179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆「尹弼」と石垣左京大夫家

謎の畠山一門考察第二弾。
今回採り上げるのは『笠畑家文書』に登場する「尹弼」という人物。

 

先日者就爰元之儀、早々音信祝着に候、近日可令帰宅候、各申合此時迄度頼入候、委細当兼川伊賀入道可申候、謹言

  (『笠畑家文書』11月21日前山・笠畑・奥・橋爪殿宛尹弼書状)


尹弼の発給文書はこれ一通のみだが、手がかりになる要素は散らばっていると思われ得る。
以下に比定のための材料を挙げ、順を追って検討していく。


①「尹弼」という諱
②文末の「謹言」
③取次の「兼川伊賀入道」
④宛先の前山氏ら賀茂年寄衆
⑤内容からの推定

尹弼はどの畠山一門か

①「尹弼」という諱

弼」の諱は当然、足利義尹からの偏諱である。
足利義材義尹への改名は明応8(1599)1年6月頃であり*1義稙への改名は永正10(1513)年11月9日(『尚通公記』)。
尹弼はこの時期に偏諱を貰える人物となる。
紀伊賀茂氏に関わりがあり、かつ義稙方の人物であるということは、彼が尾州家方の畠山一門という点は動かないだろう。


②文末の「謹言」

「謹言」と結ぶ人物は守護などの高位にある人物と考えられる。
紀伊に関わる畠山一門ならば、尾州家当主・石垣左京大夫家・宮原兵部少輔家が想定できる。
ただし、宮原兵部少輔家は御供衆に選ばれるような分家と比べて家格で劣る上(宮原兵部少輔家については別の機会に語る)、「謹言」と結ぶ宮原家の人物の書状は管見の限りは発見できなかったため、可能性は若干弱くなる。
一方で石垣左京大夫は家格が高く、石垣家と思われる畠山九郎(前回の記事参照)が「謹言」文書を発給している例があるため、十二分に考えられるだろう。


③取次の「兼川伊賀入道」

「兼川」という名字は『姓氏家系大辞典』などにも載っておらず、該当する氏族が見つからなかった。
ただし、この文書は写である(原本は確認できていない)。
このままでは判断材料にならないということもあるが、「兼川」と翻刻されているのは何らかの誤りである可能性を考えたい。
「兼川」は誤記で別の名字が記してあると考えた場合、候補として思い当たるのは「寒川」である。

寒川氏は日高郡寒川荘の在地勢力であり、領地は石垣荘から離れた山中にあるが、石垣家荘の南と接しているため、関わりがないわけではないと考える。
また天文末頃に寒川景範という人物が和合院(海南市別所願成寺)宛の知行給付の連署状を残している*2
加えて、寒川景範と連署している人物が飯沼姓というのも注目される。
このブログでは周知の通り(?)、飯沼氏は石垣家被官として見え、『足利季世記』では教興寺合戦で戦死した紀州人として康頼と同じ通称の飯沼九郎左衛門を記している。
その飯沼氏と連署する寒川氏も石垣家被官であると考え、「兼川伊賀入道」の訂正先として寒川氏が思い当たった、という次第である。

ただ、寒川景範と飯沼康頼を尾州家被官とする見解も存在する*3
願成寺和合院の所在は海南郡であるため、石垣家被官が知行給付をできる権限があるかという疑問の余地もある。
一方で同寺は石垣荘の北に位置しており、近い場所だったため石垣家が文書発給できたという考え方もできる。

飯沼康頼が尾州家被官である根拠とされているのは、『本宮社家玉置主計蔵文書』の2月5日長清・康頼連署状である。
内容は熊野本宮の人物と思われる本宮式部卿が某年2月1日に土生口の合戦で武功を挙げたことを賞し、忠節を求めたもの。

「長清」尾州家被官の遊佐長清が想定される。
遊佐長清は紀伊に文書発給をしたケースが多数あり、その場合確かに連署する「康頼」尾州家被官ということになる。
ただし、飯沼氏が他に尾州家被官として活動する例は他にない。
そのような氏族が、尾州家被官の筆頭格である遊佐長清と釣り合う立場にあるかという疑問は生じる。

花押を見ればそれぞれ遊佐長清・飯沼康頼と同一人物なのかを判断できるだろうが、残念ながら同文書を収録する『紀伊風土記』等は花押を写しておらず、今後運良く原本が発見でもされない限り花押での判断は不可能なようだ。

内容からの推定も、これと言って確証が持てるものはない。
熊野本宮に書状を発給する役割は石垣家より尾州家の管轄に思える。
また式部卿が功を立てたという土生口についてもも、同様の地名は藤並荘と日高郡に見られるため、どちらと考えるかで書状の意味合いも変わってしまう。

遊佐長清・飯沼康頼が連署する事態を想定できないのならば、片方が別人という可能性もある。
仮に「長清」が遊佐氏で「康頼」が別の被官だった場合、この連署状は尾州家被官のものが濃厚に、逆に「康頼」が飯沼氏で、「長清」が別の被官だった場合、この連署状は石垣家被官のものが濃厚になる。
そう考えた場合、飯沼康頼が尾州家被官である可能性は低くなり、飯沼氏は石垣家被官としてのみ見える人物であり、連署する寒川氏も石垣家被官である、という理屈は成り立つ。

現状では長清・康頼連署状の解釈については何ともいい難いので保留したい。
ひとまず、尹弼書状の伊賀入道の正しい姓は寒川氏であると提案するが、これを根拠のみに寒川氏が石垣家被官であると断言することは危険な気がするので避ける。


とはいえ①②③から総合して、尹弼が石垣家の人物である蓋然性自体は高いと考える。
その場合、「尹」偏諱を持つことから、大永2年頃の当主の九郎(=長経)より前の人間とも考えられる。

尹弼書状の発給時期

④宛先の前山氏ら賀茂年寄衆

宛先の前山氏ら四人は「賀茂年寄衆」として見える存在(前回の記事参照)。
この書状で記されているのは名字のみなので、名乗りから発給時期を推測することは不可能。
そこで、この「前山氏ら四人が個別に記されて宛先になっている」ケースそのものを検討してみたい。

四人が個別に記され宛先になっている文書は以下の通り。
『笠畑家文書』収録であり、このブログでは全て紹介済み。
(これ以外の『笠畑家文書』『中尾家文書』に賀茂年寄衆に宛てた文書の宛先は、「賀茂被官衆」「賀茂年寄衆」とし個々の名前は記されていない)

・(年未詳)11月21日某尹弼書状
・(永正末)6月9日曽我山宗・長連栄書状
・大永4年11月3日木沢英治・平英正書状
・(大永7年)2月11日遊佐堯家書状。同日小河基数書状
・(大永頃)10月1日九郎書状

一見してわかることだが、これらの書状は大永年間前後に集中している。
また、内容に関しても賀茂氏当主について触れたものがない*4
これは憶測だが、時期が固まっているのは偶然ではなく、大永頃は賀茂氏の当主に何らかの事情があり文書発給の対象にならず、年寄衆四人が個々に宛先で記されてるのもその事情が関わっているのではないだろうか。

この理屈で行けば、尹弼書状も大永前後のものと仮定できる。
とはいえこれは今回の考察の中でも特に憶測が強いので、次に内容も合わせて検討してみたい。


⑤内容からの推定

文書の内容はシンプルなものだが、「近日可令帰宅候、各申合此時迄度頼入候」という文言から、尹弼は在地を離れていることが伺える。
また、近日の帰還を告げつつ、賀茂氏に協力を要請していることから、尹弼は本人の意思ではなく外的要因で在地に戻れなくなっていたのではないだろうか。

この仮定と、石垣左京大夫家の人物の動向を突き合わせてみる。

まず、九郎(=長経)以前かつ、明応8年6月頃に改名した足利義尹から偏諱を貰える可能性がある石垣左京大夫家の人物として、明応9(1500)年9月に討死した畠山尚順(『拾芥記』)が挙げられる。
ただ、その場合書状発給のタイミングは明応8年しかない。
この年11月は畠山尚順細川政元と退治している最中であり、そのような状況で尾州家方の人物が紀伊の在地に戻ろうと協力を要請するとは考え難い。
よって尚順弟は候補から外れ、尹弼は尚順弟と九郎(=長経)の間に石垣家を継いでいた人物と絞られる。

さて、本命と考える時期は、永正17(1520)年である。
過去の記事でも述べた通り、永正17年8月に紀伊を没落した尚順は、その後足利義稙の支援のもと稙長方と合意の上で紀伊に復帰しようとしたが、翌年になり頓挫し稙長方と敵対するに至ったと考えている。
また、大永2年段階で九郎(=長経)が石垣左京大夫家を継いでいるのは、先代の人物がこの騒動で没落したからではないかとも仮定した。

その没落した先代こそが、この「尹弼」だったと言うのである。
永正17年11月段階ではまだ尚順の帰国作戦は頓挫していないと思われ、尚順と共に紀伊を離れていた尹弼はこれによって帰還できる見通しを述べたのではないか。
また近日中に帰宅できるとの若干楽観的にも映る見込みは、『上杉家文書』長尾為景宛書状で紀伊への復帰はすぐに可能だと強調していた尚順の姿勢と通じる

有力と考えているのはこの線だが、書状の年次は翌永正18年であり、稙長方との戦闘を見越して賀茂氏に協力を求めた可能性、また尚順没落の際には石垣荘に留まっていたが、翌年尚順と稙長が対立関係に入った際に、稙長方に廃されて没落していたという可能性もあるだろう。


憶測に憶測を重ねた形だが、結論としては「尹弼は九郎(=長経)の先代の石垣左京大夫家の人物であり、尚順の没落に連鎖して石垣家を稙長方に乗っ取られた」という可能性を唱えたい。


尹弼の出自

更にこの前提のまま、尹弼の出自について考えたい。
当時の石垣家は、尚順弟が継ぐなど尾州家当主と非常に密接な存在となっていた。
それを踏まえると、尚順弟が戦死した後も尾州家と近しい存在の人物が継いだと思われる。

第一候補は畠山尚順の子、もしくは尚順弟の子だろう。
畠山尚順の生年は1475年で、尚順弟は明応5年『石垣荘白岩丹生神社造営棟札写』願主の「寅千代丸」と考えられ、明応9年に戦死している。
尚順の子と考えた場合、稙長が5歳で「稙」偏諱を貰っているにも関わらず、その弟が「尹」偏諱を貰うとは思い難く、先に生まれた庶兄という想定になるだろう。
その場合、『両畠山系図「政氏」に該当するのが尹弼だったという線も出てくる。
「政氏」が石垣で長経に殺害されたという説を取る場合、戦死ではなく没落先から呼び寄せられて殺害された事態を考えられるだろうか。
また、子を作れるかギリギリの年齢ではあるが寅千代丸の遺児が継いだ可能性もなくはない。

尚順の近親でない場合は、他の畠山分家から石垣家に迎えられたことになる。
尚順方に属した畠山分家は、中務少輔家・播磨守家・石垣家・宮原家・右馬頭家・式部少輔家と多数候補があるが、このうち右馬頭家を検討してみたい。

右馬頭家に関しては、川口成人氏の研究がほぼ唯一の専論と言ってよく*5、以下の情報はこれに従ったものである。

右馬頭家の畠山政純(出家して伴雲軒紹高)は尚順方として紀伊随行した分家の中でも年長の人物だった。
注目するのは、上記の白岩丹生神社棟札の筆者を紹高が務めており、石垣家と直接の繋がりがあるという点である。
材料はこの一点だけではあるものの、紹高は幼年の尚順弟を補佐する立場にあったことが伺える。
そのような関係だったのならば、戦死した尚順弟の穴埋めの候補として右馬頭家もあり得たのではないだろうか。

更に言えば、紹高の後継者である右馬頭尹胤が一旦石垣家に入っていたとも考えている。
尹胤は紹高没後も紀伊に在住していた形跡が伺えるが、この当時すでに足利義稙は京に復帰しており、在京することは可能だった。
にも関わらず尹胤が紀伊に在住し続けたのは、紀伊に定住する居所があった、それが石垣荘という線はないだろうか、という話である。

原文が確認できていないため自信はないが、写であることを考慮して「尹弼」「尹胤」の誤記であり、永正末頃まで石垣家を継いでいたのは右馬頭尹胤当人ではないかと考えることもできるかもしれない。

また、『東寺過去帳』には大永7(1527)年に畠山義堯によって堺で殺害された「典厩舎弟」という人物が残り、これは右馬頭(典厩)家の長継の弟で、この年1月20日に殺害された畠山順光(『二水記』)と同時に殺害されたと考えられている*6
この「典厩舎弟」も、紀伊から没落し阿波に下っていた尹弼だと当てはめられないかと考えている。

殺害理由に関しては、「尹弼」と総州家がともに賀茂氏と繋がりを持っていたことが関わっているのではないか。
大永4年、総州家は賀茂年寄衆に尚順の筋目を持ち出して忠節を求めていた。
総州家は亡き尚順の人脈を吸収することを目論んでおり、大永4年の上洛戦には阿波公方方は直接参加していなかったため、好きに筋目を主張できた。
しかし、大永7年の上洛戦は阿波公方方も渡海して加わっており、そこで尚順方との尚順の筋目の競合が浮き彫りになり、その果てに「典厩舎弟」の殺害が起こったのではないだろうか。
総州家が賀茂年寄衆に前年の筋目を持ち出し忠節を求めた大永7年2月は、「典厩舎弟」らの殺害後であるのも、関わりがあると言えるのではないだろうか。

もっとも、その場合兄の長継が将軍偏諱ではなくおそらく稙長から偏諱を貰っている一方で、弟の尹弼は将軍偏諱を貰っているという不自然さはある。
これに関しては、例えば尹胤という先代が健在だった長継に対し、尹弼は石垣家を継いだ当人であるため、先に偏諱が授与されていた、長継は何らかのタイミングのズレで将軍偏諱を貰う機会を逃した、と考えられなくもない。
もしくは、不自然さを解消するために、尹弼=尹胤と想定し、長継が右馬頭家を継いだ一方で、その弟が石垣家を継いでいたと考えることは可能だろうか。

以上、仮定だらけだが、「尹弼」という未知の人物の輪郭をできるだけくっきりさせられないかと思い、私見を述べてみた。
仮に「尹弼」周りの史料が発掘されれば前提から崩れかねない論ではあるが、何かの参考になれば幸いである。


参考文献
川口成人『忘れられた紀伊室町文化人 : 伴雲軒紹高の活動と系譜』(日本文学研究ジャーナル19)

 

*1:森成史『足利義材の「義尹」改名とその政治的意義』(日本歴史906)

*2:『間藤家文書』天文16年6月15日飯沼九郎左衛門康頼・寒川与助景範連署状。天文19年閏5月10日飯沼九郎左衛門康頼・寒川与助景範連署

*3:弓倉弘年『紀伊守護家畠山氏の支配体制』(中世後期畿内近国守護の研究)

*4:天文年間にも賀茂年寄衆宛の書状が残っているが、この時は賀茂小法師丸という賀茂氏の若年の当主の存在が確かめられるいる

*5:川口成人『忘れられた紀伊室町文化人 : 伴雲軒紹高の活動と系譜』(日本文学研究ジャーナル19)

*6:『戦国武将列伝7 畿内編下』畠山順光