◆「御孝弟御取相」と畠山稙長の紀伊出張
※この記事は以前に投稿した記事を大幅改訂したものです。
またしてもブログを始めた時点ではこんなに触れることになるとは思わなかった石垣左京大夫家の話。
戦国期の畠山氏と紀伊の関わりはまだまだ不明な部分が多い。
近年、新谷和之氏が天文以降の紀伊での戦闘、かつ湯河氏と畠山氏の連携の可能性を指摘しているが*1、今回はその稙長と紀伊で争った勢力は何なのかというのを検討してみたい。
「御孝弟御取相」と賀茂氏
史料①『中尾家文書』天文5年5月6日 中尾新兵衛田地売渡状
(略)畠山殿様御孝弟御取相折節、湯川殿宮崎殿より、中尾之新兵衛御使、被仰付候、爰元従無通路申調如御本意候、則賀茂殿御入部候、従其忠節、彼龍洞院之儀、下芳養殿宮崎殿より、賀茂殿年寄中へ以折紙被仰付候(略)
天文五年 申丙 五月六日 中尾新兵衛
この文書はおなじみ賀茂氏被官の中尾氏が知行を売却したものだが、その際に知行を得た経緯が書かれている。
中尾新兵衛は畠山殿様(稙長)が弟と争った際に、湯河・宮崎氏に(賀茂氏からの)使者を仰せ付けらて(畠山氏の)本意のように通路を整えた功があり、賀茂氏が入部した際にその忠節によって広福寺のことを湯河・宮崎氏から賀茂年寄中に折紙で仰せ付けられたという。
まず、「畠山殿様御孝弟御取相折」と畠山兄弟(畠山殿様=稙長とその弟)で争いがあったことがわかる。
天文5(1538)年5月以前に稙長と紀伊を舞台に争った弟とは、紀伊に拠点がある石垣左京大夫家か宮原兵部少輔家の人物が該当するだろう。
通路が無かったので「御本位」のように申し調えたとあるように、中尾新兵衛は稙長の紀伊での何かしらの軍事行動を案内する働きをしたと思われる。
また、賀茂殿が入部したとあり、賀茂氏の当主(=小法師丸)は何らかの理由で賀茂荘を離れていたことが伺える。
そして、その際に湯河・宮崎氏が稙長を助ける動きをし、また寺領を与える折紙を出している。
文書は現存していないが、湯河・宮崎氏から揃って書状が出されたということは、両者がその当時同じ箇所にいたことを示している。
また、宮崎氏と共に記される人物が二箇所目では「下芳養殿」と記されているのに注目する。
これは下芳養を拠点とする湯河氏の支流の式部大輔家を指しており、一箇所目の「湯川殿」も同一人物だろう。
また、書きぶりから一連の稙長弟との抗争はこの文書発給の時点で終わったものと推定するべきだろうか(以前はこの抗争を天文初期の稙長の紀伊没落に関わるものと想定していたが、それは成り立ち難いことが判明した。詳細は後述)。
小山氏と畠山稙長の大野攻め
畠山稙長の花押は、大別して二種類に分けられる(以下、前期型と後期型と表記)。
後期型は天文元(1532)年12月を初見とし*2、以降特に変化は見られない。
前期型は書状の初見となる永正17(1519)年や*3、大永7(1527)年に同型のものが確認できる*4。
そのため、前期型の稙長書状で、紀伊での活動に関わるものがあるのならば、それは天文以前の時期を示すことが確定する。
そして、実際にそういった書状は複数例確認できる。
史料② 『小山家文書』9月23日 畠山稙長書状
至大野進発之処、音信祝着候、殊五方令一味、可抽忠節由神妙候、弥馳走肝要候、猶委細玉置与三郎同兵部丞可申候、謹言
九月廿三日 稙長(花押)
小山三郎五郎殿
小山氏と小山家文書については、坂本亮太氏が詳しく解説を行っている*5。
新谷氏はこの書状から畠山稙長が大野攻めを行ったことを指摘しており、文書中の「五方(小山氏などの紀南の領主を指すと思われる)」に注目し、熊野三山と稙長方の対立が解消される天文5~7年頃と関連するものと見ている*6。
ただ「五方」に熊野三山を含むことに慎重になる見解も存在し*7、その場合史料②の年次は熊野三山の動向に囚われないものとなる。
ただ上記の花押推定によると、そもそもこの書状の稙長花押は前期型なので、天文元年以前のものということになる。
宛先の小山俊次の通称は大永5年11月段階では三郎五郎であり、その後丹下盛賢を介して式部大夫に推挙されている*8。
この時の尾州家は足利義晴方という立場は動いていないと思われるため、この官途推挙が京方を介した正式なものの可能性もあるだろう。
更に稙長が前期型花押で小山式部大夫に宛てた書状があるため*9、この式部大夫宛稙長書状の年次は大永6年から天文元年までに絞り込める。
また、他の小山三郎五郎宛書状の年次は全てその前年からとなるだろう。
加えて、大野の『尾崎家文書』には某年8月23日・12月15日に能登守護家の畠山義総が尾張守(稙長)と音信を交わした書状が二通存在している*10。
稙長宛の書状が尾崎家に残されているということは、この時の稙長の居所が大野にあったことを示している。
史料②と義総書状を関連するものと扱うと、稙長は某年8月から12月、あるいは某年12月から翌年9月頃まで大野に出陣していたことになるだろう。
『尾崎家文書』の年次を絞り込むと、の差出人の畠山義総は、天文4年の「義総」の名乗りを終見とし、天文5年月には出家して「徳胤」と名乗っている*11。
また、宛先が「尾張守」となっており、稙長は大永4年末段階では「河内次郎殿」と表記され*12、尾張守への任官は大永5年以降と思われる(稙長父の尚順ならば義総の家督継承時に出家しているので「尾張入道」となるはずであり、除外できる)。
大永5年以降天文元年以前で上記の期間に稙長が紀伊にいた可能性のある年次(=河内にいたことが確認できない年次)は、大永6年・享禄元年・2月が該当する*13。
義総は稙長と共に足利義晴・細川高国陣営に属しており、稙長の紀伊出張時もその構図は変わっていないと思われるため、贈答があることに問題はないだろう。
二つの書状には特別な文言が見当たらないため、たまたま稙長がその時大野にいたため『尾崎家文書』にこの二通のみが残っただけで、他にも恒常的に贈答が行われていたのかもしれない。
また、『隅田家文書』によると、某年8月頃に「今度三好一族乱入候処、於大野表一戦」と大野で合戦があったことが記される*14。
遊佐順盛が存命時に三好氏が上洛戦を試みたのは永正16年と大永6年の2回だが、前者は淡路に出張したのが9月28日であり*15、翌年5月に三好之長らが自害しているので、8月段階での紀伊での戦闘は考え難い。
後者も8月段階では波多野元清・柳本賢治らの謀反は起こっておらず、阿波勢が堺に上洛したのは12月なので(『二水記』大永6年12月13日条等)、三好勢が大野に乱入したのは大永7年以降の想定になるだろう。
ただ、この三好勢乱入が史料②と同年であるかはなんとも言い切れないので、ひとまず大永以降の京方と阿波方との対立の際に、大野が係争地の一つになっていたことの証左として挙げておく。
稙長の有田郡攻めと賀茂氏の貢献
次に採り上げるのは、「御孝弟御取相」で稙長方に協力を行ったという賀茂氏の動向である。
史料③ 『中尾家文書』5月10日 畠山稙長書状
去年以来被官人馳走神妙候、為恩賞藤並之内下津野分各申付上者、弥可抽忠節事肝要候、謹言
五月十日 稙長(花押)
賀茂小法師殿
史料④ 『中尾家文書』6月26日 畠山稙長書状
当庄不入儀、成其意候上者、忠節可為肝要候、猶委細山本式部丞玉置兵部大輔可申候、謹言
六月廿六日 稙長(花押)
賀茂小法師殿
史料⑤ 『中尾家文書』6月26日 玉置正直・山本忠善連署状
当庄不入儀、被成御意得候、珍重候、弥御忠節可為肝要候、此旨相意得可申由、被仰出候、恐々謹言
六月廿六日 正直(花押)
忠善(花押)
賀茂小法師殿
史料⑥ 『中尾家文書』8月3日 畠山稙長書状
有田進発之儀、依根来寺扱子細延引候、然者岩室手前之間、此時忠節可為肝要候、家之儀如前々可申付候、謹言
八月三日 稙長(花押)
賀茂被官中
これらの書状は稙長方より賀茂氏に宛てられたもので、史料③④⑤は史料①に登場する賀茂小法師丸という幼名の人物が宛先であるため、①の時期である天文5(1536)年をそう遡らない時期に発給されたと思われる。
また、稙長書状の花押は全て前期型であり、発給時期は天文年間以前が確定する。
史料③で「去年以来被官人馳走神妙候」とあるので、この文書は賀茂氏が稙長方への協力をした翌年に出されたものである。
また、この文書では賀茂氏は恩賞として藤並荘下津野が与えられている。
藤並荘は石垣荘の手前にあり、下津野は藤並城があったと伝えられ同荘の中核にある。
本来は賀茂氏と縁のない地域であり、それが与えられるということは闕所になったことが想像できる。
すなわち、藤並荘は反稙長勢力に属していたが、戦闘によって制圧されたのではないか。
この書状が出た時は戦局は稙長方優位で落ち着いていたことも想定できるかもしれない。
史料④⑤は賀茂荘不入を保証した判物で、これも賀茂氏の一連の働きに関わるものと考えられる。
また、史料⑤は史料④の稙長書状と同日に発給されているため、発給者の山本式部丞忠善・玉置兵部大輔正直は稙長と同陣していたことが伺える。
山本氏の当主の官途は中務大輔や兵部大輔、玉置氏は民部大輔であることが確認されるため、彼らは当主ではなく、立ち位置は不明だが分家の人間が稙長に属していたと思われる。
弓倉弘年氏は先行研究でこの文書について、「この一例のみで判断することは難しいが、畠山稙長は河内高屋城を有力内衆によって負われるなど、その権力基盤は不安定であり、紀伊国内の有力国人である山本氏や玉置氏の協力なしには、海部郡でも十分に権力を行使できなかったのではないだろうか。」と畠山氏の退潮を見て取っているが*16、紀伊出張中の事例であることや、彼らが当主ではなく立ち位置不明の一門であることも考慮すべきだと考える。
これらの史料により、稙長は最低でも足掛け2年紀州に在していたことが伺える。
では、稙長が5月・6月・8月を含む時期に足掛け2年紀州にいたことが想定できる年次(=河内での活動が確認できない年次)はいつかとなると、大永年間は2年続けて河内に不在の時期は無いと思われ、享禄年間のみが該当することになる。
すなわち、大野攻めと賀茂氏の協力は両方享禄年間に行われたものであり、関連性のある軍事行動だったと考える。
それを踏まえて、史料④⑤の取次の玉置氏の名に注目すると、史料②の取次は「玉置与三郎・同兵部丞」と微妙に官途が違う。
玉置兵部丞の名は『小山家文書』(永正末~天文初)8月11日丹下盛賢・遊佐長清連署状*17、玉置兵部大輔は『湯河家文書』の天文年間の稙長書状にも「玉置兵部大夫」が登場しており、史料⑤を史料②の前とすると短期間に「兵部丞→兵部大輔→兵部丞→兵部大輔」という官途が違う人物が登場することになり、稙長本人の発給文書であるため書き間違いも考え難い。
そのため、史料④⑤は史料②より後の時期のものであり、兵部丞・与三郎のどちらかが兵部大輔正直の前身であると想定したい。
史料⑥は、「有田進発」が根来寺の子細によって延引されたことを伝え、岩室(=岩室城主 宮原兵部少輔家)と手前(=稙長)に対して引き続き忠節を求めている書状である。
岩室=宮原兵部少輔家が稙長方に属しているということは、「有田進発」で攻撃される対象は有田郡に拠点を持つもう一つの畠山分家、石垣左京大夫家である可能性が高いのではないだろうか。
つまり、冒頭の「御孝弟御取合」とは享禄年間に稙長が紀州に下向し石垣家を継いでいた弟を攻撃したことを指すものであると結論付けたい。
賀茂氏の立ち位置と稙長方への色立
ではこの時、賀茂氏は従来からの稙長方として協力を行ったのかというと、それは怪しい所がある。
写ではあるが、湯河光春の花押は大まかな形で確認でき、天文年間などの多くの文書で確認できる光春花押(「皿」のような形)と概ね同型と認められる。
以前は「御屋形」を稙長、「尾州」を尚順とし、永正末年の尚順没落後の湯河氏の赦免に関連する史料と解釈していたが、それは成り立たないことになる。
そのため「御屋形」「尾州」双方が稙長を指し、稙長が尾張守に任官した大永5年以降のものと考えるべきだろう。
「被色立」とあることから色立をするのは賀茂氏であり、これ以前、賀茂氏は稙長と敵対する勢力に属していたことになる。
史料⑧ 『笠畑家文書』10月16日 丹下盛賢・遊佐長清書状*18
この史料も貴志・宮崎と賀茂氏が連携して稙長方に属していることから、史料⑦と同時期のものと想定することも可能かもしれない。
これらの勢力との賀茂氏の連携が確認されるのが大永7年までなので、この後に稙長方に転向したと考えるとそれは享禄元年以降になる。
この辺、悩ましいのが賀茂氏被官に宛てた書状が残る、石垣左京大夫家の九郎の立場だったりする。
上の記事で紹介済みだが、九郎の動向が確認できるのは大永2年12月の宮崎合戦での関与と、某年10月に賀茂氏に対して貴志・宮崎・梶原氏と連携しての忠節を求めたものの二つ。
宮崎合戦については、以前は稙長方の宮崎氏に九郎が助力したという前提で想定していたが、史料⑦・⑧の発給時期が大永3年以降となると、永正末年からの宮崎氏の動向は不明瞭になる。
あるいは貴志・宮崎氏ともに賀茂・梶原氏と同調し、紀伊水道・有田川流域に面する勢力が団結して反稙長方の行動を取っていた可能性も出てくる。(動向が不明瞭な宮原兵部少輔家にも、同様にどちらの可能性があるのではないか。)
故に宮崎合戦は上記の想定に限らず、反稙長方の宮崎氏を稙長方の九郎が攻撃、あるいは反稙長方の九郎・宮崎氏と稙長方の戦闘である想定も否定できず、確証がないためこれ以上の結論は出せない。
同様に賀茂氏宛書状も、稙長方ではなく反稙長方としての独自の行動だった可能性も出てくる。
発給時期は以前の考察通り大永5年以降を想定しており、仮に九郎が反稙長方だったとするならば、時期的に史料②の稙長の大野攻めに刺激されて発給されたものという想定もできると考える。
その場合、大永2年から享禄年間とそれなりに時期が経っているのにも関わらず仮名が「九郎」のままなのは、堺公方派の細川六郎(晴元)等のように、偏諱を貰うべき相手がいなかったからなのかもしれない。
いずれにせよ、稙長の紀伊下向以降、宮原家・湯河・玉置・山本・賀茂・貴志・宮崎氏が稙長方に属していたことは確実であり、石垣家にとっては不利な状況だったと考えられる(梶原氏の動向に関しては史料が無いので不明。史料①より賀茂氏は一時本地を離れる自体になっていたことが伺えるが、その原因は敵対時に稙長方に攻撃されたか、色立の際に反稙長方に留まった梶原氏などの攻撃を受けたからだろうか)。
ただし、前述の享禄年間にあたる小山式部大夫(俊次)宛稙長書状では稙長方の保呂城が落城しており*19、敵対勢力の抵抗も根強かったと見られる。
坂本氏はこの「稙長敵対勢力」を熊野衆などを候補に挙げつつ不明としたが*20、立ち場としては稙長に敵対する石垣家方の勢力と考えて良いのではないだろうか。
まとめ
稙長の「有田進発」は史料⑥での延引の後、具体的な動向を示す史料が無いのでその後どうなったのか不明である。
石垣家を屈服させたのか、攻め込めないまま立ち消えになったどちらの可能性もあり得る。
享禄年間には細川高国の反撃からの敗死や、堺公方府の内紛による壊滅など、稙長方が紀伊での軍事行動を中止し可能性もあるが、関連史料からは上方の情勢は伺えない。
これ以降は確証性のない仮説を行う。
『両畠山系図』にある稙長弟の石垣家の政氏が石垣城で宮原家の長経に生害されたとする伝承は、享禄年間に紀伊に出張した稙長と争った弟の九郎(政氏)が、稙長方の宮原家の長経らに滅ぼされ、その後長経が石垣家を継承したことを表しているのかもしれない。
一連の出来事の年次比定だが、以下にひとまず紀伊出張が享禄2(1529)年に始まったものとしての想定を行ってみる。
その理由としては享禄元年末に稙長は柳本賢治と和睦しており、高屋城は失ったものの、享禄2年4月に段銭皆済状が発給されており*21河内方面ではある程度安定がもたらされ、他の軍事活動が可能だったという想定がひとつ。
また、享禄4年6月の大物崩れ以前に出来事を収められるため、関連史料に上方の情勢を記すものが無くても不自然にはならないと考えたからである。
・享禄2年
9月23日 史料② 小山俊次が稙長の大野攻めに対して音信を送る
10月1日 畠山九郎が賀茂・貴志・宮崎・梶原氏との連携を依頼
10月16日 史料⑧ 丹下盛賢・遊佐長清が賀茂・貴志・宮崎氏と接触(翌年でも可)
12月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る
・享禄3年
2月6日 史料⑦ 賀茂氏が稙長方に色立。湯河・貴志・宮崎氏と連携を行う
3月12日 丹下盛賢を介して小山俊次が式部大夫に推挙される(翌年でも可)
6月26日 史料④⑤ 賀茂荘の不入を畠山稙長が保証
7月28日 小山俊次の保呂城が敵対勢力に敗れ落城し、稙長がその際の感状を出す(翌年でも可)
8月3日 史料⑥ 稙長の有田進発が延引中。賀茂氏の家の事を改めて保証
8月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る
・享禄4年
5月10日 史料③ これ以前に稙長方が藤並荘を確保しており、賀茂氏に去年以来の貢献により藤並城周辺が与えられる
これ以外にも、この享禄年間に当て嵌められる尾州家の紀伊での活動に関わる史料はあると思われる。
一つの傍証になり得るのは丹下盛賢の名乗りである。
盛賢は紀伊での没落以前は俗体だが*22、没落後のある時期に出家し「宗徹」と名乗っていることが確認され*23、天文11年3月には僧体のまま署名を「盛賢」に戻している*24。
そのため、丹下盛賢の出家が確認される史料は天文年間のものであることが確定するが、俗体ならば享禄年間のものと考える余地はある。
一例を挙げると、新谷和之氏は某年7月29日に畠山稙長・湯河直光によって広城攻めが行われたことを指摘しているが*25、その際の稙長書状(花押は写されていない)の取次の表記は「丹下備後」であるため、広城攻めが享禄年間のものだった可能性は存在する。
今後史料の検討が進み、例えば丹下盛賢の出家時期が紀伊没落直後に遡ることなどが起これば、比定はより確実なものになるだろう。
もう一つ検討しているものとして、『紀伊続風土記』収録文書には2月1日の土生口(有田郡藤並荘土生か)での合戦を記す某年2月5日某康頼・長清書状がある。花押が写されていないため長清が遊佐長清であるかは確実ではないが、長清は天文年間は稙長の紀伊没落に従わず高屋方に残っているため*26、稙長方としての発給文書の場合はこれも享禄年間が想定される。
散発的になったが、石垣左京大夫家や賀茂氏の属する位置など、確定できない所は多いものの、稙長の大野進発と弟との抗争が天文以前に起こっていたことまでは証明できたと考える。
またその時期は享禄年間の蓋然性が高く、この時期の稙長の動向がほぼ確認されないことの穴埋めになり得るのではないだろうか。
今回の想定が、尾州家と紀伊の関わりを今後研究する上で少しでも糧になれば幸いである。
参考文献
小谷利明『畠山稙長の動向』「戦国期の権力と文書」
新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」
坂本亮太『解題 紀州小山家文書』「熊野水軍小山家文書の総合的研究」
坂本亮太『戦国期熊野の基本動向―戦乱を中心に― 』「紀伊考古学研究24」
*1:新谷和之『十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭──湯河氏の動向に焦点を当てて』「文献・考古・縄張りから探る近畿の城郭」
*3:『小山家文書』(永正17年)8月20日小山八郎左衛門尉宛(畠山)稙長書状
*5:坂本亮太『総論 熊野水軍小山家文書の総合的研究―熊野の海域史・序論― 』(熊野水軍小山家文書の総合的研究)
*6:注*1
*7:坂本亮太『紀州山本氏の地域展開』(山本氏関連城館群総合調査報告書)
*8:『小山家文書』年未詳3月12日小山式部大夫宛(丹下)盛賢書状
*9:『小山家文書』7月28日小山式部大夫宛(畠山)稙長感状
*11:末柄豊『畠山義総と三条西実隆・公条父子-紙背文書からさぐる-』(加能史料研究22)
*12:『祐維記抄』大永4年11月13日条
*13:大永元年は『祐維記抄』10月24日条などで河内で戦闘。大永2年は『親孝日記』9月15日条に稙長が尚順の御弔を送られている。大永4年は『御作事方日記』(大館記)2月3日条で稙長を総奉行として状況させる案が出ており、『大友家文書』年未詳3月11日勝光寺光瓚書状で「□□□郎(畠山次郎)殿河内在国候」とあり、『祐維記抄』11月13日条などで河内で戦闘が行われている。大永5年は『書札之御案文』より7月や10月に稙長が上洛を求められている。大永6年は『将軍家御社参之記録』(石清水八幡宮史料叢書)2月16日条で稙長の上洛が確認される。大永7年は『中島家文書』年未詳2月1日足利義晴御内書で稙長が参陣を約束、『長浜文書』年未詳7月20日畠山稙長書状で高屋城に在城、『厳助往年記』11月27日条などで上洛して在陣している。享禄元年は『厳助往年記』11月11日条などから10月より高屋城で籠城戦が行われている。また『観心寺文書』で大永6年8月・大永7年10月・大永7年11月・大永8年9月・享禄2年4月に丹下盛賢が段銭皆済状を出しているため、これも稙長が河内にいた証左になると思われる。
*14:『隅田家文書』年未詳8月18日(遊佐)順盛書状。
*15:『鷹山家文書』(永正16年)9月26日(遊佐)英盛書状
*16:弓倉弘年『奉公衆家山本氏に関する一考察』「中世後期畿内近国守護の研究」
*17:遊佐長清は稙長の紀伊没落後、稙長奉行人としての活動が見られなくなり、丹下盛賢と違い没落に同行していなかったと思われる。『天文日記』天文6年6月16日条に「遊佐左衛門大夫」が登場し、『芋生家文書』年未詳8月23日遊佐長教書状(長教花押は天文6年までの前期型花押ではなく後期型花押)にも取次として「長清」が見えるため、両者とも遊佐長清を指すと思われる。
*18:原文は確認できていないが、写であるため、「成賢」に関しては永正末年から遊佐長清との連署状が多数見られる丹下盛賢の誤記と推測する。
*19:注*9
*20:坂本亮太『戦国期熊野の基本動向―戦乱を中心に― 』(紀伊考古学研究24)
*22:『蓮成院記録』天文2年1月条など
*23:『証如上人書札案』天文6年11月8日証如書状。『和歌山県立博物館所蔵文書』(天文7年か)8月10日宗徹書状
*24:『目良文書』(天文11年)3月23日(丹下)盛賢書状
*25:注*1
*26:注*17