179(擁護派)のモノ置き場

備忘録兼の歴史小ネタ用ブログの予定です

◆天文法華の乱における畠山尾州家の動向(後編) 反本願寺としての挙兵と再びの和睦まで

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書ききれなかった分のつづき。

 

興正寺住持蓮秀による紀伊門徒の調停と稙長

この時期の畠山稙長の動向を示すものとして、天文3(1534)年末から翌4年前半の間に行われた証如と興正寺住持の蓮秀による紀伊門徒の動員工作がある。

こちらの本山興正寺のサイトに経過が述べられていたので、詳しい部分はコラムを見ていただきたい。

www.koshoji.or.jp


『私心記』によると天文3(1534)年12月28日に蓮秀紀伊に下り、翌4年6月25日に紀州衆5、600人が蓮秀と共に本願寺に入っている。
ただし、この直前の6月11日に本願寺は摂津で「大坂滅亡」後奈良天皇宸記)と書かれるレベルの大敗北を喫し、紀州門徒が戦闘に動員された様子はなく、その後は和睦に傾いていく。

その間、『端坊文書』天文4(1535)年に比定される3月20日紀州門徒宛書状で証如は、「牢人の還住については尾州(畠山稙長)と相談している所なので、妨害をしないように」といった旨を述べている。
蓮秀は当初から紀伊門徒を編成して上洛する命令を受けており、また紀伊守護の稙長とも目的が一致していたと思われる。

 

で、前の記事で触れた、家督交代を示す8月16日畠山左京大夫(長経)宛の御内書は、従来天文3(1534)年とされていたが翌4年の可能性も考えられるのでは」という問題とこの蓮秀の下向を絡めて考えたい。

4年説の場合、『私心記』4月に高屋城衆が出陣しているように、3月20日書状の直後に稙長が更迭されたことになる。
また3月時点での稙長の居所については、紀伊の情勢について証如と相談しているという様子から、現地ではなくまだ河内にいたようにも読めるが、どうだろうか。
ただ、調停中に稙長が紀伊に没落してきたにも関わらず、6月に特に問題なく上洛している蓮秀の動きからは、畠山氏の当主交代の影響は感じられないのも気になる。

一方で3年8月以前に当主交代が起こっていたとするのならば、蓮秀の下向は没落した稙長の復帰支援も兼ねていたと考えられる。
この場合、蓮秀の動向に特に不自然さは感じられない(前の記事の通り長経への家督交代から軍事行動まで7ヶ月も空くのは何故か問題は残るが)。

 

いずれにせよ結論は出ないので、書くだけ書いといて後考を待ちたい。
いかがでしたか? わかりません!


畠山晴熈を擁立した「民部卿」婦


話は本願寺戦争の終結後に飛ぶが、『天文日記』天文5(1536)年5月18日条で、証如は新たな当主となった畠山晴熈に始めて音信を送っている。
「又播磨守(晴熈)とて尾州弟高屋に遊佐新次郎(長教)婦民部卿婦トひとつニなり屋形などゝ申とて」という記事である。

この、遊佐長教婦と共に晴熈擁立の主体となったとされる民部卿」婦*1
官名から僧体の人物と思われ、本願寺関係者という想像はつくものの、具体的に誰なのかがわからず以前から困っていた。

しかし、再びの興正寺のサイトの参考になるが、こちらのコラムでそれらしき人物が指摘されていたのに気づく。

www.koshoji.or.jp

 

興正寺住持蓮秀の子の実秀民部卿だという。

それを踏まえた上で『天文日記』内に登場する民部卿を調べてみると。
天文6(1537)年1月27日に興正寺(蓮秀)むすめ沙弥、又まん、『民部卿の子なり』又あけ『興正寺子二男』、何々来」と蓮秀の一門として民部卿が記される記述がある*2

  

いずれにせよ、これで民部卿本願寺方の人間であることが確信できた。
蓮秀は上記の通り畠山氏と関係が深く、また晴元方との交渉も担っている。
その縁により、興正寺が中心となり遊佐方と相談して晴熈を擁立したということだろう。

つまり、本願寺サイドの人間が関わって擁立された晴熈は、尾州家が本願寺と対立を始めた天文4(1535)年4月から、年末頃の和睦交渉が始まるまでの時期の当主ではあり得ない。
同時に、4月以前に尾州家内で再度確執があって、長経が更迭されたという説も成り立たないと考える(長経が追放されてしばらく当主不在だった可能性もなくはないが……)。
やはり長経の記事での仮説通り、長経が当主のままでは和睦に対して不都合があったために、彼は天文4(1535)年末頃までに更迭されたと考えたい。

 

なぜ長経は当主を追われたか

ただ、上の晴熈の擁立に対する証如の反応は受動的に見え、本願寺側が積極的に長経の更迭を要請した訳ではなさそうだ。
考えられるのは畠山側が忖度して本願寺との敵対期の当主を更迭したか、あるいは長経自身が和睦に抵抗したことが想定される。

ただ後者の場合だと、長経がさほど鋭く敵対した訳でもない本願寺との和睦に抵抗する動機が考えづらい。
ここで思い返したいのが以前の長経の記事で紹介した、「木沢長政らとの和睦も進めようとする遊佐長教と、反対する勢力との確執の中で、反対派に与した畠山左京太夫が失脚したのであろう」という弓倉弘年氏の推論である。
この木沢長政(ないし彼が擁立する総州畠山在氏)との和睦をめぐる確執説を、本願寺との和睦が進む中で起こったとスライドさせて考えたい*3
   

長経からすれば、足利義晴との関係改善は、実際に義晴御内書を受けて当主となったように全く問題はない(尾州家は阿波公方足利義維を担いだ形跡がないので、そもそも義晴と対立していたという意識もなかったかもしれない)。
また、この和睦の過程で細川晴国本願寺から縁を切られて孤立してしまうが、旧高国方との提携に拘るのは(前後の動向を見るに)稙長個人の資質と思われるのでこれも異存は無かっただろう。
ネックとなったのは細川晴元……直接的には総州家(畠山在氏)を擁立する木沢長政との関係改善ではないか。*4
 
一時和睦した時期もあれど、家督を巡って数十年争っている総州家への妥協は、尾州家の人間ならば抵抗を感じてもおかしくはない。*5
一方で妥協してでも和睦やむなしというスタンスの派閥が長経と対立し、再びの更迭が発生、木沢との和睦に特に不満のないスタンスの晴熈が擁立された……というのが今回想像したストーリーである。


参考文献
大阪狭山市史』 第2巻 史料編 古代・中世
馬部隆弘『細川晴国陣営の再編と崩壊』(戦国期細川権力の研究)
金龍静『天文の畿内一揆考』(一向一揆論)

*1:当初は主体を遊佐長教本人と考えていたが、小谷利明「遊佐長教」(戦国武将列伝畿内編【下】)では遊佐長教の妻と解釈しており、それに従う。同様に「民部卿婦」も実秀の妻を指していると思われる

*2:民部卿」と記される人物は『天文日記』に複数人登場するようだが、例えば願生寺の次男である(天文5年4月27日条)民部卿(証栄)は「長」「長島」「平尾」と付記されるなど区別して書かれており、何も付記のない民部卿は実秀を指すと思われる

*3:『天文日記』天文5(1536)年4月5日条に、「木沢・遊佐双方から人数を添えて、畠山在氏の息子を越中に向かわせる」という記述があり、『天文日記』執筆以前から尾州家と総州家の和睦は成立していたと考えられる。

*4: 『私心記』の記録によると天文4年4月に高屋衆が出撃しているが、大きな戦にならずに撤退したように見える。その後の5月末からの大規模な反本願寺方の侵攻に尾州家が協力したのかは定かではない。あるいは反本願寺方に転じたパフォーマンスを行っただけで、木沢方とはこの時点では提携していなかった可能性があるのでは。

*5:また、その後の経緯を見るに両畠山の共同統治は総州家優位の傾向で進んだと見られ、長経が当主の段階での交渉ではその不利を受け入れられなかったのかもしれない。

◆天文法華の乱における畠山尾州家の動向(前編)「遊佐長教との対立」について

前回の長経の記事では(脱線しそうなので)深く掘り下げなかったが。
天文の本願寺戦争(天文法華の乱)を、尾州家の動きに絞って追っていきたい。

用いた文献は文末に置いておきます。

後編はコチラ。

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畠山稙長の高屋城回復

天文法華の乱発生の前段階で、畠山稙長は一度高屋城から没落している。
『厳助往年記』享禄元(1528)年11月11日条で、10月頃から高屋城(『二水記』では誉田城とする)が柳本賢治に攻囲されていたが、力攻めでは落ちなかったため和睦という形で畠山稙長は城を明け渡し、金胎寺城に引退したという。
尾州家は河内の南端まで勢力を後退させ、そのためかしばらくの間は史料から行動が見えづらくなる

 

そして、代わって河内を支配したのが総州家の畠山義堯だったが、享禄5(1532)年の一揆蜂起によって居城(『細川両家記』では高屋城、『言継卿記』では誉田城)は落城し、義堯は切腹
ただ、これによって直ちに稙長が高屋城を奪還したかは定かではないのでは?と考えている。
『足利季世記』では義堯切腹の直後に稙長が奪還したとあるが、元ネタと思われる『細川両家記』では、義堯切腹で記述が終わっているのもあり、典拠としては心許ない。
というよりも、そこから『私心記』の天文4(1535)年4月の「高屋衆が打ち出した」まで、高屋城についての動向が史料に見当たらない気がする。

その間、木沢長政が天文元(1532)年11月に南河内観心寺に禁制・判物を発給する一方で、畠山稙長は12月に同じく南河内金剛寺に安堵状を発給している(観心寺文書・金剛寺文書)。
また、『本福寺明宗跡書』の回想録では8月24日の山科本願寺の陥落後、石山本願寺を攻撃した晴元方として根来寺杉之坊が記されており。
『私心記』10月1日では南方において、「紀国衆」が木沢長政方を破ったと記される。
これらの紀伊の勢力の行動も、紀伊守護である稙長方としてのものである可能性があるが結論は出せない。

とはいえ天文3(1533)年になると尾州家は、正月の畠山基信らの本願寺入りや、10月の丹下盛賢の出陣などの大規模な活動を見せるようになる。
金胎寺城周辺までしか勢力がない状態では、本願寺に援軍を送る余力もないと思われるので、この時までに高屋城を取り戻したことは想定できる。

さて、一方で畠山稙長は当初から本願寺との同盟を明確にしていた訳ではない。
『蓮成院記録』の天文元年天文2(1532)年1月条には、年始挨拶の対象として、細川晴元方、近江の足利義晴方、六角定頼方と共に畠山稙長・遊佐長教・丹下盛賢が記されている。
ここで「高屋」とでも記してくれれば居所が確定できたのだが……。
また4月条では、「大坂本願寺による天下総劇の御退治のため、京都法華宗并両畠山・細川六郎殿を(足利義晴方が)差し向けた」とある。
この時点で尾州家は一定の勢力を回復しており、細川晴元総州家と共に対本願寺に動員できる勢力と周囲から見られていたことがわかる(実際に本願寺と交戦したかは別として)。

また、この4月には細川高国の弟晴国が八上城に入って本格的な活動を開始し、本願寺との連携を始めたと見られる。


3月4日湯河光春宛て御内書の再検討

今度至摂州晴元并阿波輩以下取詰候条、閣万事不日令発
足相談長教、此節別而抽戦功者尤可為神妙、併頼覚候、
猶法琳晴光可申候也 
    三月四日                    義晴
           湯河宮内少輔とのへ
       『大坂青山短期大学所蔵品図録第一輯』

 

この書状は、小谷利明氏の『畠山稙長の動向』(戦国期の権力と文書)で「天文二年二月の細川晴元没落に伴って発給された文書」と紹介され、遊佐長教がこれ以前に細川晴元派になっていたことを示す史料とされた。
以降の研究においても畠山稙長遊佐長教の対立時期の前提として利用されている史料である。

しかし、天文2(1533)年3月段階では細川晴元はまだ「六郎」と名乗っており*1「晴元」表記は不審である。
    
そのためか、近年の研究では稙長と長教の対立時期を、(晴元の名乗りが見られる範囲内の)翌3年3月としているものもあるようだ。

……が、天文3(1534)年とすると、今度は「至摂州晴元并阿波輩以下取詰候」するような摂津での大規模な軍事活動が見当たらないのが気になってくる*2

そもそも、よくよくこの書状を見ると、晴元の抗争相手が一揆衆であるとは書いていないのではないか?

なのでこの書状は天文の畿内一揆に関わるものである、という先入観を取っ払って考えてみたい。
要は細川晴元と阿波衆の摂津進出」「足利義晴と遊佐長教の連携」「湯河宮内少輔(光春)の活動時期」3月4日時点で満たす年を探せば良いのである。
結論から言えばピッタリ合うと思われる年はある、天文16(1547)年である。

 

細川晴元と阿波衆の摂津進出」
この年は天文14(1545)年から始まった細川氏綱の乱細川氏綱と畠山・遊佐氏の連携による反晴元勢力の挙兵)がまだ続いている年。
前年の時点で阿波衆は晴元方の援軍として畿内に上陸しており、2月には摂津の原田城を攻撃し(細川両家記)、3月8日までに晴元自身も茨木城に在陣している(音信御日記)
「至摂州晴元并阿波輩以下取詰候」という表現に合致すると見て良いだろう。

 

足利義晴と遊佐長教の連携」
義晴は前年に既に細川氏綱方に内通しており、また足利義輝元服時には二日目の役を畠山氏の代わりに遊佐長教が努めている(光源院殿御元服記)。
つまり義晴と長教はこの時期は氏綱方として同陣営であり、協力を求めても全く問題はない。
また畠山氏ではなく遊佐氏を頼みにしているのも*3、畠山と遊佐の対立を示す証ではなく、この時期に存在感を増す長教を義晴が重く見ていることから来ているのだろう。
    

「湯河宮内少輔(光春)の活動時期」
湯河光春の後継者の直光の官途は「宮内大輔」なので、この宮内少輔は光春で間違いない。
光春の活動時期だが、天文13年までは書状発給が確認でき、『湯川氏代々系図』によると天文16(1547)年閏7月8日に没している。
系図類なので一次史料よりは信憑性が劣り、またまさに没する直前の時期ということになるが、受給者として名前が登場する分には矛盾はないと見ておきたい。


……という訳で、この書状は天文16(1547)年の細川氏綱の乱に関わるものであり、天文法華の乱における畠山稙長と遊佐長教の対立を示す史料としては用いることはできない、と考える。
そもそも天文3(1534)年に稙長が更迭されたというのは、『足利季世記』のイメージに引きずられているのではないか。
確かに季世記の「畠山卜山ノ事」では稙長の更迭が天文3年であるかのように描かれているが、「天文3年3月に(大永2年にとっくに没してる)畠山卜山が謀反に遭い没落した」という荒唐無稽なストーリーから始まっており、これだけを典拠にするには極めて問題があると考える。

つまり、この義晴御内書と『足利季世記』を典拠に使えないとなると、従来の稙長と長教の対立・稙長の更迭時期を示す説は白紙に戻り、その時期は何時かについては一から検討し直しても良いのではないだろうか(その結果やはり天文3年で正しかったとなるにしても)。

 

参考文献
大阪狭山市史』 第2巻 史料編 古代・中世
馬部隆弘『細川晴国陣営の再編と崩壊』(戦国期細川権力の研究)
金龍静『天文の畿内一揆考』(一向一揆論)

*1:馬部隆弘『青年期の細川晴元(戦国期細川権力の研究)

*2:元より天文2年とするにしても実際の状況とのズレを感じる。2月の堺での合戦で晴元方は大敗するが、それまでは阿波衆が畿内での戦線に参加した様子はない。その後阿波衆の協力を経て晴元は摂津に再入国し池田城に入るが、それは4月6日のこと。3月4日に晴元と阿波勢が摂津に「取詰」する状況は天文2年でも成り立たないのではないか。

*3:この時期の畠山氏は政国が引きいており遊佐長教と歩調を併せているが、乱の途中になってようやく「惣領名代」に任じられるなど幕府から見た立場が微妙なものだったと思われる。

◆石垣畠山長経について

畠山六兄弟、トップバッターは畠山長経
畠山氏研究も行っているナタネ油(@nknatane)氏が指摘しているが、長経に関する史料は非常に少ない。

そもそも、一次史料では「長経」という諱も確認できず、稙長の弟かも不明だったりする。
(比較的信憑性の高い系図類で「長経」の諱と係累が記されているため、ここでは稙長弟の実名長経という前提で話を進める)


石垣家について

畠山長経について、系図などで「石垣」を名乗ったという記述が複数ある。
この石垣家については、最近になり川口成人氏が『室町~戦国初期の畠山一門と紀伊』(和歌山地方史研究81)という論文で詳細な検討を行っている。
以下、川口氏の論考にほぼほぼ頼ることになるがまとめていきたい。

 

まず、『両畠山系図』などでは畠山基国の弟として「石垣左京大夫満国」という人物が記され、「満国」の子に左京大夫持秋」、その子に「七郎教重」とある。
これだけなら後世の記述ということもあり、このような人物ないし分家が実在したのかまでは確定できない……と言えるが、一次史料にも「石垣畠山左京大夫の存在は伺える。

 

①『蜷川親元記』の文明10(1478)年7月『御供衆交名』に「石垣」と付記された「畠山又次郎」という人物が記されている。
②『歓喜寺八幡摂社十二所権現棟札』(金屋町誌. 上)に、「延徳三(1491)年大檀那畠山左京大夫と記されている。
③『座右抄 巻四』(足利義視・義稙発給文書 337号)に「畠山左京大夫とのへ」を宛所とする足利義稙御内書写。*1
④『石垣荘白岩丹生神社造営棟札写』(重要文化財白岩丹生神社本殿修理工事報告書)明応5(1596)年の、筆者を「畠山阿波入道伴雲件」*2 、願主を「寅千代丸」とする棟札がある。石垣荘に影響力がある寅千代丸は畠山氏と考えられるだろう。
⑤『拾介記』明応9(1500)年9月15日条では尾張守舎弟石垣以下被伐」とある。討死した畠山尚順の弟たちのうち一人が石垣名字を名乗っていたことがわかる。


①により「石垣」と呼ばれる畠山氏分家の実在が確認できる。
また、当時はまだ応仁の乱による東西幕府の分裂が続いており、この交名衆も東幕府を記したもの、*3
②の当地は石垣荘内にあり、この左京大夫も石垣畠山氏とみられる。
これらにより、左京大夫という官途も一次史料で確認ができる。
石垣畠山氏は国清義深清義国熈の四兄弟から分かれる畠山分家の中で、管領家能登守護家以外では唯一義深系を出自としており、分家の中では格の高い家である。
代々左京大夫という高い官途を名乗ることができたのも、その本家に近い血筋が理由の一つと考えられ、僭称ではなく公的に認められているのだろう。

 

③④⑤で、石垣畠山氏が明応の政変後の足利義稙畠山尚順に属して活動していることが伺える。
①②③の「石垣畠山又次郎」「畠山左京大夫、④⑤の「寅千代丸」「舎弟石垣」を同一人物と見ることも可能。
以上が論文内出典の情報である。

 

ここから応仁の乱で石垣畠山氏は東幕府の畠山政長と同陣営に属したことで尾州家関係が深まり、明応の政変以降も畠山尚順に協力。
更にその関係の深さは「又治郎≒左京大夫の後継者を尾州家から迎えるまでに到達した……というストーリーも想定できるのではないだろうか。

【追記】
先日発売された『諍いだらけの室町時代畠山義就畠山政長の抗争』章で、川口氏が石垣家に関しての新情報を記されていた。
『大乗院寺社雑事記』長禄2(1458)年6月8日条に「畠山弥三郎方ノ石カキ如本御免云々、畠山失面目者也」(弥三郎方の「石カキ」という人物が赦免され、畠山義就が面目を失った)とあり、石垣氏の存在が確認できる。
これに従えば、尾州家と石垣家の縁は弥三郎政久の代まで遡れることになりそうだ。

この尾州家による石垣家の継承が、稙長の兄弟と見られる長経の登場の前提になるのだろう。


長経の動向

石垣家を継いでいた尚順弟が討死した明応9(1500)年は、稙長が生まれてもいない時期のため、石垣家が以降当主不在状態でもなかった限り、長経の登場まで最低でも一代別の人物を挟んでいると考えられる。

 

さて、畠山長経が登場するのが『御内書案』『御内書引付』などに収録される8月16日畠山左京大夫足利義晴御内書で、左京大夫(長経)が家督の礼として太刀などをを送ったことを記している。
……そして一次史料で長経らしき人物が確認されるのはこれだけである。現状では本当にこれだけ。*4

ともあれこれにより長経が畠山氏の家督に据えられており、なおかつその立場は幕府にも承認されたものであることもあわかる。

また、この御内書は家督承認の礼物を確認した内容なので、少なくとも高屋方から義晴方までの距離間で「御内書による家督承認」「畠山方による礼物」「御内書による礼物の確認」の書状が往復しており、長経擁立の時期は8月16日を遡ると考えられる。

 

さて、家督継承の経緯は「天文初期の本願寺・細川晴国*5細川晴元の戦いの対応を巡って、畠山稙長と遊佐長教が決裂し、長教は長経を擁立した」とされる。
この書状の年次の比定(=長経の家督就任時期)だが、一般には天文3(1533)年とされる*6、各研究でも特に異論は出ていないようだ。
だが無年号書状である以上検討の余地はあると思うので、この場で別の可能性を述べてみたい。
なお、従来の説では尾州家の内部分裂の証として使用されてきた史料があったが、それについて個人的には疑問があることをこちらの記事で考察している

 

畠山尾州家と本願寺の連携が明確になるのは『私心記』天文3(1533)年1月の稙長弟の畠山基信の本願寺入りとされる。
そして『私心記』翌天文4(1534)年4月7日では、高屋衆が本願寺に対して打ち出したとあり、この時期までに尾州家は本願寺と敵対する姿勢に転向している。
つまり稙長から長経への更迭はこの間にあったと見るまでは問題ないだろう。

 

この点だけ見ると御内書の比定を天文3(1533)年としても問題は全く無い。
ただ、問題は8月16日以前に親本願寺の稙長を更迭したにも関わらず、本願寺との開戦は翌年4月と最低7ヶ月以上の開きがあることである。
先行研究でもこのタイムラグには引っ掛かりを覚えていたのか、弓倉弘年氏は『畠山左京大夫に関して』(中世後期畿内近国守護の研究)で、「畠山稙長の行動には危機感をもって結束した高屋城の政長流畠山氏内衆も、木沢長政らとの和睦= 半国体制にまでは一致していなかったからではないだろうか。ひとまず木沢長政らとの和睦も進めようとする遊佐長教と、反対する勢力との確執の中で、反対派に与した畠山左京太夫が失脚したのであろう」と七ヶ月以上の開きは稙長更迭から更に内部分裂があったと理由付け、長経は天文4(1534)年4月以前に更迭されたと推測している。

あくまで推論であり、この段階で遊佐長教と木沢長政がどこまで連携していたのかは史料がなく不明であり、それにより長経が本願寺との開戦前に更迭されたというのも若干不自然さを感じなくもない。

もう一つ気になるのは、『私心記』天文3(1533)年10月11日に稙長の筆頭内衆で、この後も没落期の稙長と行動を共にする丹下盛賢が本願寺方として森河内に陣取ったという記事である。
これも従来の説では更迭された後も稙長方は河内周辺で活動を続けていたという解釈になる。

上記の説明で辻褄が合わない訳ではないが、いっそ御内書の比定を天文4年8月とするのはどうだろうか。

 

要するに、10月の丹下盛賢の活動は普通に当主稙長の指示で行われたものであり、この時点では稙長の推進する本願寺との同盟路線で家中は一応のまとまりを見せていたが、その後に本願寺派によって翌年4月までに稙長が失脚
それに前後して反本願寺派紀伊石垣に在住していたと思われる長経を代わりの当主として迎え、幕府に事後承認を求め、それが認められて高屋側が返礼をしたのが8月……というのが想像している流れである。
この場合でも短くて3~4ヶ月ほどのタイムラグが起きてしまうのが従来の説同様の弱点になるが、「稙長は長年の足利義晴方だったこともあり、更迭を認めるべきか幕府側が見極めていた」とでも推定しておきたい。

 

そして天文5年から証如の『天文日記』の執筆が開始されるが、そこには長経の存在は全く記されない(『証如上人書札案』にも長経の名はない)。
1月21日に遊佐長教から、本願寺「去年就和与之儀」で遊佐方に太刀などを送った返礼の使者が現れたとあり、5月18日には新たに当主となった稙長の弟畠山播磨守(晴熈)に本願寺が太刀などを送っている。
おそらくは天文4年段階で長経は死亡・失脚をしていたと思われる。

長経擁立を天文4年とする今回の仮説だと、長経が当主だった時期は一年にも満たないものとなってしまうが、逆にそれが彼に関する記録が殆ど見られないことに説明がつく。
また、「去年就和与之儀」本願寺が礼物を送ったのは天文5年正月からそう遡らない時期で、尾州家と本願寺の和睦時期は天文4年末と考えられる*7

天文4年という仮定に従って、長経は本願寺との対決姿勢と共に擁立された当主であり、その年の内に本願寺尾州家が和睦に転じたため、対立姿勢の象徴である長経が当主のままだと今後本願寺と関係を再構築するのに都合が悪くなり、結果短期の当主となったのでは……というのが今の考えである。

『証如上人書札案』に長経の名がないのも、当主期間がごく僅かだったことや、そもそも本願寺との対立期にしか当主となっていないため音信の対象になり得なかったというのが考えられる。

 

その後の長経だが、この騒動で死亡していない限りは石垣荘に戻ったのではないだろうか。
上記の川口論文が示す通り石垣畠山氏の存在を示す史料は書状か現地のものに限られ、紀伊での出来事となると日記の類にはまず見られない。
『天文日記』などに名前が見られないからと言って死亡したとは限らないのだろう。

ただし、前述の(石垣)寅千代丸の存在を示す『歓喜八幡宮棟札』(金屋町誌 上)には、天文10(1541)年4月1日に「大檀那岩鶴丸の名がある。
そして長経の子として、『両畠山系図』には「岩鶴」「安鶴」という子が2人記されている*8

幼少の子が石垣家を継いでいるという状況から、仮に石垣荘に戻ったにせよ、長経は天文10年以前に没していたと思われる。


参考文献
弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究」
川口成人「室町~戦国初期の畠山一門と紀伊」(和歌山地方史研究81)

*1:これは「奥州二本松」という付記がされているが、写であるため川口氏が疑念を呈しており、宛先は二本松畠山氏ではないこと、また時期は明応の政変以降のものであると推定されている

*2:これも川口氏の『忘れられた紀伊室町文化人』(日本文化研究ジャーナル19)で検討を加えており、畠山国清子孫の畠山右馬守家の畠山政純の後身であり、明応の政変以降に畠山尚順方として活動していることを証明している。

*3:播磨守家・中務少輔家などの代々御供衆を務めていた畠山分家は、大半が西幕府に属しており、同論文内では穴埋め的に石垣畠山氏が起用されたとと推定されている。

*4:なので家督交代の経緯は稙長が武力で持って高屋城を追い出されたのか、自発的に出奔したのか、留守中に当主を挿げ替えられたのか、厳密に言えば全くの不明と言える。

*5:畠山稙長と細川晴国の連携については馬部隆弘氏の『細川晴国陣営の再編と崩壊』に詳しいが、話すと間違いなく長くなるのでここでは省く

*6:『足利季世記』に天文3年の話として稙長から長経への家督更迭のエピソードが出てくるので、おそらくそれが前提なのだろう。

*7:この時期には細川晴元方と本願寺の和睦交渉も行われている。

*8:『古今采輯』に収録されている系図では、岩鶴・安鶴共に「早世」と記される。

◆畠山稙長の生年

言わずと知れた(言わずと知れた?)畠山尚順の嫡男、
終身名誉細川高国ファンクラブ会員細川氏綱パトロンこと畠山稙長。

彼の生年についてだが、従来は『両畠山系図』などの享年42歳という記述から逆算し、永正元(1504)年とされてきた。
しかし、最近になり小谷利明氏が『畠山氏の権力構造と文書発給』(中世後期の守護と文書システム)内である指摘を行っている。
それは『守光公記』永正7(1510)年4月29日条で、代始を行った畠山鶴寿丸(稙長)を「当年二歳云々」と記しているとのこと。*1
つまり一次史料から推察される稙長の生年は永正6(1509)年となる。*2

そうなると各イベントにおける稙長の年齢は

元服:永正12(1515)年 7歳
家督相続:永正14年(1519) 9歳
尚順の失脚:永正17年(1520) 12歳
桂川合戦:大永7(1527)年 19歳
天文法華の乱:天文元(1532年)年 24歳
河内守護復帰:天文11(1542)年 34歳
急死による死去:天文14(1545)年 37歳

 

稙長は若年から活動が見える分、年齢が更に5歳若くなることでイメージも随分変わるのではないか?
これにより「こんなに若いのに頑張っていたんだなぁ」「この歳で急死したのは痛すぎる……」と思う方が増えれば幸いである。むしろこの説を前面に押し出すのは半分くらいそれが目的である。
冗談はともかく、『守光公記』の記述は伝聞(云々)の形ではあるものの、幼子の年齢を大きく間違えはしないだろうと考え、以降の考察ではこれに従いたい。

*1:この代始のことは『実隆公記』『管見記』にも記されており、鶴寿丸は畠山稙長のことで間違いない。なお『大日本史料』には『守光公記』の記事は引用されていなかった。

*2:他にも『両畠山系図』などは畠山高政の享年について天正4年に50歳で没したとしている。これに従うと生年は大永7(1527)年になるが、『観心寺文書』永禄2年9月19日の尾張守(畠山高政)免除状の押紙には「御屋形様高政生年二十九歳[辛卯の年人]」とあり、ここから逆算すると天文元(1531)年となる。『両畠山系図』は生没年については結構誤謬があると考えられる。

◆目指せ、畠山六兄弟コンプ

まず当面の目標として、畠山六兄弟についてまとめることを目指したい。
とはいえ、普通の人には「畠山六兄弟? なにそれ?」となること受け合い。
なので説明すると畠山六兄弟とは、畠山尾州家当主畠山稙長と、史料上で確認できるその5人の弟たちのことである。
それでも多分「畠山稙長? なにそれ?」となりかねないんだろうけどね!

以下、簡単な略歴を記しておく。
関連記事ができれば、随時リンクを追加していきたい。

◆畠山稙長

畠山尚順の子。
生涯において細川高国党の最右翼として活動した。
一時は紀伊に没落に追い込まれ当主をすげ替えられるも、紀伊諸勢力を広域に渡って糾合することに成功し、その兵力でもって当主に復帰。
その後も細川氏綱の擁立を計るが、志半ばで急死。

◆畠山稙長の生年 

◆天文法華の乱における畠山尾州家の動向(遊佐長教との対立時期について)

◆石垣畠山長経

畠山稙長の弟とされる。
畠山氏の分家、石垣家(紀伊国有田郡石垣荘を本拠とする)を継いだと伝わる。
天文の本願寺戦争の最中に稙長が紀伊に没落し、代わりに尾州家当主として擁立された人物。
が、やがて史料上から姿を消す。

◆石垣畠山長経について

◆和泉下守護細川晴宣

畠山稙長の弟。
細川京兆家一門である和泉下守護家を継ぐ。
以降在京時は細川一門として行動し、反細川高国方の挙兵には和泉守護として防戦にも当たっている。
桂川合戦を機会に没落に追い込まれ、大物崩れで討死したとみられる。

◆和泉上守護細川晴宣について - 179(擁護派)のモノ置き場

◆畠山播磨守晴熈

畠山稙長の弟。
幕臣畠山播磨守家を継ぐ。
長経の後に尾州家当主を継ぐが、やがて自ら家督を返上する形で辞める。
その後は幕臣としての立場に戻ったようで、後に伊予守に叙任されている。

◆宮原畠山政国

畠山稙長の弟とされる。
畠山氏の分家、宮原家(紀伊国有田郡宮原荘を本拠とする)を継いだと伝わる。
後に播磨守家を継ぎ、更に尾州家当主(名代という形のようだが)となる。
稙長没後の細川氏綱の乱では遊佐長教と共に主力を担うが、江口の合戦の際に長教と反目して紀伊に遁世、後に子の高政が当主となる。
江戸期に高家として残った畠山家は政国の子孫である。

◆畠山中務少輔基信

畠山稙長の弟。
幕臣畠山中務少輔家を継ぐ。
天文の本願寺戦争では稙長の方針に従い本願寺に加勢する、
また稙長の紀伊没落にも従ったとみられ、稙長の高屋城復帰の際に同行している。

◆はじめに

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twitterでは書ききれない歴史系のネタ・考察などをこちらに短めにまとめていこうと思います。
備忘録も兼ねてるので、過去につぶやいた話だったり、先行研究で既出の説だったりが混ざると思いますがご容赦を。
何の因果か河内畠山氏を調べることに嵌ってしまって長いこと経つので、ほぼそれに関わる投稿になるはず。