畠山弥九郎(晴満)に屋形が交代している。
『天文日記』同年8月10日条に「播磨守(畠山高屋屋形上表*5とあり、上表(辞退)という形で当主から退いたことがわかる。
その後の晴熈は『大館常興日記』で活動が僅かに見える。
晴熈が登場するのは御門役についての件であり、当初は細川元常が勤める予定だったが、その次の役を誰に勤めさせるかで難航したようで、常興らは晴熈に3ヶ月間御門役の依頼を送った。
晴熈は要請を請けたものの、先々まで勤めることは難しいと返答したようだ*6
依頼が晴熈にされたのは、かつて御門役を務めた経験を踏まえたのもあるだろうか。

また、晴熈の家督就任について、幕府から承認されたものではないことが上記の弓倉論文などで指摘されている。
確かに前後の長経*7・晴満*8は幕府から家督就任に関わる文書が残っている一方で、晴熈にはない(残存資料の問題の可能性はあるが)。

『天文日記』でも晴熈が屋形である内の天文6・7年の年始は遊佐長教らには贈答が送られるものの*9、晴熈にはない。
この視点でも、贈答の対象にならない晴熈は正式な屋形ではなかったと言えそうだ。

ただし、これは総州家の在氏も同じである。
在氏も木沢長政らに屋形として擁立されているはずだが、天文6・7年は年始の贈答の対象とはなっていない((天文7年正月には「就還住之儀」として音信を送られているが*10、これを年始の贈答と判断すべきかは保留)。
在氏は天文6(1537)年末に代替わりの安堵状を発給しており*11、「右衛門督」に名乗りを変え、天文8(1539)年以降は証如からも年始の音信が送られるようになる*12
御内書は残っていないようだが、この間に在氏は正式な屋形として認可されたのではないか*13

つまり、擁立された当初は非公認の当主であったという立場は、晴熈だけではなく在氏も同様だったと思われる。
にも関わらず在氏は後から幕府から追認を受けており、一方で晴熈は屋形の立場を返上している。
すなわち、晴熈が屋形を返上させられたのは「幕府に無断で擁立された」ことそのものに問題があった訳ではないと考えている。
加えて晴熈は辞任後も証如から交流を持たれているし、幕臣播磨守家として御門役を打診されるなど、屋形は退いても政治的生命を全て失った訳ではない。
つまり弥九郎晴満への交代は、晴熈に何か問題があった訳ではなく、晴満を屋形に据える方に積極的な動機があったと推測しているが、この件に関しては後日検討したい。

その後の晴熈と伊予守任官

その後、木沢長政の乱を経て畠山稙長が晴満を追い落とし守護に復帰。
この際の晴熈の動向は不明だが、後に伊予守に任官されたことがわかる。
『歴名土代』天文14(1545)年12月4日に「源晴熈」従五位下に任じられ、同日に伊予守に任じられたと記される。
他の畠山一門が『歴名土代』に任官が記される例はそう多くなく、この任官が正式なものであり、京における晴熈の認知度が伺える。

ただし、上記の弓倉論文で既にで指摘されている通り、この任官日はズレている可能性がある。
『天文十四年日記』同年8月15日に「畠山播磨守」「若公(足利義輝)」に太刀・馬を進上しているが、これには「始而御礼」と付記されており、晴熈と考えると不自然である。
すなわちこの播磨守は政国であり、晴熈の伊予守任官はこれ以前となる、従うべき見解だと考える。

また、『大館常興札抄』(『群書類従』9)によれば「讃岐守・伊予守・阿波守」「左衛門佐・右衛門佐など程事也」とし、尾張守・安房守・上総介・淡路守・播磨守・伊勢守・摂津守」「八省輔(中務大輔・式部大輔・治部大輔・民部大輔・兵部大輔・少輔など)ほどの御用なり」と受領名のランクが記されており、播磨守から伊予守への遷移は格上げ人事と言える。
しかし、入れ替わるように政国が播磨守として登場していることから、名目上は格上げだが、実質的には播磨守家の地位を政国に譲らされたと見ることも可能かもしれない。
稙長没後の尾州家は暫くの間後継者を巡って混乱していたことを考えると、この人事は稙長の存命時に行われた可能性があり、稙長を追い落とした義晴・晴元方に属していた晴熈と、岩室城を拠点としていたため紀伊に没落した稙長を支持していたと思われる政国、両者の稙長への貢献度の差異によって、この人事が行われたとも考えられるのではないだろうか。

晴熈が遷移した伊予守は、過去に幾つか畠山氏に任官の例が見られる。
これは川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究』(京都学・歴彩館紀要3)に詳しい。
一次史料において「畠山伊予守」として見えるのは、畠山基国の弟系図では満国・深秋)*14畠山貞清の子系図では満国)*15、そして畠山義就
このうち義就は管領家なので除外、基国弟(満国・深秋)は石垣左京大夫家の祖とされ、石垣家はこの時代にも存続しているため、晴熈の伊予守任官がこの家を継いだとは思い難いのでこれも除外。

残る貞清子の伊予守だが、子として伊予次郎持重伊予九郎持安が見える*16
このうち持重は中務少輔家の系統となり、この時期まで家は続いている。
残る持安の系統が、晴熈の任官した伊予守の家である可能性があるのではないだろうか。
持安と同じ仮名を持つ「畠山九郎」が永正7(1510)年に確認され*17、この系統も御供衆の家格を備えていたと思われる。

また、能登畠山義総の兄弟に山九がおり、永正年間の九郎の家を継いだ、あるいは本人という可能性も考えられるかもしれない*18
山九郎は天文8(1539)年8月に討死したと見られるため*19、いずれにせよ伊予九郎家は空席になっており、晴熈が移るには問題ないと思われる。

晴熈の子としては、『両畠山系図』に九郎某万里小路惟房母が記される。
このうち万里小路惟房母については、以前の記事でも触れたように播磨守政元娘の誤り。
九郎については、『両畠山系図』畠山政義(政能)の子にも「永禄八年光源院御供討死」と付記される九郎がいる。
この九郎の元服と永禄の変での討死は一次史料で確認できる*20が、享年14歳と記されている。
しかし政能嫡子と見られる定政は没年から逆算すると1559年生まれであり、九郎はそれより年上となってしまう。
舎兄である可能性もあるが、九郎は在京して奉公している立場であり、政能と京との繋がりは極めて希薄。
以上の要素から、『両畠山系図』は誤記であり、永禄の変で討死した九郎は実際は晴熈の子に当てはまると考えている。

また、九郎という仮名は前述の「伊予九郎持安」の家を継いだことを意識して名付けられたと、伊予守家の由緒も絡めて考えたい。
この九郎の父を晴熈と想定した場合、晴熈は1552年頃まで存命だったことになる。
ただし、晴熈らしき人物の動向は伊予守任官以降は見当たらないことも付け加えておく。

 

参考文献
弓倉弘年『天文年間畠山播磨守小考』(中世後期畿内近国守護の研究)
川口成人『貞清流畠山氏の基礎的研究 : 室町幕府近習・奉公衆家の一展開』(京都学・歴彩館紀要3)

*1:弓倉弘年「畠山義就の子孫たち」(中世後期畿内近国守護の研究)

*2:川口成人「忘れられた紀伊室町文化人」(日本文学研究ジャーナル19)

*3:twitterで呟いたところナタネ油氏からお墨付きを頂いた(https://twitter.com/nknatane/status/1605498460249022465

*4:小谷利明「遊佐長教」(戦国武将列伝畿内編【下】)

*5:石山本願寺日記』ではこの二文字が欠落

*6:『大館常興日記』天文9年2月9日条・2月15日条・3月28日条

*7:『御内書案』年未詳8月16日足利義晴御内書

*8:『大館記』収録文書(天文7年)8月26日大館晴光書状など

*9:『天文日記』天文6年3月9日条・天文7年2月5日条

*10:『天文日記』天文7年1月21日条

*11:観心寺文書』天文11月13日畠山在氏安堵状など

*12:『天文日記』天文8年2月23日条など

*13:天文7年に尾州家屋形となった弥九郎晴満にしても、天文8年4月10日条では年始の音信は遊佐方のみだが、天文9年5月3日条では弥九郎にも年始の音信が送られ。以降は恒例となっている。
これらを踏まえると、証如は守護などの地位が公認されたものであるかどうかで年始の祝賀などの音信を送る対象にするかを判断しているのではないか(上記のように公的な守護となっても翌年の時点では音信が送られていないことももあるが)。

*14:宝鏡寺文書』明徳3年6月13日書状

*15:「鏡外」など

*16:『花営三代記』応永29年1月30日・応永30年11月2日など

*17:『益田家文書』「永正七年在京交名衆」

*18:この時期、義総(『後法興院記』永正9年4月16日条など)・宮内大輔(義元次男・『実隆公記』永正8年5月22日条など)・義元孫(『守光公記』永正9年4月1日条)と、能登畠山家の子弟が御供衆に並んでいる例が複数確認できる。また九郎弟の畠山駿河駿河は、明応の政変で討死し没落した駿河守政清の刑部少輔を名乗った可能性が指摘されている

*19:『永光寺年代記

*20:『言継卿記』永禄7年12月7日条・永禄8年5月19日条

◆石垣家・和泉守護畠山家についての雑多な考察

今回は今まで紹介した石垣左京大夫家・和泉下守護家に関してのこぼれ話をしてみたい。
紀伊の畠山一門・和泉の細川一門と本来ならば特段接点のないこの両家だが、畠山宗家の一門が双方を継承することによって密接に関わるようになった。
特に結論として言いたいことがある訳でもないのでご了承ください。

 

『古今采輯』収録系図と石垣家・和泉守護畠山家

当ブログではお馴染みのマイバイブル・『古今采輯』。
その中にこのような系図があるので、まずは見て頂きたい。

clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp

ご覧の通り、石垣左京大夫家の系譜を記した系図である。

石垣家系図の隣には三箇条の追而書、その隣には湯河氏の系図、宮崎氏の系図がある。
湯河・宮崎系図にも気になることが書かれてはいるのだが、長くなるので今回はパス。
その追而書の中にだが、「玄心様(畠山定政)御親父様(政能)と刑部大輔従弟」という記述がある。
畠山政能(政国子)・細川刑部大輔(晴宣子)は従兄弟関係にあるので、事実を正確に記していると言えよう。

また、この記述者は畠山一門に「様」をつけている。
以前の記事で畠山家が江戸期に自家の由緒を収集していたことを指摘したが、この系図も同一の性質を持つ史料ではないかと考えている。

 

更に個人的な想定だが、この系図『両畠山系図に先行し、その下敷きの一つになったものなのではないだろうか。

『両畠山系図』は一見して石垣家にまつわる記述が多いように思える。
確実な活動時期が大永年間に限られる細川晴宣が、諱を「某」と不明としつつも痕跡が『両畠山系図』の中に残ったのは、晴宣が石垣家の関係者だったから……という考えである。

 

ともあれ、系図の一つ一つの記述を確認していきたい。

・長経

「石垣元祖 卜山二男 左京大夫とある。
系図類では大体稙長の次に置かれている印象があるが、はっきりと次男であると示しているのはこの系図くらいかもしれない。
石垣家の元祖と記されているが、既に述べた通り石垣家の系譜はもっと以前まで遡ることができ、なおかつ尚順弟という既に尾州家の人間が養子入りしていた先例もある。

なので「元祖」とするのは誤りなのだが、『両畠山系図』では以前の石垣家当主の政氏は長経に滅ぼされたとされている。
事実として長経以前の石垣家とそれ以降では断絶があり、それが「元祖」という表記に繋がったとも考えられるかもしれない。

また、長経子として安鶴・岩鶴が記され、これは『両畠山系図』と共通するが、ともに「早世」と記されている。

 

・細川和泉守

「卜山三男長経弟 童名三郎」とある。
細川晴宣のことと見ていいだろう。
これも系譜を明確に三男と示すのは、ここ以外に見えない。
左の追而書にある通り、系図作成者は畠山政国系の存在を知った上で長経を次男・晴宣を三男としているので、そこから政国は四男より下の生まれであると示せるかもしれない。
ただし、仮名を「五郎」ではなく「三郎」と記す誤りもあるので、過信は禁物である。

また、この位置関係では晴宣が岩鶴・安鶴の後の石垣家当主であるかのように見える。
単に石垣家を継いだ刑部大輔の実父を差し込んだだけとみなすべきか、あるいは晴宣自身が石垣家を継いでいた伝承が存在していたとみなすべきか……。
前回も触れたが、「大物崩れで死んだ和泉守護は晴宣ではない」という可能性が否定できず、『証如上人書札案』に晴宣の名が記されていることから、天文5(1536)年頃まで晴宣が生存していたと考える余地はあると思う。

その想定と合わせて一つ考えられるのは、「晴宣は長経の後の石垣家当主」という線である。
天文3-4年頃には尾州家当主として長経が擁立されてりるが、その際に長経が高屋城に入ったのならば、当然鳥屋城の石垣家は当主不在になる。
その穴埋めの形で晴宣が石垣家に入った……という想定である。

結局石垣家当主は長経の系譜の岩鶴丸に戻ったことになるが、その没後に刑部大輔が石垣家を継いだのは、父が一時的に石垣家を継いだ前提があったからではないか……と*1

・細川刑部大輔

「和泉守子」とある。
『古今采輯』系図の情報はこれだけだが、『両畠山系図』では尚順の子に「政清」があり、「是石垣城主岩鶴早世。和泉守護細川和泉守子。以卜山為養子。為石垣領主。号細川刑部大輔」とある。
『足利季世記』に「畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」という記述があるのは以前も述べた通り。
『両畠山系図』では尚順の養子とし、『足利季世記』では尚順の子とするが、これに関しては疑わしいものがある。

刑部大輔の活動時期は尚順がとうに没した後であり、そこから尚順孫をわざわざ尚順養子に位置づける必要性が今ひとつ考えられない。
何か別の伝承が混ざっている気がするのだが、後考を待ちたい。

そして、この刑部大輔の実在性について深く掘り下げたのが、馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)『永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から― 』(史敏4)である。
詳細は省くが、彼は実際に永禄の変後、和泉の松浦光に進退を任せた上で畠山氏によって和泉守護に擁立されている。

この際の刑部大輔の立ち位置について、馬部氏は「松浦氏が和泉支配を貫徹される上で刑部大輔の存在が必要だった」とする一方で、嶋中佳輝『織田信長と和泉松浦氏の動向』(十六世紀史論叢16)では「刑部大輔は和泉支配に関わりが見えず実権は一切なかった」という指摘がある。

実際に現状では刑部大輔が和泉支配に関与する文言が見られない以上、彼は傀儡(このワードを安易に使うのは好きではないが、この場合は本当に実権を伴わないガチ傀儡だと思う)であり、嶋中氏の推定の方が妥当だと考えている。
一方で、永禄の変直後とみられる承禎六角義賢)や、織田信長の近日の上洛を告げる長政*2が刑部大輔に送った書状が残っており、対外的に彼が名目上の守護であることは認知されていたと思われる。

また、刑部大輔が石垣家を継承していたことを示す一次史料として、「模本」の湯河家中連署状がある。
宛先が「宮原殿」「石垣殿」となっており、細川刑部大輔関連文書を収集している「模本」という史料の性質上、「石垣殿」は刑部大輔の可能性が高い*3

書状の年代比定だが、差出人の一人湯河弥七郎春信は、法隆寺文書』永禄2(1559)年8月の禁制では湯河治部大輔春信と名乗っているため、それ以前となる。
他の差出人の湯河一族の名前を鑑みても、おそらく永禄初年からそう遡らない時期の書状ではあると思うのだが、この時期に刑部大輔が石垣家を継いでいた……以外の絞り込みにはなり得ないのが残念。


・景春

「民部大輔 童名松若 二郎八郎」
隣の湯河氏の系図に直春弟として「石垣 二郎八郎」とあり、合わせると湯河直春の弟の景春が石垣家を継いだということになる。
また、湯河直春の仮名は不明*4だが、その子として太郎五郎『湯川彦衛門覚書』等)、二郎太郎顕如上人貝塚御座所日記』天正11(1583)年10月22日)が見える。

 

この記述は果たして事実とみなせるのか。
ここに3つの史料がある。

『湯川彦衛門覚書』*5「亦直春弟は紀伊国有田郡の宇智。石ガキ云所のとやがじょうと云山に城有て。紀伊国之屋形ニテ候。臣下ニハ神保イヌマト申テ兩殿有」
『玉置家系図*6「是は其比湯川末子と左助(保田知宗)娘を取合、石垣畠山之家を継せし縁に依而也」
『崎山氏由緒書』*7「有田郡湯浅に白樫、石垣に湯川の舎弟屋形、此臣下神保、又下津野に片田、是は玉置の縁者也、宮原に畠山、保田に貴志、是は畠山の従弟也、又宮崎、是は岸の縁者也」

①は湯川彦衛門の覚書。寛永10(1633)年没の玉置小平太(直和孫)を文中で「今の(玉置)小平太」としているため、それ以前の成立。
②は玉置与右衛門の覚書。覚書の文中に元和7(1621)年の出来事が記され、与右衛門の子と思われる追記の文中には寛文9(1669)年とあるので、覚書はそれ以前の範囲での成立。
③は崎山弥左衛門時忠の覚書。「元和元(1615)年乙卯」の年号が付記されている

石垣家が存在したリアルタイムを生きた人物ではないものの、その下の世代の人物による覚書である。
相互補完で成り立った史料ではないと考えられ、このような複数の史料から石垣家に関する証言が残っていることから、湯河直春の弟が石垣左京大夫家を継いだことは事実とみなして良いのではないだろうか。

 

以下補足。

①の「臣下には神保イヌマト申テ」のうち神保は江戸時代に旗本として残った家で、系譜にも畠山家臣として紀伊鳥屋城に住したという情報がある。
一次史料に置いても『岩倉神社棟札』天文11(1543)年棟札に「神保三河守」『白岩丹生神社棟札』永禄3(1560)年の棟札に「神保之光茂」の名が見える。
ともに鳥屋城近辺の寺社であり、神保氏が石垣家重臣であることは疑いようがないだろう。

「イヌマ」については飯沼(いぬま)氏を指すと思われる。
石垣家関連人物と判断し難いのがネックだが、『間藤家文書』天文末年に畠山氏被官と思われる飯沼九郎左衛門康頼が確認できる。
また『足利季世記』では教興寺の合戦で紀州衆として飯沼九郎左衛門が討死している。

 

②は天正9(1581)年に保田佐介(知宗)が高野山から攻められた戦いを記したもの。
保田知宗は織田政権下においての厚遇が目立つ畠山被官である*8

独自の記述として、湯河直春弟が知宗娘と婚姻した上で、石垣家を継承したとしているのは注目される。
保田氏は畠山氏の有力内衆であり、その保田氏と婚姻させることが石垣家継承に必要な条件だったことになる。
そのため、湯河氏からの養子入りは湯河氏からの圧迫などで畠山分家が乗っ取られたといった類の話ではなく、畠山側が主導して行ったものと考えたい。

また、元亀4(1573)年の畠山秋高の殺害と足利義昭没落の際、保田知宗は織田方に属す一方で、湯河直春は義昭方に属している。
そのため、景春と知宗娘の婚姻、景春の石垣家継承は畠山氏が河内守護として健在の頃に行われたと絞り込めるだろう。

 

更にもう一点、景春の存在とその死去を示せそうな史料がある。
天正13(1585)年の羽柴秀吉紀伊攻めに関わる『小早川文書』3月25日秀吉書状では、「畠山式部大輔・村上六右衛門親子三人・柏原父子・根来法師蓮蔵院以下数多を討ち、畠山居城戸屋城を乗捕った」と記す*9
「畠山居城戸屋城」は石垣家の鳥屋城に他ならない、ではそこに籠もっていた「畠山式部大輔とは?
「式」は字形の似ている「民」の誤記である可能性がある。
とすれば「畠山民部大輔」……つまり系図「民部大輔」と記される景春を示せるのではないだろうか。

湯河氏の伝承でも、その後紀伊山中で抵抗した湯河一門の中に「民部大輔」を名乗る人物はいない。
石垣景春は秀吉の紀伊攻めに抵抗して討死にし、石垣家は滅んだと想定したい。


刑部大輔の実名

次に細川刑部大輔についてだが、一次史料でその実名を推定できるかもしれない文書がある。
『田代文書』永禄9(1566)年1月5日田代内匠助宛氏朝書状がそれである*10

この史料内には他に細川元常松浦守が宛てた書状が存在しており、田代氏は基本的に和泉守護方に属する国衆と見られる。
件の文書は「望申候、官途之事、得其意候也、謹言」という簡素な文書だが、官途の望みを取り次いでいること、書札礼から「氏朝」は守護クラスはある高位の人物と思われる。

更に『田代文書』収録の「田代家系図によると「内匠助」はこの文書から間もない永禄9(1566)年2月17日に和泉で討死したと記される。
2月17日はまさに和泉家原で三好義継・三好三人衆・阿波三好家と畠山高政・松浦氏の連合軍が激突し、後者は大敗した合戦が行われた日。

すなわち、内匠助に文書を発給している「氏朝」はこの時期の和泉守護に擬えられた人物!
……と言い切りたい所だが、内匠助がどちらの立場で家原合戦に参加したまでは記されていない。
また『田代文書』元亀年間と思われる田代道徳*11宛恕朴(篠原長房)・三好康長書状から、時期によっては田代氏は松浦氏ではなく三人衆・阿波三好家方に属している動きが確認されるため、悩ましいところ。

ただ、敗北した畠山・松浦方の方に大身の戦死者が出やすい、三好方に和泉守護的な人物を擁立する意義はあまり考えられないことから、「氏朝」は畠山・松浦方の人物である可能性の方が高い……くらいは言えるだろうか。
そして、この「氏朝」こそが畠山・松浦方に擁立された和泉守護細川刑部大輔その人、と言いたいのである。

『田代文書』の氏朝が刑部大輔である前提で進めると、彼は永禄9(1566)年1月、松浦氏が畠山方に転じた時点で和泉守護として双方から擁立されたこととなる。
そうなると、上記の『関本氏古文書模本』による永禄11(1568)年の和泉入国作戦への解釈も多少変わる。
畠山・松浦・義継の三者によって刑部大輔がこの時に擁立された訳ではなく、刑部大輔の和泉への関与は永禄9年前後の畠山・松浦氏の提携が前提にあり、後に義継が加わった形になると言えるだろう*12

また、「氏朝」という諱はどういった経緯で名乗ったのか、についても可能性を示せる。
もとより畠山一門の諱にはあまり共通点や法則性は見受けれず、意味を見出そうとするべきではないのかもしれないが。

ともあれ、誰かの偏諱を得て名乗ったと仮定するのならば、一人思い当たる人物がいる。
そう、細川氏綱である。
周知の通り氏綱は尾州家の庇護を受けており、また刑部大輔父の晴宣に代わりに和泉に赴任するなど、刑部大輔との間に接点も見いだせなくもない。

彼が初名の「清」から「氏綱」に諱を改めたのは天文11(1542)年から。
刑部大輔の生年については、早く見積もって1530年頃になる*13ので、元服したタイミングで氏綱から偏諱を授与される条件は揃っているのではないか。
また、氏綱への改名と同時期に彼が起こした挙兵には尾州家が合力せず、早期に鎮圧されている。
氏綱から畠山一門に偏諱が与えられた背景として、それを経て氏綱と尾州家の関係性の再確認をするためという理由も想定しておきたい。

 

……が、そうなると気にかかるのが、『両畠山系図』で刑部大輔と想定される人物に記される「政清」の名である。
無論『両畠山系図』は二次史料であるためただ無から生えた諱という可能性も十分あるのだが、この史料を利用価値のあるものとして使い倒している当ブログのメンツもあるので別の可能性を考えておきたい。

 

①「政清」は畠山刑部大輔政清と混同した。

畠山政清は畠山分家駿河守家の人物で、明応の政変で戦死している。
活動時期は違うが、官途・諱が一致するため混同された可能性はあるだろう。

②刑部大輔には「氏朝」と「政清」という二つの名があった。

これも妥当な可能性だとは思う。
ただし、疑問点がないわけでもない。
「政清」の政は政国・高政・政頼(秋高の署名)の偏諱を連想させるが、例えば永禄9(1566)年以前に「政清」→「氏朝」と改名したとなると、畠山当主の偏諱を捨てたことになる(上記の氏綱からの偏諱説を取り入れるとより考え難いことになる)。
となると永禄9年以降に「氏朝」→「政清」と改名したことになるが……これ以降のタイミングで偏諱を授与されるイベントがあったのかというと、やはりあまりしっくりこない。

③「刑部大輔氏朝」とは別に「政清」という人物もいる。

本題。
まず、『古今采輯』収録系図の刑部大輔は「和泉守子」とのみを示すのに対して、『両畠山系図』の「政清」は畠山尚順の子の位置に置き、「和泉守子が卜山の養子となった」と若干異なる情報を載せている。
『古今采輯』収録系図の情報は簡素な分特に不審な点はないが、『両畠山系図』のそれは尚順の孫を尚順の養子にする必要性は感じられず、「政清」の情報には何か誤りがあるのではないかと考えた。

そこで、持ち出すのが前回に述べた、「『両畠山系図』(から派生した『足利季世記』も)の和泉守護の情報は上守護と下守護が混線しているのでは」という可能性である。
つまり、刑部大輔とは別に尚順の養子となった上守護家の人物がおり、その名が「政清」だったのではないか……という話である。

そして、ちょうど諱が不明で候補としてお誂え向きの人物がいる。畠山政国期に擁立された「細川弥九郎」である。
彼こそが「政清」の正体であると提案したい。

弥九郎は進退を遊佐長教に任せているなど、畠山氏に依拠している立ち位置であり、その弱い立場が政国からの偏諱授与に繋がったのではないか(先代からの名前の法則からいうと「政基」と名乗るほうが自然では、などとも言えてしまうが)。
また、その場合尚順の養子になったという記述は、尚順娘が嫁いだということを意味するのかもしれない(弥九郎が勝基子とするなら、細川尹賢の弟春具の曾孫にあたり、年代的にギリギリ尚順の娘と合わなくもない)*14


④そもそも「氏朝」は刑部大輔じゃないよ。

身も蓋もない話だが、この可能性も想定しておきたい。


刑部大輔と湯河直春書状

「模本」における刑部大輔名義の宛先の史料は、永禄の変以降の義昭上洛戦に関わるものが殆どだが、唯一それに関わる文言が無い書状がある。
それが4月8日(湯河)直春書状である。
以下、全文を書き起こす。

其以後不申通*15本意存候、仍根来寺為加勢至山東出陣仕候。殊被対両三人御書中にて被見候、満足申於様体者老中可申参不能再筆候、恐々謹言

卯月八日           直春
刑部大輔殿
     御宿所

 

刑部大輔と湯河氏の関係については、直春弟が石垣家を継いだことや、「模本」に先述の刑部大輔宛の湯河家中連署状が存在することから、それなりに親しい間柄が想定できる。
内容としては、直春はしばらく刑部大輔に連絡を取っておらず、根来寺に加勢のため山東紀伊名草郡山東荘。根来寺領とのこと)に出兵していたという。
山東への出兵は根来寺領に何かしらのトラブルがあったということだろうか。

文書の絞り込みだが、まず刑部大輔含めた畠山氏が紀伊(有田郡)に没落している時期ならば、湯河氏の山東への出兵は普通に考えれば畠山領内を通るものなので、書状で説明する必要性が薄いと思われる。
よってこの時の刑部大輔の在所は畿内のどこかと想定し、畠山氏が上洛戦を開始する永禄9(1566)年以降と見て良いのではないか。

更にこの直春の書状の内容も気になっている。
根来寺も湯河氏も畠山氏の根強い与同勢力であり、当然義昭上洛戦においても義昭・畠山方からその軍事力は期待されたものと思われる。
湯河氏の行動は見えにくいが、根来寺は実際に畠山氏に協力して何度か畿内出兵をしている。
しかしここでの両者は、どうも根来寺の私的な要請で援軍に赴いているように見え、これが逼迫した時期のものとは思い難い。
(この山東出兵が義昭上洛戦において重要なものである可能性も完全否定はできないが。)

なのでこの書状は畠山氏を巡る環境が比較的落ち着いており、根来寺・湯河氏が特に下知を受けずフリーで動ける時期のものと推定したい。
その場合の4月という月は、永禄9(1566)年はまさに畠山・松永・松浦方が大敗し堺に逼塞している時期、永禄11(1568)年は義継・畠山が刑部大輔と松浦氏の和泉入国作戦を実行しようとしている時期。
どれも畠山方が湯河氏としばらく連絡を取っておらず(=根来寺含めた軍事協力要請などをしておらず)、湯河方が呑気に根来寺に協力していると返答している状況は考えづらいのではないか。

その点、永禄10(1567)年は可能性の一つになり得る。
この年は2月に三好義継が松永方に転向し、畿内の騒乱が再燃した時期ではある。
ただし、義継・松永方への畠山・松浦の合力が見え始めるのは同年8月頃、そのため4月段階では畠山方も軍事行動予定がなかったため根来寺・湯河氏もフリーに動いていた、と考えられる。。
他の可能性としては畿内戦線が義昭方の有利でひとまず落ち着いている永禄12(1569)年以降。
その場合義昭・信長上洛後に、刑部大輔の消息が確認できる史料ということになる。

かなり推察混じりで穴が多い推論なのはご容赦いただきたい。
また、もしこの湯河氏の山東出兵時期を絞り込める史料が見つかれば結論が出るので、期待したい。

石垣家当主と和泉守護家当主の変遷

石垣岩鶴丸→細川刑部大輔→石垣民部大輔(景春)と継承されていったと思われる石垣家。
例によって確たる一次史料があるわけではないが、この継承時期についても想定してみたい。

先に刑部大輔から景春への継承を考察する。
今回用いるのは、『吉備町史 上』「畠山氏関係記録」として紹介される星田家所蔵文書。
この史料、有田郡関係の古記録が見えるのだが、町史の中では書き記したのは享保8(1723)年としており、正直なところ確からしさに欠ける。

そんな史料ではあるが、その中に「畠山中元祖」という文書がある。
オンラインでも閲覧可能だが全文を書き写しておく。

畠山朴山様御子 惣領種永様 其後は大夫様
其後は泉州守様則泉守護也
畠山大夫様御子 国置後□岩千鶴様
畠山種永様御子 正国様御□原之御子
高正様 宮崎腹 宮原殿 同
正吉様 同   秋高様 同

外山城(鳥屋城)主始代
畠山泉守也嫡子畠山刑部大夫殿大夫様の甥也当寺にて死去す
是より湯川宮内少輔直光御子松若殿へ御ゆずる被成也
畠山民部大夫殿と申也 此御子南都水門に二郎八と申て有之

 

一見して、朴山(卜山)・種永(稙長)・大夫(左京大夫長経)、泉州守(晴宣)・岩千鶴(岩鶴丸)・正国(政国)・高正(高政)・正吉(正能)・秋高と、綴りこそ誤りがあるものの読み自体は合っており、畠山一門の系譜もそれなりに正確に記している(「宮原殿」だけ不詳だが)。
そのため、系譜に関しては比較的正確な典拠があったことを思わせるが、次の「鳥屋城主次第」に気になる情報がある。
湯河直光子の二郎八郎に石垣家当主が譲られ、畠山民部大輔と名乗ったという点は『古今采輯』などの早い段階の伝承と一致するが、「畠山中元祖」ではその時期は刑部大輔が当寺(如意輪寺と思われる)で没した後だとする。

すなわちこの情報に従えば、刑部大輔は生涯石垣家当主と和泉守護家当主を兼ねており、またある時期に和泉から石垣荘に戻っていたということになる。
無論、この伝承がいつ成立したのかは不明なので全幅の信頼は置けないが、上記の畠山一門の系譜のようにそれなりの確からしいソースがあったことも想定できるのではないだろうか。
なので、今回は刑部大輔から景春への継承について、和泉の刑部大輔と石垣の景春で家督を分業したのではなく、刑部大輔が石垣荘で没した後に景春に石垣家が継承されたものと想定して話を進める*16

そうなると、その時期は刑部大輔の活動が和泉で見れる義昭上洛戦の期間には当てはまらない。
また家督継承の際に景春が保田知宗の娘と婚姻したという覚書も合わせると、信長上洛の永禄12(1469)年以降から元亀4(1573)年頃まで絞り込めそうである。

刑部大輔が信長上洛後にフェードアウトした理由は、死去・追放だけではなく、
和泉周りの情勢が落ち着くと、いよいよ実権のない刑部大輔が和泉に留まるメリットが薄れ、兼業している石垣家当主として紀伊に下向したため、という可能性も提唱できるのではないか。

次に岩鶴丸から刑部大輔への継承時期について。
こちらについてもやはり根拠として使えるものは少ない。
刑部大輔は「五郎」と名乗っていることから、元服時は和泉守護の継承者として位置づけられ、その後岩鶴丸が没したため石垣家を継いだ、までは言い切れるだろう。

鶴丸の動向についてだが、歓喜寺八幡社棟札』天文10(1542)年4月1日年の棟札に鶴丸が大檀那として見えるのは以前述べた通り。
一方で上記の『岩倉神社棟札』は、天文11(1543)年3月3日に神保三河が主となり岩倉神社を再建したと伝えている。

神保氏は上記の通り石垣家の家老で、この記録には岩鶴丸の名前は見えない。
この間に没したので名前が見えないとも言えるし、別の神社なので事情が違った・神保氏が畠山氏を介さずに再建を行ったとも考えられ、なんとも言えない。

ともあれ、永禄元(1558)年以降松浦氏などの和泉の勢力は三好氏から遊離しがちになる。
その中で畠山氏にとって刑部大輔は和泉に影響力を浸透させるための神輿となり、久米田合戦の後に岸和田城に入った伝承のように、石垣荘を離れる機会が増えたことが想像できるのではないか。
先述の『白岩丹生神社棟札』永禄3(1560)年棟札で石垣家当主ではなく家老の神保光茂が願主となっているのは、単なる下剋上文脈ではなくこのような状況も手伝ったのかもしれない。

 

参考文献
馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)
馬部隆弘『永禄九年の畿内和平と信長の上洛―和泉国松浦氏の動向から― 』(史敏4)
嶋中佳輝『織田信長と和泉松浦氏の動向』(十六世紀史論叢16)

*1:系図の順番を尊重して、長経→岩鶴丸→晴宣→刑部大輔と当主が変わったという想定もなくはないが、そこまで行くと晴宣が天文10年以降も存命だった痕跡が欲しい所

*2:浅井長政と比定されているが、浅井氏の家格で守護細川家に対等な書状を送れるかどうかには疑問がある。「長政」を守護格の人物と想定する場合、伊賀守護の仁木長政が候補に挙がる。これも志末与志氏の提言による。なお花押や年月日については写されていないため不明。

*3:なお、三浦蘭阪が途中で全文を模写することを諦めたため、これ以降に収録される書状は内容を略され差出宛名のみとなっている。おそらく内容が記されていればもっと多くの知見が得られただけにもうちょっと頑張って欲しかった。

*4:清和源氏湯川系図』では「小太郎」としている。

*5:続群書類従』第五輯上

*6:『川辺町史』第3巻に収録。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

*7:『川辺町史』第3巻に収録。国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

*8:弓倉弘年『織田信長と畠山氏家臣』(中世後期畿内近国守護の研究)・小谷利明『織豊期の南近畿の寺社と在地勢力』(南近畿の戦国時代)

*9:弓倉弘年『畠山式部太輔と貞政』(中世後期畿内近国守護の研究)

*10:この文書は志末与志氏のツイートで知見を受けたものである。

*11:「田代家系図」と合わせると俗名は豊前守尚綱で、内匠助の父と思われる

*12:もっとも、永禄11年の段階では刑部大輔は松浦氏に進退を任せる立場となっており、和泉への具体的関与も見えないため畿内和平を経て立場が変化した可能性もある

*13:父晴宣が稙長(永正6(1509)年生)とさほど変わらない年齢だと仮定した場合

*14:尚順養子(=尚順娘が嫁ぐ)になったのは勝基で、その後継の政清と二代の情報と混同した可能性も考えたが、そこまで行くと流石にこじつけ方が苦しいか

*15:「非」などが欠か

*16:なお、『足利季世記』の記述では、久米田合戦後に岸和田城に細川刑部大輔が入ったと書く一方で、石垣家は当主の代わりに神保氏が名代として参戦したと書かれている。これに従うと、和泉守護家と石垣家の当主は別々ということになってしまう。これに関しては、『足利季世記』が刑部大輔の和泉守護家と石垣家の兼任を知らなかっためと言えるかもしれないが……

◆和泉上守護細川晴宣について

ようやく二人目、細川晴宣
こんな煮詰まったブログを訪れる方ならご存知かもしれないが、この人物が細川姓なのは彼が畠山氏から和泉上守護細川氏を継いだ立場だからである。
晴宣が畠山氏出身で、稙長の実弟であることは、『証如上人書札案(宛名留)』の「晴宣」「和泉守護稙長弟」とあることでわかる。

また、『両畠山系図』では尚順の子に「某 和束屋形」と記される人物がいる。
既に馬部隆弘氏が指摘しているように*1「和束」「和泉」の誤記であり、これは晴宣を指すものだと思われる。

晴宣に関しての基礎知識は、岡田謙一氏の細川高国派の和泉守護について』(ヒストリア182)で述べられているので、今回はほぼほぼそれの受け売りである。
もっと突っ込んだ話が知りたい方は、該当論文を読んでいただきたい。

和泉と畠山氏

畠山氏出身の晴宣がなぜ和泉守護になったのか、その前提はひとまず父・畠山尚順の代に遡る。

畠山氏にとって和泉は正式な守護領国ではないものの、その関わりは深い。
尚順の代にも、「泉之堺、泉州両守護被官其大者七人。為畠山尾州之被官」*2と書かれるほど和泉への影響力は強かった。
更に明応9(1500)年に尚順は和泉に侵攻し、上守護細川元有・下守護細川基経の両者を切腹に追い込むなど和泉を荒らし回っている。
そして永正元(1504)年に畠山勢は根来寺と共に和泉を占拠。
この際に見られる表現が「当守護」九条家から和泉の家領経営に関わる存在として挙げられた「寺家」(根来寺)と「当守護」である*3
本来の上守護である細川元常はこの時阿波に没落している(下守護細川政久の動向は不明)ため、守護として認識される存在は尚順しかいない*4

当時の将軍は尚順と対立する足利義澄。そのため当然幕府から公的に認められた和泉守護であるがずがないのだが、実力で和泉を抑える尚順方は在地勢力からは守護として認識されるようになったのだろう。

その後、尚順は和泉から没落するが、義稙の上洛により畿内から義澄・澄元方は一掃され、和泉も再び義稙方の影響が強くなる。
下守護家には細川高国の親戚の細川高基(従弟細川尹賢の弟)という人物が就任していることが伺えるが、元常が没落し空白となった上守護家に細川氏が就任した形跡は伺えない。

しかし、『多和文庫所蔵文書』永正11(1514)年4月「久米田寺懸茶算用状」では「二拾斤両守護へ納茶」という表現が見え、当該記にも半国守護体制が維持されていたことを伺わせる。
この両守護の片割れは何者なのか、そこに出てくるのがまたもや畠山尚順である。

 

以下、岡田論文+αを元に、義稙上洛から尚順の失脚までの尾州家の和泉への関与を記す。

①『高野春秋』『密宗年表』永正6(1509)年3月17日  畠山家司池田光遠が和泉国新在家村四分の一を岡孫太郎にを宛行う。
②『守光公記』永正9(1512)年10月3日 飛鳥井雅俊が泉州に下向し畠山尚順古今和歌集を与える。
③『賀茂別雷神社文書』永正11(1514)年5月28日 三宅兵部入道道三・曽我平五郎山崇連署状。和泉国深日・箱作氏の知行内の賀茂社領を社納するように両者に申しつける。
④『施福寺文書』永正15(1518)年6月17日 曽我平五郎山崇書・長少将連栄連署
⑤『和田文書』永正15(1518)年9月10日和田太郎次郎宛曽我山崇・某順正連署状。同日林堂山樹書状。和泉国衆和田氏に原次郎四郎跡を宛行う。

このように断続的にではあるが10年ほどの間、和泉で尾州家の関与が見える。
少なくとも久米田寺はこの当時細川高基畠山尚順を指して「両守護」体制と見なしていたというのは注目される。

加えて尚順の立場も永正元年とは違い、幕府からに公認されたものである可能性が高い(正式に守護任命されたかは別として)。
義稙政権下の尚順の立ち位置を考えても、流石に10年もの間和泉を無断占拠していたとは考えがたい。
実質的に和泉支配を公認された理屈として、積み重ねた和泉への影響力もあるだろうが、尚順細川高国の姉婿であることも考えられる。
義稙政権における細川家一門は、典厩家・和泉下守護家・備中守護家が高国に近い一門に交代している。
ただ、これは何も高国が一門乗っ取りを目論んだという訳ではなく、典厩家・和泉上守護家といった有力一門が澄元方についたため、その穴埋めをせざるを得なかったという要素もあると思われる。
高国の用意できる細川一門にも限りがあるため、上守護家は姉婿である尚順に任すことになったのではないだろうか。

こと、②の永正9年段階で尚順が和泉に在国していたのは注目される。
この一件だけで尚順が和泉に常時在住していたかまでは判断できないものの、自ら現地に赴いていることは、和泉への関心の深さを想像できるのではないか。

また、⑤で書状を発給する林堂山樹尚順の腹心的存在*5
永正15年ともなると尚順は既に嫡子稙長に河内を譲り、紀伊に隠居している時期だが、和泉に関しては未だに尚順が守護の役割を果たしていることが伺える。


晴宣の動向

ようやく主役たる細川晴宣の登場だが、確実な初見は『御法成寺関白記』大永3(1523)年1月1日条の「和泉守護民部大輔(細川高基)・同五郎」とされる。
書状での初見は『和田家文書』(大永4(1524)年)11月2日和田宮千代宛晴宣書状。
大永4年の書状は花押付きで発給しており、当時16歳の兄稙長とさほど変わらない年齢だったと思われる。

さて、個人的に気になっていることがある。「晴宣は尚順期から和泉守護を継ぐことを既定路線としていたのか」という点である。
河内の統治権は稙長に譲った尚順だが、紀伊越中・和泉はいまだ尚順が主体となって差配していた。
将来的に和泉守護職尾州家の管轄として稙長が継承するはずだったのか、あるいは尚順没落をきっかけに弟晴宣に分割することになったのかは不明。
当時は稙長・晴宣ともに若年なので、尚順は稙長が若年であるため河内の経営のみを任せ、長じれば紀伊・和泉などを一括して譲るつもりだった」「実は晴宣は既に和泉守護の後継として養育されていたが、若年のため史料には見えなかった」のどちらも言えそうである。
今後、それを判別する材料を発見できれば幸いである。

ともあれ、最低でも5人いることが確認できる稙長の弟の中で、晴宣が和泉守護に抜擢されたのは、彼が細川氏の血を引いている、つまり晴宣母は高国姉であることも想定できるのではないか。

また、尚順が没落という形で和泉守護の座を失ったため、晴宣が尚順期からの人材を継承しているかも不明。
現状、晴宣に関わる記録からは彼の被官の存在は確認できない。
一応、『関本氏古文書模本』にある、勢長書状の宛所である斎藤三郎左衛門尉・庄備中守を可能性として挙げておく。
勢長根来寺坊官で九条家日根荘の代官を務めた人物と想定され、『九条家文書』に大永年間に活動した記録が残っている。
なのでこの模本も大永年間のものである可能性は高いと思われる。
ただし、宛先のうち庄備中守(盛祐)は永正年間に和泉下守護細川高基の被官して見え、斎藤三郎左衛門も高基被官斎藤彦衛門尉国盛の系譜の人物と思われる*6
馬部氏も同様のニュアンスの指摘を行っているが、『模本』の他の書状の多くは和泉上守護家に関連するものであり、斎藤・庄宛書状がここに残されたということは彼らが細川晴宣となんらかの関係を持っていた可能性はあると一応指摘しておきたい。


晴宣の確実な終見は『真乗院文書』(大永6(1526)年)12月27日の和田宮千代宛晴宣書状*7
岡田謙一氏・馬部隆弘氏の推定に従い、この後の大永7(1527)年の桂川合戦を機に晴宣が没落し、一時的な後任として細川清(氏綱)が派遣されたと考える。

また、この際に氏綱の取次を松浦守が務めている。
本来は澄元系上守護の細川元常に属す松浦守だが、その動きは流動的とされる。
永正7・8年頃は高国方に属している姿が見え、大永4(1524)年12月は晴元方として晴宣と戦闘しており、大永7(1527)年2月にも晴元方として桂川合戦に望んだと見えるが、同年5月~10月の間は高国方として見え、更に同年12月に晴元方に戻っている。

節操が無いようにも見える守の行動だが、在地に留まるというのが守の第一方針で、主君元常が澄元方と共に阿波没落している際には高国方に属し、元常の和泉復帰が近づくと馳せ参じるという結果になったのではないか。

少なくとも尚順の和泉支配期と守の高国方所属期は重なっている、関係性に関しては不明だが。
同様に、晴宣期にも守が高国方に所属していた可能性はあるかもしれない。
桂川合戦前後から晴宣の消息が和泉から消えるのは、晴元方の上洛が近づく中で再び鞍換えした松浦守に追い落とされたというのも想定される。

晴宣はいつ没したか

その後の晴宣の足取りは確実な史料では追えないが、その死を示唆するものはある。
『東寺光明過去帳』『二条寺主家記』に享禄4(1531)年6月4日の大物崩れで「和泉守護」が討死したという記録がある。
高国方和泉下守護の細川勝基は天文年間後も存命が確認されており、これはもう一方の守護である晴宣のこととと解釈されている*8

ただ、個人的に気になる点もなくはない。まずこの可能性に従えば晴宣は高国の陣にいたということになるが、これが細川一門として高国の流浪に付き従った形か、高国の上洛戦を機に畿内から合流した形なのかはわからない。
今の所、史料から追える晴宣の動きは他の細川氏と行動を共にするなど、ほぼほぼ細川一門としてのものであり、畠山一門としての色は見られない。
『証如上人書札案』が無ければ、畠山氏出身であることも知られないままだったかもしれない。

また、畠山稙長は享禄元(1528)年11月、晴元方と和議を結んで高屋城から金胎寺城に退いてから、天文元(1532)年末まで大きな動きが見られなくなる。
この間の稙長が高国に支援を行う余裕があったか、あるいは高国派として動いていたかは明確ではない。
これに関しても、何かしらの行間を埋める史料が見つかれば個人的にはありがたいのだが。

もう一つ、晴宣の名が『証如上人書札案(宛名留)』に記されているのは前述の通り。
順番は畠山稙長・細川勝基・細川晴宣・遊佐長教・畠山基信と、尾州家・高国系細川氏のグループで固まって記されている。
ここについても疑問がなくはない、『天文日記』は天文5(1536)年から記述が始まっており、「宛名留」もそれに沿っての成立が想定されている。
前述の想定ならこの時点で晴宣はとっくに故人であり、本来なら記す必要のない人物である。
これに関しても、書札案が残っている以上、証如が本願寺宗主となった大永5(1525)年から後述の没年までのわずかな期間ではあるが、本願寺とやり取りする機会がありそれが残った……と辻褄を合わせうことは可能だが。
……が、本願寺と交流があったと思われる人物でも、細川高国など天文年間以前に没していたり、細川晴国のように天文5年頃に本願寺側が交流を断っている人物は「宛名留」に記されていない。
そのため晴宣だけ例外とするのも不自然になってしまうが、この件は一旦保留しておく。

上守護と下守護をそーれがっちゃんこ……?

さて、ここからは完全に余談になるが、『足利季世記』にも晴宣と思われる人物の記述がある。
「河内衆氏綱と一味の事」「故高国と一所に打れし細川和泉守護の子新和泉守も氏綱に力を合わせ高屋に来たりけるか病死しけるか男子なくして畠山政国弟を遊佐かはからいとして彼の和泉守か聟として名字を継せ所領を安堵し細川刑部大輔と号す」とある。

細川刑部大輔は晴宣の子に該当すると思われる人物。よって政国の弟ではなく甥に当たり、「模本」により永禄年間の活動が確認される、なのでここで病死したとするのはあり得ない。
つまり事実を正確に記しているとは言えないが、これまで見た『足利季世記』の性質上完全なデマでない可能性もあり、例によって分解&再構築を試みてみる。

まず、高国と共に戦死した和泉守護の系譜が畠山氏と何かしらの関係性があること、畠山氏から和泉守護に養子が入ったことまでは『足利季世記』(とその元ネタ)は掴んでいたということになる。
和泉守護の子にあたる刑部大輔はこの際に病死した人物ではない、しかしこの時に死去した新和泉守」が実在するかもしれない、ならばそれはもう一方の和泉守護家の人間なのではないか……と辻褄を合わせてみたい。

ここで、かつて晴宣と共に守護を務めた勝基と、その後継者とみられる弥九郎という人物が畠山方に与したという記録が残っている。
勝基・弥九郎の動向についてはこちらのブログを参考にして頂きたい。

monsterspace.hateblo.jp

ブログ内で紹介されている9月25日勝基書状については氏綱方と鷹山氏が連絡を取り始める点から天文11(1542)年以降、文中の「河州」を遊佐長教とするなら長教が河内守に任官する天文13(1544)年以降となる。
8月22日弥九郎宛書状は、天文15(1546)年8月から始まる畠山政国・遊佐長教の挙兵に関わるものだろう。
つまり、和泉下守護家の勝基はこの頃既に尾州家・細川氏綱陣営に合流しており、なおかつその後継者とみられる弥九郎が改めて尾州家に進退の保証をされているということになる。
ここから想定される事態は下守護家細川氏当主の交代……つまり「氏綱に協力した高国方和泉守護は高屋に訪れて間もなく病死した」「和泉守護の子が氏綱に協力した」という記述に当てはめられるのではないか。
つまり、「氏綱方として高屋城に入るものの、やがて病死した細川和泉守とは勝基のことである」という説を唱えてみたい。
晴宣-刑部大輔勝基-弥九郎の二つの家が畠山方に属していたという事実を、『足利季世記』編纂の際に一つの家のことと判断して合体させてしまい、このような記述になったのではないだろうか*9


晴宣の子としては、『両畠山系図』から上記の刑部大輔「一色式部少輔藤長母」がいる。
刑部大輔の方は馬部氏の論文で検討を加えられているが、ここでは詳細を省く。

問題は晴宣娘の方だが、一色藤長父の一色晴具の生年は活動時期から永正年間初期と推定され*10、晴宣と同世代である。
藤長の生年は天文年間初期頃と推定され、晴宣の子世代が藤長を産んだとするのは年齢面で苦しい。
実際、『両畠山系図』で播磨守晴熈の娘とされる万里小路惟房母」が実際は畠山播磨守でも畠山播磨守でも播磨守政熈の娘(政熈は畠山尚順陣営に属していたため、混同される原因になったのだろう)だった、というケースがある。
なので同様に藤長母も実際は別の和泉守護細川氏の娘だったという可能性を考えたい。(他にも藤長母は晴宣の猶子、晴宣の姉妹、あるいは藤長の母ではなく藤長の妻というパターンも考えられるが)

該当する和泉守護については、混同された原因も想定して「晴宣に親しいという意味で高国系下守護家」「晴宣の継いだ家という意味で上守護家」の可能性を挙げる。
具体的には、晴具より一世代上の下守護家細川高基・上守護家細川元常の二択に絞られるだろう。
そして、婚姻の時期は式部一色氏とその和泉守護が同陣営に属していたと考えるのが妥当なため、前者なら桂川合戦を期に義晴・高国が分離する大永7(1527)年頃まで、後者なら義晴が上洛して晴元と政権運営を始める天文4(1535)年以降と考える。

元常娘と想定してもギリギリ成り立ちそうな範囲ではあるが、個人的には高基娘の可能性が優勢に見える。
前述の『足利季世記』の記述は晴宣と高基の系統が混同されたことで起こったという仮説も、その後押しになるかもしれない。
更に発展させれば、『両畠山系図』の和泉屋形が「某」としか記されないのは、『足利季世記』同様に晴宣系と高基系が混線して、何者かわからなくなってしまった結果ではないだろうか。


参考文献
岡田謙一『細川高国派の和泉守護について』(ヒストリア182)
馬部隆弘『細川晴国・氏綱の出自と関係―「長府細川系図」の史料批判を兼ねて』(戦国期細川権力の研究)
馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)

*1:馬部隆弘『畠山氏による和泉守護細川家の再興―「河州石川郡畑村関本氏古文書模本」の紹介― 』(三浦家文書の調査と研究)

*2:『蔭凉軒日録』明応2年2月21日条

*3:『政基公旅引付』永正元年12月2日条信濃小路長盛書

*4:なお、この元常の没落については阿波細川家の関わりも指摘されている。「再昌草」天文3年12月14日に「元常は細川成之の外孫」と記されており、当時の阿波守護家細川成之畠山尚順と共に足利義稙派に属していた。ために尚順の伸長は元常にとっても損ばかりではなく、さほど抵抗せずに退いたのでは……という想定である。

*5:小谷利明『宇智郡衆と畠山政長尚順』(奈良歴史研究59)

*6:『板原家文書』5月19日高基書状

*7:馬部隆弘『細川晴国・氏綱の出自と関係』(戦国・織豊期の西国社会)

*8:あるいは先行研究では大永4年頃没したと推定されているものの確実な死去記録のない高基が実は存命で、ここで戦死した可能性もあるか。その場合勝基が和泉守護を継承しているはずなのに「和泉守護」と記されるか?という疑問も生まれてしまうが……。

*9:そうなると細川高国と共に討たれたという「新和泉守(勝基)」の父の和泉守護は高基に該当するのでは……? となってしまうのだが、現段階では保留しておく。

*10:木下昌規『足利義輝・義昭期における将軍御供衆一色藤長』(戦国期政治史論集 西国編)

◆軍記・系図の中の畠山長経

今までの畠山長経関連の記事では敢えて触れずにいたが、わざわざこんなブログを読みにくる人ならば「畠山長経は家臣に毒殺された」という話を聞いたことがあると思う。
軍記類にしか見えないエピソードのため、当然そのまま鵜呑みには出来ないシロモノだが、今回はそんな軍記・系図における長経の記述を考察していきたい。

まずは系図類における長経に関して、古くから今谷明氏が『津川本畠山系図について』の中で検討を行っているので、それを参考にする。
以前紹介した畠山氏の系図の中で、長経(らしき人物)に触れている系図を挙げていく。
系図の概要や成立年代などは上の記事を参照。

 

①『両畠山系図』:「長経 石垣左京大夫号宮原」「政氏 石垣播磨守 為宮原長経於石垣城生涯」
②『源畠山吉益系図』:「長教 次男 畠山七郎 従四位左京大夫 号遊佐河内守(略)」
③『寛政重修諸家譜』:「左京大夫 石垣の城に住し、のち家臣遊佐長教木沢長政等がはからひにより、畠山の家を継いで、程なくして彼等がために弑せらる。」
④『津川本畠山系図』:「長経 畠山右京亮」
⑤『系図纂要』:「長継 河内守 初継柘植(石垣)氏 天文三年七ノ 遊佐等廃稙長而立長継為主而長継激情慢諸士 十年八ノ 所鴆殺」
⑥『大系図後集』:「長経 石垣左京亮 天文十九 家人被毒殺」

 

毒殺説を載せている系図は3つあるが、うち寛政重修諸家譜』『系図纂要の2つは19世紀頃の成立。
残る『大系図後集』の成立時期は不明だが*1尚順の子の記述が『足利季世記』「畠山家伝ノ事」と一致しているため、『足利季世記』成立後の制作と思われる。

残る系図のうち、『津川本畠山系図の成立時期は不明だが、『両畠山系図』『源畠山吉益系図寛永年間の成立である。
これら比較的成立の早い系図には毒殺説が記されていないことはポイントと思われる。

さて、そんな訳で長経毒殺の最も古い典拠と現状で考えられるのが、毎度おなじみ『足利季世記』である。

『足利季世記』で長経の死を記すのは「一蔵之城攻事」の段。
「其比河内の高屋にありし畠山長継余りに物荒き大将にて家老のいさめをも用さりけれは家人とも毒を酒に入て進めて殺しける」とある。
その後に天文10(1541)年の塩川伯耆守蜂起の記事が入り、「和州衆木沢左京亮斎藤山城杉原石見守を頼みけれは此人々畠山を殺し主なしに成りて頓て塩川に一味し三好に敵をなす」と天文10(1541)年9月6日の日付が記される*2

系図纂要』『大系図後集』の「長経の荒い気性」「家人に毒殺された」という記述は、『足利季世記』のそれと共通していることに気づくだろう。
残る『寛政重修諸家譜』だが、長経の名と官途について『足利季世記』の「長継」「左京亮」ではなく「長経」「左京大夫と正確と思われるものを記しているため、ただの『足利季世記』の丸写しではなく『両畠山系図など畠山家内に伝わる伝承と照らし合わせて訂正したものと思われる。
ただし、長経擁立を遊佐・木沢の共謀とする件は、「畠山卜山ノ事」の遊佐河内守と木沢左京亮らの共謀により長経を擁立したとの記述を下敷きにしたものと思われ、やはり『足利季世記』の影響を受けた可能性は高いと考えられる。

ともあれ、現在に伝わる長経毒殺説は、『足利季世記』(ないしその元となる伝承)を起点に広まったものと考えておく。

 

ではこの伝承は何故発生したのか。
前科も多数あるし根も葉もないデタラメとして切ってしまってもいいのだが、一つの可能性を述べてみたい。
以前の記事でも触れたが、歓喜八幡宮棟札』天文10(1541)年4月1日の棟札には、長経の子と伝わる鶴丸の名が大檀那として記されている。

棟札に名を記す行為は一定の政治的アピールも兼ねている考えられるが、元服前の年少の人物が敢えて棟札に記された意味を考えてみたい。
年少の人物をその地域の領主的存在としてアピールする必要性……つまりはこの時期に岩鶴丸が石垣家の家督を継承した可能性はないだろうか。
そしてその場合長経は隠居するか死去していたこととなる……何が言いたいかわかるかもしれないが、鶴丸の棟札も『足利季世記』の長経の死も天文10(1541)年という共通点がある
つまり、長経が天文10(1541)年頃に没したこと自体は事実だったのではないか、という推測である。
天文10(1541)年当時に長経が存命していた場合、彼は天文4(1535)年頃にとっくに尾州家当主を降りているため、石垣荘に戻っていたと考えられる。
そこで没して、幼少の岩鶴丸家督を継ぐことになったため、アピールも兼ねて棟札を記した……という想定である*3
あるいは死因が本当に毒殺と考えることも不可能ではないだろう、もちろん現場は河内ではなく石垣荘ということになるが。

更に『足利季世記』でこのようなストーリーになった背景も考えてみたい。
畿内史を齧っている読者なら、稙長没落期の尾州家当主が左京大夫長経→播磨守晴熈→弥九郎晴満という変遷を辿ったことや、尾州家の晴満と総州家の在氏で河内の半国守護体制が敷かれたことはご存知だろう。知らない?覚えて帰ろう。
しかし『足利季世記』の中では晴熈・晴満・在氏は該当期の当主として記されない。
おそらく『足利季世記』(ないしその典拠となる軍記か伝承)は長経の尾州家当主就任といった経歴やその没年は把握していた一方で、それ以外の畠山氏の家督変遷は知り得ていなかった。
そのため持ち得た情報が「長経が当主として擁立される→長経が天文10年に没する→同年に木沢長政が挙兵」しかなく、同一年に起きた長経の死と木沢長政の挙兵を関連付けて、「木沢長政らに殺害された」という話を創作してしまったのではないか。
前回の記事で指摘した、畠山卜山の没落と稙長の追放を一連のエピソードのように合体させてしまったのと同じパターンである。
また、総州家の在氏を当時の守護として認知していないので、木沢長政を尾州家被官かのように記し、長経殺害後木沢らは「主なし」の存在としてしまっているのだろう。

ついでに言えば長経が殺害されたのは「余りに物荒き大将」といった個人的な人格が原因がであるかのように書かれているのは、編者に政治的な殺害理由が見当つかなかったからだろうか。
ただ、『両畠山系図では「石垣政氏」「宮原長経」が殺害して石垣家を継いだという記述があり、あくまで伝承ではあるが長経は攻撃的な気性であるというのが伝わっていたのかもしれない。


その他の系図でもう一つ注目したいのは、『源畠山吉益系図「長教」である。
この「長教」、稙長の弟の位置に置いているまではいいのだが、「号遊佐河内守」と記しておりこれだけではどう見ても遊佐長教である。
一方で従四位左京大夫とも記しており、これは長経の官途である。
おそらく畠山長経と遊佐長教を同一人物としてみなしてしまったのではないか。
そう考えた上で、「長教」に「畠山七郎」という仮名が記されていることに注目したい。
遊佐長教の仮名は「新次郎」であり「七郎」ではない、つまりこの「七郎」は長経の仮名を指したものだと思われる。
長経の仮名とされるものが確認できるのは、管見では『源畠山吉益系図』のみのようで、もちろんこれだけで事実とは断定するのは危険である。

一方で、『両畠山系図では石垣家の当主と見られる「教重」の仮名を「七郎」としており、石垣家に「七郎」を通称とする人物がいたことは見逃せない。
もっとも、以前の記事でも引用した通り、文明年間に見える石垣家当主の通称は「又次郎」なので、石垣家の代々の仮名が「七郎」だったとも断定は出来ないが。
更に言えば『両畠山系図』では長経は当初宮原家を継いでいたとされるので、その場合「七郎」は石垣家とは無関係の仮名という可能性も出てしまうが。
いずれにせよ、可能性の一つとして留めておきたい。

 


参考文献
今谷明『津川本畠山系図について』(守護領国支配機構の研究)
弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』
川口成人『室町~戦国初期の畠山一門と紀伊』(和歌山地方史研究81)

*1:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/224/1/0410?m=all&n=20で読めるのだが、検索しても系図自体について全くヒットしない。情報求む。

*2:ただし、その前段の「細川晴国最後ノ事」は天文5年の記述まで遡っているので、『足利季世記』の意図としては長経毒殺事件は天文10年以前のこととしている可能性もある。

*3:以前の記事で触れた、明応5年の『石垣荘白岩丹生神社造営棟札写』に寅千代丸が願主となっているのも、同様に石垣左京大夫(又次郎)がこの時期に没して寅千代丸が幼少で継いだためとも考えられそう

◆『足利季世記』の畠山氏(「天文3年」の卜山の没落)

前回の記事でも触れたが、『足利季世記』「畠山卜山之事」という段では、天文3(1535)年に畠山尚順を生存させて行動させるという誤りを犯してしまっている。
ただし、ここで書かれる畠山尚順紀伊没落、畠山稙長から畠山長経への家督交代は実際に確認されることである。
これらは、現存する『足利季世記』以前の伝承や軍記では見られない情報であり。
『足利季世記』(ないしそれに先行する伝承・軍記)がそれを把握していたことは見逃せない

前回も触れたように、『足利季世記』系統の軍記の記述は虚実入り混じっており、参考にできる部分もあるが鵜呑みにはできない。
そこで今回は、「畠山卜山之事」の内容の一つ一つを精査してみたい。

 

畠山政長子の尾張守尚慶18歳で出家し卜山と名乗り、高屋城を息子植(稙)長に譲り紀伊広城に隠居した。
②小松原の湯川直光は卜山の下知に背いたため卜山に攻められ湯川一族は追われる
③数年経った天文3年3月紀伊の住人野辺六郎左衛門が卜山の下知に背いたため北国に改易されそうになる。野辺は一揆を起こし居城に籠もり、卜山は河内から守護代遊佐河内守長教に援軍を率いさせ野辺の城を攻め立てる
湯川直春の一門は山家に流浪していたが、その中の湯川民部少輔の子に業阿弥という粉河の法師がいた。
⑤業阿弥は直光の元に来て卜山を討ち取る計略を廻らし、陣僧に扮して卜山の陣に潜入する。しかし業阿弥は卜山の顔を知らなかったため、将几に据わって下知を出していた遊佐を大将と勘違いしてに切りつける。遊佐は薄手で死なず、業阿弥は隣に立っていた卜山に斬られ死亡する
⑥その夜湯川氏が夜襲をかけ、遊佐が手負いだったため卜山は敵わず広城に落ちるが、広でも一揆が発生し48人を討たれ淡路に没落する。
⑦卜山は淡路光明寺55歳で病死する。
⑧稙長は父の没後百日経てば紀伊に出陣し敵討ちをしようと大和・河内に動員をかけようとする。
⑨これに反対した遊佐と大和の木沢左京亮・杉原石見守・斎藤山城守が一味し、稙長の弟石垣左京大夫長継を擁立し、稙長は根来寺に逃れる。

 

小分けした内容を検討していく。


畠山尚順「尚慶」と名乗ったこと、隠居して広城に移ったことなど、基本的に正しいが、「18歳での出家」は誤り。
畠山尚順が出家し「卜山」と名乗ったのは永正5(1509)年頃で、当然18歳を超えている*1

この誤りが何故起こったかについては思い当たる部分がある、『両畠山系図である。
尚順の項目に「十八歳隠居。出家。法名卜山」とあり、18歳で出家したという部分が『足利季世記』と一致する。
これ以外にも『足利季世記』の畠山氏関連の記述と『両畠山系図』には共通する情報があるのだが、それを検討するのは(また長くなるので)後に回したい。


まず、当時の湯河氏の当主は直光直春ではなく光春である。
また、弓倉弘年氏の『戦国期紀州湯河氏の動向』(中世後期畿内近国守護の研究)などで既に指摘されている通り、明応年間に畠山尚順による「湯河退治」が行われた形跡があるが、その対象として見れるのは「高田城」「湯河少弼」という人物。
安房守」「宮内少輔」を名乗る湯河家当主の湯河政春・光春とは明らかに別人である。
そのため、湯河氏が尚順によって本拠を追われたとは認めがたい


野辺六郎左衛門(慶景)が(反乱理由はともかく)畠山尚順に背いたこと、湯河氏と結託したことは事実だが、それは永正17(1520)年のことである。
この天文3(1534)年3月という年月日がどこから出てきたのかは不明。
可能性として思いつくのは、尚順が実際に没した大永2(1522)年の干支は壬午
一方で12年後の天文3(1534)年の干支は甲午
つまり、「大永二年壬午」の年に尚順が没したというのを、「大永二年甲午」とするような誤りがあり、「甲午」に合わせて「天文三年」と誤りを正そうとしてこのような没年の誤読が起きた……という想像である。
ただ、永正17(1520)年にしても、紀伊での錯乱の様子が伺えるのは6月になってからであり、3月の時点では紀伊に動きは見られない。
この月の誤りについては見当がつかない。

更に遊佐長教が援軍に来たというのもありえない。
遊佐長教は天文年間にならなければ活動が見れず、実際に尚順の没落が起こった永正17(1520)年の河内守護代はその父の遊佐順盛である。
反乱の時期を天文3年としたことで、その時期に活動が見える長教を前倒しに登場させてしまったのか……。
いずれにせよ、湯河氏の反乱に対して河内守護代遊佐氏が援軍に来た形跡はないのだが。

④⑤
前述の通り、守護代遊佐氏はそもそも紀伊に援軍になど来ていないので、彼が暗殺未遂にあったとというのはありえない。
よってこの業阿弥が刺客として潜入する話も疑わしい。原型となる暗殺エピソードがあった可能性くらいはあるが。*2


尚順がこの一連の反乱により広城から没落したのは事実。
ただし当初の避難先は堺で、淡路に移ったのはしばらく後。
それにしても非実在援軍である遊佐長教がいなければ尚順は無力であるかのような書き方に、長教の存在を大きく見すぎている認識が伺えるような……。


尚順が淡路で(光明寺かどうかは不明だが)没したのは事実だが、享年が55歳というのは誤り(実際は47歳)。
更に永正17(1520)年の追放直後に没したのではなく、没年はその2年後の大永2(1522)年である。
また、よく読むとこの記述の出来事において年月日を記しているのは紀伊の反乱が起こった天文3(1534)年3月のみであり、尚順が没したのが何時のことかは明記していない。

そこで、この享年の誤りが何故起こったのかの仮説を立てつつ、深堀りしてみたい。
まず、『足利季世記』の畠山政長自害之事」では政長の子は明応の政変当時13歳で、3歳で足利義尚から一字を賜り尚慶と名乗ったとある。
上記の『両畠山系図』の尚順の項目にも「天文十八年七月十八日任之。常徳院殿賜御一字。父生害時十三(ィ四)歳。」とある。
一次史料では、『後法興院公記』文明18(1486)年7月26日条には「今年十三歳」の畠山左衛門督の息が7月19日元服したとあり、8月5日には「御拝賀散状相尋伝奏記」と公家・武家が名を連ねている中に「畠山尾張尚順とある。

つまり「天文十八年」「文明十八年」の誤りで、尾張守任官・一字拝領の年月日*3「十三歳」という年齢までは把握していたものの、それを元服時ではなく「父生害時(もちろん明応の政変のこと)」と取り違えてしまったのだろう。
明応の政変、つまり明応2(1493)年13歳とすると、生年は1481年、そして55歳になるのは天文4(1535)年

つまり畠山尚順は天文4年に没した」という誤った伝承があり、それに従って享年を55歳と計算してしまったのではないだろうか*4


尚順への不満から謀反を起こし彼を追放した紀伊衆だが、河内の稙長方はすぐに湯河・玉置氏や野辺慶景を赦免する姿勢を見せている。
以降も稙長と紀伊勢力の関係は良好である*5

つまり永正17(1520)年だろうと、天文4(1535)年だろうと、稙長が紀伊攻めを行おうとしたということは認め難い。
ついでにこの記述で稙長は「此人常に民をも哀み給わず父卜山にはおとりたる人なり」と、架空のエピソードで貶されてしまっている。ぶち殺すぞ。


この木沢左京亮(長政)と併記される斎藤山城守・杉原石見守については後の「一蔵之城攻事」「木澤打死之事」でも登場する。
そのうち斎藤山城守ついては、『多聞院日記』『親俊日記』で木沢長政の乱の際に、長政寄りの尾州家被官として殺害されたことが記され、実在が確認されるが、杉原石見守については不詳。
『足利季世記』では太平寺の戦いで没落し三好の家来となったことが記されるが、一次史料では今の所彼の存在は確認できない。
前の記事でも述べたように「杉原氏は畠山家の重臣である」という先入観から架空の杉原氏を登場させたのでは?、とも疑ってしまう。
そもそも木沢長政と斎藤山城守は仕える家が違う上に、一律で大和の人間としているのにも問題を感じるが。

また、稙長の没落先が根来寺かどうかも不明。

 

以上のように、やはり『足利季世記』はある程度事実の輪郭を掴んだ記述と、あからさまな創作が混在している。

その中で、今回問題にしたいのは⑧の部分である。
当然ながら畠山尚順の没落と、稙長から長経の家督交代に因果関係はないのだが、『足利季世記』は一連の出来事としてしまっている。
このような記述になった原因として、一つは尚順の没落・死没が天文4(1535)年という誤った伝承が存在したこと。
そしてもう一つは、同時期に稙長から長経への家督交代が起こったという正しい情報が伝わっていたこと。
そのため、二つの事件を一連のものと見なして合体させてしまったのでは……ということが考えられる。

仮定に仮定を重ねた上にあくまで軍記ベースの考察だが、この記述は「長経への家督交代は天文4(1535)年に起きた」ということを示しているとも言えるのではないか。

……とは言いつつも、家督交代が天文3(1534)年である可能性はあると思っている。
ただし、以前の記事の通り、家督交代を示す8月14日の長経宛て義晴御内書の年次は天文4(1535)年だという考えは変わらないので、10月の丹下盛賢の河内での軍事行動の後、つまり天文3(1534)年末頃であると考えたい。

 

さて、8月14日義晴御内書の年次は天文4(1535)年、という主張は変わらないが、その場合は家督交代が承認されたのは高屋方の本願寺との同盟破棄から3~4ヶ月程経ってから」となることの理由付けについて、以前は「稙長は長年の足利義晴方だったこともあり、更迭を認めるべきか幕府側が見極めていた」と想定していた。
今回、別のそれっぽく見えそうな理由付けを思いついたので、一部過去の記事と重複になるが述べてみたい。

そもそも、天文4(1535)年の本願寺戦争の推移だが、6月12日に『後奈良天皇記』で一揆五六百打死云々、大概一向衆此時滅亡歟」と書かれる程の大敗を喫しており、その後の戦闘はほぼ見られず、和睦に向かっていく。
つまり8月の長経宛て御内書は、大勢が決し和睦に向かう流れの中で出されたものということになり、幕府側に「畠山氏を繋ぎ止めるために家督交代を承認せざるを得なかった」という逼迫した事情などは考えがたい。

なので、8月に幕府が家督交代を承認した意図はもっと先を見越してのことと考える。
細川晴元と提携することを決めた幕府としては、畿内静謐の最大の障害は晴元と相容れない細川晴国であり、晴国ら旧高国党と提携する意思の強い稙長が尾州家当主のままでは何かと都合が悪い。
幕府は長経を当主とする尾州家を認めたが、それは引き換えに尾州家が本願寺細川晴元・木沢長政(畠山総州家)らとの広域的な和平に応じることを意味する、と考えていたのではないだろうか。

が、そういった幕府側の意図とはズレて、尾州家内部に晴元・総州家のいずれかに抵抗を示す勢力がおり、その結果として長経から晴熈へと再度の家督交代が起こってしまう。
そのため、当てが外れた幕府も以降畠山氏の家督承認に慎重にならざるを得なかったのではと考える。

*1:ただし、『花岡家文書』明応年間と推定される4月16日神保慶宗書状では、「御屋形様御還俗候由承候」とあり、永正年間以前に尚順が一度出家していた可能性がある。

*2:尚順の腹心であり、彼が広城を没落する直前に不審死を遂げた人物として林堂山樹がいるが……。

*3:正確には7月19日であり7月18日は誤り。参考までに『歴名土代』には「従五位下尚順 同十八七十八、同日尾張守」とあり、共通する年月日の誤りがある

*4:この誤りに基づくのならば、上記の「18歳で出家」は明応7年(か明応6年)のこととなる。明応7年ならば、「大乗院寺社雑事記」では尚順が弟に家督を譲るという風聞が経っており、上の注の神保慶宗書状も合わせて、この年家督譲渡のために本当に出家していた可能性もあるのではないか。

*5:従来の説だと天文2・3年に湯河氏が畠山稙長と対立する遊佐長教方についたといった構図が想定されていたが、このブログでは根拠となる書状の年次比定に懐疑的なのは以前も述べた通り。

◆『足利季世記』の典拠と畠山氏

通史的な形で畿内戦国史の出来事を叙述した軍記物として、真っ先に上がるのは『細川両家記』と思われる。
軍記というカテゴリーではあるが、当時の一次史料と比較しても内容に矛盾は少ない。
そのため、この『細川両家記』は信憑性の高い記録として史学においても高い評価を受け、各所の研究で利用されている。

ただし欠点が無いわけではない。
一つとして、記述の対象が細川・三好氏や特定地域に偏っており、その対象外の勢力の存在感が希薄であること。
このことは、『細川両家記シンポジウム』の『畠山氏研究からみた戦国期畿内政治史像の再検討』でも小谷利明氏が指摘している。
畠山氏研究を専門の一つとしている小谷氏らしく、『細川両家記』の中での畠山氏への扱いの悪さにかなり不満げな様子が感じられる。わかるってばよ。

さて、そのような偏りのある『細川両家記』に比べて、もっと広い範囲で畿内の通史を記したものとされてきた軍記が『足利季世記』なのだが……。
近年の風潮ではわざわざ言うまでもないかも知れないが、この軍記は『細川両家記』と並べて語るには信憑性が大いに問題がある
一例を挙げると、『足利季世記』の「教興寺合戦之事」
教興寺合戦において対峙する畠山軍に対して、松永久秀が謀書を作成し、畠山軍を混乱させたことが勝利に繋がったというストーリーが描かれ、その謀書も載せているのだが……。
既に弓倉弘年氏の『教興寺合戦をめぐって』(中世後期畿内近国守護の研究)などで記述の信憑性を疑われているが、文中に引用されている書状は「遣人数勝負可決」など、文書形式に問題がある。
更に宛先に「安美殿 遊河殿」とあるが、当該期の尾州家に「遊佐河内守」と名乗った人物は存在しない*1ので、この書状は本物とはとても思い難い。

一事が万事ではないかもしれないが、このような問題のある文書を入れてしまう『足利季世記』の信憑性が疑われるのはやむを得ないことだろう。
正直、古い研究でこういった『足利季世記』の記述を無批判に採用してしまったことが、畠山氏の(マイナス方面への)誤った認識を定着させてしまった気がするが……。


そもそも、『足利季世記』とはどういった形で成立した軍記なのか。
古くは佐藤陸氏による『『応仁記』以後─もう一つの年代軍記─』武蔵野女子大学紀要19号)、『『足利季世記』の一典拠』武蔵野女子大学紀要26号)の研究がある。

dl.ndl.go.jp

(個人送信で閲覧可能)
それによると、『足利季世記』は前半(巻三まで)を『公方両将記』を下敷きにし、後半を『細川両家記』『舟岡山軍記』などを下敷きにしたとされる。

それに対して近年、小秋元三八人氏が『戦国軍記の生成と展開に関する一考察 : 『足利季世記』と『別本細川両家記』』(藝文研究120)『加賀市立中央図書館聖藩文庫蔵『細川兩家之記』について : 『細川両家記』別本の紹介と翻刻』(三田國文66)で新たな指摘を行っている。

 

同論文では『足利季世記』前半部分の出典となるのは『三部軍記』であり、その『三部軍記』の出典となる最古の軍記として『細川兩家之記』(一般的に伝わる『細川両家記』とは内容が別物、以下。『別本両家記』とする)の存在を指摘している。
更に『公方両将記』は『三部軍記』から発展した『足利季世記』とは別系統の軍記であり、佐藤説とは違い『足利季世記』の原典ではないと推測している
また、成立年代については『足利季世記』が1650年代頃を下限、『三部軍記』は慶長年間以降と推測しており、『別本両家記』は必然的にそれ以前の成立となる。

なお、この『別本両家記』に更に下敷きとなった軍記があるかについては、小秋元氏が別稿で検討を行うと述べられている。
佐藤氏が『細川両家記』と『舟岡山軍記』を下敷きにしたと指摘した『足利季世記』の「香西四郎左衛門讒死事」は、『別本両家記』にも同様の題名で同じ内容の記述があるのが気になっているが……後考を述べてくれるのを待ちたい。

さて、この『別本両家記』は細川高国の最期とその哀悼をもって終わっているのだが……ならばこれが高国没後間も置かない内に制作された一級史料かとなると、はっきりいって到底思い難い。
『別本両家記』には一次史料と比較して事実とはみなせない記述が多数あるが、ここは畠山ブログ(畠山ブログ?)なので畠山氏に絞って指摘したい。
まず明らかに問題があるのは「高屋合戦事」である。
これは桂川合戦後に柳本勢が畠山稙長の籠もる高屋城を攻め、これに稙長の父卜山(畠山尚順が策を弄して救援に向かう。
卜山は僅かな軍勢を大軍に見せかけることで柳本勢を焦らせ撤退に追い込み、更に卜山の仕掛けた伏兵によって柳本勢は壊滅……といった記述である。
エピソードとしては面白いのだが、少し詳しい方ならツッコミ所に気づくだろう、畠山尚順(卜山)は大永2(1522)年に既に没している。

大永7(1527)年に柳本勢が高屋城を攻め、稙長がそれを撃退したこと自体は事実だが、この世にいない尚順が救援などできるはずがない。
当時の人間ならば、大永年時点で尚順が活動を終えていることに気づくはずである。*2
既に亡くなっている人物を生きているものとして扱い、有り得ない行動を取らせたこの記述は、『別本両家記』の執筆姿勢が疑われるものでもある。

 

そして、死去しているはずの畠山尚順を生存させてしまっている例は他の軍記にもある。
それが、『足利季世記』後半部分の「畠山卜山之事」
こちらでは天文3(1535)年に卜山(尚順)が紀伊で敗北し、没落先で病死するという筋書きになっている。
尚順が没するまでの経緯は事実に概ね沿っている一方で、それに畠山稙長の追放を絡めるという今度もあり得ない過ちを犯してしまっている。
死んでいるはずの尚順を生きていることにし、実際にあったことと絡めてしまう……このパターンは上記の「高屋合戦事」と似たものを感じないだろうか。
そこで一つの仮説を提案したい、この「高屋合戦事」「畠山卜山之事」は『別本両家記』より更に前に存在した同一の伝承ないし軍記が典拠だったのでは?というものである。


『別本両家記』は細川高国を称揚する意図があったと指摘されている。
一方で、本来は高国と関係が深い畠山尾州家について*3、『別本両家記』はその繋がりに全くと言っていいほど触れず、(正確性は別として)畠山氏周りの記述は多めにも関わらず両者は交わらない。
結果、本筋の細川氏とは無関係に畠山氏のエピソードが挟まれる構成となり、『別本両家記』が一からそれらの記述を作り出したとは思い難い。
なので、『別本両家記』に先行する(正確性は別として)畠山氏を中心にした典拠があったのではないか?と考える次第である。


その想定に基づいた上で、他の指摘を行いたい。
『別本両家記』における「畠山尚慶帰河州事」(『足利季世記』では「雪タタキノ事」)の項目である。
エピソードとしては明応の政変御の畠山尚順の再起は木沢氏の援助のお陰だった……というものだが、木沢氏は総州家の伝統的な被官としては見られるが、尾州家被官としての傍証は皆無なのでどうせこれも全部でまかせなのでスルーしておく。


気になっているのは、この際に尚順の下に集まった者として、「杉原・斎藤・丹下・貴志・宮崎・安見・木沢・遊佐河内守」を挙げていることである。
これの何が問題かというと……この内、畠山尚順期に主要な内衆としての行動が見えるのは丹下・遊佐くらい。
杉原・斎藤は畠山氏の古参の宿老衆ではあるのだが、当時の尾州家内衆としてはほぼ見当たらない。
貴志・宮崎は畠山氏方の紀伊の国衆で、やはりこの時期の動きはわからない。
木沢は前述の通りであり、安見に至ってはかの(かの?)安見宗房の登場以前には全く行動が見れず出自も定かではない。

そんな彼らのうち、杉原・宮崎・貴志・安見氏畠山高政・秋高期になると内衆地位が変化したり、あるいは江戸期に存続が確認される家である。
ここで思ったのは、この「畠山尚慶帰河州事」は彼らに「尾州家家臣の代表」いう印象が着いてから書かれたものではないか?という話である。
すなわち、『別本両家記』の成立時期はそのような時代になってからという傍証にはならないだろうか?*4

 

更に想像するならば、このエピソードで木沢氏が重要人物として描かれたり、安見氏の名前を出してしまうのは後の木沢長政・安見宗房が台頭する話を記す伏線のように思える。
……が、『別本両家記』は細川高国の死を持って終わる物語である。
この時点では木沢長政の出番は僅かしかなく、安見宗房も登場しない、そうなると『別本両家記』が一からこのエピソードを創作して前フリをする必然性は薄い。
そこで想定するのが、「畠山尚慶帰河州事」で語られる(創作)エピソードを伏線にし、木沢・安見の台頭の頃まで記した伝承ないし軍記が存在しており、『別本両家記』はその前半部分のみを典拠にした、という流れである。
なので「(正確性は別として)畠山氏を中心に叙述した伝承ないし軍記が先行して存在する」、という想定はこれにも当て嵌まるのではないだろうか。


……と、まあ、ここまで『別本両家記』『足利季世記』の信憑性について随分な言い方が続いているが、これらの軍記が全く参考にできない訳では無い。
例として『別本両家記』の「義材卿北国落事」を挙げる。
この記述の中には、畠山中務少輔宛の御内書が引用されている。
この書状は川口成人氏の『畠山政近の動向と畠山中務少輔家の展開』(年報中世史研究45)でも使用されており、本物の足利義稙御内書と見ていいようだ。

ただし、この御内書は内容からし足利義稙が自分に付き従った畠山政近の忠誠を賞して明応の政変直後に出したもの。
にも関わらずこれを引用した『別本両家記』は「畠山中務少輔政光は足利義稙が囚われた後は石丸利光の下に逃れたが、明応2(1593)年に石丸が滅亡したため周防の義稙を頼り御書を賜った」というエピソードを記してしまっている。
ツッコミ所しかないのは言うまでもないだろう。*5

とはいえ、『別本両家記』(ないし先行して存在したかもしれない軍記)による引用がなければこの御内書は現世に伝わっていなかったかもしれない。
一例ではあるが、これは『別本両家記』、それを下敷きにし人口に膾炙させた『足利季世記』の功績だろう。
(ちなみに、畠山政長自害の際の薬研藤四郎の逸話も『別本両家記』出典だったりする)
この、「ある程度正確な歴史的事実を掴んでいるのだが、そこから虚構を創作してしまう」という厄介な傾向は、やはり『足利季世記』後半にも通じるものがある。
『別本両家記』と『足利季世記』後半、両方の畠山氏周りの典拠が同じではないかというのは仮説ではあるが、『足利季世記』系列のエピソードは「ある程度正確な歴史的事実を掴んでいるのだが、そこから虚構を創作してしまうという」という解釈の下で、今後活用可能な部分を選んで利用していきたい。


参考文献
佐藤陸『『応仁記』以後─もう一つの年代軍記─』(武蔵野女子大学紀要19号)
佐藤陸『『足利季世記』の一典拠』(武蔵野女子大学紀要26号)
小秋元三八人『戦国軍記の生成と展開に関する一考察 : 『足利季世記』と『別本細川両家記』』(藝文研究120)
小秋元三八人『加賀市立中央図書館聖藩文庫蔵『細川兩家之記』について : 『細川両家記』別本の紹介と翻刻』(三田國文66)

*1:当時の河内守護代家遊佐信教は永禄7年段階でも「新次郎教」名乗りである(観心寺文書など)。

*2:更に言えば晩年の尚順は稙長の対立陣営についている。

*3:尚順は高国の姉婿、稙長は高国残党の支援者、など

*4:ついでに言えば、『足利季世記』の後半部分を見ると、杉原・斎藤・宮崎・貴志の名字が畠山家臣として(やっぱりエピソードの正確性は別として)登場をする記述が見られる。

*5:念の為に言うなら、まずこの中務少輔は政光ではなく政近、彼は明応の政変直後から義稙に近侍して活動しているため石丸利光の下にいたはずもなく、何より明応2年時点で義稙が周防にいるはずがなく、石丸の滅亡も明応5年である。