179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆「九郎」と石垣左京大夫家

今回取り上げるのは、紀伊関連で登場する「九郎」という人物。
先行研究ではあまり取り上げられていないと思われるが、この人物の発給文書は二通存在する。

ただし、二つの文書はともに写しであるためか、花押については形状は似るものの完全一致しない。
疑問の余地はあるが、ひとまずは同一人物として話を進める。

 

二通の九郎書状

一通目は、紀伊国名所図会』に収録される九郎書状(一部歯抜けだが既に『町誌たちばなの里』翻刻が取り上げられている)。

 

今度於宮崎合戦□□無比類働祝着不及是非候、就其丹生図□之事為本知□□不入□□共一職進退申付事実也、然上者弥於向後忠節可為肝要候、謹言

紀伊国名所図会』大永2年12月20日   飯沼彦八宛九郎書状)


二通目は『笠畑家文書』収録されている*1

就爰元之儀貴志宮崎梶原へ、自然於別儀存念無疎略可相支事肝要候、然者一段可為忠節候、委細飯沼蔵人可申候、謹言

『笠畑家文書』10月1日   前山左京亮・奥四郎左衛門・笠松中務丞・橋爪与三左衛門宛九郎書状)

 

この九郎とは一体何者だろうか。
まず、文末が「謹言」なので、守護クラスの高位の人物と考えられる。
また、二通とも紀伊関係の文書なので、畠山氏、それも紀伊での基盤を持つ尾州家の人物であることはほぼ確実だろう。
更に署名が諱ではなく仮名であることから、若年の人物であることも想定できる。

そして、『紀伊国名所図会』書状は大永2(1522)年の年号が付記されている。
尾州家当主畠山稙長はこの年14歳。若年である九郎はそれと同世代の人物、もっと言えばその兄弟をを想定できるのではないだろうか。

特に注目すべきは『紀伊国名所図会』書状の宛先の飯沼彦八
この飯沼氏は石垣左京大夫の被官として伝わる人物である(過去の記事を参照)。

内容は、飯沼彦八の宮崎合戦(宮崎合戦については後述)での働きを賞し、丹生図での本知不入や一職進退などの権限を保証し、今後の忠節を求めたたものと思われる。
更に書状内で飯沼氏が領する丹生図石垣荘にある地名。

これらを総合すると、九郎は石垣左京大夫家の人物と見るのが自然だろう。

石垣家は左京大夫を極官とし、その地位の高さから「謹言」と結ぶ文書を発給しても違和感はない。
そして畠山稙長と同世代の石垣左京大夫家の人物となると、想定するべきは稙長弟とされる畠山長経*2ではないだろうか。

 

賀茂年寄中と九郎書状

次に『笠畑家文書』の九郎書状を検討する。
宛先の前山・奥・笠畑・橋爪の四氏は、賀茂谷の領主賀茂氏に属し、賀茂庄橘本を中心に領していたと思われる被官*3
他の書状の宛先では「賀茂年寄衆中」「賀茂被官衆中」「橘本被官惣中」などと記される(以下、「賀茂年寄衆」で統一)。
内容は、こちらのことは貴志・宮崎・梶原氏と協力することが肝要とし、更なる忠節を求めたもの。

これは未年号文書なので年次比定の必要がある。
前述の通り、九郎が仮名表記なのは若年のためと思われるため、二通の書状はさほど年代が離れていないと考えられる。

そこで、比定の鍵として宛先の人物を検討したい。
『下津町史』には『笠畑家文書』『中尾家文書』などといった賀茂荘関連の文書が収録されているが、賀茂年寄衆に関わる書状のうち、宛先または差出人として下の名前が判明している書状は他に3通あり、差出人・宛先は以下の通り。


年未詳6月9日曽我平五郎□宗・長少将連宗書状写(笠畑家文書)
「前山左衛門九郎殿」「笠畑左衛門二郎殿」「奥四郎次郎殿」

「賀茂谷役所事、為可致取沙汰候、御公用者有次第可致進細候、然者於御扶持儀者、重而可被仰出候由候、恐々謹言」


大永4年11月3日英治・英正書状写(笠畑家文書)
「橋爪三郎左衛門殿」「奥四郎右衛門殿」「笠畑中務丞殿」「前山新介殿」


天文5年5月6日寺領売渡証文(中尾家文書)
「番頭与十郎」「前山介九郎」「賀茂小法師丸」「笠畑左衛門二郎」「中尾新兵衛」「奥四郎二郎」「橋爪与三右衛門尉」

二通が年号付き、一通が未年号だが、未年号文書の差出人の「曽我平五郎□宗・長少将連宗」「曽我平五郎山崇・長少将連栄」の誤記だと思われる。
両者ともに畠山尚順の被官であり、ともに稙長被官の丹下盛賢と連絡を取ったり*4、永正15(1518)年にはこの組み合わせで連署状を発給している*5
内容は賀茂谷役所についてのもので、出兵を示したり忠節を求める文言は無く、軍事活動に関わる発給文書ではないと考えられる。
そのため、発給時期は尚順紀伊支配に専念して以降の永正15年から、尚順が追放される永正17(1520)年の間に絞り込める。

以上から、賀茂年寄衆の代表はこの変遷を辿っていることまでは確定する。

・前山氏
①左衛門九郎→②新介→③介九郎
・笠畑氏
①左衛門二郎→②中務丞→③左衛門二郎
・奥氏
①四郎次郎→②四郎右衛門→③四郎次郎
・橋爪氏
①某→②三郎左衛門→③与三右衛門

笠畑氏の左衛門二郎→中務丞、奥氏の四郎次郎→四郎右衛門は官途成した同一人物として考えることが可能、残りは別人の可能性が高いだろう。

これを踏まえて、九郎書状が「①永正末→②大永4(1524)→③天文5(1538)」の、どの期間に書状発給されたかを推測する。
まず、天文3-4年には左京大夫を名乗る石垣家の人物(=長経)がいるため*6、③以降に九郎書状が発給された可能性はまず無いだろう。

①の前と考えるには、永正末から天文5年までの20年ほどの間に前山氏が四人、笠畑・奥氏が三人の代替わりを起こしていることとなり、流石に不自然と考える。

よって可能性が高いのは①と②の間、②と③の間と想定する。
九郎書状宛先の笠畑氏は中務丞、奥氏は四郎右衛門であり、②の宛先と同一人物と思われるため、どちらの間に入れる場合でも想定される人物の数は増えない。

そのため絞り込みの材料は前山氏と橋爪氏の名乗りになる。
ここで利用したいのが、『笠畑家文書』の南紀加茂庄前山氏由緒」という由緒書である。
この由緒書は江戸期のものであり辻褄が合わない部分もあり、全幅の信頼は置けない史料ではあるが、全くの荒唐無稽という訳でもなさそうなので一考の価値はあると考えた。

さて、この由緒書内の前山氏の系譜は、明応─天文間の惣領として『前山左京亮長重「長家一男初新助」』という人物を記す。
そして系譜内で左京亮を名乗ったとされるのはこの長重のみで、初名は新助としている。

②の山新が九郎書状の発給時期に左京亮に官途成していたと考えるならば、九郎書状は②-③の間になる*7

そして、橋爪氏は①-②の間と想定すると与三右衛門→三郎左衛門→与三右衛門と3人代替わりしていることになるが、②-③の間と想定すると三郎左衛門→与三右衛門の2人のみとなり、短期間で代替わりが起こることへの不自然さは減る。

これらの仮定から、九郎書状の発給年次は②-③の間、つまり大永4年から天文2・3年の間とする方が妥当だと考える。
この時系列順ならば、取次の飯沼蔵人は大永2年の九郎書状宛先の飯沼彦八の後身なのかもしれない。

ただ、内容・日付的には、賀茂被官衆が貴志・宮崎氏を通して尾州家への忠誠を表明した(永正17年)10月6日書状(前回の記事参照)との関連も思わせる。
とはいえ、関連すると考えた場合、九郎書状にのみ貴志・宮崎氏に加え梶原氏も記さることになるのは気になる。
梶原氏の明確な尾州家への敵対は翌永正18年なので、尾州家方として記されること自体は問題ない。
今回は上記の前山氏の名称の変化も考慮し、大永4年以前の書状とするには若干の不利があると考え除外する。

両畠山の紀伊を巡る争いと賀茂年寄衆

ひとまず、大永4年~天文4年の間という発給時期を前提とし、次に内容から九郎書状の位置付けを考える。
尤も、結論から先に言うと、確実な年次比定できる材料はない。

上述の『笠畑家文書』大永4年11月3日の書状は、畠山総州の奉行人である木沢英治・平英正が発給している。
内容は、勝仙院(尚順)が仰せ付けた筋目の如く、「当庄」を御料所にし、併せて那賀郡野上八幡宮領を宛行うので忠節を求めるものである。

更に総州家が賀茂年寄衆に書状を宛てたケースは『笠畑家文書』にもう一つあり、2月11日の遊佐堯家書状・小河基数書状がそれに該当する。
二通の内容は阿波勢と仰せ合わせた御入洛の儀について知らせ、先年の御屋形様(畠山義堯)の筋目に相違はないとし、忠節を求めるもの。

内容から阿波勢が総州家と共に上洛作戦を開始した大永7(1527)年と推定されている。

この大永4年・大永7年は、ともに総州家が軍事行動を起こした年であり*8、その際に賀茂氏を誘った動きが判明する。また、英治・英正書状では尾州家の尚順が仰せ付けた筋目を総州家が遂行しようとしている。
御料所を仰せ付けるまでの経緯は不明瞭ではあるが、永正の中頃から中央政治から遠ざかっていた尚順がこれを仰せ付けていることから、この御料所は出奔後の義稙のために仰せ付けたものだったのではないだろうか。

義稙出奔後、大永元(1521)年に尚順と協力して広城を抑えようとした梶原氏下津町大崎を拠点としており、賀茂氏の拠点とは近い。
この時に賀茂氏も梶原氏同様に義稙・尚順方に転じた可能性があり、その際の筋目を利用し総州家も賀茂氏に誘いをかけたのではないだろうか。

また、資料④では堯家は先年の御屋形様の筋目と述べており、これはおそらく大永4年に総州家が保証したものを指していると思われる。
文言から両者はそう頻繁にやり取りを交わしていた訳ではなく、賀茂氏は一貫した総州家方だった訳では無さそうだ。
つまり賀茂氏は何かしら総州家が巻き返す動きがあると靡く態度をとっていた可能性があり、梶原氏もまた同様の動きを取っていたのではないだろうか。

九郎書状の年次比定の材料の決め手がない、と上で述べたのはこの梶原・賀茂氏の流動的な動きを指してのことでである。
梶原氏・賀茂氏双方が尾州家方に靡いたタイミングで、九郎書状は発給されたと見られるが、大永7年以降に尾州家方に戻った可能性もあるし、(若干節操がないが)大永5-6年に尾州家に忠誠を示した後に再度の総州家方に靡いた可能性もある


余談だが、大永2年12月の九郎書状で触れられる「宮崎合戦」も、賀茂・梶原氏が関わっていた可能性があると考える。

「小南村井上林家由緒」(『林茂雄家文書』。『下津町史』収録)では賀茂氏被官井上氏の由緒として、「弘治年間に貴志・宮崎氏が賀茂庄に焼き討ちを行い、反撃として賀茂・梶原氏が宮崎表に陸路と海路から攻め寄せた」という「宮崎合戦」での働きを記す。
弘治年間の「宮崎合戦」の実否については今の所見当がつかないが、この賀茂・梶原氏が宮崎・貴志を海路を経て攻撃する構図は、大永2年の「宮崎合戦」も同様の構図だった可能性がある。

大永2年での情勢について、宮崎氏は前後の行動から一貫した稙長方と思われるため、宮崎氏が稙長方と敵対して攻め込まれたとは考え難い。
そうなると宮崎での戦闘は稙長方の宮崎氏が攻撃されたことになるが、石垣家が宮崎で戦闘をしていることから、宮崎氏の東に位置する勢力が攻め込んできた線は無いだろう。
そのため、想定される敵は西ないし北から来たこととなり、最も有力なのは北に位置して尚順方に靡いた梶原氏、また大永・弘治ともに梶原氏に近しい立場だった賀茂氏も加わっていたという想定である。
尚順は大永2年7月に既に没しているが、義稙・阿波細川方として引き続き旧尚順方が活動して稙長方と対峙していたのではないか。

まとめ

以上の検討から、九郎の石垣家当主としての初見は大永2年と考える。
そこで関わってくるのが『両畠山系図「宮原長経による石垣政氏殺害」である。
長経の宮原家継承や、稙長の兄弟の政氏の実在の形跡は現状では見当たらない。
ただ、この伝承が示す「石垣家当主が正式な継承でない形で長経に渡った」という状況ならば大永2年というタイミングで成立し得る。
つまり、先代の石垣家当主は永正17年の紀伊での騒乱で尚順と共に没落し*9、後釜として長経が収まったと想定している。

以前の記事で、「『古今采輯』収録の系図で長経が石垣家元祖と記されるのは、それ以前の系譜と断絶があったから」という予想を立てたが、その断絶とは永正17年の石垣家先代の没落だったのではないだろうか。
ともあれ、「石垣家当主の殺害」という伝承は年齢から考えても長経の野心から生じたものではなく、周囲の政治状況によって起こったものと考える。

また、二通の発給文書からは、九郎(=長経)は宮崎荘への援軍や、賀茂年寄衆と梶原・宮崎・貴志氏との間を取り持ったりと、石垣荘の範囲に留まらない活動をしていることが伺える。
本来の石垣家当主もこの程度の権限があった可能性もあるが、『祐維記抄』永正17年8月に見える広城の大将として派遣された稙長弟こそが九郎(=長経)であり、その名残から紀伊での広域の活動を可能にしたという可能性も触れておきたい。

 

*1:同様の史料が『奥家文書』『前山家文書』などといった呼称の文書集にもあるが、ここでは『下津町史』収録文書に従い全て『笠畑家文書』で統一する。

*2:『両畠山系図』などで稙長弟の石垣家を継いでいたとされる畠山政氏の可能性もあるが、実在から不確かな人物なので今回は考慮しない。また、長経の仮名が九郎ならば過去の記事で触れた「吉益系図」での七郎という仮名は誤りということになる。

*3:『下津町史 通史編』

*4:鹿王院文書』10月8日盛賢書状、同10月11日山崇書状

*5:施福寺文書』永正15年6月17日曽我平五郎山崇・長少将連栄連署

*6:『御内書案』『御内書引付』8月16日畠山左京大夫足利義晴御内書

*7:ちなみに、由緒書で左衛門九郎は嫡流ではなくその弟の仮名として見られ。更に『加茂神社棟札』天文18年7月12日に見える「前山浄円長光」という人名について、由緒書では浄円を「左京亮」、長光を「左衛門九郎」としている。これに従うと左衛門九郎からその子世代の新介→左京亮、その弟の左衛門九郎と、3人が代替わりしているが、世代としては二世代の交代に留まっている可能性がある

*8:『戦国武将列伝7 畿内編【上】』「畠山義英・義堯」

*9:この時に尚順方に属した紀州在住の畠山一門として畠山右馬頭家が想定されている(参照)。