179(擁護派)のモノ置き場

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◆誰が畠山卜山を「追放」したか

永正17(1520)年、畠山尚順(入道して卜山)は紀伊から没落した。

この尚順の没落についての評価だが、特に昔の先行研究においては「息子稙長に追放された」と書かれることが多い。
また親子相克の例として、あるいは黒幕を守護代遊佐順盛とし後の遊佐長教の行動と絡め下剋上の例として、衰退する守護家の文脈として語られている印象を受ける。

一方で、近年の研究の総括となる『戦国武将列伝7 畿内編下』畠山尚順・畠山稙長の項目では尚順の没落を「湯河氏らに背かれ没落」としており、稙長の関与は記されていない。
過去の記事で紹介しているが、近年になり稙長の生年は従来より下っており、父の没落時彼はまだ12歳でしかない。
おそらくは、陰謀の主体になり得ないような年齢と判明したため、どうやら黒幕と考えるのは無理があるぞという認識が共有されていってるのではないだろうか。

そのためか近年では稙長が追放の黒幕という説は薄れつつあるようだが、はっきりと従来の言説が否定された研究は管見の限りない(あればご指摘願いたい)。
そこで今回は各史料を検討して、尚順の「追放」の過程を改めて確かめてみたい。

従来の尚順の没落想定

尚順紀伊から没落したことを明確に示すのは、『祐維記抄』永正17年8月の記事

 

尾州内衆与被及合戦、打負テ、人ニ三十人ニテ泉堺迄落候ト云々、
仍広ノ大将ノ事、尾州御曹司河内に被座、弟を内衆との相定云々
 

これにより、畠山尚順が内衆との合戦に負けて堺まで没落したことと、尚順の後任の広城の大将に畠山稙長の弟が迎えられることが内衆と(稙長)の間で定められたことがわかる。
ただし、この記事は8月としか記されておらず、尚順紀伊から没落した日付、広城の大将の決定の日付が明確にわからないという問題がある(前後の日時は6月23日と10月9日まで飛ぶ)。

没落のタイミングについては、『上杉家文書』8月11日の長尾為景宛卜山書状で、「中意雑説により紀伊を出て無事に堺に退いた」尚順自身が述べているので、それ以前であることは確定する。
この時、尚順と対立したのは奉公衆の湯河光春尚順被官の野辺慶景であることが、『神宮寺小山家文書』からわかる。
同文書は『解題 紀州小山家文書』で全て翻刻されておりweb上でも閲覧できるが(同史料集の「補論1 神宮寺小山家文書」に一部翻訳あり)、ここに全文を載せる。

 
今度被差下上使処、所々知行等光春押領、度々雖被成御届候、不被去渡候、無是非次第候、近日国之儀、以御思案、如先々可被仰出候、然上者平守之事、肝要被思召候、堅固之覚悟被任御下知、其働可為神妙之由、可申旨候、恐々謹言、
 
 『小山家文書』7月11日  小山八郎左衛門尉宛丹下備後守盛賢・遊佐左衛門大夫長清連署状)
 
野辺掃部允依企不思儀覚悟、国怱劇言語道断次第、湯川・玉置許容之処、光春所々押領、然時者別儀各不敏 旦非分国候、掃部充並令同心輩赦免之上者、申合別而忠節可為神妙候、委細遊佐左衛門大夫・丹下備後守可 申候也、謹言
 
 『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛稙長書状)
 
野辺掃部允慶景依不思儀之覚悟、国怱劇出来所々合戦、湯河・玉置動被思召無比類御許容処、国人知行其外光春押領、種々雖被成御届不被致承引、剰広庄押而可被入候由、言語道断然者御敵造意候歟、所詮非可被捨国候条、慶景並令同心仁躰被召置御恩地被仰付上者、如先々各可被申合、若背御下知輩在之者、永代被放御被官至知行候者忠次第可被仰付、然時者忠節可為肝要候、於時宜者、神保式部丞・保田五郎右衛門尉被仰含由 可申上候、恐々謹言、
 
 『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛盛賢・長清連署状)
 

以上から、尚順が没落する以前の7月の段階で湯河氏の押領が問題視され、畠山氏の制止にも応じないことと、それに対する対応の協議が行われていることがわかる。
また、平守(平須賀城)は野辺氏の居城と考えられており、それを固める指示が出されていることから、野辺慶景の造反はこの時点では起こっていなかったと考えられる。

多くの先行研究ではこれらの史料により、8月時点で稙長方は野辺慶景らとともに湯河氏も赦免し、尚順を切り捨てる形で戦乱を沈静化させたという解釈しているように感じる。
おそらくは、その前提による対応の早さが稙長黒幕説を根強くしていた一因なのだろう。

だが、果たしてその解釈は正しいのか。実際はその後も尚順の処遇に関わると思われる史料は存在する。

足利義稙による尚順の復帰支援

就卜山*1進退之儀、被成下知処、為礼太刀一腰、馬一疋鵇毛、鷲眼万疋到来、神妙候也
十月八日 (花押)
畠山次郎とのへ
 
(山下智也『中島家文書所収 畠山氏関係および中近世移行期史料』「刈谷市歴史博物館研究紀要2」)
 

この文書は写しではあるが、花押は永正18年頃の足利義稙のものに似ている。
卜山の進退について触れていることから、宛先の畠山次郎も畠山稙長と見てよいだろう。
要するに、この御内書は永正17年8月の尚順の没落後の10月に、義稙が稙長に尚順の処遇についての下知を下し、稙長がそれに返礼をしたことを示す史料なのである。

尚順の処遇について幕府から下知が出たことは、『伊勢家書』永正17年9月26日の根来寺宛の飯尾貞運・斎藤時基連署状(上の大日本史料のリンクを参照)からも判明する。
これを見る限り、卜山(尚順)の処遇に関わることへの御内書に稙長が応じる姿勢を見せたことは明白と言っていいのではないか。

それを裏付けるように、『上杉家文書』9月28日長尾為景尚順書状では「都鄙(京と尾州家)と申し合わせて近日入国するつもりで、そうなればすぐに本意を達成できるので安心して欲しい」と述べている。
為景宛の一連の書状は、越中の神保慶宗討伐に長尾氏の助力を要請している中で出されたものあり、相手方に弱みを見せないよう自身の境遇についても問題がないことを強調している傾向はある。
が、前述の史料と突き合わせると、京都からの下知と稙長方がそれに応じる姿勢を見せたのは確実であり、その点においては尚順の報告に誇張や事実誤認があるとは考え難い。

そのため、義稙の下知の具体的な指示は、尚順紀伊への復帰を支援するものであると考えてよいだろう。
また同『上杉家文書』8月11日の書状で尚順は為景に紀州国民がいかに子細を述べようとも、遊佐順盛と調談し軍事行動を起こして解決するつもりだ」と述べており、この下知は敵対勢力を討伐したい尚順の意思も後押しするものでもあったのではないか。

が、翌年には別の動きを示す史料が存在する。

 
対御屋形貴志宮崎依無別儀候、日吉兵部少輔遣候、処々各無疎略通慥相届候、神妙候、就其此刻弥急度被色立候ては善悪尾州可無御取合候、不紛忠節候者、於口郡少所可申納候、謹言
 

この書状内で、湯河光春は「御屋形」には別儀ないと述べる一方で、敵対行為をしたのが尾州が善悪を取り合わなかったためだと述べている。
文脈的に「御屋形」尾州は別人と考えられ、それぞれ稙長尚順と想定して問題ないだろう。

つまり、これは湯河氏の稙長方に対しての弁明であり、2月6日というタイミングでこの書状が出されたということは、翌永正18年になっても畠山氏と湯河氏の対峙は続いており、この時点でようやく落とし所が見えたということになるのではないだろうか(広城まで押領しようとした湯河氏の行為が尚順への不満のみで都合がつくかは別としても)*2

その前提で考えると、もう一点関連資料が浮上する。

 
今度応御下知、各致忠節之由、貴志宮崎注進、尤神妙、弥粉骨肝要之由可申聞旨被仰出候、恐々謹言
『笠畑家文書』10月16日 賀茂被官衆中宛成賢*3・長清書状。)
 

「御下知」の主体は畠山氏なのか、9月の義稙からの尚順進退の下知に関わっているのかは判断し辛い。
ともかく、この賀茂被官衆の忠節を貴志・宮崎氏が注進していることに注目したい。
上記の光春書状でも御屋形(稙長)と並んで貴志・宮崎氏が弁明の対象になっていることを合わせ、貴志・宮崎氏はこの騒動においていち早く尾州家支持の姿勢を取ったのではないだろうか。
この解釈の場合、賀茂被官衆の忠節とは、根来寺や稙長宛の幕府からの書状で触れられている尚順復帰への支援を指すのだろう。
このような関連要素から、賀茂被官衆(年寄中)宛のニ通の書状を一連の騒動に関わるものだと考える。

話を光春書状に戻すと、稙長との和解は望むが、尚順に対しては拒絶が伺える。この根深い尚順への反発が、幕府によって後押しされていた尚順紀伊への復帰を最終的に阻んだものである可能性は高い。
その後、『祐維記抄』永正18年5月11日条では尚順は梶原氏と結託して広城に進出しようとしたものの敗北したとある*4
この段階になると、流石に明白に尚順と稙長方は敵対していると言い切れる。
そして、その転機となったのは上記の湯河氏などの反発による紀伊への復帰の頓挫と考えている。
『上杉家文書』を見るに尚順紀伊復帰へのモチベーションは相当なものであり、それを白紙にした稙長方や紀伊勢力に対し武力衝突も辞さず復帰を狙ったのではないか。

総合すると、「8月の段階で稙長は湯河氏を赦免し、更に尚順を切り捨てて紀伊の騒動は収まった」という想定は成り立ちづらいと考える。
義稙からの下知を受けた稙長方は尚順の復帰を支援する振る舞いをしており、翌年2月頃にそれが頓挫することで、初めて従来想定されていたような父子対立の構図となったのではないだろうか。
仮に稙長方が8月段階で尚順の切り捨てを企図したとするにしても、その後の義稙からの下知に応じたことでその方針は撤回したことになるだろう。

湯河氏「赦免」の再検討

これらの前提を踏まえた上で、『久木小山家文書』の一連の書状を解釈し直してみたい。(『解題 紀州小山家文書』に載る訳を下敷きにしている)
 
今回上使を差し越されたところ、湯河光春の各地での知行押領に度々連絡をされたものの、未だに放棄されないとのこと、どうしようもないことです。
近日の国のことについて、考えをもって、先々のごとく仰せ出られるように。こうなった上は平須賀城のことを肝要だと考えられたい。堅固の心構えを任される御下知で、その働きを為すようにと伝えます。
 
『小山家文書』7月11日  小山八郎左衛門尉宛丹下備後守盛賢・遊佐左衛門大夫長清連署状)
 
野辺慶景の思いがけない心構えの企みによって、国中が混乱になったのは言語道断のことです、湯河・玉置を許容したところ、湯河光春の各地の押領が問題になり、そのような時に別の問題の発生はとても都合が悪いです。
ただし国を分けるものではないので、野辺慶景と彼に同心したものを赦免の上は、申し合わせて特別に忠節をなすべきです。
委細は遊佐長清・丹下盛賢が伝えます
 
『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛稙長書状)
 
野辺掃部允慶景の思いがけない心構えにより、紀伊国中が大混乱となり、各地で合戦が繰り広げられた。湯河氏や玉置氏をともすると特別に許容しようと考えられていたところ、国人知行そのほかの湯河光春の押領について様々に連絡されたが承引いたされず、あまつさえ広庄に強引に入られたとのこと、言語道断でそうなると敵として悪事を企てているということでしょうか。
結局のところ、国をないがしろにされるというものではないので、慶景とそれに同心した連中については召し抱えて、主君から与えられた領地についてはそのままにして赦免なさるとのことなので、以前の通りそれぞれ申し合わせ、下知に背くものがあれば、永代に被官を放ち、知行については忠次第に仰せ付けられるはずであるので、忠節をすることが肝要です。
ふさわしい時期に、神保式部丞・保田五郎右衛門尉が説明するので申し上げるように。
 
『小山家文書』8月20日  小山八郎左衛門尉宛盛賢・長清連署状)
 

まず最初に注目した所は、8月書状の「湯川・玉置許容之処」「湯河・玉置動被思召無比類御許容処」である。
7月書状に見られず8月書状に見られる記述であり、これだけ見ると、湯河・玉置氏に対する許容は二通の書状の間に起こったように見える。
ただ気になる点もある、許容した件は「湯河氏の押領・尾州家の制止」の前に記されていることである。
加えて、その後の押領が問題視されてるのは湯河光春であり、玉置氏は含まれていない(玉置氏についてはその後の動向も不明瞭)。

なので、こういった解釈もできないだろうか。
「許容」された湯河・玉置氏の行動とは、まさにこの押領行為だったのではないか。
尾州家はその行為自体には罪に問わないなどといった条件で、押領した知行は返すように湯河・玉置氏に再三の連絡をしていたが、湯河光春は知行を返そうとはしなかった。
すなわち湯河氏の押領とそれに対する尾州家の許容は7月11日以前に発生したものと考えてみる。

にも関わらず、許容の件は8月20日の書状になってから記されている。
その解釈については、広庄に乗り込もうとするなどよりエスカレートしていった湯河氏の反発(更にそれを助長したと思われる野辺慶景の行動)に対して、「例外的に許容したというのにけしからん」と強調して批判を鳴らす意図があったのではないか。

もう一つは、稙長方が赦免した野辺慶景と「野辺に同心した者」の解釈。
先行研究ではこの「野辺に同心した者」を湯河氏とみなしているが、疑問の余地はあると考える。

「野辺に同心した者」が湯河氏ではないと考える理由は複数ある。
まず、慶景の行動より前に湯河氏の押領などの反発行動は起こっていたと考えているので、「野辺に同心した者」と扱われるだろうかという点。
また、「野辺に同心した者」の処遇については「畠山氏が与えた領地は召し置き仰せ付けた」とあり、奉公衆であって被官ではない湯河氏がこの表現に該当するだろうかという点。
ついでに言えば、この書状の意図も踏まえるべき要素なのではないか。
一連の書状は小山氏に宛てられたものであり、『小山家文書』では野辺氏は小山氏の取次を務めるなど、近しい立場にあるようだ。
つまり、この書状は湯河氏の赦免を連絡するためのものではなく、「野辺らは特別に赦免したが、それに近しい小山氏もこれを肝に銘じるように」と野辺氏に近しい者に釘を刺す意味があったと考えられないだろうか(ついでに言えば湯河・玉置への対応は「許容」、野辺慶景らへの対応は「赦免」と使われている言葉が違うのもポイントかもしれない)。

総合すると、湯河氏の押領などの反発は尾州家から最も問題視されていたものであり、赦免はされておらず常に対立軸にあったという解釈になる。
上のニ件の解釈はともに断言できないものだが、問題提起として記したい。

尚順「追放」過程の再解釈

「湯河氏らの押領は当初から問題視されていた」「野辺慶景の造反後は湯河氏は赦免されていない」この解釈を前提として、時系列を想定してみたい。

まず、話の発端は湯河・玉置氏の押領
後に湯河光春が尚順を非難しているように、湯河氏からすればこの押領を巡る問題は尚順に非があると認識していたのかもしれない。
先行研究では尚順紀伊の国衆などに強硬的な姿勢で挑み、それによって反発が生まれたと想定されており、この見解については異論はない。
ただ、この段階での稙長方は尚順方の姿勢に同調していたと思われ、押領を咎めて許容の代わりに奪った知行を返すように何度も求めたが、湯河氏は応じない。
そのため尾州家は平須賀城を固めるなど、武力衝突の可能も考慮しだす。
これが7月11日時点での状況と考える。

そして、8月に入ると野辺慶景の造反と、畠山尚順紀伊からの没落が起こる。
慶景の企みの具体的な行動・動機についてははっきりしない*5
動機としては湯河氏らを庇ったか、尚順の強硬的な姿勢に対する反発などが考えられる。
あるいは、野辺慶景自身は直接尚順を攻撃していないものの、平須賀城で湯河氏を制止する役割をボイコットするなどして間接的に混乱を招いたか。
いずれにせよ、慶景自身かそれに加担した内衆との内輪揉めで、尚順は広城に戻れず没落に至ったと考えられる。

その結果、「国総劇」と言われる事態が発生し、うち一つが湯河氏の広庄押し入りなのだろう。
稙長方はこの「国総劇」を前にして、事態の沈静化のため、野辺慶景らを赦免して対抗勢力を湯河氏らに絞ったと思われる。
おそらく、慶景らは尾州家の紀伊の領地を湯河氏に売り渡したり、外部勢力と結びついて尾州家そのものと敵対することまでは考えていなかった*6
尚順に造反した内衆であっても、紀伊に自分の知行を抱えており、湯河氏らに領地まで奪われるべくもないため、手打ちに至ったのではないか。
稙長弟の広城大将派遣も、内衆の赦免後に起こったものだろう*7

不確かな点は、稙長方の内衆赦免・稙長弟派遣などを尚順がどこまで許容していたか、である。
8月11日書状で尚順は、紀州国民」の征伐を遊佐順盛を企図していると述べている。
紀州国民」は文脈から考えて少なくとも湯河氏は含まれているはずで、また稙長方も湯河氏には対抗しているので、尚順方と稙長方が湯河征伐という点において同調していてると考えても問題はない。

ただ、11日段階では野辺慶景らも討伐対象として想定されていたのが、20日段階で稙長方は慶景らの赦免に方針転換したという可能性はある。
その場合、この方針転換は尚順の同意を得ずに行われており、更に稙長弟の派遣は尚順紀伊復帰を否定するものだったという解釈になる。
一方で稙長弟はあくまで尚順復帰までの名目上の繋ぎであり、一連の方針転換が11日段階で行われつつ、尚順からも同意を得ていたという想定もできる。
これに関しては断定できる根拠がないので、記して後考を待ちたい。

まとめ

以上のように見直した限り、一連の騒動に対する稙長方の反応は受動的であり、主体的に尚順を追放させた黒幕とは思い難い(仮に黒幕であってもその後起きる事態に明らかに想定外の反応を見せており、相当お粗末な動きをしていたことになってしまう)。
重ねて言うが、8月段階での稙長方の方針がどのようなものであっても、義稙の下知に応じた時点で9月段階の方針は尚順の復帰支援になっていることには変わりはない。
ただ、野辺慶景らの内衆や湯河氏など、紀伊の人間は尚順に対して不満を抱えている者が多かった。
それらの反対を押し切ってまで尚順を元の地位に復帰させるのは現実的ではなく、翌永正18年に稙長方は尚順復帰を諦め湯河氏らを赦免し紀伊の騒乱を収めるという落とし所を選んだのではないだろうか。

確かに結果的に見れば稙長方が湯河氏らを赦免して尚順を切り捨てたという点は従来の解釈と変わりはない
ただしそれは8月段階ですぐに決着したものではなく、紆余曲折があった上で翌年までずれ込むという過程を経たものであることを強調したい。

ここからは余談。永正18年年3月7日に足利義稙は京を出奔しているが、その一ヶ月前まで畠山氏と湯河氏の問題はもつれ込んでいたことになる。
出奔の原因は明言されていないため、従来様々な理由が考察されていたが、この尚順の進退問題も切っ掛けの一つとして考えられるのではないか。
出奔直後から畠山総州家や阿波勢との結託は噂されていたが、確実に直後の義稙との提携が確認できるのは堺で出迎えた尚順
このタイミングかつ、尚順のいる地を出奔先に選んだのは偶然ではなく、一連の紀伊の騒動が関わっていたという説である。

 
 
参考文献
新谷和之『紀伊国における守護拠点の形成と展開』「南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆」
山田邦明『戦国のコミュニケーション』

*1:論文内の翻刻では「下山」としているが、原本を見るとニ行目の「下知」と比べると僅かだが「卜」に近い形状をしている。「下山ついての進退」と解釈すると意味が通りづらいことや、宛先が畠山氏であることをを考えると卜山=尚順とするのが自然と考えた。

*2:ついでに言えば、『上杉家文書』(永正18年)1月19日の卜山書状で12月21日に為景が神保慶宗を討ち取ったことを賞している。一連の越中計略は尚順が没落後も在地ではつつがなく続いており、「尚順を追放した」稙長方が何か横槍を入れたような形跡はない、尚順も父子対立を匂わせることは(弱みは見せないという意思があったのかもしれないが)記しておらず、翌1月段階ではまだ父子で対立しているという認識は双方になかったと考える。また尚順越中計略が「稙長による追放」の動機にはなり得ないとも考える。

*3:原文は確認していないが、写であるため、「成賢」に関しては永正末年から遊佐長清との連署状が多数見られる丹下盛賢の誤記と推測する。

*4:なお、『祐維記抄』の記述では尚順自身が広城に入ろうとしたように受け取れるが、『佐治文書』永正18年5月3日に尚順細川高国退治のために足利義稙が淡路に動座したことを伝える書状を発給している。同日に同内容の飯尾之秀・斎藤時基連署状が発給されており、3日時点では尚順は飯尾・斎藤と同じ場所にいたと考えるのが自然であり、それから10日もしない間に渡海して広城に攻め込んで淡路に敗走するというのは厳しいのではないか。よって、『祐維記抄』の記述は誤認があるか(祐維は他の記述でも尚順の河内出陣や海部氏に殺害されたという風説を載せ、後日訂正している)、解釈に問題があると考える。広城に入ろうとした(あるいは既に入っていたのか)は梶原氏のみで、尚順の淡路への移動は義稙の動座に付き従ったものと考えることも可能ではと考えている。

*5:慶景が平須賀城に在城していたと仮定すると、平須賀城と広城との位置はかなり遠いため、尚順と慶景が直接争ったとは思い難い。その場合尚順と争ったのは慶景に同調した内衆となる

*6:尾州家の敵対勢力は畠山総州家・阿波細川家などだが、この一連の騒動で彼らが動いた形跡はなく、また慶景らがそういった露骨な売国行為までしていたのならば、建前であっても「国をないがしろにするものではないから」とすんなりと赦免にはならなかったのではないか

*7:『祐維記抄』に書かれる尚順と争った内衆と稙長方と相談し広城大将を決めた内衆を別個のものと解釈するのは苦しいので、湯河氏は尾州家の内衆ではないことを踏まえ、尚順と内衆の争いと湯河氏の広庄侵入は別々の事態と考えた。