179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆畠山稙長の生年

言わずと知れた(言わずと知れた?)畠山尚順の嫡男、
終身名誉細川高国ファンクラブ会員細川氏綱パトロンこと畠山稙長。

彼の生年についてだが、従来は『両畠山系図』などの享年42歳という記述から逆算し、永正元(1504)年とされてきた。
しかし、最近になり小谷利明氏が『畠山氏の権力構造と文書発給』(中世後期の守護と文書システム)内である指摘を行っている。
それは『守光公記』永正7(1510)年4月29日条で、代始を行った畠山鶴寿丸(稙長)を「当年二歳云々」と記しているとのこと。*1
つまり一次史料から推察される稙長の生年は永正6(1509)年となる。*2

そうなると各イベントにおける稙長の年齢は

元服:永正12(1515)年 7歳
家督相続:永正14年(1519) 9歳
尚順の失脚:永正17年(1520) 12歳
桂川合戦:大永7(1527)年 19歳
天文法華の乱:天文元(1532年)年 24歳
河内守護復帰:天文11(1542)年 34歳
急死による死去:天文14(1545)年 37歳

 

稙長は若年から活動が見える分、年齢が更に5歳若くなることでイメージも随分変わるのではないか?
これにより「こんなに若いのに頑張っていたんだなぁ」「この歳で急死したのは痛すぎる……」と思う方が増えれば幸いである。むしろこの説を前面に押し出すのは半分くらいそれが目的である。
冗談はともかく、『守光公記』の記述は伝聞(云々)の形ではあるものの、幼子の年齢を大きく間違えはしないだろうと考え、以降の考察ではこれに従いたい。

*1:この代始のことは『実隆公記』『管見記』にも記されており、鶴寿丸は畠山稙長のことで間違いない。なお『大日本史料』には『守光公記』の記事は引用されていなかった。

*2:他にも『両畠山系図』などは畠山高政の享年について天正4年に50歳で没したとしている。これに従うと生年は大永7(1527)年になるが、『観心寺文書』永禄2年9月19日の尾張守(畠山高政)免除状の押紙には「御屋形様高政生年二十九歳[辛卯の年人]」とあり、ここから逆算すると天文元(1531)年となる。『両畠山系図』は生没年については結構誤謬があると考えられる。