179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆畠山氏の系図まとめ

畠山氏についての史料は、散逸しているためか少なめである。
政長・義就期まではともかくそれ以降になるほど史料が断片的になる印象があり、その行間を埋める際には、系図類など後世の史料も吟味しつつ利用する必要もあると思う。

畠山氏歴代の系譜を記した系図は当然複数存在するが、今後の記事のために端的にだが紹介したい。

以下、成立年代付きで列記する。
(成立年代については全て厳密に調べた訳ではなく、Wikipediaを参考にしたものもあるのでご容赦を)

 

寛永諸家系図伝  寛永18-20年(1641年-1643年)成立
寛政重修諸家譜  寛政年間(1789年 - 1801年)成立
系図纂要     安政3年(1856年)まで
尊卑分脈     不明
系図後集    不明
古今采輯収録系図 寛永18(1641)年提出
群書類従畠山系図 寛永
両畠山系図    寛永18(1641)年以降
津川本畠山系図  文政年中(1818年から1830年)以降
畠山家記収録系図 江戸時代初期か
源畠山吉益系図  寛永9(1632)年
畠山累系図    明治までの系譜を記す

 

この内、畠山氏のみに絞って作成している系図について更に個人的な視点による解説を加える。

 

古今采輯収録系図

『古今采輯』収録の系図
寛永十八年巳辛五月日 畠山民部大輔政信 太田備中守殿」とあり、尾州家の子孫政信によって幕府に提出された畠山氏の公式系図であることがわかる。
ただし、畠山尚順「尚長」、畠山政能を「政尚 始政義」と一次史料では確認できない名前で記すなど、情報はさほど正確ではない。
また人物も少なく記述は非常に簡素なものであり、これをベースにした寛永諸家系図伝も幾つかの誤りを訂正しつつ、内容は同じく簡素なものとなっている。

 

群書類従畠山系図

続群書類従』第五輯上に収録。
『群書解題』系譜部中によると、寛永年間に活動した水戸藩の儒医であった畠山牛庵が作成したものとされる。
この系図の作成意図としては牛庵の先祖の由緒の主張だろう。
畠山昭高が殺害された際に遺児が逃れ、その子が牛庵であるという系譜だが、ぶっちゃけ僭称の可能性が濃厚
その他の記述はそれなりに正確さが見られるが、尾州家以外の分家の人物は記していないなど全体的に簡素なもの。

 

・両畠山系図

同じく『続群書類従』第五輯上に収録。
『群書解題』系譜部中のよると、畠山貞政寛永18(1641)年の死没を記す一方で、その子政信の記述は簡素なため、貞政没後間をおかず作成されたと想定されている
また標題の下に大日本史巻百八十七足利義純伝所河内畠山系図ト云ハ蓋此両畠山系図ノ事ナリ」とあり、水戸藩に公式採用された史料だと思われる。
後の時代に成立した系図などでも『両畠山系図』を下敷きにしたと思われる記述が見られ、それなりに世間に流布していたものなのではないか。
畠山氏の分家に関して非常に多くの人物を記しており*1、一次史料で裏付けが取れる部分も多いため、現在の畠山研究では積極的に活用されていると思われる。
誤謬もあるため全面的な採用には注意が必要だが、有益な情報が多いため、今後ブログ内でも度々引用することになると思われる。


・津川本畠山系図

今谷明氏の『津川本畠山系図について』(守護領国支配機構の研究)で紹介された史料。
同著で翻刻された現物を一目見ればわかるのだが、事実とはみなし難い係累が多く、付記されている経歴もかなり荒唐無稽な内容である。


一方で先行研究で既に指摘されているが、有効に使えると思われる情報もある。
例えば天文21(1552)年に生存が確認される*2畠山政国の没年について、『両畠山系図』などは「天文19(1550)年8月12日」と誤りを記すが、『津川本畠山系図』は「天文21(1552)年8月12日」と矛盾のない没年となっている。
また、最近では川口成人氏が『忘れられた紀伊室町文化人 ─伴雲軒紹高の活動と系譜─』(日本文学研究ジャーナル19)researchmapの投稿で津川本の記述の利用を試みている。
他の系図には大抵存在が記されない総州家在氏の息子である畠山尚誠が記されていることも注目される(「昭高」の子の位置に置かれるなどの誤りはあるが)
おそらくこの系図は『両畠山系図』などの既出の系図のみに依拠せず、畠山氏に纏わる伝承を真偽問わず取り込んで作成されたのだと思う。
それ故信用できない所も多数あるが、他の系図では見られない記述もあるため、要検討の上だが利用できる余地のある系図だと思われる。


・畠山家記収録系図

『羽曳野資料叢書1 畠山期集成』『畠山家記 乾』に付録されている系図
川岡勉氏による解説では、成立年代は定かではないが江戸時代初期と推測されているとのこと。
内容としてはほぼ『両畠山系図』を下敷きにしたものと思われ、かつ記述も簡素になっているためあまり参考になる部分はなさそう。

 

・源畠山吉益系図

『羽曳野資料叢書3 畠山家文書集』に収録されている系図
川岡氏の解説によると、この畠山家は六種類の系図が存在し、うち同著に翻刻されているこの系図「元和2(1616)年5月に吉益高秀が作成したものに子の匡明が改訂を加え寛永9(1632)年に完成したもの」とのこと。
この畠山氏は尾州守護代遊佐氏の内衆である吉益氏の子孫が後に畠山氏を称したもの。
……なのだが、この系図では吉益氏は実は総州家義英の子孫だと称し、吉益匡弼は三好長慶と二十三度合戦に及び、三好は一度も勝利できず遂に降参した」*3とし、また同家に伝わる『河内国高屋之城之絵図』では匡弼が畠山稙長を差し置いて高屋城の本丸に住しているように記すなど、クソほど面の皮の厚い記述が並べられている。
ようもこんな成立年代の早い時期に、しかも尾州家子孫が健在にもか関わらず、ここまででまかせを巻き散らかせたな!?とツッコミたくなることしきりである。

解説でも当然指摘されてるように、総州家の子孫であるという主張はとても事実と認められるものではないが、どうあれ吉益氏は尾州家の被官の出身である。
デマだらけ総州家から吉益氏に繋がる記述に比べて、尾州家の系図は簡素なもの。
しかし、この系図では大体の文献で「昭高」と記されている畠山秋高の名を「秋高」と記したり、安見宗房や湯河直光のことを「遊佐美作守」「畠山宮内大輔」と一次史料で確認される改姓を把握していることなどが注目される。
その成立時期と過程から、『両畠山系図』などとは違ったルートから情報を得て作成された可能性もあり、尾州家に関する記述は一考の余地があると考えている。


・畠山累系図

若松良一『中世名族の末流 忍藩士畠山氏研究(一) ─新発見の畠山系図とその検討─』(埼玉県立史跡の博物館紀要2)で紹介された系図
宮原畠山政能から分かれた、忍藩士畠山惣左衛門家についての研究である。
こちらはれっきとした尾州家から分かれた家のため、惣左衛門家の明治の子孫まで記されているのは注目される。
惣左衛門家以外の先祖の部分では『両畠山系図』を始めとした畠山氏の公式史料をベースとした記述が見受けられ、さほど独自性は感じられない。
旗本畠山宗家と惣左衛門家とは江戸期も交流があったと見られ、互いの由緒を参照する機会もあったのだろう。

*1:ただし分家の記述に関しては概ね15世紀までの人物しか記しておらず、おそらく更に元にした(正確な)系図などの情報がその時期までのものだったのだろう

*2:『天文日記』天文21(1552)年2月17日条

*3:原文では「此代三好修理大夫長慶与匡弼及合戦事二十三度、三好一度亦不得勝利、遂降参、舎弟豊前守於河州為質」というあるので、あるいは「(匡弼の主家畠山が)三好と二、三度戦って一度も勝てず降参し、豊前守に河内を取られた」という伝承を曲解してこのような記述になったのかもしれない。それにしてもすぐ正せそうな誤解に思えるが……