179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆『両畠山系図』の成立と『古今采輯』

畠山氏関連の書状・覚書・系図などが収録されている『古今采輯』という資料集がある。
東京大学史料編纂所の「所蔵史料目録データベース(Hi-CAT)」で誰でも閲覧可能。
リンクはこちら


『古今采輯』がどういった性格の史料集なのかについては、ネットで検索しても何も引っかからない(引っかかるのは自分のツイートばかりである。なぜ)ため、よくわかっていない。
解説や翻刻などもされていない様子。
とはいえ、収録されている書状は畠山氏に関わる先行研究でも利用されており、書状に関しては信用できる資料集として見ていいようだ。
正直なところ自分はくずし字を読むのが苦手なので、この『古今采輯』収録文書をくずし字認識アプリや有償依頼などで翻刻してもらったりしてなんとか解読している。

ともあれ、その『古今采輯』の中(0590-0591を参照)にこのような書状がある(翻刻については上記の方法頼り)。

 

      尚々卜山様稙長様御事ハ不存候
      卜山様ハ広之城ヲ河州へ御のき被成候
      か百廿一年ニなり候と申者御座候
  御状之趣拝見仕候然者年号月日之事蒙仰候
一 政国様天文一九年八月一二日
一 政義様天正十六年七月一五日ニ而御座候残  
  御両所之日不存候老僧衆へ相尋候得共不被
  存候民部様へ捧愚状申上度候へ共貴殿御坐
  之御事候間可然様可願御心得候次甚左衛門
  事被仰下忝存候存生内者御厚恩報謝無之相
  果申事候猶期後音之節候恐惶謹言
   二月廿八日  陽雲軒判
   生馬市大夫様
         人々御中

 

差出人の陽雲軒については判然としないが、歴代当主に「様」を付け、「民部様(畠山民部大輔政信)」に書状を捧げていることから、畠山氏関連の人物と見てよいだろうか。
書状の後半から、陽雲軒には生前畠山氏と関わりがあった「甚左衛門」という身内がいたと思われる(これだけでは特定は難しそうだ)。
生馬市大夫に関しては江戸期に畠山政信の家老を務めていたことが確認できる*1

 

内容の主題は、生馬から「年号月日之事」について尋ねられた陽雲軒の返答。
陽雲軒は「政国様」「政義様」の年月日について述べる一方で、「残りの御両所は老僧衆に尋ねたものの知ることはできなかった」と述べている。
この「年号月日之事」は没年のことと見て問題ないだろう。

「御両所」については冒頭に「卜山様稙長様のことについては存じず」とあるため、畠山尚順・稙長を指していると思われる。
一方で畠山高政・秋高の没年について尋ねられた形跡はない。
高政・秋高は観心寺に没年を記した供養塔があったようなので*2、既に政信側が知っていたため尋ねる必要がなかったのではないだろうか。

すなわちこれは、畠山尾州家の子孫が古老などの話を収集し先祖の由緒を調べていたことを示す書状ということになる。
さて、ここで『両畠山系図の記述を見てみる。
「政国」「天文十九年八月十二日。於宮原卒」「政尚 云政義」天正十六年七月十五日於紀州園満寺卒」とある。
まさにこの書状と名前と没年が一致していることがわかるだろう*3

尤も、政国の没年は前回の記事で触れたように、天文19(1550)年だと矛盾があり、一般的に「政尚」「政義」と伝わる人物の一次史料で確認できる諱は「政能」である*4

誤りを含んだ情報なのだが、逆にこの誤謬によって『両畠山系図』が僭称とかではないれっきとした尾州家子孫の畠山家によるもの、あるいはこのような畠山家に集積された記録を典拠として作成されたという証明になるのではないだろうか。
つまり、『両畠山系図』はこういった丹念な情報収集に基づいて作成されたものであり、アレとかソレとかの僭称系図とかと違って故意の曲筆などはされていないと考えている。
もちろん上記のような誤謬はあるのだが、畠山家内の伝承に基づいた貴重な史料と定義して、誤りは正した上で『両畠山系図』を今後も利用していきたい。

 

ついでに、「卜山様ハ広之城ヲ河州へ御のき被成候か百廿一年ニなり候」についてだが、陽雲軒が畠山尚順紀伊広城から堺に没落したのが永正17(1520)年であるということを正確に認識していたのならば、その121年後のこの書状の年次は寛永18(1641)年となる。
この寛永18年は、上記の「古今采輯」政信提出系図の年次であり、畠山定政の没年でもある。
「古今采輯」にはこの年と思われる書状が他にもあり、寛永18(1641)年は何かと畠山氏にとってキーとなる年だったのではないかと思っているのだが、これは別の機会があれば触れたい。

*1:紀伊風土記』年未詳11月21日畠山民部大輔政宣(政信)書状。『国史館日録』第三 寛文8年4月28日条

*2:『檜尾措蔵記』(観心寺要録一)に「畠山家五輪塔二基 檜尾僧正御廟ノ東方ニ之レ有リ」とあり、高政・秋高とみられる人物の没年が記してある。

*3:なお、ここで没年がわからなかったとする尚順は、両畠山系図にも没年が記されていない。一方で稙長は別の筋から知ったのか正しい没年が記されているが、享年が間違っているのは以前の記事で述べた通り

*4:紀伊風土記』則岡氏所蔵文書。弘治2年11月16日政能「畠山播磨守なり」書状など。